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村便り

村便り:2012-06-08(金) (初夏の田んぼ仕事は一段落)
投稿日:2012-06-08(金)
(画像は、後から追加するかもしれません。) 田んぼの仕事が一段落ついた。田植えを5月26日(土)と5月28日(月)に二回に分けてやり、除草...

(画像は、後から追加するかもしれません。)

 田んぼの仕事が一段落ついた。田植えを5月26日(土)と5月28日(月)に二回に分けてやり、除草剤(あっさりとありていに「くさがらし」とも言う)を6月5日(火)と6月7日(木)の夕方に、これも二回に分けて散布した。田植えが済めば一段落ではないか、と言われそうだが、田植え後、1週間ないし10日くらいに行う除草剤散布が終わって、稲が育つ環境が基本的に整うので、ここで一段落する。

 田んぼの草は繁茂すれば、稲の生育に影響する。一昨年、コナギが気味悪いくらいに繁茂した田んぼがあった。稲は生育不良におちいった。茎葉の色は抜けて黄緑になり、草丈も伸びなかった。百姓を始めてしばらくはヒエに悩まされたが、近年、ヒエはなんとか抑えることができるようになった。そこに新手の草が現われた、というわけだ。(むろんコナギは以前から生えていたが、繁茂することはなかった。)その田んぼは去年は休耕にして畑に転換したが、今年はまた水田に戻した。田植え後7日、水のなかを覗くとはたして、コナギが田んぼ中に芽を出していた。あわてて次の日に除草剤をまいた。除草剤を散布すると田んぼの水は深水状態にする。発芽した草を水没させて水に溶けた除草剤を効かせるためである。除草剤がうまく効果を発揮してくれれば、あとは稲刈りまでほとんど田んぼのなかに入る必要ない。(除草剤のなかった昔は、夏に三度ほど田んぼを《這った》そうである。)

 今年は例年より一週間ほど田植えを早めた。例年は6月に入って最初の週末に田植えをする。しかし、今年はその週末にどうしても学会出席のため出張しなければならなくなった。その学会の春季大会は毎年、田植えと重なる。だから、春に出席することはあまりない。では、田植えの時期を一週間前とか後とかにずせばいいではないか、と言われそうだが、ずらすのは実際はなかなか難しい。早めようとすれば、とりわけ授業との関係で、時間的かつ肉体的にハードなスケジュールになる。後にすると、田植えの準備(とりわけ代掻き)がうまく進まない。しかも、稲刈りと脱穀の時期がそれだけ遅くなり、初冬の気象状況との関係で作業に支障がでる。しかし、今年はやむなく田植えを一週間ほど早めた。スケジュールをこなすため、有給休暇を時々とらざるをえなかった。さいわい、金曜日と月曜日は授業や会議がない。だから、金曜日から月曜日まで連続して四日間農作業をやったこともある。田植えの後は植え継ぎ(田植機が植えなかった部分を手で植える作業)、その植え継ぎの途中で学会出張となった。三日間の出張はまるで骨休みのようなものだった。(むろん出張中、やるべき仕事はきちんとしました ← 笑)。

 田んぼに時間と体をとられている間に、畑は《壊れ》てしまう。一段落ついて、畑に帰ってみると《畑、春にして草木深し》状態。何も植えてない畝には草が高々と茂り、野菜をまいたところでは、野菜が草に埋もれてしまっている。《通いの一人兼業農家》の身では致し方ないこととはいえ、また、毎年おなじことの繰り返しとはいえ、現実を目の当たりにするたびに愕然とし暗然となる。だから、田植えの終わりは、希望と絶望が交錯するとき。秋の実りへの希望と、夏野菜への絶望とが、プラスマイナス・ゼロにならないで、心のなかで両者がせめぎ合い、むしろマイナスが優勢になる。

 絶望を希望に転ずるために、さあ畑に帰りますぞ!
コメント
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てつ人 ( 2012/06/13 08:51 AM )
 
生きることは自己実現。人生を経験して年老いてくると、自己実現という言葉を使うなら、《業の自己実現》という思いが深くなります。「自己」とは業のことではなく(そうであれば、業は変えられない宿命になってしまいます)、わたし自身のことです。業を自分なりに展開していくのが人生かな、と。でも、凡人なので業の消尽はとうてい望めず、業の作り直ししかできない、というのが実感です。作り直しの方向が少しでも消尽に向いていれば、ラッキー! ということでしょうか。

割に合わない百姓。たしかにそうです。一人っ子ではないのに割を食って割に合わない百姓になってしまいました(言葉遊びしてしまいました)。今の時代、誰も百姓をやりたがりません。なんで自分が? というのが、人生、業の自己展開なり、の思いの一部をなしているかもしれません。

たとえ業であるにしても、それを展開してやらなければなりません。それが生きることですから。業の大本は食料生産であるとすれば、いっそうのこと、しっかりと展開してやらなけばなりません。

自分で自分の食い物を探す/作る、という原則を、現代では、個人のレヴェルでも国のレヴェルでもないがしろにしているように思います。…まあ、愚痴を言っても始まらないので、まずは耕します。
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藤田 典 ( 2012/06/11 09:23 PM )
 
哲学の本質は、如何に生きるかという大変「具体的」な思考に基づく、自己実現なのではないか、と妄想しています。

母方の親類縁者のほとんどが百姓なので、田んぼや畑を「維持」することの困難さを主に経済的な面から観察してきたように思います。
一言で表すなら、百姓は「割に合わない」という思いだったのですが、自分が年を取り老い先が短くなって「終点」が見えるようになると、自分で自分たちの食うものが作れることの大切さを痛感するようになりました。
食糧自給率がどうのこうのと謂う、難しい話ではなく、自分で自分たちが生き延びるために「食うモノ」を作ることこそ、今の時代に強く求められているのではないか!そんな風に考える昨今であります。
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てつ人 ( 2012/06/11 07:25 PM )
 
「雑記帳」の文章は、事実の叙述と、事実に触発される心の表現、他方、僕の授業で要求するレポートは、哲学的テーマについての、抽象的な推論。ですから、全然「見本」にはなりません(などとマジメに答えてしまいました )。

「しんどい」のは二足の草鞋ということもあるかもしれません。「現役」を引退した人はわりとのんびりやっています(僕から見れば)。「歳をとって、なんにもすることがなくて困っとる人もおるが、百姓はええで。田んぼの世話をしょうりゃ、一日がすぎる。」まあこんな具合です。

もうそう遠くはない引退後の生活を想像してみることがあります。百姓にかぎって話をすれば、作りたいもの=食べたいもの(野菜、加工品)がいろいろあり、そんなものを作っていたら、やはり結構「しんどい」かな、と思ったりします。

まあ、どうなるか分かりませんね。実際にそうなってみれば、いま想像しているとは別の状況が実情だったりするかもしれませんから。
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藤田 典 ( 2012/06/09 11:43 AM )
 
奮闘ぶりが目に見えるような文章です。
学生さんたちのレポートも、このように書きなさい、という見本になさっては如何でしょう?

百姓の「しんどさ」は伯父や従兄弟の暮らしぶりを見て、少しは分かったつもりでいましたが、本当は、もっともっと辛い作業の積み重ねがあったのでしょうね。
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