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村便り:2008-04-20(日) (最初の井手堰き)
投稿日:2008-04-26(土)

 朝8時から井手堰き。わが家の田んぼは三つの井手に関係しているが、今日は最初の井手堰き。この井手は、村を南北に流れる小川の中流域(村の範囲内での上流、中流、下流の区分)から水を引くので水量は比較的多い。長さは比較的短いが、関係する田んぼの所有者は多いので、作業は楽で時間も短い。

 分担を決めているわけではないが、草刈り機をもってくる人、鎌、鍬、ジョレン、スコップをもってくる人、井手に溜まっていた土砂を運ぶ軽トラックで来る人が自然に適当な人数に分かれる。私はこの井手堰きには鎌とジョレンをもっていく。

 井手の流域で近年農道を整備した箇所がある。そこには砂溜めの枡[水路の途中で立方体に掘り下げられた穴]がある。その砂をジョレンで掻き出すと、砂に混じった小石のように、シジミがたくさん出てきた。小川から流れ入って砂溜めで繁殖したように思える。一緒に作業していた婦人が、「シジミがおるんじゃね」と言いながら珍しそうにシジミを見た。「食べられるんかね。」「そりゃ、砂を吐かせりゃ、食べられるよ」と男たちが言い、ひとしきり井手の昔話になった。

 昔は井手は今のようにコンクリートで固められてはいなかった。だから、井手が曲がって流れがゆるやかになり砂が溜まるようなところにはシジミだけではなく、巻き貝もいた。わが家の屋敷の横がそんなところで、そこは野菜などの洗い場にもなっていた。しかし、今では井手は「整備」され、貝類はほとんど見られなくなった。時にカニや幼魚が流れてくることはある。また、流れが淀み泥が溜まるようなところにはドジョウがいることもある。しかし概して言えば、単純な水路になってしまった。

 井手堰きは、別の井手に関係するわが家の田んぼの当たりで終わる。そこで皆、腰をおろしてしばし雑談に興じる。数年前までは缶ビールを飲みながらの雑談だったが、いまは飲酒運転に対する規制が厳しくなったので、酒抜き。

 別れ際に、私より数歳年上の人がわが家の田んぼを見て「横手を作ったんか。ええことじゃ。畦際を上げときゃ[溝を作っておけば]、雨が降っても水がすぐ逃げる。土が湿っちょたら、機械じゃ起こせんけんの。」続けて「ほいじゃが、[田んぼが]少ないもんにゃ、これだけでも[溝にしてしまうと][米の収量が]違うんで。」わが家も「少ないもん」なので、その気持ちはよく分かる。畦でも狭くして一条でもよけいに稲を植えようとする(畦を狭くするのは、草刈りの手間を少なくするためもあるが)。最後に、その人は「この辺にくると懐かしいの。」とわが家の田んぼの並びを見た。「わしゃ、頼まれてあんた方の田んぼを耕やしょうたもんよ」とその人。父は、若いころは別として、サラリーマンをしていたときには百姓はあまりしていなかったような気がする。だから委託していた作業が多かったのだろう。


 午後は、まず隣のおばあさんの葬儀に出た。(直前の「村便り」参照。)

畑の草刈り
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畑の草刈り。

 草刈りをしているのは昨秋作付けした畝。右側(タマネギ畝の左側)の畝にはダイコンとカブ、左側の畝には菜っ葉類を作った。食べ残した野菜は花が咲いている。

 わが家の畑は春にはいつもこんな状態になる。だから、春から初夏にかけて作付けをするときには、まず草刈り機で草を払うことから始めなくてはいけない。鍬で耕すのなら、土に野菜や雑草の根が張っているので、やりにくいが、耕耘機なので問題ない。春になり草が繁茂しはじめると苛々することもあるが、根っこが有機肥料になる、と思えば、これもひとつの農法として開き直ることができる。
 一日の残りは、畑の草刈り(草取り、ではなく)。ジャガイモとサツマイモを定植するところで長く伸びた草を草刈り機で払った。刈り払うと青い草のにおいがする。花の咲いたロケット(ルッコラ)を払うと胡麻のにおいが漂った。
村便り:2008-04-20(日) (隣のおばあさん…)
投稿日:2008-04-25(金)

 隣のおばあさんが昨朝亡くなった。葬儀は今日午後一時から。

 おばあさんは亡き父と同級生。3月31日生まれということだから、父より3カ月ほど年上である。88年の生涯を閉じた。

 私はおばあさんを「〇〇のおばさん」(〇〇は屋号)と呼んでいた。おばあさんはわが家の畑の隣の小さな家に一人で住んでいた。結婚はしたが、子どもをもうけたあと、また実家に戻ってきた。弟さんが近くに住んでいて、時々やって来ていた。

おばさんの家
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おばあさんの家。
 左手の、板壁に梯子がかけてある小屋、その向こうの粗壁の小屋、そのふたつの小屋と垂直に交わる方向に立っている、その向こうの小さな家。それがおばあさんが暮らしていた家である。(その背後と、一部が見える右手の、二軒の現代風の家は、他家。)手前、草の生えている畑がわが家の畑、境を接してその向こうの畑がおばあさんが作っていたところである。おばあさんが植えたキャベツやネギが見える。死ぬ数日前に入院するまでは、この一角にいつもおばあさんの姿があった。いまは家の戸が閉じられ、人影がない。見慣れた人が忽然と姿を消してしまうのは、やはりさびしい。
 私は小学校に上がる前から、村のふたつの地区のうち、屋敷がある地区とは別の、灰ヶ峰に近い地区に住むようになったので、おばあさんとの日常的なつきあいは、父の死後に百姓を始めてからである。おばあさんの屋敷には狭い畑がある。その畑とわが家の横の畑とは境を接している。だからおばあさんと私とは、いわば百姓仲間だった。

 小柄で痩せぎすなおばあさんは、腰は曲がり、耳は遠く、目は白内障で見えにくくなっていた。2、3年前に白内障の手術をするまでは、人間は少し離れると輪郭程度しか確認できなかったようである。声を聞いて「あー、あんたね」と前に立った人間が私である確認するほどであった。晩年になると身体のあちこちに痛みを感じていたようである。それでも、死ぬ直前まで畑仕事をしていた(畑は近くの別の場所にもある)。誰にも頼らず一人で生きよう、という意志が最後まで感じられた人だった。

 おばあさんの家へは車が入る道がない。そこでわが家の畑の一部を軽自動車が通れる幅だけ出入路として提供していた。夏になりその道に草が生えると、おばあさんは曲がった腰をさらに曲げるようにして草を取った。「おばさん、[うちの草をとってもろうて]ありがとう」と私が遠い耳にも聞こえるように大声で言うと、おばあさんは「こっちこそ、通らしてもらうんじゃけん。もうちょっとじゃけん、それまでは通らっしちゃてね。お願いします」と逆に拝むようにして礼を返した。「もうちょっじゃけん」という言葉に私はどう言葉を戻していいか戸惑った。

 おばあさんは鍬だけを使って、野菜をうまく作っていた。肥料は下肥も使っていた。米は弟さんが作ったのを食べていたはずだから、食べ物に関してはつましい自給自足だったのではないだろうか。昔の日本がそのまま生き延びてきたような雰囲気さえあった。

 現在わが家で作っているトウガラシは、種をおばあさんからもらったものだ、と母が言っていたのを思い出す。その事実をおばあさんに確認したことはない。確認したところで、ごく普通のトウガラシなので、「ほうじゃったかいね」と思い出せない表情で返事されるだけであったろう。でも、私はトウガラシの種蒔きをするたびに、これは〇〇のおばさんにもらった種、と記憶を新たにする。


 葬儀に列席した。母も列席した。近所の葬儀でも、母が列席すれば、私は行かないことはよくある。家と家とのつきあいだからである。でも、おばあさんには個人として最後の別れをしたかったのである。

 会場に着くと、時間前だったが、すでに椅子がほとんどふさがっていた。受け付けで香典を出そうとすると、辞退された。故人の意思により香典は辞退する、とのことであった。おばあさんらしい。死んだあとまで人を煩わせたくなかったのだろう。

 葬儀の間、私はおばあさんの思い出を反芻していた。最後の花も手向けた。母がおばあさんの弟さんに話しかけているのが耳に入った。「…ほいじゃが、しょうがないよね。こんどはお浄土で会うんじゃね。」しかし、やはり今生の別れではある。

 合掌。
村便り:2008-04-19(土) (田んぼでの作業、サツマイモの芽の出方)
投稿日:2008-04-24(木)

 去年の「村便り」の記事数を確認してみると、4月と5月は目立って少ない。4月が5本、5月が3本である。この時期は書くべき農耕生活がないわけではない。その逆である。しかし、4月から新学期が始まると、二足の草鞋はとたんにせわしくなる。今年は4月はすでに8本書いているが、この頃キーボードから手が遠のきがちになった。私にとって「村便り」は農的生活の意識化と反省であると共に、ときにそれを鼓舞するもの。気の滅入るときには自己エールになる。

サツマイモの芽の出方
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サツマイモの芽の出方。
 記事の内容とは関係ないが、温床で育苗中のサツマイモについて。
 サツマイモは3月29日に温床に伏せた。その時の記事につけた画像を見ていただければ分かるが、イモは横にして、半分露出する程度に土を被せる。露出させるのは芽が出やすくするためである。
 芽が出る部分だけを露出させて残りは土の中に埋めてもいい。すなわち、芋を縦か斜めにして伏せるのである。どうも父はそのように伏せたようであり、また他家の温床でそのように伏せられているのを見せてもらったことがある。ただその場合、上下を誤ると芽がでない。芽が出る部分が下になって地中に埋まるからである。だから、芽の出る部分を確認しておく必要がある。見分け方は簡単である。蔓につながっていた方の端から芽が出る。(他の部分から全く出ない、というわけではない。)ただ芋によっては、見分けがつかないことがある。だから、横に伏せた方が確実に芽を出させることができるのである。
 画像をみていただきたい。一本を除いて、同じ方向から芽が出て葉が育っている。今年は、芽の出方を確かめるために、8本の種芋を上下を同じ方向にして伏せた。ただ一本だけ発根状態を撮影したときに、逆にして戻してしまったようである。
 今日も相変わらず、田んぼで畦際の作業。畦を切ったり、横手を浚ったりしながら、田植えに向けての準備。それで一日が過ぎた。

 夕方、屋敷に戻ると、小屋の中のテーブルに従姉の書き置きがあり、隣のおばあさんの通夜と葬儀の日時が記してあった。今夜が通夜、明日午後が葬儀である。通夜は無理だが葬儀には参列したい。明日の朝には、井手堰きがある。忙しい一日になりそうである。
村便り:2008-04-13(日) (温床育苗のナス科野菜、スイートコーンとヤーコン)
投稿日:2008-04-17(木)

定植スイートコーン
植え付けヤーコン

 夕方から雨になるという予報。しかし朝、村に向かう車のフロントガラスにすでにわずかな雨粒が確認された。温床の苗の世話、スイートコーンの定植、ヤーコンの植え付けだけは今日中に済ませたい。

ナスの発芽状況
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ナスの発芽状況。
発芽しているのはナス。それぞれのポットには二粒種を蒔いた。二粒とも発芽したポットから、ひとつも発芽していないポットに移植した。ポット表面の籾殻が半分ほどなくなっているのが、移植したり移植されたりしたポット。
スイートコーンの定植
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スイートコーンの定植。自然畝。
 種はポットに二粒蒔き、二粒とも発芽したものは、そのまま定植し、一ヶ所に二株とする。一株から一本しか収穫できないので、二株にすると収穫数が多くなる。
切り分けたヤーコンの種芋
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切り分けたヤーコンの種芋。
 初めての栽培なので要領が分からない。すくなくともひとつの芽は確保できるように切り分けた。
ヤーコンの植え付け
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ヤーコンの植え付け。自然畝。
 株間70cmで、二条の千鳥植えにした。植え付けたところには、保湿と防霜のために切り藁を撒いてある。
 千鳥植えは、私の場合、狭い場所により多くの株を植え付けるときのやり方。二条の場合で説明すると、70cm間隔で一条を植え付ける。もう一条は、隣の条の株とおなじ水準に植え付けるのではなく、株と株の中間に位置するように植える。すると、同じ条の隣の株とも、隣の条の株とも、70cmの間隔が保てる。
ナス科野菜の発芽順序
 3月15日にナス科の野菜の育苗を踏み込み温床で始めた。ナス、トマト、ピーマン、甘トウガラシ類である。これらのうちで一番発芽が早いのがトマトである。育苗開始から一週間ほどで発芽を始める。ついで、ナス。発芽開始まで二週間ほどである。それより遅れるのがピーマンと甘トウガラシ類である。甘トウガラシ類の発芽が一番遅いように思う。
発芽の遅いナス科野菜への対応策
 温床の発酵熱は二週間を過ぎると下がる。土よりはまし、という程度だろうか。それでも、踏み込んだ藁が地面からの冷気を遮断するうえに、昼間はビニールトンネルをかけて保温し、夕方まだ日が高いうちにトンネルを密閉して温度を保持し、日没時にトンネルの上からむしろなどかけて温度の低下をできるだけ防ぐようにするので、露地よりは発芽のための条件はかなりいい。しかしピーマンと甘トウガラシ類は三週間をすぎなければ発芽の兆候がみえない。この頃(四月初旬)になると外気温も上がってくる。その上昇が、温床内の温度の低下分を補っているように思える。今年は例年より温床育苗を二週間ほど遅らせたが、ピーマンと甘トウガラシ類の発芽は早まったようには思えなかった。露地育苗よりは早いにしても、外気温が上昇しなければ発芽しない、というのでは何のための温床か分からない。さらに、播種したときから発芽までがあまりに長くなると発芽率が低くなるように思える。だから、来年はやり方を変えてみようかと思う。第一温床では3月半ばに育苗開始、それから二週間遅れで第二温床で開始する。ナス科は第一温床で育苗を始める。ここまでは今年と同じである。ただ、第二温床の準備ができると、まだ発芽していない(だろう)ピーマンと甘トウガラシ類は、温度が下がってきた第一温床から温度が高い第二温床に移す。こうすると発芽が早まり、発芽率も高くなるのではないかと予想している。

 今日の実際の作業は、すでに発芽しているポットで芽(双葉の状態)がふたつ出ているものから、発芽していないポットにひとつを移植することである。小さなシャベルの先端を使って双葉をひとつ掻きだし、移植した。


 スイートコーンは温床で育苗していたが、それを自然畝に定植した。以前、やはり温床で育苗したスイートコーンをこの時期に定植して霜にやられたことがある。四月中は降霜の可能性がある。そこで、霜除けのためにネットを被せておいた。

 ヤーコンはインターネットの友人にいただいたもの。初めての栽培である。これも自然畝に植えた。
村便り:2008-04-12(土) (見上げると灰ヶ峰は満開の山桜)
投稿日:2008-04-14(月)

 今日の村便りも、この前の二回の村便り同様、田んぼの畦際で鍬を使う作業。6時間ほど作業して二枚の田んぼを終える。

ゲシの石
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先週末、作業したとき、ゲシ[傾斜地で、上の田んぼと下の田んぼとを区切る法面]の石が飛び出ているが見つかった。ゲシは石が積んであるところがよくある。このゲシはそうである。トラクターでゲシの際を走ったとき、ロータリーが引っかけて、ゲシから引き出したものと思われる。去年もこのあたりでロータリーが石の上を走ったのを感じた。今日の作業はこの石をゲシに戻すことから始めた。
修復したゲシ
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石を戻すには、まずゲシにスコップやシャベルで石の形に合わせて横穴を掘る。作業を始めると、ゲシからはずれかかってた石は二つあった。中腰になっての作業なので、想像するより《やねこい》。しばし奮闘してふたつの石をゲシに戻した。
灰ヶ峰の山腹を駆け上がる山桜
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灰ヶ峰の山腹を駆け上がる山桜。
 左手の、建造物(無人の測候所)が見えるところが灰ヶ峰の山頂。
 野良仕事をしていると農道を人や車が通りすぎる。農道近くで作業をしているときは、手を休め、顔をあげて挨拶をする。通りすぎる人は、どこの誰かは特定できない場合にも、村の人かどうかは識別できる。歩いて通りすぎる人はまず村の人である。

 電動椅子に乗った老婦人が通りかかった。村の人である。挨拶を交わした。いく時か過ぎて、同じ婦人がさっき向かった方向から戻ってきた。また顔を合わせた。その婦人は「やねこいでしょうが、よう頑張ってじゃね」と同じ作業を続けている私に言葉をかけた。「やねこい」という方言は私自身はほとんど使うことはないが、理解できる。きつい作業などを形容して言う。たとえば、そのとき私がやっていた、田んぼの粘ついて重い土を鍬で起こす作業。また,人の性格を指すこともある。気難しい、頑固な、扱いにくい性格のことである。二つの意味をひっくるめると、自分の意のままにならぬ事柄、思い通りにしようと思うと多大な労力、精神力を必要とする事柄を形容するのに使う、と言えようか。

 地面に向かいながら単調で「やねこい」作業をやっているうちにも、春はどんどん進んでいく。見上げると、灰ヶ峰の北斜面を、先週のコブシに代わって、山桜が駆け上っていた。
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