てつがく村 を飾った 写真 たちが再登場します


村の入り口 2003

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サイズ500 X 427
朝日を浴びるナガメ
(7月2日6時50分)

カメムシと一言でいっても、その種類は多い。
農耕をはじめてしばらくは、カメムシといえば、莢が膨らみ始めたダイズや熟す前からのトマトにつく「害虫」でしかなかった。そして体色はすぐに灰色をイメージした。
しかし、カメムシの中には、「害虫」でなかったり、目を引くような模様や色をつけていたりする「変わり者」もいる。(「害虫」としての、特定のカメムシを見る目に「変わり者」と映るだけで、彼らはカメムシ・ファミリーの一員にすぎない。)すでにアカスジカメムシは紹介した。

夏になると、登校前に畑や田圃で1、2時間農作業をすることがよくある。週末だけではこなせない作業を少しでもやるためもあるが、また、農園の様子を見回るためでもある。
自然畝に植えたニガウリを見回った。花が咲き始め、結実してミニチュアのニガウリになっているものもあった。7月半ばを過ぎと収穫が始まるだろう。
ふとニガウリの葉に目をやると、ナガメがいた。図鑑によると、食草はアブラナ科だそうだから、食事をしている最中ではないようである。ニガウリは草全体に独特なにおいがあり、近づくだけで、すでにそのにおいがする。においのせいか、ニガウリは害虫にやられてしまうことはない。もしかすると、ニガウリを定植したあたりにナガメの孵化場があったのかもしれない。
上のカメムシは成虫のナガメである。すると下のは幼虫だろう。

自然農法の畑は共存共栄の楽園ではない。作物が虫にやられることはよくある。適期栽培の作物でも、そうである。むしろ慣行畝より虫害はひどいような気がする。今年は、自然畝に日本トウガラシ(鷹の爪)、慣行畝にタイ・トウガラシ(タイ人を妻にもつフランス人の同僚によれば、「ネズミの糞」いう名前だそうだ)を植えた。タイ・トウガラシはすくすくと育っているが、鷹の爪の方は、ひどく食害されている。20本ほどあるが、はたして実がつくのか、不安である。
ただ、にぎやかになったのはたしかである。「雑草」が生える、虫が多くなる、スズメなども野菜や「雑草」の種を食べにやってくる。慣行畝でしか農耕をしていなかったら、ニガウリにカメムシがいると驚き慌てるかもしれないが、にぎやかなのに慣れた今は観察して楽しむ余裕ができた。自然農法の「効用」かもしれない。

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サイズ600X 466
畔に咲くアザミ
(5月21日7時30分)

田圃を荒起こしする前に、草の繁った畔の草刈りをした。畔の草は基本的にはすべて刈り払うが、私はところどころに生えているアザミだけは刈り残す。アザミは田植の準備が始まる5月に花を咲かせ始め、盛夏にいたるまで次々と花を咲かせる。
アザミを刈り残しても何の実益もない。むしろ、根を張り、そのぶん畔の土を膨満にして、崩れやすくしてしまうだけのことである。しかし、きれいに刈り払った畔に、アザミがぽつんと立ち、赤紫の花をいくつも五月の空に向かってひろげているのを見ると、清々しい気持ちになる。その気持ちはやがて田圃が水に浸かる情景につながっていく。前年の秋、稲刈り前に水を落としてから、また田圃に水が引かれる。その情景を思い、また実際に目にするとき、田の土が水に浸る感覚が自分のからだにも感じられる。その感覚をアザミの花の色は象徴する。
水が張ってなければ、やはり田圃は田ではない。そして、水は上の田から下の田へと漏れ下り、また滲み下りながら、畔で区切られた田圃を貫き、それらをひとつにする。区切りつつ結ぶ畔にアザミは立つ。
畑作だけが農耕であるような風土に生きていたならば、私はどんな意識をもつだろうか、と思うことがある。田圃に比べれば、畑の境界はつながりの切断である。あるいは、自主独立の擁壁である。つながりとまとまりがあるとすれば、その後でしかない。しかし、水田稲作は、好む好まざるの手前で、まず結びつけてしまう。そこからすべてが始まる。
田が水に浸かる感覚は心地よい。嬉しくさえなる。だからこそ、毎年毎年、稲作を繰り返すことができるのかもしれない。しかし、その感覚は始まりでしかない。
アザミの畔が彼岸花に畔に変わるまでの五ヶ月、私は畔を様々な感覚と気持ちと意識とともに、何度ともなく歩くことになる。

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サイズ550 X 445
藤の花
(5月10日9時30分)

藤の花は、今年は4月下旬に咲き始め、いま盛りである。

薄い青紫の藤の花が咲き始めると夏がきざす。
山の春は辛夷の白に始まる。4月始め、茶色の枯色を背景に、花というには淡白な辛夷の花が、遠く山肌に本格的な春を告げる。ついで一週間ほど遅れて、淡い桃色の山桜が辛夷を追いかけて山肌をのぼる。4月半ばになれば、今度は山ツツジが赤紫の花をつける。春は遠景の白から近景の赤紫へ色を変えながら近づいてくる。すると、山では若葉が、それも赤味がかった茶色や黄緑の若葉がまだらに山肌を織りなし、里では様々な色の花が咲き乱れる。山野全体が、まさに変化で動く錦となる。春の盛りである。
そして錦の彩りが一面の若い緑に変わる頃、藤の花が咲き始める。藤の花には、春の花のように心を高揚させ酔わせるような艶やかさはない。5月の強い日差しのもとでも、新緑を濡らす雨の中でも、爽やかに房を垂れている。
そして桐が、藤と同時期に、藤ほどには目立たないが、藤よりは紫がかった花をつける。青紫で山の春は終わり、夏が始まる。

農耕の季節も、春の高揚期からしっかりと気力と体力を持続させるべき夏になる。

(最初に掲載した5月9日6時30分の写真は、朝日の当たっているところと影のところのコントラストが強すぎて、藤の花の一部が白く写っていました。そこで、次の日に同じ場所で撮った別の写真と差し替えました。なお撮影場所は、本庄水源地から村に抜ける峠道を上り切る手前、道からわずかに山に入ったところです。車からでも、視線を右に向ければ見えますが、多くの人は屈曲した山道に気を奪われて、藤を眺める余裕もなく通りすぎてしまうようなところです。)

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サイズ550 X 533
辛夷
(4月3日朝)

こぶしが咲き始めた。いよいよ春たけなわである。
自宅のある広島市内から村まで上っていくと、やっと芽が萌えはじめた山のくすんだ色のなかで白く目立つこぶしの花が、どの高さまで春が上昇したかを教えてくれる。3月25日ころ、広島市と熊野町をつなぐ熊野トンネル手前の斜面に(標高、約200m)こぶしが咲いていた。この写真を撮った4月3日には、村に下る峠の山(標高、約400m)がこぶしの満開になっていた。その日、村から灰ヶ峰を見ると、山腹の下のほうにこぶしが白く認められた。こぶしの花は春の勢いを示すように、今度は灰ヶ峰(標高、737m)をみるみる駆け上っていく。
こぶしの花を手折ってやろうと、山に分け入ったことがある。遠くからみれば手が届きそうなのに、近よってみると、花は木の上のほうについている。遠目には花は密集して咲いているようだが、実際には枝の先に疎らについているだけ。しかも、背の高さに比べれば細い幹は茶色でなめらかに樹皮に覆われ、花がつく枝は高いところからしか出ていない。こぶしの木の下に立つと、勢い込んでやってきた気持ちはなえてしまい、花は手折らずに帰って来た。
そんな経験をしたのは、高校生のときだった。手の届かぬところに咲く白い小さな花が、青春の浪漫的な気分には妙に魅力的だった。それから何十年、すっかり散文的になってしまったいまでも、こぶしを見るとあの頃の気分を思い出すことがある。齢をいくつ重ねても、春は、また一年の経験を刻むための、繰り返す脱皮のとき、また一年のめぐりを生きぬくための、絶えざる羽化のときなのかもしれない。

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サイズ550 X 400
灰ヶ峰から村を鳥瞰する
(2003年1月5日10時)

この冬一番の寒波が襲来した翌朝、広島市内は雪化粧だった。村はもっと積雪しているだろうと期待して、わたしは子どもと一緒に出かけた。村に入ると寒風に雪は舞っていたが、不思議なことに積雪がなかった。
見上げると、灰ヶ峰も白くなっていなかった。それでも山頂まで車を走らせることにした。山頂は−4℃。やはり雪はなかった。しかし、風が強い分、見晴らしはよかった。南は、絶壁の眼下に呉市街が見下ろせ、遠く瀬戸内の島々も望めた。山頂の高いところに登れば、冬枯れの枝の向こうに村が見えた。山頂の無人気象台に電気を送る電線が邪魔になったが、村の方向へはそこが一番見晴らしがよかったので、今年最初の入り口の写真を撮ることにした。

写真上側の、照らされている山間の町は熊野である。そのさらに向こうの山は積雪で白くなっている。
写真中央から手前、山に囲まれた枯色の部分が村である。枯色の部分は、夏には青々と茂る田圃になる。

1月6日は小寒、寒の入りである。これから1月20日の大寒を経て2月4日の立春までは、一年で一番寒い時期になる。だから、雪にさえ覆われず寒風だけが吹き抜ける村は、寡黙に冬を耐えているようにも見える。旧暦で言えば、まだ12月。正月は新春を慶ぶときであるとすれば、新暦よりも旧暦の方が、すくなくともわたしの季節感覚には近い。今年の旧正月は2月1日。それまで村は山間にじっと縮こまって春を待つ。

村の入り口 2002 2001 2000

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てつがく村
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