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天地人籟

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あけましておめでとうございます。
[本文] 「林住の晴耕雨読」短信 ー林住9年目ー昨年は「林住」の転換点となった▼3月、帯状疱疹に罹る。加齢、ストレス、過労などが引...



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 「林住の晴耕雨読」短信 ー林住9年目ー
昨年は「林住」の転換点となった▼3月、帯状疱疹に罹る。加齢、ストレス、過労などが引き金となる病に己の実存の現在を自覚させられた▼8月、定年退職から7年半勤めた非常勤講師の職を辞する。父の死後??年間の「二足の草鞋」が終り、正真正銘の「晴耕雨読」が始まった▼「読[・考]」は「耕」の上にこそ成り立つ。まず手が回りかねていた農耕の充実にとりかかった。しかし加齢と共に減退した意欲と体力にとって、時間の足は速く、やるべき作業は多すぎる。一日が終わると無力感が残り、夜、目覚めては「耕」の怪物に圧倒された▼秋、稲の収穫作業を経るうちに、「耕」に取り組む姿勢がわかり始めた。日々具体的な作業計画をたて、手順よく、淀みなく、動く。勢いよく始めれば意欲もおのずと湧き出る。身体と意欲が相互に刺激しあいながら働くと、一日の終りにはまとまった作業量が片づいている。あとには爽快な疲労感が残り、穏やかな睡眠が続く。
▼今年はてきぱき、きびきびの兎でいきます。

☆ 2020年-02月-14日(金曜日) ☆ たまふり
「小走りに動く」年賀状に書いたが、昨秋の終わり頃から「おもいっきり体を動か」して「野良では、小走りに動いてせっせと仕事に熱中する」...

「小走りに動く」
年賀状に書いたが、昨秋の終わり頃から「おもいっきり体を動か」して「野良では、小走りに動いてせっせと仕事に熱中する」ことにしている。「小走りに」移動しようと思い立ったのは、近所の大工さんから、かつて彼の下で働いていた若い大工さんの仕事ぶりを聞いたのがきっかけである。若い大工さんは腕も立つが仕事も早い。そして、移動は歩くのではなく、走ったそうだ。

私も若い頃は農作業中は走って移動していたことがある。作業中の場所に持ってきていない農具が必要になったとすると、小屋まで走って取りに行った。サラリーマンであり、農業は主として土日にやっていたので、野良に出るとやるべき仕事がいくらでもある。わずかな距離ではあるにしても、移動するために潰す時間が惜しかった。走る大工さんはおそらく似たような気持ちだったのだろう。

若い頃を思い出しながら、走る移動を始めた。ここ何年も短い距離であってもほとんど走ったことがなかった。最初は足の運びがぎこちなく、またすぐに息があがった。それでもしばらくすると走る感覚が戻ってきて、呼吸も楽になった。

最初は意識的に走ったが、そのうち、移動は走る、が普通になった。最初は走る勢いは移動の間だけだったが、そのうち、作業意欲にも勢いがつき、てきぱきと仕事を進められるようになった。ひと纏まりの作業全体が途切れない一本の勢いによって貫かれている感覚である。


時間が経つのが早い…
退職が数年に迫った頃だったと思う。教授会の始まる前、3歳ほど年下の同僚と雑談していた。彼は「最近、時間が経つのが早いんですよ。朝起きて何もしていないのに、いつのまにか昼になってしまっているんです。」と自嘲気味に歎いた。たしかに歳をとるにしたがって、時間の経つのが早くなる。彼の嘆きは私も身に沁みて分かった。

幼いころ、おそらくは初老の、大人の動作をみて不思議に思ったことがある。歩くのにのっそのっそといった調子で進む。幼い私には、その人の一歩のうちに二歩、三歩を進めることができるような気がした。なんで大人はあんなゆっくりとした歩き方をするんだろう、といぶかしかった。

子どもの頃の1日は、いま思い返せば、なんと長かったことか! 何をやるにも全力で、素早いテンポで、熱中して動いた。そして夜になると、すぐに眠りに落ちた。だから、大人になって回顧すると、今の1日と同じ長さとは思えないくらいに、出来事をたっぷりと生きていた。老年になったいま、朝起きてから私はゆっくりとした動作で生きはじめる。サラリーマンだった頃のように、急いで家を出るように強制する組織の時間割があるわけではない。また、子どものように、一瞬一瞬を熱中して生きたおす内発的勢いに溢れているわけでもない。習慣となった動作を、古くなって出力のあがらなくなった機械のように、のろのろと実行するだけである。その私を尻目に、時間(時計)はあっさり昼まで経過してしまう。

だから、何もしていないのにすぐに昼になってしまう、という同僚の嘆きは、じつは、何もしないからすぐに昼になってしまう、と言いなおすべきかもしれない。


意欲のアンチ・エイジング?
小走りに移動することから始まった、意欲の勢いと作業のテンポの加速は、ただひと纏まりの仕事にとどまることはなかった。一日の作業全体がそうなった。歳をとるにしたがって意欲が衰えてきて、ひとつの仕事を終えるから次の仕事にとりかるまでに時間がかかる。一仕事終わると、意欲のエンジンが止まってしまうので、次の仕事にとりかかるには、改めて、よいこらしょとエンジンを起動しなければならない、といった具合である。それどころか、ひと纏まりの仕事の最中にも意欲のエンストが起きてしまう。つまり、加齢にともなって持続する集中力が難しくなる。

意欲のアンチ・エイジングが可能だとすると、私のような百姓の場合、小走りの習慣はそのひとつの手段かもしれない。
☆ 2020-01-01(水) ☆ 明けましておめでとうございます。
[本文]「林住の晴耕雨読」短信 -林住6年目-テレビ番組「ぽつんと一軒家」をよく観る。人里離れた山奥で自給自足風の生活をしている人...



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「林住の晴耕雨読」短信 -林住6年目-

テレビ番組「ぽつんと一軒家」をよく観る。人里離れた山奥で自給自足風の生活をしている人が出てきたりする。今の時代、本物の自給自足は無理だから、貨幣経済に巻き込まれることが少ないということだが、生活ぶりを見ていると心が昂揚する。▼生きていれば悩みはつきない。それにとらわれると暗く沈む鬱になる。この頃おもいっきり体を動かすことにしている。ゆったり象さんではなく、くるくるハツカネズミ。家を出るのは早くはないし、帰途につくのは日が落ちないうち、の下農だが、野良では、小走りに動いてせっせと仕事に熱中する。パスカルが否定的に語った「気散じ」を肯定的に生きる。すると体も心も軽くなる。まさに晴耕[はればれ]。▼今年は〈おもいっきり、ふっきり、ひとり暮らし〉でいくか。それに、雨読する 気兼ねなき 一人住まいがあれば、言うことなし …だが。

☆ 2019-02-06(水) ☆ 切り干し大根
初めて切り干し大根を作った。厳冬のころ干す切り干し大根を作るには、年が明けて、まだ畑に残っている大根を使う。大根は大きくなるとたい...

初めて切り干し大根を作った。

厳冬のころ干す
切り干し大根を作るには、年が明けて、まだ畑に残っている大根を使う。大根は大きくなるとたいていの品種は上部が地上からぬけ出る。(このような大根を「抽出型」と言う。根が「抽[ぬ]け」「出て」くるから。)ぬけ出た部分は寒くなると凍害を受け、食べられなくなる。だから寒さがピークを迎える1月頃に切り干し大根にする。

(厳冬期から薹のたつ春までのあいだ利用する大根として、私は三浦大根を作っている。三浦大根は、多くの大根品種が抽出型であるのに対し、吸い込み型である。根の部分は紡錘形なので、地上にぬけ出にくい。大部分が地中に埋まり、いわば「吸い込」まれているので、寒害をうけにくい。)

母は、切り干し大根は寒い時期に作るものだ、と言っていた。屋外に干しっぱなしにしていると、夜の間に大根が凍み、昼になると融ける。それを繰り返すと美味しい切り干し大根になる、というのが彼女の持論だった。それに、暖かいと、乾ききる前に黴びてしまうかもしれない。でも寒い時期だと品質を損なう雑菌がつきにくい。さらにまた、切り干し大根は余った大根の有効利用という側面もあるのではないかと思う。まだ生鮮野菜として利用して十分に美味しい時期にわざわざ干してしまうのももったいない。だから、切り干しの時期は年明けてから、ということになる。様々な理由が、厳冬の時期に収斂する。

干す時期とは関係ないが、切り干しはもともとは、大根がとれない、そして野菜が少なくなる時期のための蓄えとして作られたのかもしれない。ぬか漬け(沢庵漬け)にも、そのような意図があるのだろうと思う。(沢庵は以前は作っていたが、いまはやめている。)

2月に入ってやっと作る

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ザルの直径は47cmほど。
さて、2月1日に大根を刻んだ。午前中は雨、午後から曇り、という天気予報だったので、少なくとも午前中は野良に出ることができない。上に書いたように、寒の時期を選びたかったのだが、ためらっているうちに、2月になってしまった。

初めての体験なのでどのくらいの量を切ればいいか分からない。そこで、金属製のざる一杯をめどにした。切る大きさは、長さ5cm、幅5mmの拍子切り。それを竹製のザル2枚に広げて、午後から曇り空の下で干し始めた。



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凍みた大根。
翌朝、様子をみると早速こちらの期待にこたえて(?)凍みていた。



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最初はザル2枚に干していたが、乾くと1枚で十分。
2月5日、干した日は都合三日半、あっけなく乾いてしまった。念のため、もう一日くらい干すことにしよう。



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完成した切り干し大根は100g余り。

☆ 2019-01-02(水) ☆ 明けましておめでとうございます。
皆さまに年賀状をお届けします。[本文] 「林住の晴耕雨読」短信 ー林住5年目ー 「晴耕雨読」生活の晴耕に去年五月から加わっていた《...

皆さまに年賀状をお届けします。




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 「林住の晴耕雨読」短信 ー林住5年目ー
 「晴耕雨読」生活の晴耕に去年五月から加わっていた《作男》氏は昨夏終わり体調を崩し撤退してしまった。根っからの都会人である彼は心も体も適性に乏しかったのではないか。そしてまた一人農家に戻った。二十余年続けてきたこの形が私の農耕のつまりは基本的ありようとあらためて覚悟する。▼米と野菜を自給し自分で煮炊きして身を養う。その生活のなかから考える。それが私流の「晴耕雨読」。煮炊きはまずまずの腕前になった。新鮮な野菜を豊富に使えるのはうれしい。それを手っとり早く調理する。稲架干しの米はそれだけでもおいしい。▼晴耕と雨読はバランスをとるのが目標。しかしいまは晴耕に重心がかたよる。定年後あい変わらず追いつけずにいる農耕を追いかけた結果。農耕にはまり込む不安も感じる。今シーズンからはバランスよく「晴耕雨読」を生きたい。
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