<< 2024-09 >>
SunMonTueWedThuFriSat
1234567
891011121314
15161718192021
22232425262728
2930     

記事の分類
 (クリックで分類毎に表示)
以前の記事
 (クリックで月毎に表示)
村便り:2008-04-20(日) (隣のおばあさん…)
投稿日:2008-04-25(金)

 隣のおばあさんが昨朝亡くなった。葬儀は今日午後一時から。

 おばあさんは亡き父と同級生。3月31日生まれということだから、父より3カ月ほど年上である。88年の生涯を閉じた。

 私はおばあさんを「〇〇のおばさん」(〇〇は屋号)と呼んでいた。おばあさんはわが家の畑の隣の小さな家に一人で住んでいた。結婚はしたが、子どもをもうけたあと、また実家に戻ってきた。弟さんが近くに住んでいて、時々やって来ていた。

おばさんの家
(クリックで画像の拡大)
おばあさんの家。
 左手の、板壁に梯子がかけてある小屋、その向こうの粗壁の小屋、そのふたつの小屋と垂直に交わる方向に立っている、その向こうの小さな家。それがおばあさんが暮らしていた家である。(その背後と、一部が見える右手の、二軒の現代風の家は、他家。)手前、草の生えている畑がわが家の畑、境を接してその向こうの畑がおばあさんが作っていたところである。おばあさんが植えたキャベツやネギが見える。死ぬ数日前に入院するまでは、この一角にいつもおばあさんの姿があった。いまは家の戸が閉じられ、人影がない。見慣れた人が忽然と姿を消してしまうのは、やはりさびしい。
 私は小学校に上がる前から、村のふたつの地区のうち、屋敷がある地区とは別の、灰ヶ峰に近い地区に住むようになったので、おばあさんとの日常的なつきあいは、父の死後に百姓を始めてからである。おばあさんの屋敷には狭い畑がある。その畑とわが家の横の畑とは境を接している。だからおばあさんと私とは、いわば百姓仲間だった。

 小柄で痩せぎすなおばあさんは、腰は曲がり、耳は遠く、目は白内障で見えにくくなっていた。2、3年前に白内障の手術をするまでは、人間は少し離れると輪郭程度しか確認できなかったようである。声を聞いて「あー、あんたね」と前に立った人間が私である確認するほどであった。晩年になると身体のあちこちに痛みを感じていたようである。それでも、死ぬ直前まで畑仕事をしていた(畑は近くの別の場所にもある)。誰にも頼らず一人で生きよう、という意志が最後まで感じられた人だった。

 おばあさんの家へは車が入る道がない。そこでわが家の畑の一部を軽自動車が通れる幅だけ出入路として提供していた。夏になりその道に草が生えると、おばあさんは曲がった腰をさらに曲げるようにして草を取った。「おばさん、[うちの草をとってもろうて]ありがとう」と私が遠い耳にも聞こえるように大声で言うと、おばあさんは「こっちこそ、通らしてもらうんじゃけん。もうちょっとじゃけん、それまでは通らっしちゃてね。お願いします」と逆に拝むようにして礼を返した。「もうちょっじゃけん」という言葉に私はどう言葉を戻していいか戸惑った。

 おばあさんは鍬だけを使って、野菜をうまく作っていた。肥料は下肥も使っていた。米は弟さんが作ったのを食べていたはずだから、食べ物に関してはつましい自給自足だったのではないだろうか。昔の日本がそのまま生き延びてきたような雰囲気さえあった。

 現在わが家で作っているトウガラシは、種をおばあさんからもらったものだ、と母が言っていたのを思い出す。その事実をおばあさんに確認したことはない。確認したところで、ごく普通のトウガラシなので、「ほうじゃったかいね」と思い出せない表情で返事されるだけであったろう。でも、私はトウガラシの種蒔きをするたびに、これは〇〇のおばさんにもらった種、と記憶を新たにする。


 葬儀に列席した。母も列席した。近所の葬儀でも、母が列席すれば、私は行かないことはよくある。家と家とのつきあいだからである。でも、おばあさんには個人として最後の別れをしたかったのである。

 会場に着くと、時間前だったが、すでに椅子がほとんどふさがっていた。受け付けで香典を出そうとすると、辞退された。故人の意思により香典は辞退する、とのことであった。おばあさんらしい。死んだあとまで人を煩わせたくなかったのだろう。

 葬儀の間、私はおばあさんの思い出を反芻していた。最後の花も手向けた。母がおばあさんの弟さんに話しかけているのが耳に入った。「…ほいじゃが、しょうがないよね。こんどはお浄土で会うんじゃね。」しかし、やはり今生の別れではある。

 合掌。
村便り:2008-04-19(土) (田んぼでの作業、サツマイモの芽の出方)
投稿日:2008-04-24(木)

 去年の「村便り」の記事数を確認してみると、4月と5月は目立って少ない。4月が5本、5月が3本である。この時期は書くべき農耕生活がないわけではない。その逆である。しかし、4月から新学期が始まると、二足の草鞋はとたんにせわしくなる。今年は4月はすでに8本書いているが、この頃キーボードから手が遠のきがちになった。私にとって「村便り」は農的生活の意識化と反省であると共に、ときにそれを鼓舞するもの。気の滅入るときには自己エールになる。

サツマイモの芽の出方
(クリックで画像の拡大)
サツマイモの芽の出方。
 記事の内容とは関係ないが、温床で育苗中のサツマイモについて。
 サツマイモは3月29日に温床に伏せた。その時の記事につけた画像を見ていただければ分かるが、イモは横にして、半分露出する程度に土を被せる。露出させるのは芽が出やすくするためである。
 芽が出る部分だけを露出させて残りは土の中に埋めてもいい。すなわち、芋を縦か斜めにして伏せるのである。どうも父はそのように伏せたようであり、また他家の温床でそのように伏せられているのを見せてもらったことがある。ただその場合、上下を誤ると芽がでない。芽が出る部分が下になって地中に埋まるからである。だから、芽の出る部分を確認しておく必要がある。見分け方は簡単である。蔓につながっていた方の端から芽が出る。(他の部分から全く出ない、というわけではない。)ただ芋によっては、見分けがつかないことがある。だから、横に伏せた方が確実に芽を出させることができるのである。
 画像をみていただきたい。一本を除いて、同じ方向から芽が出て葉が育っている。今年は、芽の出方を確かめるために、8本の種芋を上下を同じ方向にして伏せた。ただ一本だけ発根状態を撮影したときに、逆にして戻してしまったようである。
 今日も相変わらず、田んぼで畦際の作業。畦を切ったり、横手を浚ったりしながら、田植えに向けての準備。それで一日が過ぎた。

 夕方、屋敷に戻ると、小屋の中のテーブルに従姉の書き置きがあり、隣のおばあさんの通夜と葬儀の日時が記してあった。今夜が通夜、明日午後が葬儀である。通夜は無理だが葬儀には参列したい。明日の朝には、井手堰きがある。忙しい一日になりそうである。
村便り:2008-04-13(日) (温床育苗のナス科野菜、スイートコーンとヤーコン)
投稿日:2008-04-17(木)

定植スイートコーン
植え付けヤーコン

 夕方から雨になるという予報。しかし朝、村に向かう車のフロントガラスにすでにわずかな雨粒が確認された。温床の苗の世話、スイートコーンの定植、ヤーコンの植え付けだけは今日中に済ませたい。

ナスの発芽状況
(クリックで画像の拡大)
ナスの発芽状況。
発芽しているのはナス。それぞれのポットには二粒種を蒔いた。二粒とも発芽したポットから、ひとつも発芽していないポットに移植した。ポット表面の籾殻が半分ほどなくなっているのが、移植したり移植されたりしたポット。
スイートコーンの定植
(クリックで画像の拡大)
スイートコーンの定植。自然畝。
 種はポットに二粒蒔き、二粒とも発芽したものは、そのまま定植し、一ヶ所に二株とする。一株から一本しか収穫できないので、二株にすると収穫数が多くなる。
切り分けたヤーコンの種芋
(クリックで画像の拡大)
切り分けたヤーコンの種芋。
 初めての栽培なので要領が分からない。すくなくともひとつの芽は確保できるように切り分けた。
ヤーコンの植え付け
(クリックで画像の拡大)
ヤーコンの植え付け。自然畝。
 株間70cmで、二条の千鳥植えにした。植え付けたところには、保湿と防霜のために切り藁を撒いてある。
 千鳥植えは、私の場合、狭い場所により多くの株を植え付けるときのやり方。二条の場合で説明すると、70cm間隔で一条を植え付ける。もう一条は、隣の条の株とおなじ水準に植え付けるのではなく、株と株の中間に位置するように植える。すると、同じ条の隣の株とも、隣の条の株とも、70cmの間隔が保てる。
ナス科野菜の発芽順序
 3月15日にナス科の野菜の育苗を踏み込み温床で始めた。ナス、トマト、ピーマン、甘トウガラシ類である。これらのうちで一番発芽が早いのがトマトである。育苗開始から一週間ほどで発芽を始める。ついで、ナス。発芽開始まで二週間ほどである。それより遅れるのがピーマンと甘トウガラシ類である。甘トウガラシ類の発芽が一番遅いように思う。
発芽の遅いナス科野菜への対応策
 温床の発酵熱は二週間を過ぎると下がる。土よりはまし、という程度だろうか。それでも、踏み込んだ藁が地面からの冷気を遮断するうえに、昼間はビニールトンネルをかけて保温し、夕方まだ日が高いうちにトンネルを密閉して温度を保持し、日没時にトンネルの上からむしろなどかけて温度の低下をできるだけ防ぐようにするので、露地よりは発芽のための条件はかなりいい。しかしピーマンと甘トウガラシ類は三週間をすぎなければ発芽の兆候がみえない。この頃(四月初旬)になると外気温も上がってくる。その上昇が、温床内の温度の低下分を補っているように思える。今年は例年より温床育苗を二週間ほど遅らせたが、ピーマンと甘トウガラシ類の発芽は早まったようには思えなかった。露地育苗よりは早いにしても、外気温が上昇しなければ発芽しない、というのでは何のための温床か分からない。さらに、播種したときから発芽までがあまりに長くなると発芽率が低くなるように思える。だから、来年はやり方を変えてみようかと思う。第一温床では3月半ばに育苗開始、それから二週間遅れで第二温床で開始する。ナス科は第一温床で育苗を始める。ここまでは今年と同じである。ただ、第二温床の準備ができると、まだ発芽していない(だろう)ピーマンと甘トウガラシ類は、温度が下がってきた第一温床から温度が高い第二温床に移す。こうすると発芽が早まり、発芽率も高くなるのではないかと予想している。

 今日の実際の作業は、すでに発芽しているポットで芽(双葉の状態)がふたつ出ているものから、発芽していないポットにひとつを移植することである。小さなシャベルの先端を使って双葉をひとつ掻きだし、移植した。


 スイートコーンは温床で育苗していたが、それを自然畝に定植した。以前、やはり温床で育苗したスイートコーンをこの時期に定植して霜にやられたことがある。四月中は降霜の可能性がある。そこで、霜除けのためにネットを被せておいた。

 ヤーコンはインターネットの友人にいただいたもの。初めての栽培である。これも自然畝に植えた。
村便り:2008-04-12(土) (見上げると灰ヶ峰は満開の山桜)
投稿日:2008-04-14(月)

 今日の村便りも、この前の二回の村便り同様、田んぼの畦際で鍬を使う作業。6時間ほど作業して二枚の田んぼを終える。

ゲシの石
(クリックで画像の拡大)
先週末、作業したとき、ゲシ[傾斜地で、上の田んぼと下の田んぼとを区切る法面]の石が飛び出ているが見つかった。ゲシは石が積んであるところがよくある。このゲシはそうである。トラクターでゲシの際を走ったとき、ロータリーが引っかけて、ゲシから引き出したものと思われる。去年もこのあたりでロータリーが石の上を走ったのを感じた。今日の作業はこの石をゲシに戻すことから始めた。
修復したゲシ
(クリックで画像の拡大)
石を戻すには、まずゲシにスコップやシャベルで石の形に合わせて横穴を掘る。作業を始めると、ゲシからはずれかかってた石は二つあった。中腰になっての作業なので、想像するより《やねこい》。しばし奮闘してふたつの石をゲシに戻した。
灰ヶ峰の山腹を駆け上がる山桜
(クリックで画像の拡大)
灰ヶ峰の山腹を駆け上がる山桜。
 左手の、建造物(無人の測候所)が見えるところが灰ヶ峰の山頂。
 野良仕事をしていると農道を人や車が通りすぎる。農道近くで作業をしているときは、手を休め、顔をあげて挨拶をする。通りすぎる人は、どこの誰かは特定できない場合にも、村の人かどうかは識別できる。歩いて通りすぎる人はまず村の人である。

 電動椅子に乗った老婦人が通りかかった。村の人である。挨拶を交わした。いく時か過ぎて、同じ婦人がさっき向かった方向から戻ってきた。また顔を合わせた。その婦人は「やねこいでしょうが、よう頑張ってじゃね」と同じ作業を続けている私に言葉をかけた。「やねこい」という方言は私自身はほとんど使うことはないが、理解できる。きつい作業などを形容して言う。たとえば、そのとき私がやっていた、田んぼの粘ついて重い土を鍬で起こす作業。また,人の性格を指すこともある。気難しい、頑固な、扱いにくい性格のことである。二つの意味をひっくるめると、自分の意のままにならぬ事柄、思い通りにしようと思うと多大な労力、精神力を必要とする事柄を形容するのに使う、と言えようか。

 地面に向かいながら単調で「やねこい」作業をやっているうちにも、春はどんどん進んでいく。見上げると、灰ヶ峰の北斜面を、先週のコブシに代わって、山桜が駆け上っていた。
村便り:2008-04-06(日) (横手とムナクト)
投稿日:2008-04-09(水)

 今日も一日中、昨日と同様、田んぼで畦際の土をかく作業。

横手・排水
(クリックで画像の拡大)
横手の際の土を掘る。
 畦際を掘る作業の画像を使って、田んぼの構造について説明することにする。
 横手は、排水や送水のために、田んぼ内部の周辺に作られる水路である。傾斜地の田んぼのウワコウダはしばしばダブ[湿田]けている。そのため、排水路として横手をつけることがある。
 画像の田んぼには、上の田んぼとの間に鍬の幅程度の水路がある。水は手前から向こうに流れ、田んぼの端で右に折れて井手に通じている。この横手は上の、他家の田んぼ(画像には見えていない)から流れてくる水を入れる口に通じている。水が不要な場合は口を閉じて、この横手を通して井手に排水する。だから排水路として機能している。
横手・送水
(クリックで画像の拡大)
 この横手でも、水は手前から向こうに流れ田んぼの端で右に折れている。こちら側は井手に通じ、井手から水をひく役割をしている。この田んぼより下の田んぼ三枚に水をひく。うち二枚は、井手からの取水口がない。
横手・送排水
(クリックで画像の拡大)
 左側のわが家の田んぼと、右側の他家の田んぼとの間に横手が通っている。前の画像での横手の向こう側の端が、この画像での横手の向こう側の端になる。したがって、水は向こう側からこちら側に向かって流れる。この横手は前の画像の横手の続きであるから送水路である。同時に、右の田んぼの排水路の役割も担っている。その排水はわが家の田んぼに入れることもある。最初の画像の横手同様、所有者が違う二つの田んぼを結びつけている。水は上から下に流れつつ、すべてを結びつける。
ムナクト
(クリックで画像の拡大)
 ムナクト。
 畦のこちら側、プラスチック製の手箕の位置に下の田んぼに向かって開いている口がムナクト。上の田んぼの排水口であると同時に、上の田んぼから下の田んぼに水を落とす(入れる)役割も果たす。ムナクトは水田にするときには、細工をして塞ぐ。
  今年は六枚の田んぼで稲を作る予定であるが、それだけの数の田んぼで広さは二反五畝にしかならない。言い換えれば、耕地整理をして一枚を広い区画にした田んぼに比べて、畦の長さが増えるので、畦際の作業量も増える。ところが、畦の面積が増えるだけ、同じ耕地面積でも本田面積が減る。そんなことを考えれば、圃場整備をしていない昔ながらの区画は効率が悪い。

 3月の終わりの日曜日に、の一日親睦旅行があった。昼食時、田んぼが隣り合わせのお兄さんが話しかけてきた。周りに広がる耕作放棄田を憂えながら「わしゃ、なんぼか余所を見にいったんじゃがの。田んぼを広ろうして、やる気のある若いもんにやらせんにゃ、わからん[駄目]で。まあ、それにゃ、金がいるがの。」と言った。その人が付け加えて言うには、「今ごろの若あもんは、スポーツカーを運転するようにトラクターでやれんにゃ、百姓はせん。泥なんかがついたんじゃ、やらん。」つまり、圃場整備をし、気力と体力のある者を中心とした集落営農をしなければ、村の農業は衰退するだけだ、ということである。

 そうなのかもしれない。私としても村の農業をこのまま衰退させたくはない。しかし圃場整備にかけた金がはたして回収できるのだろうか。また、圃場整備をして集落営農を企画したとしても本当に人が集まるのだろうか。後ろ向きの疑念が浮かぶばかりである。

 二足の草鞋を履いているかぎりは、私は大きくは動けない。わが家の農地を維持するのがせいぜいである。ともかく今は自分の立つこの地点をしっかりと守ること。そして順風の吹くのを待つしかない。

 昨日と今日で三枚の田んぼで作業を終えた。あと三枚の田んぼが残っている。
 てつがく村の
  ひろば(BBS)
最新20コメント
Powered by
Serene Bach 2.19R