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村便り:2008-02-23(土) (春先、強い北風に吹かれて)
投稿日:2008-02-25(月)

 雪をもたらす西高東低の冬型気圧配置のため、一日中、強い北風が吹いた。こんな日は家で暖かくして過ごしたいが、週末農耕が基本の兼業農家では時間に余裕がないため、よほどの気象条件でないかぎり、野良に出る。

切り藁散布
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村は南から北に向かって傾斜しているため、北風は下から吹き上げる格好になる。おおよそ画像の左から右へと風は走り抜ける。
温床整理
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 温床の整理。
 二つの温床がお分かりだろうか。鍬が置いてある小さな畝を挟んで両側にある。右側の温床にはカブト虫の幼虫らしいものがいたので、解体を見合わせた。左側(スコップが端に見える)は、枠を取り除き、約一年前に踏み込んだ藁を出した。
 画像の手前が南、向こうが北。
カブト虫の幼虫?
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 カブト虫の幼虫?
 午前中は、相変わらず、田んぼで切り藁を田んぼ一面に広げた。吹きっさらしの田んぼでは強い北風が走ると、切り藁が砂塵のように吹き上げられて飛ばされる。鼻水を垂らしながら昼過ぎまで作業。

 午後は、風さえなかったら田んぼで作業を続けたかったが、畑での作業に切り換えた。畑は遮るものがあるので、多少とも風は和らぐ。三月に入ると踏み込み温床でナス、ピーマン類、トマトなどの育苗を始めるので、去年の温床の整理をした。

 温床は、初夏に温床の利用が終わると整理して、踏み込んだ藁は一ヶ所に集めて切り返し、秋から冬に使おうと思うのだが、いつも翌年あらたに温床を作るまで、投げ捨てたままにしてしまう。今日は、温床まわりの草を取り除き、枠を外し、踏み込んだ藁を外に出した。温床はいつも二つ作るが、そのうちのひとつに、覆いにしていた肥料袋を剥がすと、カブト虫の幼虫らしいものが見えた。去年はもうひとつの温床に甲虫類の幼虫がいたが、子どもの見立てによると、カナブンの幼虫だった。カブト虫にしては小さい、というのが子どもの言い分だった。しかし、今年の幼虫は巨大。もしかしたらカブト虫かもしれないと思い、子どもに「鑑定」してもらうまで、そのままにしておくことにした。

 午後になると雪がちらほら。雪は夕方になると強くなり、木の葉に薄く雪が積もりだした頃に帰途についた。
村便り:2008-02-17(日) (三つ鍬行方不明などなど)
投稿日:2008-02-18(月)

三つ鍬行方不明、私自身も「行方不明」
 昨日気づいたことだが、三つ鍬が1本なくなっていた。鍬類は一ヶ所にかためて掛けてある。昨日、タマネギの追肥をしようと思ってはじめて、その三つ鍬がなくなっていることに気づいた。三つ鍬は三本ある。ひとつは、中打ち[中耕]に使うもの、他の二つは、土を返すときに使うもの。両者は、鍬の形状と鍬と柄の角度とが違う。見えなくなったのは中打ち用のものである。

 記憶を辿ってみると、その鍬を最後に使ったのは、一月初旬にタマネギの、第一回目の追肥と中打ちを行なったときである。鋏類は畑に置き忘れると、小さいので見つからないことがある。しかし、鍬は、畑でその存在が目につかないことはない。ましてや今は冬枯れの時期である。また、畑に忘れたとしても、このあたりでは誰かがもっていくということは考えられない。畑を見回り、小屋の中を探してもどうしても見つからなかった。記憶のなかを探しても手がかりは見つからなかった。鍬はどこかに置き忘れているはずである。鍬が見えなくなった、というより、自分自身を見失ってしまった、といった奇妙な感覚がした。老化のせいか……。

田んぼで藁切り
 今日も風が強くて寒く、雪が舞ったりもした。週に一度は家族が野菜収穫のために来る。小屋で一緒に食事をしたあとは、私は田んぼでの作業に向かった。藁切りである。藁カッターから排出される切り藁が風に飛ばされるくらい北風が強かった。切った藁は田んぼ全面に広げる。三月始めには土起こしをしたい。そんな思いに急かされながら、フォークで広げる作業を行なったが、均等にはばら撒けなかった。後日、厚く撒いた所から撒けなかったところに、一輪車を使って藁を移動しなくてはなるまい。藁カッターを使用するのは二年目でまだまだ経験不足。

コンビニ建設と井手
 昨日のことになるが、軽トラックで通りかかったFさんが私を見て車を止め、建設予定のコンビニが井手に廃水を流す件で、話してきた。「あの話は[コンビニに対して]断っちゃった。『[井手関係者の]みんなに話してみたが、みんな駄目じゃ言うわい。他の方法を考えさいや』言[ゆ]うちゃった。」私はコンビニ建設予定地を走る里道について訊いた。するとFさんは「[コンビニは]買[こ]おた、言うたで。」と答えた。「どうやって買うたんじゃろ。売るときには[市か国に管轄部局から]地元に説明はないんじゃろうか」と私。なにか釈然としない気持ちだったが、ともかく廃水の件は決着がついたわけだ。Fさんは肩の荷が降りたといったようなすっきりした口調と表情だった。

 里道の売却について調べてみた。すると、平成12年4月1日に施行された「地方分権一括法」により、里道は、その機能を喪失したものについては、国が管理して、売却することもできることになった、と分かった。

 問題の里道は、機能を喪失したものとも言える。だから、コンビニ建設予定地の所有者が国から売却されたこともありうる。ただ、購入手続きのなかに、境界立会協議があり、その協議に隣接土地所有者と国が立ち会う。問題の里道に関して言えば、関連する隣接土地は、コンビニに土地を貸与する仮契約を結んだ土地以外に、井手と農道がある(公図で確かめたわけではなく、里道の道筋から推定したもの)。井手の所有者はむろんFさんを含む我々井手関係者である。農道は、確信はないが、おそらくは私道扱いである。だから隣接する田んぼの所有者が協議に立ち会うことになるのだろう。そして少なくとも井手に関しては、協議が申し入れられたことはない。ということは、購入手続きがきちんと踏まれていないことになるのではないか。コンビニが「買うた」と言っても、にわかに信じがたい。
村便り:2008-02-16(土) (タマネギ定植)
投稿日:2008-02-17(日)

 今日は一日中北風が強く、寒かった。天気図は冬の、典型的な西高東低。作業は、先週できなかったタマネギの定植。

 畑で作業を始めたのは昼前の11時。定植畝を整えてから、苗床から苗を抜き取る。苗は黄タマネギ(普通のタマネギ)と赤タマネギ。

タマネギ苗
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とろ箱に入っているのは赤タマネギの苗。その向こうに二列になって植わっている苗が、初冬に定植したとき残った黄タマネギの苗。
定植したタマネギ
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定植したタマネギ。
 縦ガンギ。すなわち、植え条を畝の方向と垂直の方向にするやり方。条間は初冬のときと同じ30cmだが、株間は初冬の12cmに対し、今回は10cm。あまり太らないので、このくらいで十分。定植した株数は、赤タマネギは210株、黄タマネギは120株。
 赤タマネギは、11月終わりに定植できなかったので、苗床にそのまま残してあった。草(オオイヌノフグリなど)と押し合いへし合いしながら越冬していたため、苗を抜き取るのが一苦労。苗を掘りあげるため三つ鍬を土に打ち込むと、草の根が抵抗して鍬があがりにくい。草と一緒に掘りあげた苗を草の中から抜き取るときも、絡んだ草の根が邪魔をする。苗の根を切りながら、採苗した。

 それに対して、黄タマネギの方は、去年の11月終わり定植したとき、小さすぎたものを再び苗床に戻したもの。だから、やすやすと掘りあげることが出来た。二カ月半前に一度掘り起こしたとき根が切れたはずだが、根量が増えて伸びていた。定植した苗も寒さに耐えながらもこの程度には根を張っているのだろう。タマネギは2月になると根が条間に伸び始める、と本で読んだが、掘りあげた小苗の根を見ると納得できる。

 採苗を終えてから昼食。弁当は作ってもらわなかったので、スーパーで買ってきた寿司とカップ味噌汁を寒い小屋でかきこんだ。すぐに作業再開。

 苗床は[屋敷の]前の畑。そこでは北風は弱まる。ところが、定植畝のある[屋敷の]横の畑は吹きっさらし。北から吹き上げてくる(村は南から北に下る斜面にある)強い風にさらされながらの作業になった。ともかく寒い。私の出で立ちは、吸湿性、透湿性、保温性のある山用の下着をつけて、上は薄手のシャツと薄いブルゾン、下はモンペ、足は地下足袋というものなので、極寒のときは動かないと体中が凍える。ましてや北風にさらされると尻尾を巻いて逃げ出したくなる。でも苗は掘りあげてしまっているし、時期的にも遅れているので、じっと踏ん張り作業を進めた。

 作業が完了したときはまだ日が沈むまでに時間があった。身体を暖める目的もあって、空いている畝を鍬で起こした。

 すっかり暗くなったなか車の始動キーを回すと、車載温度計はマイナス2度を示していた。
村便り:2008-02-11(月) (工業団地造成、コンビニ建設)
投稿日:2008-02-15(金)

 最近は寒さのせいで出無精になったうえに、学期末の採点などに時間をとられて、野良に出ることが少ない。9日(土)はレポートの採点、10日(日)は卒論読みのため「出勤」。三連休のうちせめて今日だけは野良仕事をすることにした。

晩冬のタマネギの管理
 現在気になっている作業は、ひとつは田んぼでの藁切りと散布、もうひとつはタマネギの定植(と第二回目の追肥)である。そのうち、時期がすでに遅れつつあるタマネギの定植を優先することにした。タマネギは11月終わりに定植するが、その時に小さい苗は苗床に残し二月始めに定植する。小さすぎると寒害にあって消えてしまうことがあるので、苗床に密集して残して寒さに対して「集団防衛」させるのだが、その苗を2月始めに定植するのは、ひとつは、立春がすぎ寒さが峠をこしたからであり、もうひとつは、2月になるとタマネギの根が動き始めるからである。根が動き始める前に定植してやれば、それ以降の生育が順調に進む。

(ちなみにタマネギの二回目の追肥は二月始めに行い、同時に中打ち[中耕]をする。中打ちは除草目的もあるが、初春になって中打ちすると条間に伸びてきた根を切ることになる。だから、二月に入ると早々に追肥・中打ちをするのである。私の場合は、この中打ちが二回目にして最後の除草。あとは草が伸びてきても抜かない。除草するとタマネギの根を切ることもあるが、それ以降生えてきた草が減収につながるということはないからである。)

 畝がまだできていないので、まず、畝に施肥して耕耘機で鋤き返し畝立てしなければいけなかった。作業は午前10時位から始めたが、午後から井手[水田用の用水路]の集まりがあるので、結局のところ、耕耘機で鋤き、溝をあげたところで作業を中断せざるをえなかった。

井手と工業団地
 井手の集まりは午後2時から井手頭の家であった。集まりは、市が買収した旧ブドウ園での工業団地造成の第二期工事を着工するにあたり、市側が、水利の問題で井手に関わる人たちに説明をするためのものであった。

 井手側は7人(井手に関係する家で現在水田として耕作している家は7軒)、市側は6、7人(正確な数は覚えていない)が参加して説明会が始まった。

 3区画の造成をする第二期工事は、6、7月に着工され、約二年後の、平成22年3月に完成予定である。山を崩し造成する。

 市側が井手側に了解を求めたのは

【工事中の休耕補償】
(1)工事中、泥水が隣接の井手に流れることがある。そこで井手掛かりの田んぼは二年間休耕してもらい、その間は休耕補償金を支払う。

【調整池の水を井手に流す】
(2)工業団地からの排水(排水とは雨水であり、工業廃水は下水に流す)はいったん調整池に溜め、調整池からあふれた水は、流域計算で45パーセントを小川(田の口川)に、55パーセントを井手に流す。山林は造成されると、それまでの保水機能をうしなう。そこで、調整池(700トン貯水可能)に稲作用の利水機能をもたせる(言い換えれば、必要とあらば調整池の水を抜いて井手に流してもよい)。

という二点であった。

 1点目に関しては、誰も異存はなかった。泥水が流れるといっても雨量の多い時期にかぎられ、しかもその量は耕作に差し支えるほどではない(第一期工事の経験から)。また、泥水に含まれるのは工事に伴う泥だけであり、それ以外の成分は含まれない。休耕補償金を出すといっても、休耕は義務ではない。実際、第一期工事の際も同様の処置をとったが、休耕した田んぼはなかったそうである。

 2点目に関しては、私には心配があった。稲作期間には、雨による増水で調整池をあふれた水は井手を通って田んぼに入る可能性がある。その水を稲が吸って育ち、その米を我々が食べる。団地に入る工場の性格(環境に負荷をかけるような工場は導入しない)からしてMIナMAタ病のような悲劇がおきる心配はまずないだろう。しかし工場側の不注意、ないし、排水は水田に入ることに対する認識不足のせいで、雨水に別の成分が混じらないとはかぎらない。そのことに対する十分な対策をとらなければならない。

 工業団地の前は大住宅団地が計画されていた。その説明会に出たことがある。

 住宅団地にもやはり調整池が必要である。調整池に集まるいわゆる雨水には何が混じるか分からない。車の洗浄水程度ならまだしも、廃オイルなどが流されないともかぎらない。私は、調整池を出た水はいったいどこに流れるのだろうか、と不安になった。県の職員に質問した。すると彼は、調整池の近くにある小川に流す、と答えた。私は、そこは小川ではなく農業用水路だ、そんなところに流してもらっては困る、と言い返すと、その県職員は憮然とした顔で私を見た。担当職員からしてその認識である。ましてや団地の住民には調整池以降の水の行方についての、正しい認識どころか、関心さえあろうはずがない。たとえ正しい認識をもったとしても、米は村産のものを食べるわけではない。するとどうしても倫理感がうすれる。

 私には、住宅団地造成は、百姓をやめろ、という通告のように思えた。さいわい、住宅団地はバブルとともにはじけ散ってしまった。

 そして今度の工業団地である。これは着実に進行している。私はかつての心配を今度は工業団地からの排水について抱いた。そこで市側に、工場が調整池に流す「雨水」の管理をしっかりしてほしい、と要望した。市側は、分かりました、と答えたが、私はさらに要望を重ねた。分かりました、と口で言っても、声はすぐに消えてしまう。問題が起こっても、時が経てば、そんなことは言いませんでした、と居直られても何の証拠も残っていないから、こちら側は手の打ちようがない。また、しばしば担当者が変わり、前の担当から何も受け継いでいません、なんて言われることもある。そこで、雨水の管理について形(すなわち文書)に残してほしい。こう、私は要望を重ねた。市側は、検討します、と約束したので、検討の結果は必ず井手側に伝えてほしい、とくどく市側に要求した。

 そのとき要望したのは、市が工場建設の契約をするとき、工場側に雨水は井手に流すことになるので管理をきちんとするように伝える、ということであった。今はおそらく二つの文書が必要であろうと考えている。ひとつは、市は契約時に、工場側に対して、雨水以外の水は調整池に流さないよう管理し、何らかの理由によって万がいち雨水以外の水が流れた場合は十分な善後策をとる、と約束させる旨を記した文書を、市が井手側に渡す。もうひとつは、工場が、同内容の管理と善後策を約束した文書を井手側に渡す。このように二重に防衛線を張らなくては、我々の命は守られない、と私は考えている。この考えは、休耕補償の契約のために市側がやってきたら、はっきりと伝え、二種類の文書が残るよう圧力をかけるつもりである。

 私は第二期工事の準備工事(道路整備など)の着工式の挨拶と思われるものを耳にしたことがある。畑で農作業をしていたとき、林の向こう、工事現場と思われる方角から拡声器からの声が流れてきた。「いまは住民が山に入ることがなくなり、山は荒れ放題である。」工事は、荒れ放題の山を有効利用するためである、と言いたげな口調であった。声の主は、おそらくは市の担当責任者であろう。

 開発が予定されている区域は、40年ほど前に山を切り開いて開設したブドウ園の跡地である。ブドウ園はすぐに経営破綻し、それからは、大部分が原野や山林に戻りつつあった。山の「有効利用」のため、かつてはブドウ園を開設し、今度は工業団地を造成する。山の価値を金でしかはかることを知らぬ人間の仕業である。ブドウ園よりも、ましてや工業団地よりも、「荒れ放題」の方がよほど価値がある、となぜ発想できないのであろうか。旧ブドウ園を莫大な金を費やして買収した市の言い分は、その費用を少しでも回収するために工業団地を作らざるをえない、というものである。たしかに団地を作って買い手がつけば手っとり早く費用の回収ができる。その時点では、その売買だけを見れば、収支は改善できる。しかし、山を崩して造成された団地は山のもっていた機能と価値を肩代わりすることはできない。山や農地は、まるで金を産む装置のように扱われているが、金でははかれぬ、あるいは金では買えぬ、機能と価値をもっている。造成によってそれらを未来永劫うしなってしまうのである。

 休耕補償の話をしていても、調整池からの排水の話をしていても、虚しさと、それを引き裂く悲しみと憤りをずっと感じていた。その気持ちが私の口調を激しくした。そして、その気持ちは自分自身にも跳ね返る。団地造成を許してしまった。もう元にもどすことはできない。するとできるのは、造成の影響を最小限にくい止めることだけである。残った命-我々の命、他の生き物の命、山の命、農地の命-は守らなければならない……。

ふたたび、コンビニの建設について
 井手と市の話し合いが済んでから、井手内輪の話があった。それも終わり、玄関に向かっているとき、部屋の奥から「おい、ちょっと待てや」とFさんが呼び止めた。「村便り:2008-01-27(日)」で話題にしたコンビニ建設の話である。残ったのは他に、今日寄り合いをもった井手の井手頭(Iさん)と、コンビニ建設用地として田んぼの貸す予定のHさんである。前の村便りに書いたように、Iさんは、コンビニから井手への廃水を拒否した。そこでFさんと私の田んぼが関係する別の井手にコンビニが頼みに来た。

 私は先日から考えてきた自分の意見をFさんに述べた。コンビニの廃水を、我々の井手も拒否する、というものである。やむを得ない理由(そんな理由は考えられないが、と私は付け加えた)により受諾する場合には「税金」をとる、と続けた。「税金」とは廃水を流す補償金である。私としては、補償金がほしいわけではない。なによりもコンビニができてほしくないのである。コンビニができても住民には何のメリットもないどころか、デメリットばかりである。

 コンビニ用地に当てられる予定の、一番広い田んぼはすでに埋め立てられている。Hさんが貸す田んぼも埋め立てられことになる。いったん埋め立てられた田んぼは、田んぼには戻せない。そう言うと、Hさんは「それは分かっちょる。ほいじゃが、わしゃ、はや作りとうなあんじゃ」と答えた。「作りとうないなら、荒しちょった方がよっぽどええで。また田んぼに戻せる。」と私は言った。田んぼが潰されるのが私には耐えられない。いまは、たとえばHさんの所有かもしれないが、ずっとずっと昔に開田されてから所有者は何度も変わったはずである。その田では数しれぬ何人もの村人たちが汗を流してきたはずである。その人たちを土の下に埋めてしまう感覚がするのである。だから、私にはHさんに強く言った。

 もっと理性的に考えると、食料自給率が40パーセントを切る日本でこのまま農地が減少していって、いいはずがない。農地ベースで計算して、外国に、日本の農地をはるかに上回る農地面積を依存している日本の状況はきわめて危険である。農地をコンビニ用地に不可逆的な仕方で転換して、その土地から利益を吸い取る。利益を吸い取られた土地の地下はいわば空洞になってしまう。その比喩は日本の危機的状況を具象している。

 コンビニ用地には里道[りどう。幅3尺ほどで公共の道。]がある。その里道は、建設予定図からするとコンビニの建物の前を横切っている。里道は、田んぼが耕作されていたときには、広い畦として存在を保ちながらも、道として利用されてはいなかった。その里道は建設計画の中でどうなったのだろうか? もし住民がその里道の整備を要求し、たとえば里道が舗装されるとすれば、コンビニ用地は真っ二つにされることになる。そうなればコンビニになるだろうか…そんな話も出た。

 Hさんは、FさんとIさんと私の話を聞きながら、困ったような顔をしていた。「ええがいになるようにしてぇや。わしゃ、仮契約をすませとるんじゃけん」と頼むように言いもした。「[賃貸料として]なんぼ、もらうんない。」とFさん。「たいしてもらやぁせん」とHさん。「本契約をしちょらんし、金もたいしてもらわんのなら、どうなってもええじゃろうが。どっちにしても[廃水を受諾するかどうかを]決めるのはわしら[その場にいる者では、Fさんと私]じゃけんの」とFさんは困っているHさんを面白がるように見ながら言った。

 コンビニはFさんの家と県道を挟んだ向かいにできる。「コンビニできたら環境が悪りゅうなるで。24時間営業じゃけんの」と私。「暴走族のたまり場になるかもしれんで。なんでコンビニみたいなおかしなものを作ったんかいの」とIさん。FさんはHさんに向いて「あんたがたは奥の方にあって関係ないじゃろうがの」。しだいにHさんはコンビニ建設について周囲の者がどんな意見、どんな感情をもっているか分かってきたようであった。

 しばらく意見を交わして、最後の三人もIさん宅を辞した。
村便り:2008-02-01(金) (藁カッターの不調の原因)
投稿日:2008-02-05(火)

 1月27日の「村便り」で、藁カッターのエンジンが不調になった、と書いた。農協の農機センターに電話して、持ち帰りで修理してもらうことにした。二、三日して農機センターから電話があり、どうしても症状が出ないので一緒に使って、確認したい、と若い職員が伝えた。そこで今日の午後、カッターをもって来てもらうことした。


藁カッター
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藁カッター。
 遠景の山は、灰ヶ峰。村を囲む山の中では最高峰(737m)。山の向こう(南側)は旧軍港の、狭い市街地があり、すぐに瀬戸内海。
藁と銀杏
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温床用の藁。二つ温床を作るが、そのために必要な400束が重ねてある。
 すぐ後ろに銀杏の木がある。10年ほど前に植樹した。昔はほぼこの位置に大きな銀杏の木があったが、第二次世界大戦末期、爆撃機の標的になる、というので切ったそうである。旧軍港は大戦末期に焼夷弾で焼け野原になった。村には標的になる施設はなかったが、誤爆で焼夷弾が落ちることもあった、という話を聞いたことがある。
 待ち合わせの時間に屋敷に来た彼と一緒に田んぼに行き、カッターを動かしてみた。私は藁を切るときの出力設定に関して疑問があったので、尋ねてみた。中古で買ったカッターには取扱説明書はついていない。操作は単純なので、なくても支障はないか、と思っていたのだが、藁を切るときのアクセルの開度が分からない。本体に注意書きのラベルが貼ってあり「主軸の回転数は…以上にしないでください」と書いてある。しかし、その回転数とアクセルの開度の関係が分からなかった。そのため、今までは安全のため、アクセルは最大で三分の二までしか開けなかった。すると開度によっては、藁がカッターに挟み込まれてカットされるとき出力が一時的に落ちるようなことがあった。彼はラベルの注意書きに示された回転数を確かめながら「全開でも大丈夫だと思いますよ」と答えた。

 しばらく作業してもエンジンの調子が悪くなることはなかった。今までの私の使い方から判断すると、エンジンの力が弱いために藁が挟まれたとき、とりわけ湿った藁のときに、エンジンが止まり、何度もエンジンをかけ直しているうちに「かぶって」しまったのだろう、というのが若い職員の推測だった。彼は、藁は乾いていると切れやすいが、湿っているときはエンジンの力を強くしないと切れにくい、とも説明した。

 もし調子が悪くなったら連絡することにして、彼には帰ってもらった。

 作業を続けて狭い田んぼ一枚分の藁を切ってから、今度は、踏み込み温床の材料にする藁を屋敷にもって帰るため、十束ずつ藁紐で縛った。一時間くらい経ってからであろうか、農機センターの若い職員の軽トラックがまたやってきた。彼はどこかで用事を済ませて、様子を見るために立ち寄ったようであった。カッターが順調に動いているのを確認して、立ち去った。私は機械について問題が生じるとすぐに彼の携帯電話に連絡する。彼は気軽にやってきては問題を処理してくれる。だから、私にとって心強い存在なのである。

 仕事が終わると、長靴の中の親指が寒さでかじかんでいた。今まで霜焼けになることはまずなかったが、今年は冬の始め頃から右足の親指が霜焼けのようになった。最初はなぜ指の色が変わり、少し脹らんだのか分からなかった。最近になってやっと、霜焼けかもしれないと気づいた。今日はさらに左足の親指に霜焼けになりそうな感覚を覚えた。霜焼けになるとは歳のせいかもしれない。そういえば、今冬は寝ているとき足先を布団から出すことがなかった。今までは、冬でも身体の熱を冷ますため、足先を出すことがよくあったのだが。
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