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☆ 2002-02-16 ☆ 草焼き −農耕日誌−
□天気予報によれば、明日、日曜日は天気が崩れる。そこで、休耕田の草焼きをやることにした。枯れ草を焼き払い、耕起しやすくするためである。草を焼くのは、午前中より、草が乾いている午後の方がいい。そこで、まず午前中は畑で作業をした。
□畑での作業は、冬になってから気になりながらも先送りにしていたアスパラガスの定植である。5年前に苗を買って定植したアスパラガスが半分以上、消えてしまった。芽が出ると片っ端から採っていたためであろう。出た芽が伸びて光合成をしなければ、株は衰弱していく。だから、出た芽の一部は残すべきであるのに、後のことを考えずに食べていた。株の消滅は、その当然の結果である。
□明日雨が降るから、今日草焼きをしよう、と思ったのは、雨が降れば灰が落ち着き、耕起しても舞い立つことがないからである。もっともすぐに耕起するわけでもないので、実際にはそんな気を回す必要はない。理屈付けは、草焼きのきっかけを自分自身に与えるためぐらいの意味しかない。
□まず、風下から火をつけること。風上からの方が、火勢が強くなるのでよさそうだが、風に煽られながら草の上だけをなめるように火が通りすぎて、下の方が燃え残ることがある。風下からの場合は、火は向かい風に押し戻されながらゆっくりと前進するので、時間はかかるが燃え残りが少ない。 □また、火を止めたいところから火をつけること。たとえば、家や別の休耕田に隣接しているときには、それらに火を移さないようにしなければらない。そこで、それらの側から火をつけると、最初は火勢も弱くコントロールしやすい。ある程度の面積が燃えると、最初に火をつけたのとは反対側にも火をつける。すると思わぬ突風のために他に火が飛ぶのを防ぐことができる。 □さらにまた、必要に応じて延焼防止ベルトを作る。草刈り機で草を払うと1mくらいのベルトができる。隣が草の繁る休耕田の場合は、そちら側にも同じ幅のベルトを作る。これでまず延焼はしない。ちなみに、焼き畑の場合には、2mほどの延焼防止ベルトを作り、さらにその真ん中に地肌が出るまで溝を掘る、という話を読んだことがある。すると火はこの溝のところで見事に止まるそうである。 □最後に小道具をひとつ。火を叩き消す道具である。わたしは竹の枝を何本か束ねて、それで叩く。父は、松の枝を使う、と教えてくれた。松の枝は冬でも枯れず、しかも燃えにくいからである。 □草焼きはいわば公認の火遊びである。火を放つときは子供のようにわくわくする。炎が大きくなると今度はどきどきする。ときには田圃の端から端へと走り回り、火を叩き消すこともある。人が見て、大の大人が馬鹿な遊びをして、とは思わない。立派な労働である。しかし、当人はすっかり子供心に帰って、わくわくどきどきはしゃいでいる。農耕は楽しい、と心底感じるひとときである。 □この日は、写真の右側の田圃だけを焼けばいいと予定して来たが、結局、大小6枚の休耕田全部を焼き払った。体中煙臭くなりながら、長年休耕している最後の田圃を、落ちる夕日とともに焼き終わったとき、気にかかっていたことのひとつが炎とともに燃え去ったようなすっきりした気分になった。また春が進む。 (2月19日掲載) |
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☆ 2002-02-10 ☆ 寒の戻り −農耕日誌−
□昨日、土曜日は、卒論審査会と追い出しコンパで一日がつぶれた。
□コンパのあと、広島まで帰って同僚と飲んだので、今日は朝寝坊した。天気予報によれば、今夜から明日にかけては雪。とすれば、今日はなんとしても野良仕事をしておかなければならない。昼の12時に家を出た。
□3時間ほど田圃で作業して、畑に戻った。先週追肥したタマネギの畝を中打ち[中耕]する。中打ちすると、除草効果があるし、肥料が土と混じり、効きやすくなる。タマネギの大きさは定植したときと変わらない。寒さで葉先が枯れたりしているから、むしろ小さくなっている。今は貧相な草姿だが、暖かくなると葉数が増えて、6月始めまでにはちゃんとタマネギになる。
□「寒の戻り」ではあるが、やはり立春を過ぎた時期である。確実に春は進行している。我が家の梅はまだ堅い蕾だが、場所によってはすでにほころんでいる梅もある。野菜も薹立ちの気配がしてきた。広島菜は自然畝に播き、しかも、虫害にあったので、貧弱なまま冬を越したが、先週気がつくと、大きくなり出したのがあった。秋冬野菜は、春先に急に大きくなったかと思うと、すぐに薹が立つ。大きくなる葉の色は薄い。巻かなかった白菜の中心では、小さな蕾が見えていた。3月に入ると、畑は花盛りとなり、その花を摘み取っては、春を味わう。薹が立てば立ったで、また楽しみがある、というわけである。 (2月11日掲載) |
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☆ 2002-02-02 ☆ 心のリハビリ −農耕日誌−
□冬の間は出無精になる。野良に出ると寒いので、つい屋内に引きこもりたくなる。しかも日が短い。今日はどうしようかと思いながら、ぐずぐずしていると、重い腰を上げようとするころには、昼近くになる。それからゆるゆると出かけると、たいした仕事もせずに帰ってくることになる。冬には冬の仕事がある。田圃を耕転したり、畑周りに生えている木の枝を払ったり、溝浚いをしたり、作業小屋の片づけをしたり、冬でなければできない仕事や、春から秋にかけての忙しいときにはできなかった仕事がある。冬の始めには意気込むのだが、結局いつも、それらの仕事を十分にこなさないうちに春になってしまう。
□タマネギの追肥を終えると、田圃に行った。1月半ばに積んだ堆肥に積み足す藁を畑まで運ぶためである。藁は、去年作付けし、今年は休耕する田圃のを使う。連続して作付けする田圃は藁を鋤き込んで肥料にするが、1年休耕する場合、藁を鋤き込まなくとも、自然に草が生えてそれが肥料になる。しかも、休耕するところは秋にレンゲを蒔いているが、藁が厚く重なっているようなところはレンゲが発芽しない。藁を集めるのは、まずは堆肥を作るためであるが、レンゲのためでもある。
□二足草鞋を始めて丸6年(ということは、父の七回忌がめぐってくるということだが)、私はもうこの二足草鞋を脱ぐつもりはない。それに、いまさら脱いだところで遅すぎる。これが私の生き方だ思い切っている。しかし、最初の2、3年はともかく、二足草鞋に慣れてきて多少気分の余裕が生まれてくると、思い切っている、と言ってみても、その気持ちは揺らぐことがある。大言壮語をしてみても、所詮、変哲もない兼業農家である。農耕に少しばかり力を注いだと自己満足しても、相変わらずうだつのあがらぬサラリーマンである。その現実が心をくじく。 |
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☆ 2002-01-26 ☆ 農事録 2002年版
□農事録(2002年度版)を掲載します。
□昨年同様、1年間に栽培する野菜のリストを、月毎に上旬、中旬、下旬の3旬に分けて、掲載しています。野菜は必ず栽培するだろうものに絞りました。 □月ごとに、二十四節気と、雑節と言われているものの一部とを示しました。二十四節気は1年を24に等分し(ただし、日数を等分する方法と香道を等分する方法とがある)、名称をつけたものです。名称は、2000年以上も前の中国・華北地方の気候がもとになっているので、それを、現代の日本に、しかもどの地方にも一律に、適用するのは無理があります。しかし、太陰太陽暦(いわゆる旧暦)を使っていた時代に、正確に季節を知る目印とされていたものであり、実際、名称も大雑把な季節感を伝えてきます。二十四節気は太陽暦の一種であり、太陽暦が標準となった現代では、暦上の月日に置き換えることができます。でも、無表情な月日よりは、季節の匂いがする二十四節気が農事録に似つかわしいだろうと思い、合わせて載せました。雑節は農耕に関係ありそうなものを取り上げました。 □旧暦と月の満ち欠けも載せましたが、これらと農耕とが密接な関係にあるかどうか、私には分かりません。農耕には、日照、日長、気温が関係するのはたしかですが、月の満ち欠けも関係するのでしょうか。満月の日に種蒔きすると発芽率が高い、といったことがあるのでしょうか。 □立春あたりから、農耕の一年を本格的に開始しようと考えています。例年、冬の間は動きたくなく、その結果、とくに田圃の方の世話が後手後手になってしまうので、今年は早めの始動を、と気合を入れています。 |
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☆ 2002-01-14 ☆ とんどの餅
□昨日、とんどだった。私は広島市内で住んでいるため、実家のある「村」のとんどに行く。実家のある地区、栃原では、とんどは子供会主催であり、子どもが少なくなったため、去年から中止となった。他方、旧来の屋敷や田畑のある地区、苗代では、自治会主催なので、子どもの人数にかかわらず、続けて行われている。そこで、去年から苗代の上條のとんどに加えてもらっている。
□ここ数日は、一年で一番寒い時期なのに、春先のような暖かさである。あまり寒いと野良に出る気がしないが、この暖かさである。昨日は、子どもにせがまれたこともあって、堆肥を積んだ。材料には藁を使う。稲刈りにコンバインを使った場合、コンバインは刈り取り、脱穀、藁切りを一度に行う。したがって、稲刈り後の田圃には切った藁が散らばっている。私は、その藁を集めて堆肥に使う。田圃から軽トラックで藁を畑まで運び、1.5m四方に積んでいった。積んでは足で踏み固める。ときどき、発酵促進剤として糠や鶏糞を藁の上にばら撒く。藁が乾いていれば、水を掛けてやる。子どもは積む作業が楽しいようで、冬になってから、いつ堆肥を積むのか、と堆肥積みを楽しみにしていた。軽トラックで藁を2回運ぶと、高さ60cmほどになった。そこでその日の作業は終わり、来週その上にさらに積むため、田圃に行って、子どもと藁を集めていた。
□私は、餅をつけた長い竹を担ぎ、子供を連れて、とんどを焼きに行った。15分前で、まだ人は少なかった。アパートの入り口に張り付けてあった門松を描いた紙を、注連縄などがたくさんくくりつけてあるとんどにつけた。子どもは、とんどは今回がはじめではないが、今までに増してはしゃいでいた。明確に期待し、その期待で全身にみなぎらせることのできるほどに成長したということであろうか。おばあさんも、むろんやってきた。6時。闇が降りて、集落の人たちも集まった。午年の人が出て、とんどに火をつけた。火は音を立ててながら、わずかの間にとんどの頂上まで燃えあがった。それを見ていた子どもは、「すごい!花火よりすごい!」と叫んだ。夏空にあがる華やかな花火とは迫力が違う。強くまっすぐな火がめらめらと闇空に燃えのぼる。その炎に反応するかのように、子どもは叫んだ。 □酒がふるまわれる。集まった人たちは酒を飲み、雑談をしながら、火勢の衰えるのを待った。「昔ゃ、火がつくと、子どもらが周りで、とんど、とんど、ゆうて、大声で叫びょうたの。」「ほいで、熱いのに、すぐに餅を焼きょうった。早よう食いたかったじゃのぉ。」十分に火が衰えから、みな用意してきた餅を焼き始めた。竹は短いと、顔まで火にあぶられる。各々自分が用意した竹に応じて適当な火勢のところに陣取る。しばらくすると餅が焼けてふくれる。それを手でちぎりながら食べる。味付けなどしていないが、とんどの火であぶった餅は香ばしくおいしい。「おい、するめをやろうか。」近くのおじさんが来た。「ほんまは、惜しゅうてやりとぉなぁんじゃが、やるわい。」と言って、自分がもっていたするめを一切れ、渡してくれた。その人は、すこし酒が回り始めていたのかもしれない。「こがいなところで食うと、なんでもうまいの。」私は渡されたするめをひと齧りして、子どもに渡した。子どももおいしそうに食べた。
□苗代では集落ごとに4つの(5つの?)とんどが行われる。しかし、とんどの夜、通夜の行われる集落ではとんどを燃やさなかった。広島に帰る途中、その集落の方を見ると、とんどの炎の代わりに、通夜の会場となる自治会館に光が見えた。 |
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