てつがく村 を飾った 写真 たちが再登場します


村の入り口 2002

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サイズ500 X 375
晩秋の田圃
(2002年11月24日13時)
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サイズ500 X 389
実りの秋
(2002年10月12日10時)

9月に入ると村では稲刈りが始まる。田植え日や品種によってそれぞれの田圃は稲刈りの時が異なる。我が家では、6月1日にヒノヒカリ(中手種)を植えたので、稲刈りは10月半ばである。写真でハゼ[稲架]掛けしてある稲は、モチである。モチはウルチのヒノヒカリより登熟が早い。しかも量が少なく籾乾燥機では乾燥できないので、それだけ別に、1条刈りのコンバインで稲刈りをして自然乾燥する。そのまわりに立っているのがヒノヒカリである。

稲刈りの2週間前くらいに田の水を落とす。去年は9月終わりに水を落としたが、今年は1週間ほど遅い10月5日と6日になった。今年も予定では9月終わりだったが、「コラム」にも書いたように子どもとキャンプに行ったので、遅れてしまった。
田の水を落とすには、ムナクト(排水口)を切り開き、横手を浚う。村はゆるやかな斜面にあるので、ムナクトは田圃の下側の畔にある。田圃そのものは水平だが、水は上から下に流れるのが自然の道理なので、ムナクトは下側に設けなければ田の水ははけない。田の状態によっては、横に設けることもある。
横手は田圃の上側や横に設けた水路である。田んぼをとりまく畔のすぐ内側を掘り上げて作る。ウワコウダ[田圃の上の部分]は上の田圃から水がずって[漏れて]くるので、横手を設けておくと水はけがよくなる。田圃によっては直接、井手からではなく、上の田圃を経由して水をあてることがあるので、その場合には横手は、下の田圃にとっての入水路となる。
水は4カ月にわたり稲を養い、籾に結晶する。今年は乾燥続きだった。田植えと稲刈りを手伝ってもらうSさんによれば、結実期に水が足りなかった「はやもん」[早稲種]は胴割れ[米粒にひびが入ること]が多かったそうである。仕上げの結晶がうまくいかなかったのである。田の命を育んできた水が落とされる。いや、水位が下がる、といった方が正確かもしれない。水は田土の表面から沈み、土の奥で来春を待つ。

一番手前、白っぽい花が咲いているのが、結実の始まったソバである。11月に入ってから収穫する。そのすぐ後ろは子芋[サトイモ]。夏の乾燥のせいで、葉っぱが小さい。しかし芋はまずまずの出来である。
後ろの山は掃部城[かもんじょう]。江戸時代、城があったと伝えられる山である。「掃部」は城主の名前である。子どものころ、山頂付近によく出る水晶を探しに登ったことがある。

3月半ばに始まった農耕の季節が稲刈りで大きな区切りを迎えようとしている。

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サイズ450 X 500
畔の彼岸花
(2002年9月1日9時)

秋の彼岸は、9月23日の秋分の日を中日とする一週間(9月20日から26日)である。このころ田圃の畔では、曼珠沙華が大地からすっと伸びた茎の先に炎のような赤い花をつける。花は数日にしてしぼみ始め、地面に崩れた茎のあとから、今度は濃い緑の細長い葉が、地中からから湧き出るようにいくつも出てくる。
花が葉より先に出るものですぐに思い浮かぶのは、桜であるが、桜の花は萌えたつ春のやわらかさを感じさせるのに対し、彼岸花は冬を通じて繁る植物の、生きる強い主張のように思える。冬をこえ、やがて甦える命を枯野の下で準備する大地の、はじまりの合図のようにも思える。

名前は彼岸花であるが、早いものは9月に入れば咲く。写真の花は、8月下旬、畔の草刈りをしていて蕾の出ているのに気づいた。この畔は5月に、写真で開花している株の一部を掘り上げて球根を植えたところである。ところが彼岸近くになっても、植えた35箇所のうち1箇所しか花が咲いていない。昨日の夕刊(9月21日付「中国新聞」)によれば、広島地方では今年は開花が遅いそうである。理由として「夏場に雨が少なく根が十分に伸びていない上、気温がなかなか下がらないためではないか」という市立植物公園の談話を載せていた。たしかに今夏は雨が少なかった。しかし、ひどい旱魃でないかぎり、畔は田の水で湿っている。すると花の咲かないのは気温のせいか。もしかすると1年目は花を咲かせないのが普通なのかもしれない。せめて葉だけは繁らせてほしいものである。

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サイズ500 X 356
村に入る峠道から望む灰ヶ峰
(2002年6月22日10時)

村に入る道は5ルートある。私が村を出入りするときよく使う道は、そのうち一番交通量の少ない、曲がりくねった山道である。本庄水源地(明治22年、呉に海軍鎮守府が開庁され、その水瓶として大正7年に作られた貯水池)側から峠を越えて村に入ると、目の前に灰ヶ峰が見える。以前から、この山道からみた灰ヶ峰を入り口の写真として掲載したいと思っていたが、ドラマになりそうな瞬間を画像にすることができないでいた。この日は空気が澄んでいて、ともかく鮮明な写真がとれた。ただそれだけであるが、「てんとう虫」の写真も1カ月ほど掲げてきたので、季節の歩みに追いつくため、この写真に入れ換えた。
写真中央に煙がたっているところがあるが、そのあたりから村を遠望した写真を2年ほど前に掲載したことがある。その写真の左辺中央の奥の山中から、この写真を撮った。

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サイズ550 X 432
てんとう虫のなる木
(2002年5月26日)

畑のところどころに、薹が立ったアブラナ科の野菜が残っている。そんな野菜はよくアブラムシの餌食となっている。花が終わり実がつき始めた野菜は背も高くなるので、刈り払っていたが、アブラムシの餌にするため残したものもあった。餌を残しておいてやるから、他の野菜にはつかないでくれよ、という思いを込めてである。
先日、野菜を収穫していた家族が、「てんとう虫がたくさんいる」と驚いたように言っていた。自然農法を始めてからてんとう虫などの昆虫類が目立ち始めたので、その言葉は聞き流していた。ところが、数日後、ふとアブラナ科の野菜に目を向けると、てんとう虫が文字通り群がっていた。家族はこれを見たのである。幼虫もいる。野菜はアブラムシの餌場であると同時に、アブラムシを好物にする、てんとう虫の餌場になっていた。
写真の野菜は、そんな餌場のひとつであるキャベツ。伸びた薹にはまるで赤い実がなったかのようにてんとう虫がとりついていた。
てんとう虫の成虫は自然農法をやる前から見かけてはいたが、いまは、孵化したばかりの幼虫(オレンジ色の、光沢ある微細な粒)や成虫直前の幼虫(黒色の細長の体型で、中ほどに赤い帯模様がある)も畑で目にするようになった。
また、畑を掘るとときどき、1、2mm程度の、白くて丸い卵がいくつか出てくることがある。図鑑で調べたわけではないので間違っているかもしれないが、どうもミミズの卵のようである。新しい作物を作るたびに耕起していたときには、ミミズの成虫は目にしても卵など見たことはなかった。自然農法を始めてからというものの、畑は生きた虫図鑑になった。
背景は草の生えた荒れ地ではなく、畑。生きた虫図鑑になぞらえて言えば、生きた雑草図鑑。始めて1年くらいたった自然農法畝である。虫が増えるのは楽しい。雑草が生えるのもいい。しかし、野菜の生育が芳しくないのが、悩みの種。自然畝では肥料不足で、生育が遅く、貧弱な野菜しかできない。2、3年目くらいからでき始める、ということなので、いまは、あとしばらく我慢の時期なのであろうか。ともかく5年は続けてみようと思っている。

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サイズ550 X 369
早春の灰ヶ峰を望む
(2002年3月30日9時30分)

村の中に、建物や樹木に邪魔されず灰ヶ峰jを望むことのできる場所があるのに、今まで気づかなかった。講の集まりで苗代の自治会館に行ったとき、ふと灰ヶ峰に目を向けると、春の田圃が広がる向こうに灰ヶ峰がほぼ全貌をあらわしていた。それから1週間して、この写真を撮った。
今年の最初の写真につけた文章で、「私の原風景には変わらず、明るい南を指して灰ヶ峰が存在する」と書いた。この写真では、灰ヶ峰はわずかに東に寄った南側にそびえている。朝の光はだから、写真の左上方から灰ヶ峰に注いでいる。山の向こうは瀬戸内海である。小さいころ、写真で陽の光に照らされているあたりの山の背後の空を見るたびに、空の明るさに引きつけられていた。灰ヶ峰は羅針盤であり、村を出て行く方角を示しているように思えた。
それから数十年、わたしはまた南に灰ヶ峰を望む生活に戻りつつある。人生を、もう後半に入り込んで歩んでいるわたしにとって、あの明るさはどんな意味をもつのだろうか。今のわたしには、明るさの向こうはもはや未知の領域ではない。そう考えると、明るさは向こうを指し示しているのではなく、こちらに向かっているようにも思えてくる。この山間の村に注ぎ込んでいるのではないか、とも思えてくる。いずれにせよ、明るさの向こうでの長い旅のあと、生き直そうとしつつある村の、一隅にある明るさであることだけは、たしかである。どう生き直すか、それを問うている明るさであるということもできるかもしれない。
春の灰ヶ峰を、いまから、まずこぶしが、つぎに山桜が、急ぎ足で上っていく。それらが上りきったあと、山は新緑となる。

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サイズ550 X 374
春を待つ田圃
(2002年2月10日午後)

田圃は、刈り取りが終わってから、春までに2、3回は耕起する。すると、鋤き入れられた切り株や藁の腐熟が進む。さらに肥料を入れる人もある。
しかし、我が家はそこまで手をかける暇がない。春先までは、秋に刈り取ったままで放っておく。それは、写真で、切り株がそのまま残っているのを見ていただければ分かる。しかし、春が近づけば、いやでも時間を作って田圃に出て行かなければならなくなる。この日は、切り藁を田圃全面に等しくまき散らす作業を行った。藁が厚く覆っているようなところがあると、耕耘がうまくゆかない。耕耘機の鋤き刃が藁に阻まれて土まで入らず、土を耕起できないからである。
「追い出し牛」という言葉がある。かつて牛耕を行っていた時代の言葉である。晩秋の麦播きを最後に、牛はシーズンオフに入り、冬を過ごす。春になると、田圃の耕起がはじまる。(牛耕の時代は、春になってはじめて田圃を耕起した、という話を聞いたことがある。とすれば、このごろ秋から冬にかけて何度も耕起するのは、機械耕になったからなのであろうか。)しかし、冬の間に身体のなまった牛は、春先牛舎から「追い出し」ても、なかなか動きたがらない。そのような牛をさす言葉である。
「追い出し牛」状態であるのは、人間も同じである。屋内でぬくぬくと暮らすのになれた身体は、春先の寒さの中にはなかなか出て行きたがらない。寒の戻ったこの日、私はいやいやながら田圃に出た。写真の中は、強い西寄りの北風が吹いている。しかし、田圃の中を歩き回るうちに、身体から嫌気が蒸発して行き、心踊る心地になった。一種のランナーズ・ハイであろうか。
何度も「追い出し牛」になりながら、田圃も人も次第に春に入って行く。

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サイズ500 X 334
灰ヶ峰から眺める日の出
(2001年12月29日7時17分)

灰ヶ峰は、村を取り囲む山の中の最高峰であり、村の南側にそびえる。呉市街の北壁でもある。市街から見上げると、急峻で男性的な山容であるが、村から見ると、なだらかで女性的である。しかも、落葉樹が多く、春のこぶしの花に始まって秋の紅葉まで、季節ごとに色彩を変える。
山頂には、第二次世界大戦中に高射砲が据えてあった。戦後、山頂近くの平坦部に米軍のレーダー基地が建設された。現在はその基地は撤去され、山頂には気象庁の無人測候所がある。そして、かつての砲台は展望台に作りかえられた。
灰ヶ峰山頂は、初日の出を見る絶好の場所である。小学生の頃だったか、初日の出を見ようと、暗い山道を登ったことがある。現在は、山頂まで舗装された林道が通じているため、元旦の山頂は込み合う。
元旦を前に、冬至を過ぎてすでに勢いを取り戻した太陽をカメラにおさめようと思いたち、29日の朝、かつては歩いた道を車で山頂に向かった。山頂には、私以外に人影はなかった。車載温度計は氷点下3度を表示していた。体を温めるため凍てついた山頂を歩きまわりながら、20分ほど待った。日の出は7時17分。瀬戸内海の島から太陽が昇ってきた。日の出の勢い、という、まさしくその言葉通り、太陽は頭を出したかと思うと、天空に向かってどんどん昇りだした。私はかじかむ手でシャッターを押した。
何の変哲もない山である。しかし、私の原風景には変わらず、明るい南を指して灰ヶ峰が存在する。私の祖たちもこの山を見、この山に見守られながら、生きてきた。人びとの歴史を見下ろし、人びとの歴史に刻まれるこの山を、はるか彼方から、寒気を透して曙光が照らす。命のまたひととせを巡るはじまりのときである。

村の入り口 2001 2000

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てつがく村
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