てつがく村 を飾った 写真 たちが再登場します


村の入り口 2006

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稲穂が充実し始めた田んぼ
(2006年9月14日7時30分)

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梅雨あけ迫る田んぼ
(2006年7月27日7時)

今年の梅雨は記録的な長さである。この写真をとった時点でもまだ梅雨あけ宣言がなされていない(*)。しかし、空はご覧の通り、梅雨の名残はわずかに残っているものの、もう夏の盛りである。
(*)気象庁の発表によると、中国地方は7月30日に梅雨明けしたとみられる、とのことである。平年に比べると、10日遅い梅雨明け。

稲も大分成長してきた。あと一月もすれば一面、穂が出ているはずである。この田んぼは二年間休耕していたため、除草剤をまいても稲の間に雑草が生えている。雑草を取らなければ、稲の穂が出る前に、稲の背丈をこえて、稗の穂が出るだろう、と心配になりながら、例年のことではあるが、田を這う[手で雑草を抜くことを、その姿から、こう表現する]暇を見つけ出すことができなかった。

イノシシ
除草にもまして、今年はもう一つ、稲の生育を守るためにやらなければならないことがある。イノシシの侵入を防ぐことである。

写真の左端に県道の側溝が見えるが、県道から右側の地帯には近年イノシシが出没し、田んぼを荒す。泥遊びに入って転げ回ったり、稲が熟し始めたころ、まだ乳状の米粒を食べに侵入したり、畦を掘ってミミズを漁ったりする。イノシシは写真右上に見える山(背景の灰ヶ峰ではない)に住んでいると思われ、山の際に沿って、山と耕作地を分離するように流れる小川を渡って侵入してくる。

写真に写っている我が家の田んぼはまだ荒されたことはないが、すぐ上とすぐ下の田んぼにはすでにイノシシが侵入している。すぐ上の田んぼは去年、稲穂が熟し始めるころ荒された。その田んぼの持ち主は、田んぼがダブ[湿田]のため耕作しにくいこともあり、今年は休耕してしまった。すぐ下の田んぼは、数年前、代変わりで耕作主が若いサラリーマンになってからは、休耕を続けている。だから今年は、我が家の田んぼが狙われる可能性が十分にある。

電気柵
イノシシ対策で現在もっとも効果的なのは電気柵である、と言われている。写真の田んぼの手前の畦から右側の畦にかけて、黒っぽい(実際は濃緑色)ポールが点々と立っているのがお分かりだと思う。このポール(絶縁体でできている)の、地面からの高さ30cmと60cmあたりに、二重にアルミ線を張る(**)。そのアルミ線にバッテリーから数千ボルトの電気を流す。(なお、バッテリーの寿命は四カ月である。)
(**)「村の入り口の写真」では分かりにくいが、こちらの写真ではアルミ線が確認できる。
イノシシの身体能力からすれば、この程度の柵は楽々と飛び越えることができる。ところが、イノシシは警戒心が強い。異質の空間に入るときは、まず様子をうかがう。今の場合で言えば、田んぼの様子をうかがうためアルミ線に近寄る。すると鼻先にアルミ線が接触し、イノシシの身体に強い電気が流れる。驚いたイノシシは田んぼに近づかなくなる。

アルミ線が比較的低い位置に張られているのは、そのようなイノシシの習性を考慮してである。アルミ線は粘膜で覆われた鼻先を狙う。毛で覆われた部分に接触しても電撃効果はない。

強力な電気柵には、しかし、弱点がある。ひとつは、管理の難しさである。電気柵に草が触れると漏電する。だから、頻繁に草刈りをする必要がある。写真の田んぼの畦にはメヒシバが生えている。夏はこの草の成長が早い。だから最低、二週間に一度は草刈りをしなければいけない。アルミ線に沿って畦板[波形のトタン板などを数十センチの幅に切断した、帯状の板]を地面に敷き、抑草すれば、草刈りの手間を省くことはできる(***)。いずれにしても、手間が必要な施設である。
(***)畦板は金属製のものを使う。合成樹脂のものでは、電気を通しにくいので、その上にイノシシが四肢を置くと、電撃効果がなくなる。
もう一つの弱点は値段である。最初に購入するときは、バッテリー、通電や電圧の状態を示すモニターのついたバッテリーボックス、アース、テスター、アルミ線一巻、必要な数のポールを一括購入する。電気柵を購入すれば、市から、購入費の三分の一の補助が出はする。しかし、補助金を差し引いても、一セットで、五万円ほどの出費は覚悟しなければならない。

ダミーの電気柵
そこで私は、ダミーの電気柵で対応しよう、と考えた。その策をJA[農協]の農機センターの職員に話すと、「あいつらはえらいんじゃけぇ、偽物はだめで」と一笑に付された。私としては、イノシシの頭のよさと警戒心とを逆手にとるつもりであった。山との境を流れる小川の近く田んぼの所有者は去年、田んぼを本物の電気柵で囲んだ。イノシシとの戦いの、いわば最前線に位置する田んぼなので、そうせざるを得なかったのだろう。すると、イノシシはその電気柵を経験したはずである。痛い思いをしたイノシシは、頭がいいので(学習能力があるので)、きっと同類の柵で囲まれている田んぼには近づかないだろう、と私は推論したのである。推論だけではなく、そうだと思える事例を知ってもいる。「あいつらは偽物と本物は見分けるで」と職員に念を押されたにもかかわらず、私はダミー電気柵を張りめぐらすことにした。ポールとアルミ線はさほど高くない。写真の田んぼの場合、本物の電気柵を張るのと比べると、補助金は出ないが、三分の一程度の出費で済む。

さらに私は「工夫」(上でリンクした写真を参照)を加えた。廃CDを使って脅しを作った。イノシシは自分より大きな動物(たとえば牛)のいる場所には近づかない、と読んだことがある。夜陰では、CDが眼のように光り、大きな動物がいるように見える(むろん私の想像である)。また、風鈴をぶら下げた。これは、イノシシがよく近づく場所に風鈴をさげると近づかなくなった、という体験談を読んだからである。

こうして私は、7月22日に田んぼにダミーの電気柵を張った。

畑にイノシシが侵入
それから四日後の朝、私は畑に寄りトマトなどの作物を収穫した。トマトの畝の傍には、カボチャの畝がある。どこか様子がおかしい。よく見ると、カボチャの実がことごとく食べられ(五、六個はあっただろうか)、種しか残っていなかった。さらにその隣の、何も植えていない畝にイノシシの足跡が残っていた。犯人は間違いなくイノシシである。

すぐに従姉の家に行き事情を説明すると、やはり、という顔をしながら、二、三日のうちに近所の畑からカボチャや太り始めたサツマイモがイノシシに食べられた、と話した。梅雨の始めには、近所の畑でジャガイモが被害に遭ったこともある。

従姉は二ヶ所に畑がある。一カ所は電気柵を張っている。彼女の畑も被害に遭ったが、それは電気柵が張っていない畑であった。その畑にも鉄線で柵がしてあるが、一部が破られていた。被害にあった畑は、ことごとく、何の防御策もとっていなかったり、いい加減な柵をしている畑であった。被害にあった我が家の畑は、ダミーの電気柵が張ってはあるが、一部にすぎない。イノシシは電気柵が張っていない箇所から侵入したと思われる。また、畝に残った足跡からすると、電気柵の手前で止まっている。電気柵はダミーでも警戒した様子である。さらに、ダミーの電気柵で完全に囲った別の畑は、ジャガイモがあったにもかかわらず、侵入の形跡はなかった。

田んぼを荒すイノシシと畑を荒すイノシシとは別々の個体である。田んぼを荒すイノシシは、木が生い茂るにまかされた里山に住み、耕作放棄された田園地帯を餌場とする。人間が、その活動域を後退させるにしたがって、人里に進出してきたイノシシである。他方、畑を荒すイノシシは、畑近くの里山の一部が工業団地として造成されだしたころから出没し始めた。人間が、その活動域を前進させため、それ以前の餌場を失い危険を冒して人里に侵入してきたイノシシである。里山と耕地の荒廃と、里山の開発とは現象的には別物のように見える。しかし、その二つは、人間の、同じ経済活動の二つの側面にすぎない。そして、二匹のイノシシは、人間の経済活動の緩みと圧迫によって、「害獣」として現れ出たのであるから、彼らの行動は人間の活動の、気づかれにくい暗い有り様を示している。

農耕とは、自然全体を相手にすることだ、とつくづく思う。工業などのように、固有の対象だけを相手にしていればすむ営みではない。天空に覆われた大地の上で、作物を訪れる虫、その虫を捕獲する虫や鳥、作物を狙う鳥や獣とつきあいながら作物を作る。むろん、この程度の、風土や食物連鎖の問題は、知識さえあれば書斎にいても難なく書くことはできる。農耕は、その知識を、知識以前のところで、生身で体験することである。あるいは、観念のエコロジーを、観念以前のところで、生身を原点にして生きることである。
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逆さ灰ヶ峰の映る田んぼ
(2006年6月21日7時)

この田んぼはトラクターを購入して自分で代掻きをし始めた一昨年から二年間休耕していた。というのも、一部が強湿田でトラクターが埋まってしまうほどなので、トラクターの操作になれてから代掻きをしようと考えたからである。今年は、「底無し」の部分だけは除いて代掻きをして、三年ぶりに田植をした。

写真を見ていただければ分かるように、この田んぼの周囲は休耕田/耕作放棄田が多い。写真左側に側溝が見えるが、その左が村を南北に走る県道になっている。この県道から右側は湿田地帯であり、トラクターなど農業機械が入れないようなところもある。そのため、休耕田が目立つのである。この湿田地帯は、戦時中、粗朶を入れて排水工事をしたそうだが、結局、湿田状態は改善されなかった。

ご覧のとおり、変形田である。遠い昔、開田されて以来、ほとんど形は変わっていないのではないか、と想像される。ただ、おそらくは明治初期までさかのぼると左の県道はなかった。県道は山向こうの呉市街と、筆の生産で有名な熊野町とを結んでいる。県道がなかった時代には、村から熊野に行くには、馬車が通れるくらいの広さの里道[りどう]を使った。その里道がこの田んぼを巻くように通っていた。上から降りてきた里道は、この田んぼの上側の畦の中程に当たった辺りで左に折れ、田んぼの左すそに沿いながら、写真の一番手前を左から右へと下っていた。だから、田んぼは左側がもっとふくらんでいたはずである。田んぼが地形に沿って作られ、里道はその田んぼの間をくねりながら走っていたのである。

里道は一部は農道になり(たとえば、この写真の手前)、一部は草に紛れながらも(田んぼの上側)残っている。車が走り抜ける県道と違い、人々が徒歩で往来した里道には多くのドラマがあったに違いない。そのかたわらで、この湿田もまた辛苦と喜びのドラマの舞台だったに違いない。時代とともに、田んぼもその周囲も少しずつ変化する。しかし、ふたたび水を張り田植えをおえた田んぼは、その水面に、開田以来変わらず、周囲の山を映している。
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ヤマツツジ
(2006年4月24日12時)

四囲を低い山に囲まれた山間の村で農耕する私にとって、春の歩みの里程標となるのは、こぶし、山桜、ヤマツツジの花である。山に白いこぶしの花が見えだすと、春の本格的な始まりを知る。山桜が咲きだすと、春爛漫にさしかかったことを知る。こぶしも山桜も、低いところから高いところへ、日を追って咲きのぼっていく。そのありさまを、村を囲む山の中で一番高い灰ヶ峰(標高737m)の山腹に見ることができる。まずこぶしが、標高差400mの麓から頂上に向かって、白い斑点の群れとなってのぼる。こぶしが数日かけてのぼり終えると、ついで山桜がおぼろなピンクの波のようにのぼる。

こぶしから山桜へと、人間と花の距離が近くなる。それはちょうど春がわれわれの許に近づいてくるのに対応している。山桜とともにわれわれの許にやってきた春が今度は離れていこうとするとき、身近でヤマツツジが満開になる。そのヤマツツジを見ると、春とともに高揚した私の身体に、花の薄い赤紫が浸透してくるような気がして、一種恍惚とした気分になる。その感覚は、あるいは、春から夏への季節の裂け目で不安定になった身と心に起因するのかもしれない。そして私はヤマツツジの花のなかを、光に向かって走り抜ける。


[写真は、本庄水源地から村に抜ける峠道で撮った。峠道は、山の北斜面を上り、峠からは、南斜面を下る。ツツジは、道路脇の岩場の上に咲いている。朝の間は日陰にあったツツジが、ようやく真上からの日差しを受けている。]
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休耕田の復田
(2006年2月18日11時)

《わが家の田圃は写真の左側である。写真の右を、上から下へC型に湾曲した横手 [田圃の内辺に設けられる水路] が走る。その横手の左に沿って畦が走り、草が高く立つ。手前の草は刈り払い機で倒してある。その畦から左側がわが家の田圃である。また、畦が右上で終わるあたりから左方向に向かって横手が走る。その横手がわが家の田圃を限る。耕作部分の面積は五百平米。このまわり一帯は耕作のしにくい湿田なので、休耕田が目立つ。》

写真の田圃は二年間休耕していたところである。去年の春に畦の草刈りをして鋤き返したきり、放っておいた。すると一年のうちに、田圃の中には稗を主体とした草が繁茂し、まわりの畦は茅 ちがや とセイタカアワダチソウが立った。

一昨年から代掻きまでを自分でするようになった。しかし写真の田圃は一部が深いダブ [湿田] になっている。それまで委託していた人はその箇所でトラクターを立ち往生させたことがある。代掻のときには、湿田でも、田圃には水が入り、土は水に掻きまぜられた泥状になっているので、トラクターは車体の下までつかりながらも進むことができる。ところが、荒起しのときには、車輪がぬかるみにはまり込み、身動きができなくなるのである。(私自身、耕耘機を何度か埋まり込ませたことがある。)そのような難所があるので、この田圃で稲作するのは、トラクターの扱いに慣れてからにしようと思い、休耕しておいた。

ダブは作りにくいが、他方、日照りの年には有利になる。他の田圃が干上がっても、ダブには湿り気があるからである。だから、この田圃は復田して、毎年作りたいのである。

いろいろ考えた末、深いダブのところは除外して、田圃にすることにした。除外する部分は、大雑把に見積もって百平米ほどの広さになろうか。今の心づもりでは、そこを常時水を張ったミニ・ビオトープにしようと考えている。

去年一年間、ときどき耕転していればこんなに草だらけにならなかった。そうと分かっていながら手が回らず、とうとう原野状態になってしまった。だから、復田するにはまず草を焼き払う必要がある。写真は、そのための準備をしているところ。田圃の周りを刈って防火帯を作り、他に延焼しないようにする。それから枯れ草に火を放つのである

もう紛れもなく春。心急かされながら復田の準備をする。
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熟柿の残る柿の木
(日時)

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燃え上がるとんど
燃え上がるとんど
(2006年1月15日18時)

今年のとんどは、1月15日(日)にあった。最初は14日(土)に予定されていた。とんどをやるときは、あらかじめ消防署に連絡し、当日は万一のために消防車がやってくる。14日は、消防署との関係で日にちをできれば変えたくない、ということで、小雨決行になっていたのだが、朝からの本格的な雨で、やむなく、一日順延となった。

わが家は、総勢8名でとんどに参加した。わが家が3名、同僚家族が3名、友人女性が1名、さらに今年はフランスからの留学生(女子高校生)が1名加わった。薄暗がりのなか、先に餅をつけた青竹を8名全員がもって会場に進む様は、さながら「百姓一揆」だった。

18時、あたりはすっかり暗くなった。(15日は十六夜 いざよい の月であったが、曇っていたため、月明かりはなかった。)年男、年女が点火したとんどは昨日の雨のせいか、燃え上がり方が鈍かった。それでもしばらくすると勢いのある炎が闇を裂いて燃え上がった。

年男年女の最年少は二人の小学生である。そして何回りも年上の年女年男がともに点火する。点火されたとんどの炎は、一年をはじめる命の勢いであり、また年々歳々を繋ぐ命の輪である。その勢いと輪に、火を取り囲んだ人たちは青竹の先の餅をかざし、ひとつになる。


「てつがく村」での《とんど》についての記事

「とんどの餅」(『コラム』2002-01-14)
「とんど、月夜の火祭り」(『天地人籟』2003-01-22)

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