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村便り:2006-11-09(エンドウとそら豆の種蒔き)
投稿日:2006-11-13(月)

 11月に入ると畑での播種・定植作業は、上旬の早い時期にそら豆とエンドウの播種、下旬にタマネギの定植があるだけである。この時期になるといつも、播種期について以前、隣のおばあさんに聞いた話を思い出す。

 機械化される前の稲作では稲刈りは10月の後半であった。刈り取った稲は田んぼで仮乾燥したあと家にもって帰って脱穀し、籾を筵に広げて乾燥を仕上げた。それで田んぼでの仕事は終わってしまうわけではない。11月に入ると、刈り取った跡を鋤き返して麦を蒔いた。豆類はその前に蒔いたのである。だから11月初頭が蒔き時になった。

 「そら豆は早う蒔いたら、寒むうなるまえに大きゅうなって、寒さにやられる。ほうじゃのぉ、11月の3日か4日くらいがちょうどええんじゃ。」おばあさんは昔の稲刈りと麦蒔きの話をしながら、豆類の蒔き時を教えてくれた。今年から稲作は自立したこともあり、おばあさんの話は実感をともなって思い出される。かつては、今よりももっと忙しい作業の合間をぬって豆類を蒔いたに違いない。肌寒いなかでのせわしい種蒔きが今と昔を感覚的に結びつける。

 一般に、畑作の日程と播種体系は稲作を縦糸にして組まれた、と農耕を始めたころからずっと考えてきた。稲作地帯では、米がまさに命の糧である。稲作を優先しながらも、野菜の種蒔き時は、播種適期の範囲で決められる。畑作物は、基本的には、米を補完するようなものを選ぶ。この考えも、今年はさらなる実感となった。

そら豆のポット育苗
(クリックで画像の拡大)
 ベランダで育苗中のそら豆。
 そら豆は、《おはぐろ》を下にして蒔く。頭は土から少し出るようにすると発芽しやすい。種(購入種)が水色なのは処理がしてあるため。この種は発芽しやすいように、あらかじめ皮(そら豆の皮は硬い)に傷がつけてあるようである。
 では、稲作と畑作との関係を、豆類の播種に関して、通いの一人兼業農家の私は今年、どのように実践したかと言うと…

 日曜日(5日)、脱穀が終わり、暗くなってから実エンドウ[中の豆だけを食べるタイプのエンドウ]を蒔いた。時期が少しだが遅くなっていたので、あえて夜の作業をおこなった。満月が出ていたが、さすがに種蒔きには十分に明るくない。そこでヘッドランプの明かりを頼りに作業をした。

 さらに今日、二コマの授業が終わった後、早めに学校を出て、16時からスナップ・エンドウ[皮ごと食べるタイプのエンドウ。絹サヤエンドウと違い、皮が緑の間は硬くならない]を蒔いた。すぐに暗くなり、またしてもヘッドランプ頼りの作業となった。

 エンドウを蒔き終わっても、今日はまだ帰るわけにはいかなかった。ソラマメの種蒔きをこれ以上遅らせるわけにはいかないからである。そら豆はポリ・ポットに蒔く。畑から小屋に帰り、ポット108個に土を詰めて、1ポットに1粒ずつ押し込んだ。ポットは自宅に持ち帰り、ベランダで育苗する。作業を終わり車のエンジンをかけたのは20時だった。
村便り:2006-11-05(孟宗竹の竿を軽トラックで運ぶ)
投稿日:2006-11-11(土)

 金曜日から始めたうるち米の脱穀は三日間でほぼ終わった。最初の日は家族と従姉が手伝ってくれた。次の土曜日は一人での作業。最後の日の今日は、また従姉が手伝ってくれた。一週間前に刈り取った稲架はまだ十分に乾いていなかった(木曜日の計測で、水分が15.9%あった)ので、30kgほど籾が入る袋でおおよそ3袋になるだろう、その稲架は来週稲こぎすることにした。

 昨日、脱穀を終えた稲架を解体して、ナル(横木)の孟宗竹を屋敷に一番近い田んぼに運んで集めた。犬の散歩で通り掛かった近所の人(Nさんと呼ぼう)が並んだ13本の孟宗竹を見て「軽トラで運びゃ、いっぺんじゃ」と語りかけてきた。私は運び方を尋ねた。立ち話での簡単な説明だったので分かりにくいところがあったが、積み方の大まかなイメージはできた。

 今日はその運び方を試してみた。孟宗竹の竿は根元を下にして荷台に積んだ。すると前方に高く突き出る格好になる。しかも長いので重心が前側にかかり、前方に倒れてしまう。そこで根元を荷台の後端の内側に引っかけて倒れるのを防ぎ、ロープを掛けて安定させた。竿の上端が高くなったが、屋敷までの道には障害になるものはない。それでも用心しながら車を低速で走らせた。

 Fさんの田んぼの横を通りかかったときである。田んぼで脱穀の後片付けをしていたFさんが私の方に向かって何か叫んだ。車を止めて聞き返すと、彼はこちらに歩み寄りながら「積み方が反対じゃ」と言った。彼の説明はこうである。竿は根元を上にして積む。細い方を上にすると、ロープで巻いて締めていてもずれ落ちてしまう。ところが太い方が上だと、ずれ始めてもロープが締まって止まる。「昔、若いころ、現場で使う足場を取りにいったことがあるんじゃ。わしも運転手も知らんもんじゃけぇ、細い方を上にして積んだら、ずれてしもうて困ったことがあった」と経験談も話してくれた。 「それから竿の下は荷台から出すんじゃ。そうせんにゃ、前が高こうなるじゃろうが。ここはひっかかるものがないが、ほかでは電線にひっかかってしまうで」とさらに注意点を付け加えた。

 また私は車を動かした。途中、Nさん宅の横を通り掛かった。Nさんは庭木をいじっていた。私は車を止めて「昨日、教えてもろうた通りに軽トラで運びょうるんよ」と切り出し「竿は太い方を上にするんや」と尋ねた。Nさんは、細い方を上にする、と答えた。また、荷台から後ろにはみ出した部分はひこじる(*)ようにして運ぶ、と説明した。私は、ひこじるなら、あえて太いほうを上にする必要はあるまい、と考えた。それに対して、Fさんの説明は、竿の尻はひごじらない、という前提のものである。
 (*)「引きずる」の方言的転訛。「ひこずる」とも言う

 FさんもNさんも、兄貴分的な気持ちからであろう、普段から私に気をかけてくれている。親から教わらなかったことは近所の人たちから教えてもらいながら、私は一人前の百姓になっていく。
村便り:2006-11-03(稲こぎ)
投稿日:2006-11-06(月)

 文化の日の今日からの三連休はうるち米の稲こぎ[稲の脱穀]。

 昨日、米の水分測定器がある農協の支店で水分を計った。水分が14.5%から15%の時に脱穀するのがいい、と言われている。水分が多いと長期保存ができない。今年は9月後半から晴天が続いているので、二週間干した我が家の米はすでに14.3%になっていた。「はぜはつか[稲架、二十日]」とも言われるが、今年は「はぜはんつき」である。

稲こぎ
(クリックで画像の拡大)
 脱穀機を後方から写した。
 左手から稲束をベルトに送り込むと、中央の胴体のなかで脱穀されて、右手に放出される。籾は後方の袋に流し込まれる。
 機械はクローラーで自走する。我が家には据え置き式の古い動力脱穀機があるが、使えるかどうかは確かめずに、放置してある。また、足踏み脱穀機もあり、これは《骨董品》として保存してある。
 田植えが終わってから、いつだったか正確には覚えていないが、近所の、私にとってはお兄さん格の人(「Fさん」と呼ぶことにする)が「要らん脱穀機をもろうて来たけぇ、使えぇや」と話しかけてきた。むろん、私が今年から稲架掛け+脱穀の手順で米の収穫をするのを知っていたのである。Fさんが説明した経緯はつぎのようなものである。

 村の或る農家の前を通りかかると脱穀機(「ハーベスター」とも言う)が投げてある。「こりゃ、要らんのか」と訊くと、「今年からコンバイン(刈取り脱穀機)を使うけぇ要らん」と言う。「要らんのなら、もって行ってもええか」と確かめると「もって行けぇ」と言うので、只でもらってきた。

 「脱穀機は買うなよ。もろうて来たんが動かんにゃ、うちのがある。うちのを使やぁええ。金をかけずに米を作ろうで。」私はFさんの言葉に甘えた。稲こぎ前に整備に出す予定だったが、いつも泥縄の私はそれをしなかった。そこで農協の農機センターの若者に頼んで、ともかく使えるかどうか確かめてもらった。動く、という返答だったので、整備は稲こぎ後にして、一度はお役御免になっていた脱穀機にまずは働いてもらうことにした。

 先週の日曜日の午後、Fさんから操作の説明を受けて、もち米の脱穀をした。こぎ残しの米が多い(*)のを除いては脱穀機はしっかりと働いてくれた。
 (*)使っていくうちに分かったが、機械のせいではなく、私の操作が悪かったため。藁束の入れ方がまずかった(浅かった)のである。

 機械は旧式である。今の脱穀機には藁切り装置をつけることができるが、この機械は脱穀しかしない。だから、以前使っていた人は、別にカッター(藁切り機)をもっていた(カッターも一緒にもらった)。しかし、私のような小農には十分である。脱穀機は新品を買うと100万円、中古だと50万円(程度によるが)する。いずれかを買う覚悟をしていた私には天の恵みである。Fさんに(そして元の所有者に)感謝しながら、私の稲こぎ一年生は始まった。
村便り:2006-10-27(月と生活)
投稿日:2006-11-02(木)

 先週残ってしまった2畝弱を、午後、刈り上げた。

 金曜日だが、明日は出張するので、またまた休暇をとった。授業の準備に追われる学期中に休暇をとると、それ以外の日にきつい皺寄せがくる。そうは言っても、熟れ具合からして、またすでに刈った稲の脱穀との関係で、さらに一週間日延べしたくはない。そこでやむなく休むことにした。

 刈り残していたのは、いま「村の入口の写真」に写っている田んぼである。この田んぼのウワコウダはダブになっていて、上隣の田んぼとの境あたりになると、水を落としてからも歩くと足が沈むくらいである。バインダーは足が10cm以上も沈むようなところでは使えない。今年は稲刈り時に晴天が続いているので乾いているかと期待したが、裾[田んぼの縁]はやはり鎌で刈らざるをえなかった。

日没時の月
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 日没時にどんな形の月が、空のどのあたりに、出ているかがイメージできるような図を作ってみた。
 東西を結ぶ水平線の上側が空である。水平線を直径とする円周上(円は図には描かれていない)に8つの月を配した。
 新月は、旧暦1日の月、上弦は、7日か8日の月。満月は15日の月、下弦は、22日か23日の月である。図ではそれぞれ日没時の位置に配置されている。たとえば、上弦は日没時に天高いところにある。
 月は円周上を時計回りに回る。上弦は、次第に西にくだりながら夜半には西に没してしまう。下弦は、夜半になってやっと東の空に顔を出し、日の出時には天の一番高いところまでのぼっている。
 月は円周上を動くが、《自転》はしない。だから、空にのぼった下弦は、上弦とは反対側の面が明るい。
 刈った稲を稲架のまわりに集めて稲架掛けを始めたのは、日没間近の午後5時であった。この田んぼの近くには電柱に街灯がある。稲架のナル[横木]はその街灯に向かって掛けてある。光りを利用しようと街灯に向かう姿勢で作業を進めた。すっかりと闇が降りてから西をふり返った。するとまだわずかに明るみの残る空に、月の出ているのが目に入った。新月から六日たった、三日月様の月である。不意をつかれ、引きつけられるように空を見上げた。

 月は近くの街灯には敵わぬほどの明るさである。しかし明日か明後日には半月。日没時には空高くかかる。この大きさになれば、日が落ちてから稲架掛けができるくらいには明るく野を照らすであろう。しかも、夜半までは空にある。

 「星を戴いて出で、星を戴いて帰る」という言葉がある。もしかするとこの言葉の裏には月明かりが絡んでいるのではないか、と想像した。陰暦の7日あたりから10日ほどは日没後も、曇っていなければ、月で明るい。15日から一週間ほどは日の出前でも明るい月が残っている。農繁期にはそれを利用できる。「星を戴いて出で」ても夜明け前から仕事を始めることができ、「星を戴いて帰」っても日没後に一働きはしている。

 都会に住んでいれば、いや、いたるところ《常夜灯》が輝いている現代では田舎でも、月の光を意識することはない。ところが昔は、半世紀ほどもさかのぼれば、月は生活に深く関係していた。名月を愛でるこころも上っ面の風流心ではなく、生活に根づき、いわば血の通った感情であったろう。

 日没後まで作業をした今年の稲刈りで、月との距離がぐっと縮まった気がする。
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