てつがく村コラム


     
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2002-02-16 ☆ 草焼き −農耕日誌−

天気予報によれば、明日、日曜日は天気が崩れる。そこで、休耕田の草焼きをやることにした。枯れ草を焼き払い、耕起しやすくするためである。草を焼くのは、午前中より、草が乾いている午後の方がいい。そこで、まず午前中は畑で作業をした。

畑での作業は、冬になってから気になりながらも先送りにしていたアスパラガスの定植である。5年前に苗を買って定植したアスパラガスが半分以上、消えてしまった。芽が出ると片っ端から採っていたためであろう。出た芽が伸びて光合成をしなければ、株は衰弱していく。だから、出た芽の一部は残すべきであるのに、後のことを考えずに食べていた。株の消滅は、その当然の結果である。
そこで新たにアスパラガスの畝を作ろうと、昨春、初めての経験であるが、種からアスパラガスを育ててみた。種袋には2月播種となっていたが、2月は寒すぎるので発芽しないだろうと勝手に判断して、3月始めに蒔いた。種は大根など早いものは2、3日、ゴボウなど遅いもので1週間で発芽する。ところが、待てど暮らせど一向に芽が出てこない。1カ月も経ち、だめか、と諦めたころやっと芽が出た。それから思い返して、2月播種というのは発芽が遅いためだろう、と考えた。2月に蒔くと、アスパラガスはたぶん低温でも発芽する性質なので、暖かくなり始める3月に芽が出る。そして、上部が枯れる初冬まで、じっくりと時間をかけてしっかりとした苗に育つ。だから、ちょっと考えると早すぎるように思える2月に種蒔きをするのであろう。
初年度のアスパラガスは弱々しい。3年もたつと1mほどの株に成長するのに、20cmあまりの細い茎にしかならない。小まめに除草してやらないと、草の中に隠れてしまうほどである。冬になると茎は枯れる。それから根を掘りあげ、定植する。
4月くらいまでに定植すればいい、と書いてあった本もあったが、根が動き始めるまでには定植したい。そうすると、4月では少々遅い気がする。いつも心にかかりながらも、やっと今日定植することになった。畝は冬の始めに耕耘してある。定植する筋を平鍬で掘り上げて溝を作り、そこに施肥して土と混ぜる。その溝に掘りあげた根を45cm間隔で定植した。苗は全部で38株あった。春になると芽が出るだろうが、今年は収穫はせずに株を充実させる。収穫は来春からである。

明日雨が降るから、今日草焼きをしよう、と思ったのは、雨が降れば灰が落ち着き、耕起しても舞い立つことがないからである。もっともすぐに耕起するわけでもないので、実際にはそんな気を回す必要はない。理屈付けは、草焼きのきっかけを自分自身に与えるためぐらいの意味しかない。
草焼きにはちょっとしたこつがある。

草焼き
写真ではよく分からないが、右側の田圃は草が繁っており、火か燃え上りはじめた左側の田圃は夏の終わりに草刈りをしたため、あまり繁っていない。
我が家は、写真の上から3分の1のところを水平に走る県道のこちら側に、8枚(うち2枚は小学校の演習田)、向こう側に4枚、田圃がある。広い田圃で700a、狭い田圃になると100a程度である。
まず、風下から火をつけること。風上からの方が、火勢が強くなるのでよさそうだが、風に煽られながら草の上だけをなめるように火が通りすぎて、下の方が燃え残ることがある。風下からの場合は、火は向かい風に押し戻されながらゆっくりと前進するので、時間はかかるが燃え残りが少ない。
また、火を止めたいところから火をつけること。たとえば、家や別の休耕田に隣接しているときには、それらに火を移さないようにしなければらない。そこで、それらの側から火をつけると、最初は火勢も弱くコントロールしやすい。ある程度の面積が燃えると、最初に火をつけたのとは反対側にも火をつける。すると思わぬ突風のために他に火が飛ぶのを防ぐことができる。
さらにまた、必要に応じて延焼防止ベルトを作る。草刈り機で草を払うと1mくらいのベルトができる。隣が草の繁る休耕田の場合は、そちら側にも同じ幅のベルトを作る。これでまず延焼はしない。ちなみに、焼き畑の場合には、2mほどの延焼防止ベルトを作り、さらにその真ん中に地肌が出るまで溝を掘る、という話を読んだことがある。すると火はこの溝のところで見事に止まるそうである。
最後に小道具をひとつ。火を叩き消す道具である。わたしは竹の枝を何本か束ねて、それで叩く。父は、松の枝を使う、と教えてくれた。松の枝は冬でも枯れず、しかも燃えにくいからである。
草焼きはいわば公認の火遊びである。火を放つときは子供のようにわくわくする。炎が大きくなると今度はどきどきする。ときには田圃の端から端へと走り回り、火を叩き消すこともある。人が見て、大の大人が馬鹿な遊びをして、とは思わない。立派な労働である。しかし、当人はすっかり子供心に帰って、わくわくどきどきはしゃいでいる。農耕は楽しい、と心底感じるひとときである。
この日は、写真の右側の田圃だけを焼けばいいと予定して来たが、結局、大小6枚の休耕田全部を焼き払った。体中煙臭くなりながら、長年休耕している最後の田圃を、落ちる夕日とともに焼き終わったとき、気にかかっていたことのひとつが炎とともに燃え去ったようなすっきりした気分になった。また春が進む。
(2月19日掲載)
 
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2002-02-10 ☆ 寒の戻り −農耕日誌−

昨日、土曜日は、卒論審査会と追い出しコンパで一日がつぶれた。
卒論審査会は、給料に含まれていると考えているので、出席する。しかし、追い出しコンパは欠席することがよくある。ところが、今年はプログラム委員(プログラムとは、学科の下位区分)をやっているので、出席せざるをえなかった。コンパがお開きになる直前、学生が寄ってきて、「先生のホームページをときどき見ています。書き込みはしたことはありませんが。先生は野菜を作ってられるんですね。」顔に見覚えがないので、私の授業に出てきたことのない学生である。ホームページが私とその学生との接点だったのか、と思うと、妙でもあり、また、うれしくもあった。「ありがとうございます」と返事を返しただけで、会話は終わった。どうせなら、書き込みもしてくれるともっとうれしいのですが(>> 話しかけてくれた学生さん)。

コンパのあと、広島まで帰って同僚と飲んだので、今日は朝寝坊した。天気予報によれば、今夜から明日にかけては雪。とすれば、今日はなんとしても野良仕事をしておかなければならない。昼の12時に家を出た。
家族は畑に残し、私は田圃に行った。まず子芋掘り。2株掘る。種芋にする株を除くと、残り6株になった。種芋(20株)は3月半ばに掘りあげ、4月始めに伏せる。親芋と大きい子芋を種にして、残りは食べる。4月終わり頃まで食べることのできるぐらいの量はある。9月から掘り始めるから、1年のうち7、8カ月、子芋は食卓にあがることになる。
つぎに、去年今年と連続して耕作する予定の田圃で作業をした。稲刈りのとき、コンバインは藁を切り撒くが、藁は全面に等しく撒かれるわけではない。藁が厚く溜まっている場所があるかと思うと、田圃の土が露出しているところもある。そこで、ホークや一輪車を使って、藁を全面に均等に撒きなおす。
昨日の酒のせいか、田圃に来るまでは、気力が湧かなかったが、作業をやり身体があたたまってくると、心が踊りはじめた。作業の強度がこの程度であれば、広々としたところでの農作業は本当に心地よい。やはり「作業療法」的効果はあるかも・・・
風が強かった。周りに障害物がないので、身体に吹きつける。すくい投げた藁が風に飛び散らされてしまうこともあった。西高東低の冬の典型的な気圧配置を思わせる、西よりの北風。小雪さえ混じる。まさしく「寒の戻り」である。

3時間ほど田圃で作業して、畑に戻った。先週追肥したタマネギの畝を中打ち[中耕]する。中打ちすると、除草効果があるし、肥料が土と混じり、効きやすくなる。タマネギの大きさは定植したときと変わらない。寒さで葉先が枯れたりしているから、むしろ小さくなっている。今は貧相な草姿だが、暖かくなると葉数が増えて、6月始めまでにはちゃんとタマネギになる。

薹が立ちはじめた白菜
2月11日昼。薹が立ちはじめた白菜。昨夜来の雪が残っている。白菜は薹が立っても葉は大きくならない。
「寒の戻り」ではあるが、やはり立春を過ぎた時期である。確実に春は進行している。我が家の梅はまだ堅い蕾だが、場所によってはすでにほころんでいる梅もある。野菜も薹立ちの気配がしてきた。広島菜は自然畝に播き、しかも、虫害にあったので、貧弱なまま冬を越したが、先週気がつくと、大きくなり出したのがあった。秋冬野菜は、春先に急に大きくなったかと思うと、すぐに薹が立つ。大きくなる葉の色は薄い。巻かなかった白菜の中心では、小さな蕾が見えていた。3月に入ると、畑は花盛りとなり、その花を摘み取っては、春を味わう。薹が立てば立ったで、また楽しみがある、というわけである。
(2月11日掲載)
 
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2002-02-02 ☆ 心のリハビリ −農耕日誌−

冬の間は出無精になる。野良に出ると寒いので、つい屋内に引きこもりたくなる。しかも日が短い。今日はどうしようかと思いながら、ぐずぐずしていると、重い腰を上げようとするころには、昼近くになる。それからゆるゆると出かけると、たいした仕事もせずに帰ってくることになる。冬には冬の仕事がある。田圃を耕転したり、畑周りに生えている木の枝を払ったり、溝浚いをしたり、作業小屋の片づけをしたり、冬でなければできない仕事や、春から秋にかけての忙しいときにはできなかった仕事がある。冬の始めには意気込むのだが、結局いつも、それらの仕事を十分にこなさないうちに春になってしまう。
しかし、今日は、最近にしては珍しく、朝早く畑に向かった(それでも家を出たのは9時過ぎである)。タマネギは、12月の終わりに1回目の追肥をして、つぎに、1月終りに2回目の追肥をする。2回目の追肥は根が動きだす前にすませたい。ところが、2月4日は立春。暦の立春になればただちに根が動きだすわけではないが、私はその日を目処にしている。すると今日がタイムリミットである。尻に火がつかなければ動きださないとは、やはり冬の身体である。
村に入ってから車載温度計を見ると2度だった。思わず想像の身体が身震いをする。実家に着いてから作業着に着替える。しかし、屋内でも暖房のないところでは、寒さは外とさほど変わらず、今度は本当に身体が震えだした。上下、吸湿性、速乾性に加えて保温性の高い下着をつけるが、寒中の寒さは簡単にはしのげない。
タマネギは慣行農法で栽培しているので、追肥は粒状の化学肥料を撒くように施す。所々、浮いているタマネギがあった。冬になると畑が凍みる。すると、11月終わりに定植して以来まだ根を張っていないタマネギは、霜柱に押し上げられ、根を半ば土に残した状態で抜けてしまう。1月の始めに一度、浮いたタマネギを差し直したが、今日も数は少ないものの、何本か浮いていた。
慣行農法畝の表面は土が露出しているので、村の気候では、土が凍みるのは避けることができない。凍みるのを防ぐため、タマネギを定植した後もみ殻を撒いておくのだが、防ぎきることはできない。ところが、自然農法畝の方は凍みていない。枯れ草が表面を覆い、土も排水性がいいので、凍結しないのだと思われる。自然畝は、夏涼しく、冬暖かい、ということなのだろうか。そういえば、シュンギクは寒さに弱いが、今冬は自然畝で育てているためか、例年に比べて傷み方が少ない。むろん、化学肥料を与えて水ぶくれの身体に育てる、ということをしていないためもあるのだろうが。

タマネギの追肥を終えると、田圃に行った。1月半ばに積んだ堆肥に積み足す藁を畑まで運ぶためである。藁は、去年作付けし、今年は休耕する田圃のを使う。連続して作付けする田圃は藁を鋤き込んで肥料にするが、1年休耕する場合、藁を鋤き込まなくとも、自然に草が生えてそれが肥料になる。しかも、休耕するところは秋にレンゲを蒔いているが、藁が厚く重なっているようなところはレンゲが発芽しない。藁を集めるのは、まずは堆肥を作るためであるが、レンゲのためでもある。
この時期になると、レンゲは小さいながらもびっしり生えている。私は農道のそばにうずたかく積んでおいた藁を、フォークを使って軽トラックの荷台に投げ移しはじめた。しばらくすると身体があたたまり、汗さえにじむようになった。それまでは寒かった風が、火照った身体にはむしろ心地よい。寒さのせいで不承不承に動いていた心が、今度は生き生きと働きだした。すると、ふと「作業療法」という言葉が浮かんだ。
昨日午後、学生が研究室に来た。医学部保健学科作業療法士コースの学生である。作業療法について知らない私は学生に質問した。学生の説明によると、作業を通じてリハビリを行うのが作業療法である。農業をやりながらリハビリするといった場面を[学部紹介の?]ビデオで見たこともある、と私が週末農業をやっていることを知っている学生は付け加えた。
学生と雑談をしているときには、農耕によるリハビリを他人事のように聞いていたのだが、田圃で身体を動かしていると、今自分がやっているのは「作業療法」ではあるまいか、と思えてきたのである。むろん、今の私には医学的な意味ではリハビリすべき身体的・精神的障害はない(たぶん・・・)。それでも、出無精の心が外に向かって働きだすと、藁を積む作業にある種の「療法」的効果があるように感じられてきた。もっと正確には、作業を通して気分が昂揚してきた事実が、農耕の何か「作業療法」的性格をわずかに暗示した。その療法とは、言ってみれば、心のリハビリである。
気分の昂揚を直接とらえれば、心のリハビリとは今流行りの「癒し」である。しかし、個人的には「癒し」はどうも好きになれない。うさん臭いものが感じられるからである。癒される対象は、病理学的存在である。しかし、私にはさらに、「癒し」の存在そのものが病理学的であるように思える。癒される者は、癒されるべき状態に陥れた現状に、それが同時にある種の安楽を与えてくれるがゆえに、どっぷりと浸かりながら、精神安定/昂進剤を飲むように、癒しを求める。癒しは束の間のものにすぎない。癒しから醒めると、今度は麻薬のように、癒しを求める。癒しは、そのような堂々巡りを施しているにすぎない。つまり、癒す行為そのものが、また、それを存在させる社会自体が、病理学的存在であり、何か根本的な「癒し」を必要としているように、私には思える。
心のリハビリは「薬剤」の投与では可能ではない。心の性癖とは身体の性癖にほかならず、したがって、生き方の性癖であるからである。冬の野良に出て身体を動かしながら思ったのは、こうしながら、私は何よりもまず生き方を矯め、身体を矯めて、そのことを通してはじめて、心のリハビリを行っているのではあるまいか、ということである。文字通り、「作業療法」である。
フォークで藁をすくい投げながら、しかも、同じ動作を何度も繰り返すうちに腰のあたりに違和感が生じはじめたのを感じながら、私はさらに考えた。心のリハビリだとしても、それはいつも「癒さ」れる快感ばかりに充たされているわけではない。腰の違和感からしてすでに負の感覚と言える。リハビリ前と変わらず、喜怒が心を動かし、哀楽が心をひたす。言うまでもないことだが、人である以上、そうしたことは決して逃れられない。心のリハビリはだから、いわゆる「癒し」とは次元を異にする。心の表層を撫でなだめてやるのではなく、心の根幹からしっかりと矯めるのである。
私の心はたぶん矯められることを必要としている。では、いつから私は病んだのだろうか。こう自問すると、もしかしたら病むという意識なしに病んだのかもしれない、という気がつよくする。それに、思いもかけぬ偶然が重ならなければ、病んでいるという意識も生まれてこなかったのではあるまいか、とも思う。何にしても、それとコントラストをなす別の何ものかが周囲になければ、意識されることはないからであるから。
私は知らず病んだ。何が自分の本来であったか私は知らない。どこに向かってリハビリすべきか私には分っていない。しかし、少なくとも何からリハビリすべきかは分かっているつもりである。だから、ただ病んでいるという意識を頼りに、心の性癖を矯め進んでいくしかない。私は「癒し」にうさん臭さを感じていると同様、グリーンツーリズムとか定年帰農とかいった農村回帰現象も素直には受け取れない。それらはそれらが遠ざかってきた何ものかを−その何ものかは、私がそれ「から」リハビリしていこうとしている「何」と同じだと考えている−、他方でそのまま前提し肯定しているように思えるからである。私の農耕生活は、だからそのような回帰現象でもない。いや、そうありたくない。

二足草鞋を始めて丸6年(ということは、父の七回忌がめぐってくるということだが)、私はもうこの二足草鞋を脱ぐつもりはない。それに、いまさら脱いだところで遅すぎる。これが私の生き方だ思い切っている。しかし、最初の2、3年はともかく、二足草鞋に慣れてきて多少気分の余裕が生まれてくると、思い切っている、と言ってみても、その気持ちは揺らぐことがある。大言壮語をしてみても、所詮、変哲もない兼業農家である。農耕に少しばかり力を注いだと自己満足しても、相変わらずうだつのあがらぬサラリーマンである。その現実が心をくじく。
最近の出無精は、ただ冬の寒さだけではないと自分では分かっている。今日は出無精の気持ちを払って、野良に来た。身体を動かすうちに訪れた感覚が昨日耳にした「作業療法」という言葉と響きあい、心のリハビリという考えが生まれた。その考えは、私の二足草鞋のさらなる意識である。
切り藁を取り除いたこの田圃には春に一面レンゲが咲き乱れだろう。そのときは、今度はどのように二足草鞋を意識するであろうか。
(2月4日掲載)

 
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2002-01-26 ☆ 農事録 2002年版

農事録(2002年度版)を掲載します。

昨年同様、1年間に栽培する野菜のリストを、月毎に上旬、中旬、下旬の3旬に分けて、掲載しています。野菜は必ず栽培するだろうものに絞りました。
昨年12月、『日々想々』に「蒔きサゴ」と題する記事を書いた時から、「てつがく村」では、基本作物体系(一年間に必ず栽培する作物の組み合わせを、こう呼ぼう)はどんなものだろう、と考えていました。村の基準となる作物体系など、むろん明文化されてはいないし、時代によって変化もしたでしょう。何か確定した体系があるわけではありません。しかし、父の農事録を参考に作った自分の作付け暦を、何年かの農耕経験の篩にかければ、少しずつ基本作物体系のようなものが姿をあらわすのではないか、と思っています。
基本作物体系は、その土地で農耕する人の、生きるリズムの縦糸をなすものです。農耕とは、ここでは、自給を基本とする農耕を言います。
農耕そのもののリズムが基本作物体系によって作られるのは言うまでもないでしょう。種蒔き、移植・定植、栽培中の管理、収穫といった作業は、作物の生きるリズムに従って行われます。作物の生は時に応じて変化していきます。その時を外しては農耕は成り立ちません。だから、私たちは、時を見はからい、作物の生に手助けをする。作物の生のリズムに応じて、私 た ち の 生きるリズムを按配するのです。作物の息づかいと私たちの息づかいが響きあい、絡みあって、農耕のリズムが生まれます。農耕のリズムとは、だから、作物のリズムであり、私たちのリズムであり、つまり、二つのリズムを契機とする農耕というひとつの生命の息づかいです。
自給であれば、作物体系は食の体系でもあります。農耕し、季節の巡りを肌で感じると、季節に応じて身体が特定の食物を要求してきます。時ならぬ野菜には食指は動きません。初夏の、成熟しきっていない豆、夏のウリ類、ナス、トマト(ともにナス科)、秋から冬にかけての、大根、芋類、漬け菜類、成熟した豆は、その時々の身体の要求によくあっています。私たちの身体は、時々の自然の変化に応じて、生きるリズムを変えます。夏の炎天下に野外で忙しく働いたり、冬の寒いときに、春秋のように身体をキビキビと動かすことはできません。いつでも同じリズムで生きることができると思うのは、時計の時間に従って生き、日夜の交代、季節の変化は、時計の時間同様、生活の背景ぐらいにしか感じていないような現代の都会人の妄想にすぎません(都会人の皆さん、妄想なんてひどい言葉を使ってごめんなさい)。だから、時々の作物は、リズムを変える私たちの身体を、リズムに応じて養ってくれるものなのです。だから、作物体系は食の体系であることによって、私たち農耕人の息づかいを整え、時間感覚の縦糸をなします。
だから、作物体系を明確してみよう、と私が考えるのは、命のリズム、息づかいとしての農耕の時間を意識してみたいからです。〈哲学者〉としては、そうした意識は、ただちに時間論とか生命論とかといったものに向けられますが、私は、それらを考える前に、まず、身をもって生きてみたい。何とか論といったものを語るにしても、体験から滲み出るエキスを言葉に結晶化するという方法をとりたいのです。方法なんて大げさな言葉を使いましたが、このやり方は、事情に迫られて身を置いた、半サラ半農の二足草鞋を生きているうちに、その生活の自然な節理のように思いつかれてきたものです。学的な仕方で、すなわち、先人たちの理論を検討し、理路整然と、主張された方法ではありません。そうではありますが、少々しかつめらしい名前をつけてみれば、哲学の原理主義、とでもなりますか。(タリバーンが世間の耳目を奪って以来、「原理主義」は何やら否定的なニュアンスがつきまとうようですが[笑]。)
構想の風呂敷は広いのですが、じつのところは、野菜の品目を適切に絞りきることもできていません。我が家の特殊な台所事情によって栽培しているような野菜、たとえば、セロリラーヴ(セロリアク)、ベトラーヴ(ビート)、マーシュ、エンダイブといった西洋野菜を基本作物体系に入れるべきかも考えました。入れるにしても、〈伝統〉野菜とは区別すべきだろうとも考えました。実際に農耕する前に、細々したことを考えていても仕方ありません。原理主義は、やったあとに分かる、というやり方ですから。だから、今年はともかく、我が家の事情も反映した、大まかな作付け暦を掲載することにしました。
農事録は実際の作付けが進むにつれて、書き換えられてしまい、基本作物体系が分からなくなるので、農事録とは別に「作付け暦」をいずれ近いうちに追加しようと思っています。

月ごとに、二十四節気と、雑節と言われているものの一部とを示しました。二十四節気は1年を24に等分し(ただし、日数を等分する方法と香道を等分する方法とがある)、名称をつけたものです。名称は、2000年以上も前の中国・華北地方の気候がもとになっているので、それを、現代の日本に、しかもどの地方にも一律に、適用するのは無理があります。しかし、太陰太陽暦(いわゆる旧暦)を使っていた時代に、正確に季節を知る目印とされていたものであり、実際、名称も大雑把な季節感を伝えてきます。二十四節気は太陽暦の一種であり、太陽暦が標準となった現代では、暦上の月日に置き換えることができます。でも、無表情な月日よりは、季節の匂いがする二十四節気が農事録に似つかわしいだろうと思い、合わせて載せました。雑節は農耕に関係ありそうなものを取り上げました。

旧暦と月の満ち欠けも載せましたが、これらと農耕とが密接な関係にあるかどうか、私には分かりません。農耕には、日照、日長、気温が関係するのはたしかですが、月の満ち欠けも関係するのでしょうか。満月の日に種蒔きすると発芽率が高い、といったことがあるのでしょうか。

立春あたりから、農耕の一年を本格的に開始しようと考えています。例年、冬の間は動きたくなく、その結果、とくに田圃の方の世話が後手後手になってしまうので、今年は早めの始動を、と気合を入れています。

 
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2002-01-14 ☆ とんどの餅

昨日、とんどだった。私は広島市内で住んでいるため、実家のある「村」のとんどに行く。実家のある地区、栃原では、とんどは子供会主催であり、子どもが少なくなったため、去年から中止となった。他方、旧来の屋敷や田畑のある地区、苗代では、自治会主催なので、子どもの人数にかかわらず、続けて行われている。そこで、去年から苗代の上條のとんどに加えてもらっている。

ここ数日は、一年で一番寒い時期なのに、春先のような暖かさである。あまり寒いと野良に出る気がしないが、この暖かさである。昨日は、子どもにせがまれたこともあって、堆肥を積んだ。材料には藁を使う。稲刈りにコンバインを使った場合、コンバインは刈り取り、脱穀、藁切りを一度に行う。したがって、稲刈り後の田圃には切った藁が散らばっている。私は、その藁を集めて堆肥に使う。田圃から軽トラックで藁を畑まで運び、1.5m四方に積んでいった。積んでは足で踏み固める。ときどき、発酵促進剤として糠や鶏糞を藁の上にばら撒く。藁が乾いていれば、水を掛けてやる。子どもは積む作業が楽しいようで、冬になってから、いつ堆肥を積むのか、と堆肥積みを楽しみにしていた。軽トラックで藁を2回運ぶと、高さ60cmほどになった。そこでその日の作業は終わり、来週その上にさらに積むため、田圃に行って、子どもと藁を集めていた。
そこに隣のおばあさんが野菜クズや草を積んだ一輪車を押してやってきた。田圃に投げて、肥やしにするためである。私は仕事の手を休めて、おばあさんと世間話を始めた。おばあさんは一輪車に腰掛け、私は農道に座り込んだ。おばあさんは前日死んだ老人のことも話した。「なんぼじゃったんや」と私はきいた。「わしより若ぁけん、ほうじゃの、85、6かのぉ」90歳になるおばあさんはゆっくりと答えた。「今年になって、はぁ[もう]二人も死にんさった。そろそろ、わしも番が回ってくる。」「おばさんはまだまだじゃわい。」おばあさんは、毎日畑仕事をするほど、元気である。おばあさんは笑いながら、「ほうかのぉ。ほいじゃが、早よう、来りゃええ。」と淡々とこたえた。さらに、夕方6時に火をつけるとんどの話がでた。「ほぉじゃ、とんどで焼いた餅は食わんにゃわからん[食わなくてはいけない]。」年ごとに食ってここまでやってきたんだ、といった、きっぱりとした口調であった。

炎に包まれたとんど
とんが立っているのは休耕田である。私は一段高い田圃からとんどを写していた。とんどに火がつけられて、先端の竹が炎に包まれるまで40秒ほどであった。
私は、餅をつけた長い竹を担ぎ、子供を連れて、とんどを焼きに行った。15分前で、まだ人は少なかった。アパートの入り口に張り付けてあった門松を描いた紙を、注連縄などがたくさんくくりつけてあるとんどにつけた。子どもは、とんどは今回がはじめではないが、今までに増してはしゃいでいた。明確に期待し、その期待で全身にみなぎらせることのできるほどに成長したということであろうか。おばあさんも、むろんやってきた。6時。闇が降りて、集落の人たちも集まった。午年の人が出て、とんどに火をつけた。火は音を立ててながら、わずかの間にとんどの頂上まで燃えあがった。それを見ていた子どもは、「すごい!花火よりすごい!」と叫んだ。夏空にあがる華やかな花火とは迫力が違う。強くまっすぐな火がめらめらと闇空に燃えのぼる。その炎に反応するかのように、子どもは叫んだ。
酒がふるまわれる。集まった人たちは酒を飲み、雑談をしながら、火勢の衰えるのを待った。「昔ゃ、火がつくと、子どもらが周りで、とんど、とんど、ゆうて、大声で叫びょうたの。」「ほいで、熱いのに、すぐに餅を焼きょうった。早よう食いたかったじゃのぉ。」十分に火が衰えから、みな用意してきた餅を焼き始めた。竹は短いと、顔まで火にあぶられる。各々自分が用意した竹に応じて適当な火勢のところに陣取る。しばらくすると餅が焼けてふくれる。それを手でちぎりながら食べる。味付けなどしていないが、とんどの火であぶった餅は香ばしくおいしい。「おい、するめをやろうか。」近くのおじさんが来た。「ほんまは、惜しゅうてやりとぉなぁんじゃが、やるわい。」と言って、自分がもっていたするめを一切れ、渡してくれた。その人は、すこし酒が回り始めていたのかもしれない。「こがいなところで食うと、なんでもうまいの。」私は渡されたするめをひと齧りして、子どもに渡した。子どももおいしそうに食べた。

苗代では集落ごとに4つの(5つの?)とんどが行われる。しかし、とんどの夜、通夜の行われる集落ではとんどを燃やさなかった。広島に帰る途中、その集落の方を見ると、とんどの炎の代わりに、通夜の会場となる自治会館に光が見えた。
人びとは、とんどの炎の周りに集まり、炎に照らされながら、語り、飲みかわし、ともに食する。とんどは日々の生活を区切り、季節の節目となる。節目節目に集い、たとえば闇のなかの炎に結びつけられながらも、一夜明ければ、また各々の生活にもどる。満ち潮引き潮、吸気呼気のリズムで生活が営まれる。「とんどの餅は食わんにゃわからん。」おばあさんは、そうしながら生きてきた。「そろそろわしの番が回ってくる」と言いながら、しっかりと生きている。日々歳々のめぐり、生死のめぐりがとんどの輪、とんどの炎のなかでひとつに燃え上がる。

 
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