村便り:2008-06-21(土) (緑の勢い)
投稿日:2008-06-25(水)
定植:ナス、ピーマン
梅雨に入ると緑が一段と勢いを増す。野菜もそうだが、草はさらに勢いが激しい。街中の自宅にいるときは、それを植樹の緑などに季節の色の変化としてしか感じないが、畑に立つと圧倒的な生命力として身体全体に押し寄せてくる。更地の屋敷を草地に化してしまい、畑を野原に変えてしまう草の勢いを身体に受けると、或る種の虚脱感さえ覚える。こんな草になったらもう手の施しようがない、といった百姓のあきらめ、とも表現できようか。
しかし奇妙な虚脱感である。満たされている虚脱感と言おうか。溢れる虚脱感と言おうか。もう追いつかない、もう何をしても虚しい、という感覚は、この旺盛な勢いは人間が何をしても加勢することはできない、という追い越されてしまった徒労感に裏打ちされている。緑の大きなうねりに載せられてしまった小さな存在の感覚であろうか。
とはいえ、感慨に浸っているだけでは百姓ではない。やはり足掻かなくては百姓にならない。雨催いの空の下で野菜たちの面倒をみてやった。
自然畝のトマトやツユ豆の世話。トマトは下草を刈り、伸びた茎を支柱に紐で留める。まだ小さいツユ豆は、地面を這い空をさまよう蔓を支柱に巻きつけてやる。
ナスは、7本を追加して定植し、ピーマン(緑の未熟果を収穫する普通のピーマン)を5本定植。畑仕事は午前中で切り上げた。
梅雨に入ると緑が一段と勢いを増す。野菜もそうだが、草はさらに勢いが激しい。街中の自宅にいるときは、それを植樹の緑などに季節の色の変化としてしか感じないが、畑に立つと圧倒的な生命力として身体全体に押し寄せてくる。更地の屋敷を草地に化してしまい、畑を野原に変えてしまう草の勢いを身体に受けると、或る種の虚脱感さえ覚える。こんな草になったらもう手の施しようがない、といった百姓のあきらめ、とも表現できようか。
しかし奇妙な虚脱感である。満たされている虚脱感と言おうか。溢れる虚脱感と言おうか。もう追いつかない、もう何をしても虚しい、という感覚は、この旺盛な勢いは人間が何をしても加勢することはできない、という追い越されてしまった徒労感に裏打ちされている。緑の大きなうねりに載せられてしまった小さな存在の感覚であろうか。
とはいえ、感慨に浸っているだけでは百姓ではない。やはり足掻かなくては百姓にならない。雨催いの空の下で野菜たちの面倒をみてやった。
(クリックで画像の拡大) 調理用トマト(エスクック・トール)。自然畝。 まだ仮支柱のまま。皮が厚く、肉質がかたく、また酸味のある、中玉のトマト。実はたくさんつき、栽培しやすい。 |
(クリックで画像の拡大) ツユ豆。自然畝。 手前が、黒種衣笠、向こうの比較的蔓が伸びているのが、やらず豆。 |
(クリックで画像の拡大) ナスの定植。慣行農法畝。 |
(クリックで画像の拡大) ピーマン。自然畝。 手前5本が今日定植した普通のピーマン。向こうはカラーピーマン(パプリカ)。すでに小さい実がついている。 |