てつがく村の入口 | てつ人の雑記帳


天地人籟

2016-09-20(火)  ★ 2016-09-20(火) ★ 母の死
八月後半、まだ盛夏の暑さが続いていた或る日、夜半に喉の渇きで目が覚めた。渇きをいやすため、階下に下り、冷蔵庫から牛乳を取り出してガ...

八月後半、まだ盛夏の暑さが続いていた或る日、夜半に喉の渇きで目が覚めた。渇きをいやすため、階下に下り、冷蔵庫から牛乳を取り出してガラスのコップに注いだ。コップから冷たい牛乳を口に含んだ時、ふと幼いころの出来事が蘇った。記憶には深く刻まれているが、長いあいだ思い出すことのなかった出来事である。

私は五歳、やはり八月のことだった。ベンチで目覚めたばかりの私は喉の渇きを覚えた。その私を見て、母は近くの売店から牛乳を買ってきてくれた。ガラス壜入りの牛乳は、氷で冷やされた水に浸けられていた。私は壜を口に近づけた。母は寝ぼけ眼の私を支えるように抱き、壜に手を添えていたかもしれない。冷たくておいしい牛乳だった。

母と私は二人で上野駅にいた。東北のX市に向かうために汽車を待っていた。二人は、一年ほど住んだ父の実家を出て、東京まで長旅をしてきた。広島から東京までどのくらい時間がかかったか分からない。東京に着くまでに汽車の中で眠ったことを覚えているから、夜行列車も利用したのだろうか。汽車のなかで目覚めて私は「夜の間、汽車も寝たん?」と母に尋ねると「そう。車庫に入って寝たんよ。」と私の幼い質問に合わせるように答えた。

旅に出る前、もう父の実家には戻らない、と教えられた。東北旅行から帰ると、別の新しい家で暮らすことになる、ということだった。新居には、旅の前に、父に連れられて行ったことがある。「この家に住むことになる」と家を示された後、向いの隣家で、よろしくお願いします、と挨拶をさせられた。親子だけで暮らすことは、幼い私にとって喜びであった。父の実家に住んでいたあいだずっと、それを望んでいたからであり、その願望を言動で表してもいたからである。

母と私は、X市に嫁いでいた母の妹の家に逗留した。父はあとから私たちに合流した。父は私たちがいなくなってから一人で新居への引越し作業をしたそうである。父の実家に同居していた他の家族たちは、私たちが出発した当初は、母がほぼろをふって(*)妹の家に逃げだした、と認識していたようである。だから、引越し始まると、残る家族と、出る父と間に混乱があったようである。母と私は、その混乱を避けるためにも、N市に送り出されたのだと思う。
ほぼろをふる:夫婦関係を解消して、出て行くこと。「ほぼろをうる」とも言うらしい。

なぜ上野駅で飲んだ冷たい牛乳のことを思い出したのだろうか。暑い夏に目覚めて喉の渇きを覚え、冷たい牛乳を飲む、という状況が一致していたからだろうか。たしかにそれも一因ではあろう。

母は、あの記憶の思いがけない喚起の三週間前に、この世を去っていた。母は最晩年、高齢者向けの施設に入っていたが、事情があり、私は一度も会いには行かなかった。母の臨終にも立ち会わなかった。早朝にかかってきた電話で、その朝、母が死んだことを知った。ごく限られた親族のみで、その日に通夜を、翌日、葬儀をおこない、荼毘に付した。そうした一連の儀式は、私の気持ちのうえでは淡々と進んだ。葬儀の時に、私は母の、しかしもう亡骸となった母の、顔を、最後に見た。その際も、私の心は、全体としては、動かされることはなかった。

しかし、やはり心はどこかで動かされていたのかもしれない。それが下地となって、夜半の牛乳が幼いころの記憶を呼び起こしたのだろう。そしてしかも、私はその出来事をただ思い出しただけではなく、遠い昔、母と私の間に、長い間忘れてしまってはいたが、親密な関係があったことに注意が向いたのである。私の家族の歴史の、出発点とも言える事件のなかに、その関係があったことに。

私は、母と自分の関係が周りの状況に触発されて少しずつ変化して行ったことを軸に、家族の歴史を思い起こした。その終端が母の葬儀であり、その発端の一エピソードが冷たい牛乳である。過ぎ去った経過の事実を変えることはできないが、その意味を考え直すことはできる。それは、自分の生きてきたことの意味を考えことにもつながる。

昨日、四十九日の法要を寺で行った。父が抜け、母が抜けた家族で。家族と言ったが、解体してしまった家族であろう。父母を中心とする家族は母の死によって最終的に解きほどかれたのだから。

近々、納骨をおこなう。
コメント
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てつ人 ( 2016/09/25 10:13 AM )
 
菜園さんのご両親は比較的若くしてなくなられたのですね。つまり、菜園さんもそのときは、比較的若かったということになりますね。親が死ぬ、ということを深刻には考えることのない年代だったのはないでしょうか。それゆえ、衝撃は強く深かった。よくわかります。

私の母は二十歳までに両親をなくしました。母は、自分の親が死んだ年代になったころ、親が死んだ歳に達したことを自覚して、そのことを口にしていました。記憶に残っていますから、何度も私(たち)に言ったのでしょう。その母は、94歳まで生きました。

母は頑強な質ではありませんでした。それどころか、調子が悪い、と言っては、すぐ横になっていた、という記憶があります。さらに70歳頃でしょうか、大病を煩いました。手術をしたのですが、その時、医者から、数年の命だろう、と言われました。(当人には、伝えませんでしたが。)

ところが、母はそれから四半世紀を生きたのです。「生き運」があった、と言うのでしょう。「生き運」とは「生きてやるべきことがある運」ということでしょう。やるべきことを当人は必ずしも自覚してはいません。「運」に動かされて生きているからです。運とは、仏教的に言えば、宿業でしょうか。母は、あの大病によっては死ねなかったのでしょう。そして、生き長らえることによって、やり残したことをやり終えたのでしょう。

母の生涯を考えると、業の深さを感じます。(さしあたり「業」という仏教用語を使いましたが、その意味は厳密に仏教的であるわけではありません。)
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てつ人 ( 2016/09/23 08:09 PM )
 
お気持ち、どうもありがとうございました。

じつは、この記事はもっと長かったのですが、つづめてこの形になりました。しかも、一日ほど公開して、それからは非公開にしました。いや、したつもりでしたが、今日確認して公開し続けていることがわかりました。ソフトのバグじゃないのかな、と思ってもいます。非公開の手順もわかったのですが、もういいか、と公開したままにしました。

このホームページで家族のことはほとんど触れたことがありません。その意味では、例外的な記事とも言えます。でも母の死がつらくて、それを少しでも軽くするために言葉にした、というわけではありません。母の死を知ったとき、じつは、カミュの『異邦人』の冒頭の一節を思い出していました。「今日、ママンが死んだ。昨日かもしれない。分からない。老人ホームから電報を受けとった云々」
(20年ほど前の父の死と、今回の母の死とは、僕の中での受け止め方が違っています。年齢のせいなのか、二人との関係の違いなのか。どちらとも言えるような気がします。たとえば、父の死は、それなりの重みがありました。重みとは、昔の言葉を使えばこれからは自分が《家長》をしなければならない、という責任です。)

夏の不調と母の死去とはまったく無関係です。夏の不調は間違いなく「太陽」のせいです。

母の死を記事にしたのは、「歴史」を総括したい、「歴史」にケリをつけたい、と思ったからです。でもブログ上で赤裸々に総括するのは、とてつもない蛮勇を必要とします。僕は明治時代の自然主義作家ではありませんから、そんなことはできません。告白としてではなく、思想として、総括するなら、ブログの記事にできるかもしれませんが、そんなことは経験したことがありません。それで、少し試してみた、いや、試すまえのプロローグを書いた、というのがこの記事です。ここで言う思想とは、告白と、哲学と、それらの中間に位置するような文章です。そのような思想ですから、どうしても告白的要素も混じってきそうです。

「歴史」の総括の続編を書くかどうかわかりません。書かない…でしょうね。

また「ひろば」で話をしましょう。

では。
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菜園 ( 2016/09/23 04:36 PM )
 
この夏の世話人様の不調のご事情今日拝見いたしました、御愁傷様です。
人生において必ず通る道ではありますが、心してはいても徐々に徐々に心に重く響くことだったでしょう。
私は両親が亡くなってもう25年程になります、父が亡くなり二年後に母と相次いで亡くなってしまったのでとてもショックでしたが、時間の経過と共に少しづつ少しづつ癒えてきた気がします。

私たちも遠からず迎えが来ることです、無理に頑張ることなく、ゆっくりいきましょう。
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