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「庭を耕さなければならない」
投稿日:2013-08-02(金)

カンディードのように…
 フランス人の友人から来た手紙に、
"Tu continues à entretenir ton jardin comme Candide de Voltaire."
と書いてあった。「相変わらず、ヴォルテールのカンディードのように、畑の世話をしているんだね。」とでも訳せよう。

 ヴォルテールはフランス啓蒙思想家(1694-1778)であり、『カンディード』は彼の書いた哲学的コント["conte" 短い物語]の名前である、という知識はあったが、その小話は読んだことはなかった。友人は、私がパリで哲学を勉強していたときに知り合ったのだから、私が農耕するてつがく者、ないしてつがくする農夫であることはよく知っている。しかし、友人はいったいどういう意味で『カンディード』の言葉を引いたのだろうか? そもそも友人は『カンディード』を読んだことがあるのだろうか? 私は思案した。そこで、ともかく『カンディード』(植田祐次訳、岩波文庫。以下の引用は、この訳から。)を読んでみることにした。

 友人の言葉に対応する文章は話の最後に、以下のような表現で、二度出てくる。
「ぼくたちの庭を耕さなければなりません」
 すこし脱線するが、「庭を耕す」といういう表現に違和感を抱いた方がいらっしゃるかもしれない。私も、その表現からの連想ですぐに、食料難の時代に仕方なく庭を耕して芋を植える、といったイメージが浮かぶ。日本語の「庭」は農作物を栽培する場所は指さないからである。ところが、フランス語の「庭 "jardin"」は、庭木や花が植わっていたり、野菜などが栽培されていたりする、壁などで囲まれている場所を指す。つまり家庭農園でもある。だから「庭を耕す」のは当たり前のことである。なお、冒頭に引用した友人の文章の中にも "jardin" という言葉があるが、私は「畑」と訳した。
 閑話休題。

『カンディード』あらすじ
 話の最後に出てくる文章であるからには、話の結論めいた内容をもつともいえる。そこでごく簡単にあらすじを紹介する。

 カンディード[カンディード "candide" はフランス語で「純真な、うぶな」という意味の形容詞]はコントの主人公の名前。ドイツの貴族の館に傍系の子どもとして生まれ、館の主の娘(名前はキュネゴンド)に恋をする。二人の恋の現場を見とがめられ、館を追い出される。それから、ヨーロッパと南アメリカ大陸を舞台とした波瀾万丈の旅が始まる。戦争、殺戮、凌辱、暴行、略奪の世界を経めぐったのちに、主人公はコンスタンチノープルで、恋し続けた娘に再会する。彼女も波瀾万丈の人生を生きてきて、かつての美貌にも年月の経過が深く刻まれていた。カンディード一行は、その地でトルコ人の農民家族に会い、彼らに歓待される。彼らの幸せそうで豊かな食卓を見たカンディードは、家族の長である老農夫に「あなたはきっと広大ですばらしい土地をお持ちなのでしょうね」と尋ねる。すると、彼が答えて言うには、わずかな「土地を子どもたちと耕しております。労働は私たちから三つの大きな不幸、つまり退屈と不品行と貧乏を遠ざけてくれますからね。」

 悪が存在しているにしてもこの世は全体として最善の状態にある、というライプニッツ由来の説を信じていた主人公がこの世で実際に体験したのは、悪の連続だった。そして悪をもたらしていたのは、貴族たちのように、「労働」しない人たち。トルコ人農夫の言葉を聞いてカンディードは悟る。「ぼくたちもまた、ぼくたちの庭を耕さなければならない。」そう彼が言うと、彼と一緒に旅してきた神学者は「理屈をこねずに働こう。人生を耐えられるものにする手立ては、これしかありません」と同調する。しかし、カンディードに最善説を吹き込んできた哲学者が「ありとあらゆる世界の中の最善の世界では、出来事はすべてつながっているのだ。」と性懲りもなく屁理屈をこね始めると、カンディードは哲学者の言葉を「お説ごもっともです」と振り払い、「しかし、ぼくたちの庭を耕さなければなりません」と答える。この言葉でコントが終わる。

屁理屈をこねず、額に汗せよ
 仏語辞典(フランスの代表的国語辞典のひとつである "Le Petit Robert")の "jardin" の項を引いてみた。するとヴォルテールの、上記の言葉が成句として挙げられており、

"l'homme doit mener une vie calme et laborieuse sans perdre son temps à des spéculations."(人間は、思弁で時間を浪費することなく、骨身を惜しまず働いて平穏な生活を送らなければならない。)

と、その意味が説明されている。だから、友人は、思弁に時間を費やしながらも(浪費しながらも?)、他方では耕している私からカンディードを連想したのかもしれない。

 ヴォルテール自身、宮廷社会に愛想をつかし、晴耕雨読の生活を夢見て、土地を手に入れたことがあるそうである。しかし、彼はその生活を実践することはなかった。また、宮廷社会に生きてきたので、農民の生活に通じていたわけではない。だから、カンディードの言葉に農的生活に対する洞察を期待するのは、深読みにすぎるかもしれない。しかし、私は、カンディードの言葉について、もう少しさらに「思弁」してみた。

自給自足
 トルコ人家族の生活は、コントでは、悪のはびこる「労働」しない人たちの世界に対置されている。彼らの生活は、農耕を基盤とした自給自足の生活である。外の生活との交渉はほとんどない、自己完結した世界である。農夫はコンスタンチノープル(それが彼にとっての外の生活であるが)のことは何も知らない。そこには、ただ農作物を売りにいくだけである。余剰作物を売り、自給自足できないものを手に入れるためであろう。

能力に応じて:百姓
 自給自足であるからには一人一人は、耕すだけでなく、もてる能力を存分に発揮しなければならない。つまり農民でありながら百姓[ひゃくせい]でなければならない。コンスタンチノープルで再会したカンディードに関わりある人たちは「庭を耕す」という「賞賛すべき計画」に加わった。様々な来歴を経てきた「小さな共同体の仲間は、それぞれが自分の才能を発揮しはじめた。ささやかな土地は、多くの収穫をもたらした。確かに、キュネゴンドはひどく醜かったが、しかし菓子作りの名人になった。パケットは刺繡をし、老婆は下着類の手入れをした。ジロフレー修道士にいたるまで、役に立たない者はいなかった。彼は腕っこきの指物師だったばかりでなく、礼儀をわきまえた人物になった。」誰もが「能力に応じて」(マルクス)働き、誰一人、暇をもてあまして「退屈」している者もいなければ、耕す共同体から疎外される者もいない。したがって「不品行」に走る者もいない。

必要に応じて:知足して不踰矩
 自給の目的は、まずは、各人の命である。自足に必要なだけの供給ができれば、各人は命を養う「必要に応じて」(マルクス)とることができる。贅沢はできないにしても「貧乏」は遠ざけることができる。いや生活の必要を過度に超えるような贅沢が可能になるとすれば、そのとき欲望の炎が燃え上がり、今度は、富が目的になってしまう。そして、もてあました暇から「不品行」が生まれる。カンディードがドイツの館から追放され、コンスタンチノープルにいたるまで経験したのが、このような「不品行」のはびこる世界であった。したがって、「必要に応じて」とるにしても、「足るを知る」(老子)ことが必要なのである。あるいは、「庭を耕す」生活をしていると「心の欲する所に従って、矩[のり]を踰[こ]えず」(孔子)の心持ちが養われるのかもしれない。

楽土の原型としての「耕す」
 カンディードは、ドイツ貴族の館を追放され、南アメリカ大陸でエルドラードという黄金郷に迷い込む。最後に、コンスタンチノープルの「庭」にたどり着く。いわば楽土を三カ所経験する。貴族の館は人間的な楽土、ただし悪の園にたまさかに咲いた徒花である。エルドラードは贅沢の極致、贅沢が月並みになった楽土であり、「庭」はその対極にある、つましい楽土である。そしてエルドラードと「庭」はともに語源的な意味でのユートピア、すなわち《非在の-地 u-topia》である。エルドラードは欲望が目指しながら、それがかりに実現されれば欲望が消滅する地であり、「庭」は欲望がまだつつましい炎で燃えているだけの地である。同じユートピアでありながらも、しかし、「庭」は欲望の炎が燃えている限りにおいて、人間的ではあろう。その意味で「庭をたがやさなければならない」というカンディードの言葉は、人間的楽土の理念型、ないし原型を象徴しているともいえよう。

 ここで屁理屈 "spéculations" は終わり。たしかにこれだけの屁理屈をこねるだけでも、時間をだいぶ無駄にしました "perdre mon temps"。

2013-08-02(金)
 てつがく村の
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