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村便り:2006-11-12(米の代金)
投稿日:2006-11-24(金)

 土日と祝祭日は、雨天時と特別な事情がある場合を除き、百姓をする。雨のときはたいてい「休日出勤」をする。二足の草鞋を履いていると、休日はないに等しい。

 今日は日曜日だが、雨。私が出て行くと子どもが一人で家に残ることになるので、「子守」をしながら、久しぶりに家で一日を過ごすことにした。普段は、家には夜から朝にかけてしかいないので、こういう時には何をしていいか分からず時間をもてあます。しかし今日はふと思い出して、農耕関係の出納簿を整理することにした。

 出納簿といっても、出費だけを記録している、単なる心覚えである。領収書や納品書(農業用資材は、農協で購入することが多く、その場合には通帳引き落としにしているため「納品書」をもらう)は8月からのが残っていた。それらをノートに引き写した。出納簿をめくっていると「2005年度、稲作関係」と題したメモが目に入った。それで、きょうだい家族にこの一年間の米代を請求することを思い出した。

 私の家族を含めて、きょうだい三家族は、我が家で作った米を食べている。米代、というよりむしろ、稲作のために出費した金額は、三家族で分担して負担している。以前は、分担金は母親が、田植えと稲刈りの委託料をもとに決めて、徴収していた。委託料を家族数で割る、といった、家族によって違う米の消費量は考慮しない、どんぶり勘定であった。生産者当人である私は以前から、その分担金の計算方法を合理的なものにする必要がある、と考えていた。合理的な計算には、まず各家族の年間消費量を正確に把握する必要がある。私が精米し各家族に配達するのなら、把握するのは簡単である。しかし、一、二カ月に一度、蔵から籾を出して農協で精米するのは母と妹の仕事(実質的には妹)である。消費量を明確にしたい、という私の希望は、そんな面倒なことはしたくない、と言う母親にはばまれて、実現しないままになっていた。ところが、昨秋、私は、収穫した米を蔵に収めようとして、一昨年度産の米が大量に余っているのを発見した。苦労して作った米がいたずらに収納庫に積まれているのを見て、私はむなしさと同時に怒りを覚えた。その「事件」をきっかけに私が主導権を握り、米の計画的な消費、消費量の正確な把握、および分担金の合理的な決定をおこなうことにした。


 出納簿から稲作のため一年間に使った金を拾い上げて合計し、合計を生産高(白米ベース)で割って、単位(一斗=15kg)あたりの「生産費」を算出した。単位「生産費」に各家族の消費単位数を掛けあわせれば、分担金が出る。単位「生産費」は、市販されている米の値段に比べれば、格段に安くなる。だから、私は自分の生産物をきょうだい家族に、いわば格安の値段で「売る」、と言えよう。ところで、この値段にはいわゆる人件費も儲けも加算されていない。商品の価格は、単純化して言えば、(原料費・機械の減価償却代など)+(人件費)+(利潤)で算出されるはずである。すると、価格に原料費などの値段しか含まれていないような「商品」は、商品経済の観点からは商品とは言えない。米をきょうだい家族に「売る」、と言っても、本当は売っていない。

 だとすれば、私流の分担金の算出方法は「合理的」ではないのだろうか?私の考えによれば、この「非合理的な計算」は農家の本質にかかわる。

 農家とは自給自足を理念および基本とする生活である、と私は考えている。むろん現実には、部分的な自給自足しかできない。今の問題で言えば、苗、肥料、農薬、農機具の減価償却代、農機の燃料などは自給できず、購入している。働き手は私であるから自給である。田に引く水は、井手に属する農家の協力による自給である。稲架の材料(木製の稲架杭、竹製の横木)も自給である。ところで自給とは貨幣経済を介入させないことであり、貨幣価値ではからないことである。むしろはかれないことである。(はかれないことをあえてはかり、はては貨幣を価値の絶対基準とする倒錯が貨幣経済社会・資本主義経済社会の通常である。)真面目に考えれば、私という具体的労働力は貨幣に換算できない。換算できるのは、農業労働力一般という抽象的尺度を無理やり当てはめるときだけである。農業用水としても事情は同じである。河川の整備費、井手の維持費、井手に関係する家族の労働力などで水の価値がはかれるのだろうか。そう問うたときすでに、人間の貨幣価値化の問題が入ってきているが、それを無視することにしても、水を供給してくれる自然全体はどこにいった?自然の存在は人間中心的な貨幣の観点からは、はかれるはずがない。

 だから本当は、私は農家の本質から合理的に分担金を算出したのである。すなわち貨幣経済に属している部分は、きょうだい各家族の消費量に応じて分担金を算出し、自給に属する部分は分担金には含めない、としたのである。きょうだい家族もまだ農家につながっているとすれば(きょうだいはそんな意識などとっくの昔に棄てたかもしれないが…)、彼らには農家流の計算方法を当てはめるのが合理的であろう。そして、はかることができず算入されていない「人件費」などは、「支払う」とすれば、その「貨幣」は生身であろう(ただし、米の消費量に応じて労力を提供すべきだ、と言っているのではない。その理由を説明するには、農家の「労働分配論」が必要だが、その論はここでは展開しない)。「人件費」を貨幣化するのは農家の本質を否定することである。

 米の生産費の分担を話題にしながら、また「てつがく病」が頭をもたげ「妄想」の世界に入り込んでしまいました。お粗末さまでしたm(_ _)m では、また。
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