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村便り:2016-09-30(金) (畑の農繁期なのに、雨が降り続く。)
投稿日:2016-09-30(金)

9月に入ってから雨の日が多い。8月が晴天続きで、干ばつとは言えないまでも、極端に乾燥していたのと対照的だ。通常、8月は晴れが続き、9月になると雨が降るようになる。9月になると、畑は農繁期になるので、雨は降ってもらわなければ困る。でも、今年は降りすぎ。


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庭で育苗中の菜っ葉類。
 育苗箱の真ん中の列、向こう側が、結球レタス。右側の列、手前がリーフレタス。レタスは、都合100株。
 まだ発芽して間もない菜っ葉類は、ビタミン菜、かつお菜、小松菜、水菜、ロケット(ルッコラ)。来年春に薹をたべるノラボウ菜。また、パセリ。(これらは画像では識別できない。)
 以上はプラグトレイで育苗中。

 育苗箱の右側の列、向こう側のポットで葉が茂っている苗は、春に種蒔きしたアスパラガス。10月には定植する予定。
今日晴れても明日は雨、という天候では、土が過湿状態になり、耕耘ができない。すると、種蒔きもできないし、定植もできない。それでも、雨の合間をみはからって、大根やホウレンソウの種蒔き、白菜の定植、ブロッコリーやカリフラワー、芽キャベツや(普通の)キャベツの定植を済ませた。ジャガイモは植えつけた。タマネギの育苗も始めた。

いま定植を待っているのはレタス。でも、これから数日も雨が続くようだ。その間に、大きくなりすぎなければいいが。

★ 2016-09-20(火) ★ 母の死
投稿日:2016-09-20(火)

八月後半、まだ盛夏の暑さが続いていた或る日、夜半に喉の渇きで目が覚めた。渇きをいやすため、階下に下り、冷蔵庫から牛乳を取り出してガラスのコップに注いだ。コップから冷たい牛乳を口に含んだ時、ふと幼いころの出来事が蘇った。記憶には深く刻まれているが、長いあいだ思い出すことのなかった出来事である。

私は五歳、やはり八月のことだった。ベンチで目覚めたばかりの私は喉の渇きを覚えた。その私を見て、母は近くの売店から牛乳を買ってきてくれた。ガラス壜入りの牛乳は、氷で冷やされた水に浸けられていた。私は壜を口に近づけた。母は寝ぼけ眼の私を支えるように抱き、壜に手を添えていたかもしれない。冷たくておいしい牛乳だった。

母と私は二人で上野駅にいた。東北のX市に向かうために汽車を待っていた。二人は、一年ほど住んだ父の実家を出て、東京まで長旅をしてきた。広島から東京までどのくらい時間がかかったか分からない。東京に着くまでに汽車の中で眠ったことを覚えているから、夜行列車も利用したのだろうか。汽車のなかで目覚めて私は「夜の間、汽車も寝たん?」と母に尋ねると「そう。車庫に入って寝たんよ。」と私の幼い質問に合わせるように答えた。

旅に出る前、もう父の実家には戻らない、と教えられた。東北旅行から帰ると、別の新しい家で暮らすことになる、ということだった。新居には、旅の前に、父に連れられて行ったことがある。「この家に住むことになる」と家を示された後、向いの隣家で、よろしくお願いします、と挨拶をさせられた。親子だけで暮らすことは、幼い私にとって喜びであった。父の実家に住んでいたあいだずっと、それを望んでいたからであり、その願望を言動で表してもいたからである。

母と私は、X市に嫁いでいた母の妹の家に逗留した。父はあとから私たちに合流した。父は私たちがいなくなってから一人で新居への引越し作業をしたそうである。父の実家に同居していた他の家族たちは、私たちが出発した当初は、母がほぼろをふって(*)妹の家に逃げだした、と認識していたようである。だから、引越し始まると、残る家族と、出る父と間に混乱があったようである。母と私は、その混乱を避けるためにも、N市に送り出されたのだと思う。
ほぼろをふる:夫婦関係を解消して、出て行くこと。「ほぼろをうる」とも言うらしい。

なぜ上野駅で飲んだ冷たい牛乳のことを思い出したのだろうか。暑い夏に目覚めて喉の渇きを覚え、冷たい牛乳を飲む、という状況が一致していたからだろうか。たしかにそれも一因ではあろう。

母は、あの記憶の思いがけない喚起の三週間前に、この世を去っていた。母は最晩年、高齢者向けの施設に入っていたが、事情があり、私は一度も会いには行かなかった。母の臨終にも立ち会わなかった。早朝にかかってきた電話で、その朝、母が死んだことを知った。ごく限られた親族のみで、その日に通夜を、翌日、葬儀をおこない、荼毘に付した。そうした一連の儀式は、私の気持ちのうえでは淡々と進んだ。葬儀の時に、私は母の、しかしもう亡骸となった母の、顔を、最後に見た。その際も、私の心は、全体としては、動かされることはなかった。

しかし、やはり心はどこかで動かされていたのかもしれない。それが下地となって、夜半の牛乳が幼いころの記憶を呼び起こしたのだろう。そしてしかも、私はその出来事をただ思い出しただけではなく、遠い昔、母と私の間に、長い間忘れてしまってはいたが、親密な関係があったことに注意が向いたのである。私の家族の歴史の、出発点とも言える事件のなかに、その関係があったことに。

私は、母と自分の関係が周りの状況に触発されて少しずつ変化して行ったことを軸に、家族の歴史を思い起こした。その終端が母の葬儀であり、その発端の一エピソードが冷たい牛乳である。過ぎ去った経過の事実を変えることはできないが、その意味を考え直すことはできる。それは、自分の生きてきたことの意味を考えことにもつながる。

昨日、四十九日の法要を寺で行った。父が抜け、母が抜けた家族で。家族と言ったが、解体してしまった家族であろう。父母を中心とする家族は母の死によって最終的に解きほどかれたのだから。

近々、納骨をおこなう。
村便り:2016-08-03(月) (セミの鳴き声)
投稿日:2016-08-03(水)

先日、明け方に目が覚めると外からザワザワとでも表現すべき音が聞こえてきた。気になり、ベランダ(物干し台)に出てみた。音は明瞭になり、ヒグラシの鳴き声だと分かった。少し離れた山から聞こえてくるのだろうか。

ヒグラシが明け方に鳴くのははじめて知った。大学に進学するまでは山間の村に住んでいたのだから、知っていても不思議はないが、明け方のヒグラシは記憶にない。調べてみると、たしかに、明け方、また夕方に、鳴く、とあった。夕方はうなずける。中学校からの帰り道、山が急斜面から覆い被さってきそうなところを歩いていると、降るように聞こえてきた。しかし、私は一度もその姿を見たことがない。だから、蝉ではなく、木々に住む、無数の不思議な生き物の鳴き声のように感じていた。

いま住んでいるところでは、日が昇り、温度が上がりだすと、クマゼミが鳴きだす。クマゼミは、私の村にはいなかった。夏休み、海岸に近い市街地に行くと、うるさいほど鳴いていた。そのせいで、クマゼミの鳴き声をきくと、とたんに暑苦しく感じてしまう。

小さいころ捕まえて遊んだ蝉は、アブラゼミ、ニイニイゼミ、ツクツクボウシだった。里にいたセミはこのくらいだったのではないだろうか。アブラゼミが捕獲の一番の対象。ツクツクポウシは8月半ばから盛んに鳴きだすので、盆と夏休みの終わりとに結びつくためか、なんとなくもの悲しくも聞こえた。

蝉の元気な鳴き声と対照的に、いま私は少々夏ばて気味。ブログは、この短文を「鳴く」元気くらいしかありません。
村便り:2016-07-29(金) エルブ・ドゥ・プロヴァンス
投稿日:2016-07-29(金)

一昨々日[さきおととい]の夜、ラタトゥーユ ratatouille を作った。成りすぎるズッキーニをどう料理しようか、と考えた挙げ句、出てきたレシピである。考えた挙げ句だから、もしかして、とご推察されるかもしれないが、その通り、じっさい一度も作ったことはない。さらに、これがラタトゥーユだと了解して、何かの料理を食べた記憶もない。


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ラタトゥーユ。
インターネットでレシピを検索してみると、或るサイトのレシピで挙げられている材料の夏野菜は、一つを除いて、すべて自給できた。タマネギ、ナス、ズッキーニ、セロリ、トマト、ジャンボピーマン(赤、黄)、オクラ、ニンニク。(セロリだけはない。また、ナスは、畑にはあるが、冷蔵庫に入っていなかったので、使わなかった。そして、カラーピーマンは色づいているのがなかったので、未熟な緑のものを使った。)ニンニクもある意味で、夏野菜といえるだろう。収穫は6月であり、すると今がいわば旬だからである。列挙して気がついたが、ニンニクとセロリを除き、他はすべて果菜類。たしかに夏野菜は、果菜類が多い。

味付けは至って簡単。塩と胡椒だけである。それに、トマトの酸味が加わり、食欲を刺激する。その意味で、トマトは調味料ともいえる。

調理も至って簡単。切った野菜をオリーブオイルで炒めて、トマト、塩を加えて、鍋に蓋をして、煮込むだけ。煮汁は野菜自体から出る。

フランス料理だけあって、さらに香草が加わる。ローリエ laurier とエルブ・ドゥ・プロヴァンス herbes de Provence。ローリエは畑の隅に生えている月桂樹からちぎってきた(月桂樹からちぎりとるのは当たりまえか 笑)。しかし、エルブ・ドゥ・プロヴァンスは、畑には生えていない。買いおきもない。


エルブ・ドゥ・プロヴァンスに注意を向けていると、遠い昔の記憶が蘇ってきた。最初は、かたまりのようにぼんやりと、それから、ゆっくりと次第に、いくらか明瞭に。

フランスで学生をやっていた頃、私と同じ学生寮(パリ第10大学-ナンテール-のキャンパス内にあった)に住んでいた日本人女性(ピアノを専攻する音楽学校の生徒だった)がいて、彼女がエルブ・ドゥ・プロヴァンスを好んでいた。いろいろな料理にそれを使った。(ただ、彼女が作った料理の中でラタトゥーユは思い浮かんでこない。)魚とか肉とかを焼くとき、その香草ブレンドを振りかけていたのを、断片的に思い出す。彼女は帰国する際(私は、と言えば、彼女よりずっと遅れて、さらに数年滞仏して帰国することになる)、エルブ・ドゥ・プロヴァンスを買い込んで持ち帰ったようにも思う(ただし、これは私が創作した記憶かもしれない)。

そのハーブは幾種類かの香草をブレンドしたものであるので、私には、何かまがいものめいたようなものに思えた。市販のカレー粉が、料理に合わせてスパイスをブレンドする手間を省いた、お手軽で何でも屋的な調味料ではあるが、ありきたりの味しか作り出さないのを、そのまがいものめいた印象を比喩的に説明するのに、引き合いにだすことができるかもしれない。しかし、彼女にとっては、その香草ブレンドは、どんな料理の上でも、一振りすれば、自分好みの風味を生み出す魔術的な調味料だったのかもしれない。

インターネットで調べてみると、そのプロヴァンス風の香草ブレンドが、ブレンドされた形で市販されるようになったのは1970年代以降だそうである。とすれば、彼女がそれを発見したのは、まだ新しい商品だった頃と思われる。

ラタトゥーユを調理しながら、エルブ・ドゥ・プロヴァンスにまつわる記憶を出発点として、彼女を核とした混乱した記憶を脈絡なくたぐりよせていた。

今度ラタトゥーユを作るときは、エルブ・ドゥ・プロヴァンスを使ってみたい。嗅覚が何かを思い出させてくれるだろうか。

村便り:2016-07-10(日) (サツマイモの植えつけ)
投稿日:2016-07-11(月)

思い出したように村便り。ひとつは、なかなか時間がとれないため、もう一つは、モチベーションの低下のせい。基本的に、週の3日が百姓、3日(火、水、木)が勉強のペースができていて、そんなに暇ではない日々を過ごしているのだが、根本のところでモチベーションが高まらない。野良に出ているときは忙しく動いているし、勉強するときもけっこうのめり込んでいるのだが、それらを通底する勢いが弱まっている、というか。底がふたしかである、というか。ブログを更新するときには、モチベーションの低下がもろに影響する。《意義》が見いだせない。nihilisme?(笑)


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サツマイモの植えつけ。畝は鍬で起こして作った。
 畑の隅っこ。イモが太り始めると、キジとイノシシに狙われる。キジはイモをつつく。キジ対策としてはキュウリネットを被せる。イノシシは掘り返してきれいに食ってしまうが、すぐ横に張ってある電気柵で侵入を防ぐ。今年もうまく奴らを寄せつけないことができればいいが。
とまれ、今日はサツマイモの植えつけ。苗は畑の片隅で草に埋もれて育っていた。忘れかけていたのだが、去年と同様、ジャガイモを掘り上げた後に定植しよう、と心積りしていたのを、ジャガイモを掘り上げたあと放置していた畝を見て、思い出した。去年もこのごろ植えつけたはずと記録を確かめると、7月12日に植えつけている。収穫は遅くなったが(記録によれば、11月22日)、「豊作」だった。去年と同じ、12株を植えつけ。



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トマトはキジが狙う。色は識別できるようで、赤く熟れたものをつつく。
 キジ対策として、キュウリネットを張る。ネットが地面に垂れた状態(画像のネットはその状態)だと、キジはその上を踏んで近づき、トマトをつつくようである。そこで、画像で言うと、ネットを左側に引っぱってポールで止め、ネットと地面とを離す。すると、さすがに、ネットの穴に脚を入れて近づくことはしないようである。
いま夏野菜がつぎつぎと採れている。姪が週末にやってきて、ごっそりともって帰るのだが、それでもズッキーニ、トマト、キュウリは収穫が追いつかないほど成る。そのうち、ピーマンも鈴なりになるはず。ないとさびしいので、多めに植えつけてしまうから。また、苗はすべて自家製(温床育苗)なので、つまり、購入しないので、いきおい植える株数が多くなってしまうから。そこで、余剰収穫物は知人に配る。

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