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村便り:2013-08-03(土)/04(日) (田の草取り。コナギ)
投稿日:2013-08-07(水)

 今夏、二度目の田の草取り。昔は1シーズンに三回、田の草取りをしたそうだが、除草剤が普及した今では、せいぜい拾い草[ぽつりぽつりと生えている草を取ること]を1回するくらいである。しかし、有機農家でもないのに(有機農家は除草剤を使用しない)、田を這っている百姓もいる。それが私なのである。

コナギ
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コナギ。
根もとあたりで枝分かれし、茎は土を這いながら、葉っぱだけを水の上にのぞかせる。太い茎からは根が生じる。数株が生えている、と思って抜こうとすると、1株であることがよくある。茎は折れやすい。
 
 3年前に、コナギが大発生した田んぼがあった。それまではコナギを意識したことがなかったが、その大発生をきっかけに知ったのは、コナギは水田の、優勢化する[他の雑草を駆逐して田んぼを独占する]強雑草[多大な被害を与える害草]であり、また、除草剤使用以前には、よく見られた雑草であることだった。

 百姓を始めてしばらくはヒエに悩まされた。水管理(ヒエは湛水状態では発芽しない)、除草剤の適期使用(ヒエは3葉期になると除草剤は効かない)、および除草を心がけた結果、いまではヒエの発生はほぼ抑えている。しかし、コナギはそうした対策では抑えきれない。とりわけヒエ抑草には有効である湛水状態が、コナギにとっては好適な発芽条件なのである。このことを知ったのも、あの大発生以降である。一般に発芽には、酸素が必要であるが、コナギは日光が射し込む無酸素状態で発芽する。すなわち、代掻き後、田植え間もない水田の状態、水が湛えられ、また稲が小さいため陰がない、という状態がコナギにとってはこのうえない発芽環境なのである。また、コナギは、経験からすると、双葉(2葉期?)の状態になると、水没していても除草剤が効きにくい。(除草剤は水に溶けて、水没している雑草の地上部分に作用する。)ヒエの成長を基準に除草剤を施しても、コナギにはすでに手遅れになっていることがある。


出穂
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出穂。
ただし、隣の田んぼでのこと。品種はキヌヒカリ。早稲。稲刈りは9月中になる。夏のような暑さのなかでの稲刈りになるが、昨今は機械化されているので、作業は思ったほどはきつくない。でも、稲刈りはやはり涼しくなった秋だろう、というのが私の感覚。
 
 私の、このような無知をさいわいに、いつのまにかコナギが田んぼにはびこっていた、というわけである。

 田んぼを這いながら、コナギ対策を考えた。

 ①代掻きは、荒代掻き[田んぼに入水して大まかに代掻きをすること。そのあと畔塗りをする。]と植え代掻き[田植え前の丁寧な代掻き]を二度するが、二度の代掻きの間隔を2週間ほどあける。すると、最初の代掻きのあとで雑草が、したがってコナギも発芽する。発芽した雑草を二回目の代掻きで除去する。雑草の種のすべてが発芽するわけではあるまいが、それでも、種の一部を処理することができる。(最初の代掻き時に除草剤をまく人もいる。この除草剤で発芽してきたコナギは死滅するだろうが、私としては、除草剤は田植え後1回に限りたい。)

 ②二回目の代掻き後、3日ほどで田植えをする。ものの本によれば、コナギの発芽開始までには1週間ほどかかるそうである。したがって、植え継ぎをすぐに済ませて、田植え後、1週間までに除草剤をまく。すると、除草剤はコナギに効果的に効く。



夏水仙
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夏水仙。
畑の隅の、木陰に咲く夏水仙。水仙の色が白っぽくなってしまった。木陰の涼しさも表現しようと思ったが、カメラの操作が悪く、色ないし明るさは木陰に重点がおかれてしまったようである。
 7月半ばに腰を痛めた。担桶[たご]で水を運んだとき、運び方が悪かったため、担桶を前後にぶら下げる棒を担ぐ右肩側の腰(つまり右の腰であるが)を痛めた。それが今でも完治しない。草取りをはじめる前は、悪化しないか、と不安だった。悪化するようであれば、草取りは中断しようと思っていた。ところが、草取りで痛みが軽減したのである! 中腰で前かがみの姿勢が痛めた関節のずれ(?)を調整してくれたのだろうか。不安とは逆の効果があらわれ、草取りの疲労感が少し軽くなった。
「庭を耕さなければならない」
投稿日:2013-08-02(金)

カンディードのように…
 フランス人の友人から来た手紙に、
"Tu continues à entretenir ton jardin comme Candide de Voltaire."
と書いてあった。「相変わらず、ヴォルテールのカンディードのように、畑の世話をしているんだね。」とでも訳せよう。

 ヴォルテールはフランス啓蒙思想家(1694-1778)であり、『カンディード』は彼の書いた哲学的コント["conte" 短い物語]の名前である、という知識はあったが、その小話は読んだことはなかった。友人は、私がパリで哲学を勉強していたときに知り合ったのだから、私が農耕するてつがく者、ないしてつがくする農夫であることはよく知っている。しかし、友人はいったいどういう意味で『カンディード』の言葉を引いたのだろうか? そもそも友人は『カンディード』を読んだことがあるのだろうか? 私は思案した。そこで、ともかく『カンディード』(植田祐次訳、岩波文庫。以下の引用は、この訳から。)を読んでみることにした。

 友人の言葉に対応する文章は話の最後に、以下のような表現で、二度出てくる。
「ぼくたちの庭を耕さなければなりません」
 すこし脱線するが、「庭を耕す」といういう表現に違和感を抱いた方がいらっしゃるかもしれない。私も、その表現からの連想ですぐに、食料難の時代に仕方なく庭を耕して芋を植える、といったイメージが浮かぶ。日本語の「庭」は農作物を栽培する場所は指さないからである。ところが、フランス語の「庭 "jardin"」は、庭木や花が植わっていたり、野菜などが栽培されていたりする、壁などで囲まれている場所を指す。つまり家庭農園でもある。だから「庭を耕す」のは当たり前のことである。なお、冒頭に引用した友人の文章の中にも "jardin" という言葉があるが、私は「畑」と訳した。
 閑話休題。

『カンディード』あらすじ
 話の最後に出てくる文章であるからには、話の結論めいた内容をもつともいえる。そこでごく簡単にあらすじを紹介する。

 カンディード[カンディード "candide" はフランス語で「純真な、うぶな」という意味の形容詞]はコントの主人公の名前。ドイツの貴族の館に傍系の子どもとして生まれ、館の主の娘(名前はキュネゴンド)に恋をする。二人の恋の現場を見とがめられ、館を追い出される。それから、ヨーロッパと南アメリカ大陸を舞台とした波瀾万丈の旅が始まる。戦争、殺戮、凌辱、暴行、略奪の世界を経めぐったのちに、主人公はコンスタンチノープルで、恋し続けた娘に再会する。彼女も波瀾万丈の人生を生きてきて、かつての美貌にも年月の経過が深く刻まれていた。カンディード一行は、その地でトルコ人の農民家族に会い、彼らに歓待される。彼らの幸せそうで豊かな食卓を見たカンディードは、家族の長である老農夫に「あなたはきっと広大ですばらしい土地をお持ちなのでしょうね」と尋ねる。すると、彼が答えて言うには、わずかな「土地を子どもたちと耕しております。労働は私たちから三つの大きな不幸、つまり退屈と不品行と貧乏を遠ざけてくれますからね。」

 悪が存在しているにしてもこの世は全体として最善の状態にある、というライプニッツ由来の説を信じていた主人公がこの世で実際に体験したのは、悪の連続だった。そして悪をもたらしていたのは、貴族たちのように、「労働」しない人たち。トルコ人農夫の言葉を聞いてカンディードは悟る。「ぼくたちもまた、ぼくたちの庭を耕さなければならない。」そう彼が言うと、彼と一緒に旅してきた神学者は「理屈をこねずに働こう。人生を耐えられるものにする手立ては、これしかありません」と同調する。しかし、カンディードに最善説を吹き込んできた哲学者が「ありとあらゆる世界の中の最善の世界では、出来事はすべてつながっているのだ。」と性懲りもなく屁理屈をこね始めると、カンディードは哲学者の言葉を「お説ごもっともです」と振り払い、「しかし、ぼくたちの庭を耕さなければなりません」と答える。この言葉でコントが終わる。

屁理屈をこねず、額に汗せよ
 仏語辞典(フランスの代表的国語辞典のひとつである "Le Petit Robert")の "jardin" の項を引いてみた。するとヴォルテールの、上記の言葉が成句として挙げられており、

"l'homme doit mener une vie calme et laborieuse sans perdre son temps à des spéculations."(人間は、思弁で時間を浪費することなく、骨身を惜しまず働いて平穏な生活を送らなければならない。)

と、その意味が説明されている。だから、友人は、思弁に時間を費やしながらも(浪費しながらも?)、他方では耕している私からカンディードを連想したのかもしれない。

 ヴォルテール自身、宮廷社会に愛想をつかし、晴耕雨読の生活を夢見て、土地を手に入れたことがあるそうである。しかし、彼はその生活を実践することはなかった。また、宮廷社会に生きてきたので、農民の生活に通じていたわけではない。だから、カンディードの言葉に農的生活に対する洞察を期待するのは、深読みにすぎるかもしれない。しかし、私は、カンディードの言葉について、もう少しさらに「思弁」してみた。

自給自足
 トルコ人家族の生活は、コントでは、悪のはびこる「労働」しない人たちの世界に対置されている。彼らの生活は、農耕を基盤とした自給自足の生活である。外の生活との交渉はほとんどない、自己完結した世界である。農夫はコンスタンチノープル(それが彼にとっての外の生活であるが)のことは何も知らない。そこには、ただ農作物を売りにいくだけである。余剰作物を売り、自給自足できないものを手に入れるためであろう。

能力に応じて:百姓
 自給自足であるからには一人一人は、耕すだけでなく、もてる能力を存分に発揮しなければならない。つまり農民でありながら百姓[ひゃくせい]でなければならない。コンスタンチノープルで再会したカンディードに関わりある人たちは「庭を耕す」という「賞賛すべき計画」に加わった。様々な来歴を経てきた「小さな共同体の仲間は、それぞれが自分の才能を発揮しはじめた。ささやかな土地は、多くの収穫をもたらした。確かに、キュネゴンドはひどく醜かったが、しかし菓子作りの名人になった。パケットは刺繡をし、老婆は下着類の手入れをした。ジロフレー修道士にいたるまで、役に立たない者はいなかった。彼は腕っこきの指物師だったばかりでなく、礼儀をわきまえた人物になった。」誰もが「能力に応じて」(マルクス)働き、誰一人、暇をもてあまして「退屈」している者もいなければ、耕す共同体から疎外される者もいない。したがって「不品行」に走る者もいない。

必要に応じて:知足して不踰矩
 自給の目的は、まずは、各人の命である。自足に必要なだけの供給ができれば、各人は命を養う「必要に応じて」(マルクス)とることができる。贅沢はできないにしても「貧乏」は遠ざけることができる。いや生活の必要を過度に超えるような贅沢が可能になるとすれば、そのとき欲望の炎が燃え上がり、今度は、富が目的になってしまう。そして、もてあました暇から「不品行」が生まれる。カンディードがドイツの館から追放され、コンスタンチノープルにいたるまで経験したのが、このような「不品行」のはびこる世界であった。したがって、「必要に応じて」とるにしても、「足るを知る」(老子)ことが必要なのである。あるいは、「庭を耕す」生活をしていると「心の欲する所に従って、矩[のり]を踰[こ]えず」(孔子)の心持ちが養われるのかもしれない。

楽土の原型としての「耕す」
 カンディードは、ドイツ貴族の館を追放され、南アメリカ大陸でエルドラードという黄金郷に迷い込む。最後に、コンスタンチノープルの「庭」にたどり着く。いわば楽土を三カ所経験する。貴族の館は人間的な楽土、ただし悪の園にたまさかに咲いた徒花である。エルドラードは贅沢の極致、贅沢が月並みになった楽土であり、「庭」はその対極にある、つましい楽土である。そしてエルドラードと「庭」はともに語源的な意味でのユートピア、すなわち《非在の-地 u-topia》である。エルドラードは欲望が目指しながら、それがかりに実現されれば欲望が消滅する地であり、「庭」は欲望がまだつつましい炎で燃えているだけの地である。同じユートピアでありながらも、しかし、「庭」は欲望の炎が燃えている限りにおいて、人間的ではあろう。その意味で「庭をたがやさなければならない」というカンディードの言葉は、人間的楽土の理念型、ないし原型を象徴しているともいえよう。

 ここで屁理屈 "spéculations" は終わり。たしかにこれだけの屁理屈をこねるだけでも、時間をだいぶ無駄にしました "perdre mon temps"。

2013-08-02(金)
ゲーム・セット! (ある高校硬式野球部の夏)
投稿日:2012-07-16(月)

 ひとつの夏が終わった。無数の夏のなかの小さなひとつだが、それを生きた者たちにとっては大きく重い。当事者たちにとっても、彼らを見守ってきた者たちにとっても。広島城北高校野球部の、高校3年まで野球をつづけてきた子どもたちが戦った全国高校野球選手権(いわゆる夏の甲子園)地方大会の1回戦が、その終わりである。

スコアボード
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2012年7月15日、しまなみ球場の第1試合。
 
試合
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城北高校、3回裏の攻撃。
 瀬戸内海に近いしまなみ球場で、試合があった。7月15日(日)、10時プレイボール、相手校の先攻で試合は始まった。開会式が雨のため途中から屋根のあるスタンドでつづけられた一昨日、1回戦全試合が雨のため中止になった昨日がうそのように、空は晴れ強い日差しが照りつけていた。わが校(すなわち、私の子どもが通っている広島城北高等学校、以下同じ)の主戦投手は1、2番の打者は討ち取ったものの、3番打者に四球、つづく4番打者に二塁打を打たれて、1点の先行を許した。その裏、わが校も4番打者の二塁打で同点にした。それからはつねに相手校が先行しつつも、わが校の方も加点し追撃していった。6対5で迎えた9回裏、反撃の期待むなしく三者凡退におわり、ゲーム・セット。

┃尾北┃111120000┃6┃
┃城北┃100200110┃5┃

 わが校は中高一貫の男子校。中学校は軟式野球部、高等学校は硬式野球部がある。同学年で32名いた軟式野球部員のうち、高校に進学しても野球をつづけた者は13名。新たに5名が加わり、同じ学年の部員は18名となった。昨夏の地方大会も1回戦で敗退し、そのときから新チームが始まった。日曜日や休日は練習試合。生徒の保護者たちは役員を中心にしてサポートと応援について回った。最年長学年の部員を子どもにもつ私も時間の許すかぎり応援にいった。

 子どもも保護者も念願だったのは、夏権(「夏の全国高校野球選手権」の略称)での1勝。新監督になって今年で3年目だが公式戦では一勝もできていない。監督は、以前は中学校の監督をやっていたので、今年の3年生(私の子どももその一人)は、中高一貫で指導してきたことになる。監督にとっては、おそらく特別な意味をもつ子どもたち。その子どもたちが今年の夏権での主役であった。(ベンチ入り20名のうち、18名が3年生で、試合にでる可能性のある者はその18名。)

チームメートたち(1)
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城北高校グラウンドのバックネットを背景に、3年生全員。
 グラウンドは狭く、試合は変則ルールでおこなわれる。たとえば、ライト側ネットにあたれば2塁打、ネットを越えればホームラン、といった具合に。他の目的にも使うので、グランド状態はよくない。そのためイレギュラーゴロが多い。
 
チームメートたち(2)
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上の写真を《裏返し》にしたもの。ベンチ入り20名のうち、1番から18番までは3年生がつけた。
 昨秋に結成されたチームは秋から今春にかけては負けることが多かった。しかし、初夏になったころから勝ち数が圧倒的に多くなった。強豪校にも勝ったりした(ただし相手はBチームだが)。夏権前の最後の練習試合は県外、四国に遠征して、強いチームと2戦して接戦ながら2勝した。

 夏権の地方予選での勝敗は、わが校野球部のような普通の強さのチームにとって、組合せのくじ運によるところが大きい。強いチームにあたれば、一回戦で敗退する。組合せによっては3回戦くらいまでは進むことができる。今年は3回戦までは進めるかもしれない、と期待をいだかせる組合せであった。1回戦、2回戦と勝ち進めば、3回戦は三次きんさいスタジアムでおそらくは、今春の県大会の覇者である強豪校と当たる。すくなくとも三次まではいきたい、というのが、子どもたちと保護者たちの思いであった。(もっとも、チームの目標は「甲子園で校歌を歌う!」であるが。)最近のチームの状態からすると、その期待は実現可能かと思われた。

 中高一貫のいわゆる進学校であるが、野球部の練習はきつい。一週間のうち、月曜をのぞく6日は練習、ないし練習試合がある(定期試験の前一週間については、練習は休み)。学校のある日は帰宅するのは夜8時くらい。疲れて帰り、食事をすると眠くなる。この学校に入学した第一の目的は、勉強をするためであり、野球をするためではない。(私の子どもは、入学したとき一番楽しみにしたのは、野球部に入ること、高校で硬式野球をすること、ではあったが。)だから、疲れていても勉強はしなければならない、という意識はあったが、机の前で眠ってしまうのはしょっちゅうであった。家のなかにはいつも洗濯した練習着などがさがっていた。

 そうした5年半の野球部活動の《集大成》が夏権での1回戦敗退… もう先はない。もう同じチームメートと戦うことはない。野球部を軸とした生活のすべてが、この瞬間にばっさりと途絶えた。

 保護者として、悔いのない戦いをした、と子どもたちを讃えたくはある。しかし、正直なところ、達成感よりは虚脱感が残った。せめて三次(3回戦)までは行きたかった、と別の保護者に言うと、うん、うちは12年[野球を]やってきたから、と返事が返ってきた。私たち保護者は、子どもたちを通じて、青春を再体験していたのかもしれない。子どもたちから若い力をもらっていたのかもしれない。子どもたちがチームメートに恵まれたように、保護者たちもお互いに結びついていた。しかし、その《青春》が終わった。しかもこのようなかたちで。それが虚脱感につながったのかもしれない。

 試合後、子どもたちはチャーターバスで学校に帰り、保護者たちも車で彼らを追いかけた。学校に帰ると、子どもたちは、これまで一生懸命ボールを追いかけたグラウンドのバックネットの前に立ち、校歌を歌った。これまでも練習が終わるといつも校歌を歌ってきた。いつか公式戦で勝ち、球場で歌うことを夢見ながら。その夢を果たすことなく、これが彼らにとって最後の校歌斉唱。

おれたちの明るい未来のために
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試合後、学校に帰ってきてから、18人の3年生たちはキャプテン(きんちゃん、背番号は控えの10なので、今日は出番はなかった。でも、この1年間あかるい性格でチームをまとめてきた。)の「おれたちの未来のために!」という掛け声で、一斉に帽子を空に向かって投げた。試合に負けても、未来は空のように限りなく広がっている。その未来に向かって GO!
 青春は過ぎ行くもの。18人の3年生にとって、その一時期は夏権一勝を目標とした夏で終わった。重くて大きい目標であり、また結果であった。終わった青春は振り返るためにあるのではない。ふたたび進むためのもの。彼らには、大人のように虚脱感をかかえている暇はない。若いエネルギーがあふれてもいる。ゲーム・セットは、つぎのゲームの開始宣言。重くて大きかった夏は、それだけの前進の糧になる。野球部活動からえた力をもとに、野球部活動から解放されて、子どもたちは、こんどは冬の大学受験に向けて、《練習》をし、《練習試合》をこなす。

 だから、いまでも、フレー、フレー、じょうほく! フレー、フレー、城北野球部! フレー、フレー、18人のチームメイトたち!
村便り:2012-06-08(金) (初夏の田んぼ仕事は一段落)
投稿日:2012-06-08(金)

(画像は、後から追加するかもしれません。)

 田んぼの仕事が一段落ついた。田植えを5月26日(土)と5月28日(月)に二回に分けてやり、除草剤(あっさりとありていに「くさがらし」とも言う)を6月5日(火)と6月7日(木)の夕方に、これも二回に分けて散布した。田植えが済めば一段落ではないか、と言われそうだが、田植え後、1週間ないし10日くらいに行う除草剤散布が終わって、稲が育つ環境が基本的に整うので、ここで一段落する。

 田んぼの草は繁茂すれば、稲の生育に影響する。一昨年、コナギが気味悪いくらいに繁茂した田んぼがあった。稲は生育不良におちいった。茎葉の色は抜けて黄緑になり、草丈も伸びなかった。百姓を始めてしばらくはヒエに悩まされたが、近年、ヒエはなんとか抑えることができるようになった。そこに新手の草が現われた、というわけだ。(むろんコナギは以前から生えていたが、繁茂することはなかった。)その田んぼは去年は休耕にして畑に転換したが、今年はまた水田に戻した。田植え後7日、水のなかを覗くとはたして、コナギが田んぼ中に芽を出していた。あわてて次の日に除草剤をまいた。除草剤を散布すると田んぼの水は深水状態にする。発芽した草を水没させて水に溶けた除草剤を効かせるためである。除草剤がうまく効果を発揮してくれれば、あとは稲刈りまでほとんど田んぼのなかに入る必要ない。(除草剤のなかった昔は、夏に三度ほど田んぼを《這った》そうである。)

 今年は例年より一週間ほど田植えを早めた。例年は6月に入って最初の週末に田植えをする。しかし、今年はその週末にどうしても学会出席のため出張しなければならなくなった。その学会の春季大会は毎年、田植えと重なる。だから、春に出席することはあまりない。では、田植えの時期を一週間前とか後とかにずせばいいではないか、と言われそうだが、ずらすのは実際はなかなか難しい。早めようとすれば、とりわけ授業との関係で、時間的かつ肉体的にハードなスケジュールになる。後にすると、田植えの準備(とりわけ代掻き)がうまく進まない。しかも、稲刈りと脱穀の時期がそれだけ遅くなり、初冬の気象状況との関係で作業に支障がでる。しかし、今年はやむなく田植えを一週間ほど早めた。スケジュールをこなすため、有給休暇を時々とらざるをえなかった。さいわい、金曜日と月曜日は授業や会議がない。だから、金曜日から月曜日まで連続して四日間農作業をやったこともある。田植えの後は植え継ぎ(田植機が植えなかった部分を手で植える作業)、その植え継ぎの途中で学会出張となった。三日間の出張はまるで骨休みのようなものだった。(むろん出張中、やるべき仕事はきちんとしました ← 笑)。

 田んぼに時間と体をとられている間に、畑は《壊れ》てしまう。一段落ついて、畑に帰ってみると《畑、春にして草木深し》状態。何も植えてない畝には草が高々と茂り、野菜をまいたところでは、野菜が草に埋もれてしまっている。《通いの一人兼業農家》の身では致し方ないこととはいえ、また、毎年おなじことの繰り返しとはいえ、現実を目の当たりにするたびに愕然とし暗然となる。だから、田植えの終わりは、希望と絶望が交錯するとき。秋の実りへの希望と、夏野菜への絶望とが、プラスマイナス・ゼロにならないで、心のなかで両者がせめぎ合い、むしろマイナスが優勢になる。

 絶望を希望に転ずるために、さあ畑に帰りますぞ!
村便り:2012-03-30(金) (歩みの遅い春にニンジンを蒔く)
投稿日:2012-03-31(土)

播種ニンジン

 今年は春の歩みが遅い。

エンドウの支柱
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エンドウの支柱。3月25日。
 支柱の手前では、「村便り:2012-03-19(月) (踏み込み温床)」で掲載した梅の蕾が、咲き始めている。支柱の右向うには、踏み込み温床が見える。
 3月25日(日)に実エンドウのウロ(支柱)を立てた。エンドウの隣では梅がようやく開花を始めていたが、その花びらを吹き飛ばすかのように強風が小雪まじりに吹き荒れた。


レタスとエンダイブの発芽
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レタスとエンダイブの発芽。(画像はあとから追加)
温床での発芽状況
 踏み込み温床のなかのナス科の育苗箱では、ほとんど発芽が見られない。二日ほど前に、トマトがひとつだけ発芽していただけ。トマトはナス科(第一温床で育苗を始めた野菜はすべてナス科)の中でも寒さに比較的強い。しかし、他のプラグトレイは発芽の気配さえない。3月21日に種蒔きをしたから、すでに一週間をすぎている。順調なら、この時期には他のナス科も発芽を始めている。

 アブラナ科のカリフラワーは順調に発芽している。しかし、キャベツの方はまだ発芽していない。キャベツの方が低温に弱いか、あるいは、種が古くなっているのか、原因ははっきりしない。

 ベランダ育苗のレタスとエンダイブはすでに発芽。


ニンジンの播種
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ニンジンの播種。(画像は後から追加)
露地での初種蒔き
 今日は夕方、ニンジンの種蒔きをした。露地での種蒔きの第一号である。ダイコンも蒔こうと思ったが、まだ気温が十分に上がっていないので、延期した。春に蒔くダイコンは薹立ちが早いが、低温時に蒔くとさらに早くなる。
 てつがく村の
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