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村便り:2007-11-30(金) (ソラマメとタマネギの定植)
投稿日:2007-12-06(木)

 週末は学会出張で農作業ができない。しかし、ソラマメとタマネギが定植を待っている。

 ソラマメは、アパートの南向きのベランダで育苗しているので生育が速い。早く定植して定植ショックと村の寒気で生育を抑えないと、厳冬の時期に寒害、とりわけ霜害に遭ってしまう。寒害に遭ったとしても枯れてしまうわけではないが、春の生育に影響する。

 畑で育苗しているタマネギの方は生育が進みすぎるということはないにせよ、定植が遅すぎると活着するのに手間取り、これまた寒さにやられる可能性が高くなる。

 ふたつの苗が気になっていたところ、金曜日が丸一日空くことになった。業務で拘束されると思っていたが、実際は木曜日一日拘束されただけで、金曜日は自由になった。

ソラマメの定植
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自然畝に定植したソラマメ。
 ソラマメは枯れ草のなかに定植する。すると、枯れ草がマメを寒さから守ってくれる。霜害をシャットアウトしようとすれば、防虫用のネットをかぶせてやる。ネットのトンネルが雪でつぶれないよう、トンネルを支えるポールの数を増やしておく。今年は苗が生育しすぎたのでネットをかぶせてやるのがいいのだが、この日はその時間がなかった。おそらくはこのまま冬を過ごさせることになるのではないかと思う。
 計画したのは、普通タマネギ、赤タマネギ、ソラマメ(一寸ソラマメと赤ソラマメ)の定植。優先順位を考えて、ソラマメ、普通タマネギ、赤タマネギの順に定植することにした。最初から、赤タマネギの定植は無理だろう、と予測していた。赤タマネギの場合、定植する畝がまだできていなかったからである。草を大雑把に除き、施肥して耕耘し、畝立てするとすれば、日の短くなったこの時期では、赤タマネギだけで一日仕事になるからである。

 まずは自然畝に定植するソラマメからとりかかった。赤ソラマメを定植する予定の畝は今シーズンはトマトを栽培したところ。30株ほどあるトマトを片づけてから定植した。定植した株数は46。ついで、別の自然畝に一寸ソラマメを定植。50株。手慣れた作業ではあったが、途中で、畝に穴をあけるシャベルの柄があたる手のひらの皮膚が破れた。全部で100近くの穴を、何年も耕耘していない畝にあけるのだから、普段は強い力のかからない皮膚ゆえ破れても不思議はない。

 ソラマメの定植が終わった時点の日の傾き具合から、つぎに普通タマネギを定植すると日が落ちることが予想できた。急いで苗を掘りあげ、70株定植。一週間前に定植した分と一緒にすれば、合計450株ほど定植したことになる(蒔いた種は8ml)。今年の苗は順調に育ったので、これだけの株数あれば、来年の6月には十分な量のタマネギが収穫できるはずである。定植するには小さい苗は苗床に密植で残した。来年2月に定植予定。
村便り:2007-11-24(土) (タマネギ定植)
投稿日:2007-11-25(日)

 朝なかなか寝床から起き上がれない。昨夜、学生+元学生たちと飲み、街の中心部から歩いて帰宅したのは朝2時。就寝時間のせいではなく、飲んだ酒を消化しきれないために、身体が起きたがらない。うとうとした頭のなかでタマネギの定植のことが時折《発火》して身体を鞭打つ。意を決して起き上がったのは10時だった。

蕎麦を干す
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 タマネギを定植しているあいだ、先日脱穀して箕でゴミを飛ばした蕎麦を筵で干した。脱穀した時の状況から干すまでもないとも思ったが、仕上げのつもりで天日にあてた。(まだゴミを飛ばしていない蕎麦が約同量ある。)
 筵の向こうの端に置いてある農具は、穀類を筵に広げるために使う。先端の板の下辺が、歯が一本おきに抜けたような凸凹になっている。広げた蕎麦についている筋は、その凸凹でできたもの。農具の名前は分からない。
タマネギ定植
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 タマネギの定植。定植の仕方の詳しい説明は、去年の定植の記事「村便り:2006-11-25(タマネギの定植)」につけた画像の説明にあります。
タマネギ苗
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 タマネギ苗は本葉3枚のものを使う。3枚目は小さくてもいい。2枚の苗は苗床に密集して植え、翌年2月に株間は狭めて定植する。すると小タマネギが収穫できる。2枚のものも定植は可能だが、単独で寒気にさらされるため、冬のあいだに消えてしまうことがある。逆に、4枚の苗は収穫前に薹が立つ。もっとも、4枚の苗は少ない。今回は数本しかなかった。
 9月22日に種蒔きしたタマネギ(黄と赤)が定植適期になっていた。種袋には55日間育苗して定植する、と書いてある。だから、大雑把に、種蒔き後2カ月と考えて、私は11月終わりまでに定植することにしている。

 極早生タマネギは草の中に埋もれて、ひょろ長く、ひ弱な苗にしか育たなかったが、赤タマネギと中晩生の黄タマネギは、これらもまた草のなかだが、その草丈が低かったのがさいわいして、しっかりした苗に育った。

 昼食までに、畝に発酵鶏糞を散布して耕耘機で混ぜ合わせ、再度畝立てした。昼食後は、苗を掘りあげて定植。黄タマネギを四分の三ほど掘りあげたところで、定植開始。時計を確認すると16時だった。18時に散髪の予約がしてあるので急がなくてはならない。掘りあげた分の定植が終わったのが17時半。370株を定植した。予約がなくてもすでに日は沈んでいたので、残りの黄タマネギと、赤タマネギは来週に回さざるをえなかった。急いで着替えをし、行きつけの散髪屋さんに着いたのは18時ちょうどだった。
村便り:2007-11-18(日) (目新しいことばかりで一日のすぎるのが早い)
投稿日:2007-11-20(火)

 今日の作業のメインは蕎麦の脱穀。そのあとは残り時間を考えてやるべき作業を選ぶことにした。大学院生のU嬢に、蕎麦の脱穀とジャガイモの掘りあげをやるので「研修」に来ないか、と誘った。約束の時間を15分遅れて到着。中学中国駅伝と農業高校の学園祭とで、途中の道が渋滞していた、とのこと。ちなみに、中学中国駅伝は私にとっては思い出の大会。今は内陸部で開催されているが、私の中学生時代は瀬戸内海沿いに走る国道で行われた。交通量の少ない時代だから可能だったルート選定である。

 彼女が到着すると早速、軽トラックで、蕎麦を島立てで干している休耕田に向かった。彼女は荷台に乗りたがる。泥臭いオヤジの私と並んで助手席に座るのがいやなのだろう(笑)。

蕎麦を叩く
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蕎麦をまとりで叩いて脱穀する。
蕎麦の脱穀
 まず、昨日残った大豆を叩いてから、蕎麦の脱穀に取りかかった。ビニールシートの上で蕎麦をまとり[木の枝で作ったY字状の農具]で叩き、脱穀する。ついで、実に混じったゴミを箕で吹き飛ばす。今日は西高東低の気圧配置のため、北風が強く吹く。吹きっさらしの田んぼは寒いが、箕を使うには絶好の気象条件。「研修」なのでU嬢には脱穀と箕の作業を二つとも経験してもらった。「研修生」の不慣れな手でも、加われば作業がはかどる。去年は脱穀まではやったものの、蕎麦を食べるところまではいかなかった。しかし、作業の進捗具合からすると、今年は食べられそうである。

 昼頃にやってきた家族と昼食を済ませたあと、蕎麦の作業はまだ残っていたが、今度はジャガイモ掘りをすることにした。

秋ジャガ
 久しぶりに秋ジャガを作った。長い間、春ジャガ(春に植えつけて夏に収穫するもの)を翌年の春先まで食べていた。今秋作ったのは、普賢丸という名前の、比較的新しい品種で暖地向き春秋兼用の早生。去年の秋に種芋を購入して植えつけたが、芽出しに失敗して収穫できたわずかなジャガイモはすべて種芋に回さざるをえなかった。したがって、今春が事実上、最初の栽培となった。春作の結果は上々。食べてみると粉質で甘みがあった。秋作は、収量としては春作ほどではない、との情報を得ていた。掘りあげてみると、実際、大きな芋はあるものの、数は少なかった。来秋は作付けをもう少し増やそうと思う。

 ジャガイモ掘りもむろんU嬢に体験してもらったが、三株ほど掘ると「もういいです」とあっさりと鍬を私に返した。鍬で土を返す作業は彼女にとって「重労働」のようである。

ともかく極早生タマネギの定植
 ジャガイモを掘ると16時をすぎていた。彼女の今夜の予定を考えると、残り時間は1時間弱。思い切って、時期は遅くなったが極早生タマネギを植えることにした。夕方になり冷え込みはじめたなかを、草の中に埋もれた苗のうち定植できそうなもの50株ほどを選び出し、用意してあった畝に定植した。定植が気になりながらもを諦めかけていたが、わずかでも定植できたので、胸のつかえが下りた気分になった。

 「ここに来ると、目新しいことばかりで一日のすぎるのが早いです」と仕事を終えたU嬢。私としては、「農業研修」に誘っておきながら、単調で身体を使う汚れ仕事なので、心の中では、若い女性にこんなことをやらせて申し訳ない、という気持ちがある。だから、その言葉を聞いて、少しは安堵した。…と書きながら、また誘おうか、と手のない一人農家は懲りずに策略を巡らすのでした。
村便り:2007-11-17(土) (ナルと稲架杭の収納。大豆の収穫。)
投稿日:2007-11-19(月)

 ナルは先週の日曜日に田んぼから運んで帰った七本が庭に転がしてあった。ナルは納屋の軒下に簡単な枠組みを作って、稲架杭と一緒に納めておく家が多い。しかし、わが家には、屋敷には納屋はない。というか、そもそも母屋が建っていない。雨露をしのぎ、地面からの湿気を防がないと、竿は傷みが早い。実際、一昨年の初冬に切った竿(孟宗竹)は保存の状態がよくなかったので、急速に傷み出した。そこで今夏、近所の大工さんに頼んで、屋敷の隅に簡単な枠組みを作ってもらい、そこに納めることにした。

 ナルを納めたあとは、田んぼに置いたままにしてある稲架杭の撤収に向かった。十本ずつ藁縄で縛り、軽トラックで持ち帰った。稲架杭は小屋の隅に簡単な枠組みが作ってあり、そこに納める。

大豆を干す
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稲架に掛けた大豆。手前が黒豆。向こうが鞍かけ豆。
 なお、大豆は藁紐で縛るが、縛り方については 村便り:2006-11-18(黒豆を抜き、ソバを叩く) の画像とその説明を参照。
莢がはじけた青大豆
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莢がはじけた青大豆。大豆の収穫と稲の収穫とをうまく組み合わせて、こんな状態にならないようにしなければ…来年の課題とします。
大豆を叩く
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大豆を莢から出すには、まず木槌で莢を叩いてあらかた豆を出してから、まとり[木槌の左にある、木の枝を細工してつくった農具]で残っているものを叩き出す。篩で大きなゴミを除き、箕で小さなゴミを吹き飛ばす。大豆は、さらに選る[選別する]ので、ゴミはおおまかに除くだけでいい。
 田んぼに行くと、休耕田にまだ植わったままになっている大豆がいつも気になる。今年、大豆は三種類植えた。黒豆、鞍かけ豆、青大豆である。そのうち鞍かけ豆と青大豆はすでに葉は枯れて落ち、青大豆に至っては莢が相当数はじけて豆が落ちてしまっている。稲刈りと脱穀の間にはじけ出したようである。その様子に気づいた頃は、はやく収穫をしなくては、と気は焦ったが、作業の優先順位がある。そのうち、青大豆は来年の種が採れればいいか、と思うようになった。二足草鞋の一人農家はこのあたりの諦めが肝心である。作付けは(できるだけ)計画通りやる。しかし、収穫は最低限でもよしとする。さもないと、ストレスで心がはじけ散ってしまう。

 今日の成り行きは、大豆に向かい、いよいよ収穫してやることにした。

 黒豆と鞍かけ豆は抜いて干す。脱穀の際、豆が植わっている休耕田の隣の田んぼに、豆干し用に、稲架をひとつ崩さずに残しておいた。そこに二種類の豆を掛けた。青大豆の方は、その場で莢を叩き、豆を出してしまうことにした。ビニールシートを敷き、その上で木槌を使って叩く。大部分を叩いた頃、山の向こうに日が沈んだ。今は夕方5時前が日没である。昼間暖かくても、それからは急激に冷え込む。だから、叩けなかったものが少し残ったが、作業はそこで終了し、あとは明日一番の仕事に回すことにした。
村便り:2007-11-11(日) (脱穀終了)
投稿日:2007-11-12(月)

 今日は大学院生のU嬢が「農業研修」に来る。今日中に脱穀を終了しようとすると、一反ほどをやらなくてはならない。一人ではむろん無理な作業量だが、二人だとなんとかなるかもしれない。

 彼女との約束は10時。その前に従姉のところに行き、午後からの加勢を頼んだ。もち米の藁を10束ずつ縛ってもらうためである。その藁は、これから一年の使い藁として小屋に保存しておく。

 約束の少し前にU嬢が到着した。彼女は農業とは無縁の都会育ちゆえ、脱穀は初めての経験。脱穀機は昨日の作業終了後も田んぼにおいたままなので、すぐに作業にとりかかった。彼女には稲架から稲を下ろして脱穀機の棚に置く仕事を分担してもらった。私はその稲を脱穀機に送り込む。私より年長で農作業の経験のある従姉と違い、U嬢は私よりかなり年少でずぶの素人だけに、私の指示をそのまま受け入れてくれて、作業のリズムは作りやすかった。それに、機械は、昨日と違い、「機嫌」がいい。昨日は、従姉と私の老老ペア、今日は、U嬢と私の若老ペア。組み合わせを感じ取る心を機械はもっているのか?!おかげで作業は順調に進んだ。

箕を使う
 脱穀機のゴミ溜めや隅に溜まった米は、箕でゴミを吹き飛ばして、袋に入れる。私の作業を見ていたU嬢は道具の名前を訊いた。箕、と答えると、以前から頭にあった疑問が解けたようだった。神社でアルバイトをしていたとき、熊手と箕がセットになったミニチュアの縁起物を見た。しかし、箕の用途が分からなかった。でも、私の作業を見てやっと理解できた、ということのようであった。私は手本を示してから、彼女にもやってもらった。使い方の基本はすぐに分かったようであった。「あとは慣れるだけ」と私は言って、それからは彼女に箕の作業を預けた。

 小さい頃から、母親や近所のおばさん、おばあさんが器用に箕を使いながら穀類や豆類のゴミを除くのを感心して見ていた。箕を使うには少し風のある日がいい。箕を上下に動かすと、穀類や豆類は一つの波になって箕の中で跳ね、軽いゴミは風に吹き飛ばされる。吹き飛ばされないゴミは表面や周辺に集まる。それを手で取り除く。そんな経験から、箕は、腕力はないが細かい作業が得意な女性が使うものだ、という漠然とした観念があった。百姓にはおとこ仕事、おんな仕事の大まかな区別がある、と思う(こんなことを書くとふたつのセイの平等が強調される昨今は、どこからか突っ込まれのかもしれないが)。箕での作業はおんな仕事である。しかし、そんな区別は「家族」百姓であってできることであり、「一人」百姓の私には区別はない。必要に迫られて、私は記憶に残っているイメージを頼りに箕を使い始めた。今は、昔ほどには、箕を使う姿は見ない。だから、見よう見真似、ならぬ、思い出しよう思い出し真似、で使い方を習得した。

 午後から手伝いに来た従姉は、U嬢が箕を使うのを見て「おっ、やるじゃない」と声を掛けた。従姉は箕は使えない。むしろ、使う必要がない。

 午後、雨がぱらついた。もち米がまだ残っていたが、脱穀を続行するのを私はためらった。すると従姉が「しんさいや!ちいたあ、濡れちょってもええじゃない」ときっぱりと言った。もし今日できなければ、今度は一週間先の週末。従姉の声に後押しされて、もち米まで済ませた。

 脱穀が完了すると、おやつを食べはじめていたU嬢と従姉を急かせて、屋敷に帰った。U嬢が帰らなければならない時間があり、彼女のために畑で野菜を採るとすると、のんびりはしていられなかったからである。「能力に応じて働き、必要に応じてとる。」これが私の百姓原則。一緒に畑を回って野菜をとり、また従姉も野菜を出してくれた。それを段ボール箱に詰めて、日没からしばらく経った頃、U嬢は帰途についた。

 私はそれから田んぼに戻り、稲架を解体し、ナルだけは屋敷まで持ち帰った。今日脱穀した分の稲架には七本のナルが使ってあったので、暗い中を、七往復、一時間あまりかかって、運び終えた。最後には小雨が降りだし寒かったが、それ以上に、U嬢と従姉の加勢を得て脱穀を完了した、嬉しさの混じった解放感が大きかった。《コレデマタ一年命ヲ繋グコトガデキル。》
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