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ひろば(BBS)

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2003-01-22 ☆ とんど、月夜の火祭り
(旧暦 1220日)

−「星がたくさん出てる!」−満月の夜の火祭り−旧暦(太陽太陰暦)と農耕

1月12日(日)はとんどだった。とんどは小正月の行事であるが、村では15日に近い週末に行われる。去年は13日(土)だった。
今年は、わたしの同僚一家もやってくることになった。同僚には、わたしの息子と同い年の女の子がいる。広島市内に住んでいるので、子どもが自然に触れる機会が少なく、月に一度くらい、熊野阿戸にある市民農園のイベントに参加している、というのを聞いて、とんどに誘った。同僚とわたしの共通の友人である女性も、同僚についてやってきた。

とんどの準備は12月から始まる。12月中に、まず、山からススキや雑木を切り出してくる。そして、年が明けて、とんどの1週間ほど前に、藁を持ち寄って、とんどをまく(竹で骨組みをつくり、ススキや藁で肉付けしてとんどを組み立てることを、「とんどをまく」と言う。なお、とんどの写真はここをクリックしてください。)。
わが家では、一昨年からは、実家のある地区ではなく、旧来の屋敷と田畑がある地区で、とんどに参加させてもらっているが、この地区は自治会の班が中心となってとんどを行っている。だから、とんどをまく日は、班を構成する世帯から一人ずつ出て作業をする。ただ、わが家は、母も広島市内に住んでいるわたしも、その地区の自治会の構成員ではない。したがって、その地区に住む従姉に頼み、せめて参加「料」として藁をもっていってもらう。「今年ゃ、7人行くけん、蔵の前に置いとる藁をたっぷりもっていってもろぉてぇや」と従姉に頼んでおいた。

夕方6時に火をつける。わたしたちは、老母の作ってくれた餅を6個、一つずつ別に、先を割った竹竿の先に挟み、始まる15分前にとんどの立っている休耕田に向かった。日没間もない時間なので薄明かりが残っていた。
すっかり闇が降りたころ、今年の年男、年女によって、たいまつからとんどに火がつけられた。最初はちょろちょろとした火が、すぐに弾けるような音を立ててとんど全体を包む。すると、炎に巻き上げられた火の粉がまわりにばらばらと落下してくる。
とんどが焼き崩れない前に、とんどを四方から固定していた紐を切り、とんどの横、雑木の枝などをあらかじめ積み上げてある方に倒す。すると今度は、その焚物の山が燃え上がる。倒れたとんどの骨組みの孟宗竹がときどき大きく弾ける。集まった90人ほどの人たちはしばらく強い火勢を遠巻きに見ていたが、火が弱まると、そこで餅焼き始めた。
わたしたちの竹竿は3メートルほど。何十本もの竿の中で一番長い。その先に挟んだ餅を火にかざして焼くのだが、その長さでも顔は火にあぶられる。だから、火にかざしたまま、竿から離れて焼き上がるのを待つ人も多い。しかし、火は強いので、餅は焼き上がるまでに焦げてしまう。
わたしは焦げないように餅を火から高く遠ざけてかざした。強く大きい火なのでその距離で十分だと思ったからだ。案の定、餅は焦げることなく焼き上がりだした。母の作ってくれた餅は直径15pほど。焼き上がった周囲から順次、千切っては食べた。香ばしい味がして、そのままでもおいしい。竹で挟んだ部分は焼け残る。そこで、餅の位置を変え挟み直して焼く。最初はどんどん口に運んでいた餅だが、途中から醤油とか海苔とかが欲しくなり(集まった人の中には、そんなものを用意してきた人もいた)、最後は口に押し込むようにして食べた。うまく焼いたおかげで、大きなもちをまるまる腹にいれてしまったのである。食べ終わると、餅が喉元まで詰まったような気がした。
餅焼きが始まると、酒がふるまわれ、火の周りの話し声はいっそうにぎやかになった。同僚とわたしは、広島市内まで車を運転して帰らなければならないので、酒をすすめられても、喉から手が出る思いを抑えながら何度も断った。酒が入れば、心も炎のように踊るのだが、と思いながら。ともあれ、同僚家族は、おおっぴらで盛大な夜の「火遊び」に満足した様子だった。

「星がたくさん出てる!」
とんどが始まってから一時間あまりすると、わたしたちは引き上げた。会場の休耕田から車を駐車してある屋敷までは、数分の夜道である。すると、同僚の娘さんが声を上げた。「星がたくさん出てる!」それまではとんどの火に注意を奪われていたが、その火から離れると、ほの白い夜空に目が向いたのであろう。女の子は物心ついたころからずっと広島市内に住んでいる。だから、普段は夜空を見上げることはないだろうし、見上げたとしても、星の多くは街の灯に消され、ぼんやりと暗い空があるだけである。とんどの夜は半月より少し太った月が出ていた。それでも、村の空には街中よりずっとたくさんの星が出ていたのである。

そのとき、ふと、いまの生活には夜がなくなっている、という思いが浮かんだ。考えてみれば、夜におこなわれるとんどにさえ、夜の意識は希薄になっている。

旧暦1月15日、満月の夜の火祭り
とんどは小正月の行事である。もとは宮中の行事であったものが、近世になって全国に広がったものだそうである。だから、長い間、旧暦の1月15日あたりにおこなわれていた行事である。旧暦は言うまでもなく、新月の日を月の始め(ついたち−月立−)とする太陰暦(正確には、太陰太陽暦)である。すると、15日の夜は満月になる。つまり、とんどは満月の夜と結びついていたことになる。
いまでこそとんどは、しめ飾りなどを焼いたりするので、正月の一連の行事の締めくくりのように思われている。小正月という名称も、大正月に比べると、どこか、華やかさがおさまっていく時というニュアンスがある。しかし、小正月には豊作を祝う農耕儀礼に関連している行事があるように、小正月は本来は農耕にとっての正月であったようである。ひと月の区切りとしては、さらに、年の始めとしては、たしかに、新月より満月のほうが分かりやすい。しかも、手元を照らすほどの灯しかなかった時代には、満月の夜の屋外は、祝祭の晴れやかさにみちていただろう。
屋内で過ごした大正月から、今度は人びとは屋外での新年に出て行く。日が落ち、東の山の端から満月が登りだしたころ、村の人たちが餅を竹竿の先に挟んで集まる。餅が月の光を受けて夜陰のなかで白く浮かび上がる。しばらくして、とんどに火が放たれる。赤い炎が月明かりを貫いて天頂にむけて立ち上がる。子どもたちが一斉に大声で囃したてる。火勢が衰えると、人びとは餅を焼き始める。高く登った月明かりのもと、人びとは、同じ火で焼いた餅を食べながら農耕の一年を予祝する。

明治時代になり、暦が太陽暦に変わる(1873年、明治6年)と、とんどが満月におこなわれる祭りであるとの意識は消えていったであろう。しかし、日本人の生活の基盤が農耕であるかぎり、また、夜が月明かり、星明りがほの白く照らすだけの、昼とは異質の領域であるかぎり、とんどは夜の火祭りであるとの意識は消えなかったであろう。
ところが、村では、わたしが小学生のころ、したがって、1960年代に、とんどはいったん廃止される。そして、20年ほど後に復活する。その間に、とんどは夜と切り離されてしまった。むしろ、われわれの生活から夜が消えてしまった。太陽暦が生活の隅々まで浸透してしまったのである。

旧暦(太陽太陰暦)と農耕
旧暦は、月の運行にしたがって月割りをし、閏月で太陽年とのずれを調整する太陽太陰暦である。暦には二十四節気が織り込まれている。暦では正確には分からない、太陽の運行を示すためである。旧暦の起源である中国は、日本同様、モンスーン地帯であるので、太陽の運行にしたがって四季がめぐる。したがって、節気の名称は、季節の変化を示すものがつけられている。
太陰太陽暦から太陽暦への移行は、昼と夜の区別をなくすることである。太陽暦は1年を太陽年(或る春分から次の春分にいたる期間)とし、1日を平均太陽日とする。その月割りは、太陰暦の月が30日ほどであることを考えれば、太陰暦の名残はあるが、基本的には任意である。つまり、月の運行と夜の領域は暦作成から排除されて、理念的な太陽の動きだけが尺度となり、その結果、昼と夜の生きられる区別が消される。
太陽暦は、時刻法からいえば、1日を等分に分ける定時法である。1日を同じ長さの24の時間に分割し、時間は同じ長さの60の分に分割といった具合である。それに対し、不定時法は、昼と夜の基本単位は長さが違う。日本で太陽暦採用以前に使われていた不定時法では、昼と夜をそれぞれ大きく6つに分割する。分割の尺度は、太陽の運行であり、星の運行である。だから、昼と夜の長さは、また、それぞれの時間の基本単位は、季節によって変動する。この不定時法は、天体の自然な運行によって組み立てられる太陰太陽暦にむしろ親しい。

さて、単純化していえば、太陽暦は近代/都市に属し、太陰太陽暦は非近代/農村に属している。
近代的産業、すなわち、大規模工業を基盤とする諸産業は、昼夜や季節の区別に煩わされない。1時間でできる製品は、昼であっても夜であっても、真夏でも厳寒でも、同じ1時間でできる。また、近代的労働にしても、定時制に従っている。1日8時間の労働契約を結べば、その8時間は昼夜や季節によって長さが変動することはない。たまたま変動しない、というわけではなく、労働の近代性の本質にしたがって、変動しない。利潤追求を目的に時間決めで労働力を売買する労働契約が定時制を要求するのである。つまり、近代/都市には太陽暦こそふさわしい。
ところが、非近代(前近代?)/農村は太陰太陽暦的である。野良仕事は明六つに始まり暮六つに終わる。夜にはできない。また、日が長くなるにつれて、どんどん多くの作物がどんどん旺盛に成長するようになる。それに応じて、野良仕事も増える。お上が定時制をとろうがとるまいが、農耕の時間は本質的に不定時制なのである。言い換えれば、農耕の繁閑のリズムと昼夜の長さの変化は対応している。だから、太陽の理念的運行ではなく、月の自然な満ち欠けにもとづき、昼とともに夜を意識させてくれる旧暦は農耕生活になじむ。
旧暦はさらに太陽暦の性格も備えている。純粋な太陰暦と違い、太陽暦との差を閏月で調整すること以外に、暦には太陽の運行によって区切られる二十四節気が示されている。二十四節気には季節の変化を示す名称がつけられている。農耕が昼夜の長さの違いにしたがって繁閑を繰り返すということは、モンスーン地帯においては、季節の変化に応じて繁閑を繰り返すということである。二十四節気とは、だから、太陽の運行にもとづく農耕暦であり、農耕の繁閑に昼夜の変化とは別の観点から対応している。

われわれの生活から夜が消えてしまった、ということは、だから、暦法上は、純粋な太陽暦が採用された、ということであり、生産生活から言えば、昼夜の交代と季節のめぐりとが強い影響力をもたなくなった、ということである。照明器具と空調機器の普及がその傾向にいっそうの拍車をかける。
とんどが1960年代にいったん廃止されたのは、その時代に「太陽暦」的な生活がようやく日本の大多数の人の目標となったからである。また、復活したとんどが夜と切り離されてしまったのは、その生活がついにわれわれの生活の基準になったからである。
この頃は、とんどに限らず、高度成長期にあっさりと捨てられた様々な行事が復活されている。そして、それらの行事はマスメディアで紹介され、現在の生活で失われた何かを取り戻してくれるかのような印象を与える。流行語を使えば、現代生活のひずみを「癒し」てくれる「スロー」な行事であるかのように思えたりする。
しかし、いまのとんどの夜は、旧暦1月15日の満月の夜ではない。とんどが夜におこなわれるのは、極論すれば、たまたまでしかない。もうわれわれは夜を生きていない。夜とは照明器具に照らされた昼のことである。むしろ、一方には、太陽に照らされた、他方には、電灯に照らされた、しかしまったく同じ時間があるだけである。太陽暦の生活が「癒し」を求めうるものがあるにしても、太陽暦の上に復活された伝統ではない。

夜空に燃え上がるとんどは、だから、夜を覆う暗いヴェールをいかに焼き尽くすか、あらわれた夜をいかに生きこなすか、そんな問いをわれわれに暗示する炎であろう。

 
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てつがく村
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