村便り:2007-11-03(土) (一人農家の「生きのび」方)
投稿日:2007-11-04(日)
久しぶりに畑に戻った。畑は屋敷(土蔵と小屋しか建っていない屋「敷」)周りにあるのだが、稲刈りが忙しく様子を見ていなかった。いや、見たくなかったのである。畑に入れば、草取り、間引き、追肥などしなければならない作業が否応なしに「見え」てしまうからである。三週連続で週末にした稲刈りのあとは、今度は脱穀である。最初に刈った稲はもう十分に乾いている。だから、今週末から脱穀を開始する。その前に、エンドウの種蒔きと、極早生タマネギの定植をしたい。そこで今日一日は畑で過ごすことにした。
手が回らないのなら、作らなければ、あるいは、作る面積や品種を減らせば、いいじゃないか、と言えるかもしれない(周りの人たちもそう思っているかもしれない)。しかし、種を蒔かなければ収穫できない。また、作付けを減らしても、手がないのは変わらないわけだから、自然放任状態も変わらない。ところが、面積や品種が多ければ、できない品種があっても、小振りであっても、なんとか収穫量は確保できる。心ならずも続けてきた「自然放任」栽培であるが、最近はこんな「論理」を考えるようになった。通いの一人兼業農家が生き延びていくひとつの方法かもしれない。
ひとしきり「悲惨」な状況を確認したあとで、タマネギを定植する畝作りを始めた。まず、草取り。これで午前中は終わり。午後、耕運機で鋤いて、畝立て。溝を作り、畝の表面を整地したところで、日没作業終了。タマネギの定植かエンドウの種蒔きのいずれかも済ませたかったが、ひとりだと、まあこんなものか…
手が回らないのなら、作らなければ、あるいは、作る面積や品種を減らせば、いいじゃないか、と言えるかもしれない(周りの人たちもそう思っているかもしれない)。しかし、種を蒔かなければ収穫できない。また、作付けを減らしても、手がないのは変わらないわけだから、自然放任状態も変わらない。ところが、面積や品種が多ければ、できない品種があっても、小振りであっても、なんとか収穫量は確保できる。心ならずも続けてきた「自然放任」栽培であるが、最近はこんな「論理」を考えるようになった。通いの一人兼業農家が生き延びていくひとつの方法かもしれない。
ひとしきり「悲惨」な状況を確認したあとで、タマネギを定植する畝作りを始めた。まず、草取り。これで午前中は終わり。午後、耕運機で鋤いて、畝立て。溝を作り、畝の表面を整地したところで、日没作業終了。タマネギの定植かエンドウの種蒔きのいずれかも済ませたかったが、ひとりだと、まあこんなものか…