てつがく村コラム

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2002-04-29 ☆ 子芋の定植

午前中はトマト、ナス(中長)、ピーマン、シシトウの苗を買いに行く。
トマトとナスの苗
トマトは、去年はじめてトマト(調理用トマト)の苗を自分で作り、今年は調理用トマトの他に、ミニトマト、普通のトマトも苗を作っているので、購入苗はこれまでの半分にする(10本)。自分で苗を作ると、購入苗に比べて、播種期が遅いのと育苗中の低温のため、収穫が始まるのが遅れる。今年は3月上旬にビニールトンネル内にトマトなどを蒔いたが、冷床のためか発芽まで時間がかかった。だから、4月上旬に一部温床のビニールトンネルに蒔いたものと生育状況があまり変わらない。いまから来年のことを言うと鬼が笑い転げるかもしれないが、来年は3月始めにビニールトンネル内に踏み込みの温床を作って蒔いてみようかと思う。うまくいけば、苗は購入しなくてもいい。お金の問題ではなく(ちなみに、苗は1本100円程度)、自分の身を養うものはできるだけ自力で賄いたいからである。理屈っぽく言えば、生きることの根幹を資本の論理に巻き込まれたくないからである。まあ、それより以前に、人が苗を買うところを種から育てると、優越感、と言うのが過ぎるとすれば、百姓をやっているという充実感、あるいは、たしかな手応えを感じられるのが楽しい。
長ナスは、いつも4月始めからビニールトンネル内で播種・育苗している。購入するのは中長ナスの苗。自家育苗の長ナスは、遅く収穫が始まるので、中長ナスがなり疲れする時期でも旺盛に実をつける。
ハヤトウリ
種苗店でハヤトウリの種を見かけたので、2個購入。じつは去年、種用に4個とっておいたのだが、アパートの室内で保存していたので、早くから芽が出てしまい、5月始めの播種適期に取り出してみると、芽に実の養分が吸い尽くされ、しぼんでいた。芽が伸びているのを家族は知っていたようだが、種として利用できるのはどんな状態のものなのか分からなかったため、そのままにしておいたそうである。
ハヤトウリは霜に弱いので、遅霜のおそれがなくなってから(村では5月始め)実のまま、半分ほどは土から出した状態で埋める。万一遅霜が降りたときのことを考えて、切り藁をかけておく。ツルは長くなるので、高い支柱が必要。わが家では柿の木に上らせている。広い畑が利用できれば、地面に這わせてもいい。収穫は9月終わりから。霜に遭うと実が傷むので、初降霜のころに収穫を完了する。

子芋の定植
午後は子芋の定植。一昨日、休耕田に準備しておいた畑に植える。

芽出しした子芋
子芋の定植
左が子芋、右が親芋。
子芋の方は本葉が出かけている。親芋は発芽が早いものを選んだ。見ての通り、親芋は、半分に割って伏せても、複数の芽が出る。わたしは種芋からの発芽はひとつにする。だから、定植後しばらくして見回り、複数の芽が出ている場合には、摘んでひとつにする。生育が進み、新しくついた子芋から出る芽の方は、秋まで放置する。
左の子芋はシャベルで掘った穴に入れてある。芽の根元まで土をかけて、芽だけが地上にのぞくようにする。
子芋を伏せたのは3月31日だから、約1カ月経っている。子芋は植え傷みしやすいので、芽が出たら早めに定植する。子芋も親芋も種芋にするが、発芽は子芋の方が早い。数からして子芋が多いし、手間の問題もあるので、子芋も親芋も同時に定植する。親芋の中には小さな芽しか出ていないものもある。
幅120cmほどの畝に、鍬3つの間隔(40cm弱)で縦ガンギを切る。2、3度元寄せをするので、ガンギの間隔は広めにする(ジャガイモの場合を参照)。種芋は1ガンギに2個植えるが、大きくなった2株の子芋が喧嘩をしないように、種芋の間隔を按配する。
定植したあとで、種芋のまわりに、小さな円を描くように、ぐるりと肥料を撒いておく。いままでは元肥(化学肥料)は全面散布にした。畝全面に撒き、鍬や耕耘機を使って土と混和してから、定植をしていた。しかし、考えてみると、子芋の小さいうちは、種芋の養分を吸収して生長するので、最初からたくさん施肥する必要はない。しかも、全面散布にすると、草も勢いよく繁る。そこで、追肥・元寄せするまでのつなぎとして、種芋のまわりだけに肥料を撒いてみることにした。すると、肥料の量も少なくて済む。今年は子芋のみならず、ジャガイモも同様な施肥をした。理由は子芋の場合と同じである。
定植した種芋は100個。80株は食用、20株は種用である。種用には大きい種芋を選ぶ。(種芋は大きいほど収量があがる。)

写真タイトル
ヒメムカシヨモギ
明治初期にアメリカから渡来した帰化植物。よく見られる植物だが、名前と実物とが結びつかない人も多いのではないか。わたし自身、記事を書こうと思い立ったとき名前を頭のなかで探したくらいである。前に読んだ雑草の本に載っていたことを思い出し、その本で確認した。
写真ではレンゲの中に生えているが、大きくなると1.5mくらいになる。
ヒメムカシヨモギ
以前、自然畝における草の取り扱いに言及して、多年草は原則「駆除」の方針で臨んでいる、と書いた。そのときに挙げた多年草は、セイタカアワダチソウ、タンポポ、スイバだった(他にも、ヨモギがある)。ところが、春になって、ヒメムカシヨモギが目立ち始めた。この草は、多年草ではないが(一、二年草)、背が高くなり、枯れたあとも茎が固いのでなかなか腐らないので、放置しておくとやっかいなことになる。そこで、見つけ次第、抜き取ることにした。珍しくない草なので、その草の「原産地」のことなど考えても見なかった。
ところが、今日ふと「原産地」は隣の畑であることに気づいた。わが家の畑に隣接して狭い畑がある。去年春ごろから耕作されなくなった。所有者が年老いたからである。夏にもなると草が繁茂するようになった。そこで、草を刈り払う許諾を所有者から得た。しかし、時間がなかなか取れず、刈り払わずに1年が経った。思い出してみれば、そこにヒメムカシヨモギが文字通り林立していたのである。ヒメムカシヨモギの種は風に乗って移動する。だから、わが家の畑にもやってきて、春になると、不耕起をさいわいに発芽したのである。
「原産地」に思い当たると、それまでなかなか思い立てなかった草刈りにただちに着手。夕方、枯れたままになっていたヒメムカシヨモギを草刈り機でなぎ倒す。これからは定期的にその畑の草刈りをしなければならないだろう。自然農法といっても、草との戦いが完全になくなるわけではない。
(5月11日掲載)
 
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2002-04-28 ☆ 竹の秋

中井手の井手堰
午前8時から井手堰。今週から日曜日は3週連続で、井手堰がある。今日の井手かかりの田圃は、今年はわが家では耕作しない。しかし、わが家所有で、小学校が演習田として使っている田圃があるので、井手堰に出る。わが家の田圃が関係している3つの井手のうち、この中[ナカ]井手が一番短い。作業も楽で、時間も短い。

昼前に家族がやってくる。今日は家を出る時間が早かったので、家族は、あとから電車とバスを使ってやってきた。

高菜漬け−本漬け−
高菜の本漬け。
4月13日に下漬けした高菜を出してみると、外の葉が黄色くなっているものがある。水が上がるのが遅かったので、変色しまったのである。重石を重くしても、高菜は水が上がりにくい。今年も、下漬けしてから5日目に差し水をして、やっと水が上がった。。高菜は最初から差し水をした方がいいようである。
漬けるのは家族にまかせる。
高菜の水を切ってから、空の桶に下漬け前の高菜の重量に対して4%の塩を使って漬け直す。本漬けには唐辛子も加える。塩のふり方、高菜の並べ方は下漬けに同じ。

竹の秋に、蕨採り
広島市内に住んでいる妹が蕨採りにやってくる。村の外れに「わらび山」と呼ばれる旧牧場(現在は呉市所有)があり、村の人はよくそこで蕨採りをする。屋敷から歩いて10分あまりのところである。妹が、筍があれば欲しい、というので、家族も連れて、ついて行くことする。「わらび山」に行く途中にわが家の山があり、隣の山から孟宗竹が侵入してきて、竹林になりつつある。その山で、竹退治もかねて、筍掘りをする。5、6個掘りあげる。大きくなった筍は叩き折って退治する。
春の季語に「竹の秋」がある。筍の季節がその「秋」である。だから、村で「竹の秋」が始まるのは4月終わりから5月始めだろうか。辞書には、旧暦3月の異称、と載っている。「秋」になると、竹の葉は黄ばみ落葉する。
わたしはまた畑に戻ったが、妹と家族は「わらび山」に行く。山から帰ってから、町で生まれて育った家族は妹に感心(寒心?)して言うに、わたしはひとりではあんなところには行けない。でも、田舎育ちの妹はひとりでも一向に平気なようである。なお、蕨はたくさんの採れた。
あっ、と一言。蕨でも何でも、山菜は根こそぎ採らないでください。最近は、町から自家用車でやってきた人たちが手当たり次第採って帰るので、どうも村では評判が悪いようです。根こそぎ採ると、来年はもう採れません。
(5月8日掲載)

 
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2002-04-27 ☆ 講小屋

新築の講小屋での作業
午前中は9時から講の仕事。
講所属の全戸が集まって、改築した講小屋に、葬儀のとき使う調理用具と木材を納める。それらは、古い講小屋を取り壊したとき、一時移動し、調理用具は講頭の家に、木材はすぐそばの空き地にビニールシートをかけて、おいてあったものである。女性陣は調理用具を担当し、男性陣は木材を搬入する。木材のほとんどは、葬式の時、調理用の大竈に使う薪である。他に、製材したままの板もある。昔は、死人が出ると講の男たちが木を削った、という話を聞いたことがあるので、板は棺を作る材料だろう。体の大きい人が、これじゃ、わしゃ入らん、と板と背比べしながら笑う。講中にはまだ1週間前の旅行の余韻が残っている。
講小屋は3坪程度の小さな建物で、二つの部分に分かれている。古い小屋は、木材を入れる部分の方が広く、調理用具用の部分の倍はあった。新しい小屋は、かつて木材が入れてあった所が調理用具用になったため、広さは以前と逆になっている。薪を使わなくなった現在の生活を反映している。

講小屋には、個人的な思い入れがある。古い小屋には、祖父の弟の名前が墨で書かれた木札が打ちつけてあった。小農の次男に生まれた彼は裸一貫で都会に出て、財をなした。人に言えぬ苦労もしたであろうことは、小さいとき風呂場で目撃した彼の背中が物語っていた。その人が戦前に5円を寄付して講小屋を建てた(改築した?)。5円という金額を教えてくれた隣のおばあさんによると、その金の一部を使って、おばあさんの家で新築祝いの宴も催した。葬儀の準備に講小屋に行き、その札を見るたびに、その人のことを思い出していた。彼の墓は村にはないので、わたしにとっては講小屋は彼がこの村に生まれ、生きたことを記憶する墓標のようなものだった。
古い小屋が壊されて改築が始まったのに気づいたとき、わたしはあの札のことが気がかりで仕方なかった。打ちつけられていた小屋の柱とともに捨てられたのであろうか。そう思うと、わたしを村につなぐ錨のようなもののひとつが失われてしまったような悲しみに襲われた。
しかし今日、調理用具とともにその札が、柱に打ちつけていた釘が刺さったままあったのを見て、深い安堵を感じた。その札と、食器などの数を記した札とは保存されていたのである。
村のあちこちには、過去の人たちの生活の痕跡が、建物とか、農地とか、石垣とか、農道とかという形で残っている。また、講にしても無形の痕跡である。それは桎梏であると同時に、わたしの生の、わたしたちの生の、大 地 でもある。よく考えることがある、わたしはこの村という大地から生え育ってきた存在だ、と。だから、大地が安易に、そして急激に変化させられるとき、わたしたちもまた不安定に乱れる。乱れるのは、たんに心理ではなく、生そのものである。
木札への気がかりは、そのような思いと結びついていたので、講小屋の整理が終わったとき、ここしばらく曇っていた心が晴れたような気持ちだった。

午後は、定植予定の子芋のための畑を休耕田に作る。
休耕田のブルーベリー
ついでに、去年11月終わりに、休耕田に植えたブルーベリーまわりの草刈りをする。
この休耕田は、おそらく20年以上耕作していない。鍬で耕さなければならいほどの、ひどい湿田だからである。耕耘機はむろんのこと、牛耕をしていた時代では、牛さえ使えなかった。しかし、何か活用方法がないかと、以前から考えていた。ふと思いついたのが、ブルーベリーだった。ブルーベリーは、原産地は酸性土壌の湿地である、と読んだからである。栽培品種でも、土壌は酸性がいいそうである。しかも、根は深く張らず、表面近くに広がる。だとすれば、復田の可能性は残る。復田することは、たぶんないだろうが、果樹園に転換してしまう気にもなれない。だから、ブルーベリーは、土壌を考えても、復田を想像しても、適当な作物と思えた。そこで、試しに3本だけ苗木を植えた。
ブルーベリーはまだ20cmほどの苗木である。しかし、2本はすでに花をつけていた。収穫が可能になるのは、2、3年先だそうだから、それまで草に負けないよう、気をつけて草刈りをするつもりである。
(5月8日掲載)

 
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2002-04-22 ☆ 今年の沢庵漬け

4月20日、21日の「農耕日誌」はお休みです。

講の親睦旅行
20日(土)は、講の一日旅行で、温井ダムに行ってきました。「日々想々」の記事、「講中」で書いたように、旧ブドウ園の講山を売却しましたが、その売却金の一部を使っての旅行です。山を残してくれた先祖に感謝しつつ(宴会の始めに、先祖に黙祷を捧げましたよ)講中の親睦をはかりました。これからは、年に一回、ただし自己負担で、親睦旅行をしようという提案が、先の講の寄りに続いて、出されました。かつての「寄り講」の現代版ですが、本当に「寄り講」が復活するでしょうか。
総勢20名の、田舎のおじさん、おばさんの団体。最年長は90歳のおばあさん(「てつがく村」の主要登場人物の、あのおばあさんです)。主体は、50代から70代のおじさん、おばさん。とびっきり離れての最年少は、小学生低学年の男の子。飲んで、歌って、温泉に入って、なにやら不思議な楽しさを味わいました。不思議な、というのは、こんなメンバーでの旅行は初めてだからです。講は葬儀の相互扶助組織ですが、その旅行だと言ってしまうと、どこかそぐわないようなはしゃいだ楽しさでした。

21日(日)は雨。勤勉なわたしは、というか、家に居場所のないわたしは、学校に出てきました。さいわい、研究室という個室がありますので。

古式沢庵漬け
暇なときを利用して、今年の沢庵漬けについて一言書いておきます。
今年の沢庵漬けは、昨年12月23日に漬けました。沢庵を漬け始めて7年目、とうとう砂糖抜きの沢庵漬け、古式沢庵漬けとでも言いましょうか、その沢庵漬けを試みてみました。漬け方の大略は、「日々想々」の記事、「こんちゃん農園風沢庵漬け」に書いた通りですが、砂糖を抜き、塩は大根との重量比で9%を使いました。「4斗樽に4升の塩」です。使った大根は、宮重[ミヤシゲ]大根。
沢庵漬けは、普通、3カ月目から食べごろになるのですが、今年は3カ月で食べると、塩味が強く、家族の評判はかんばしくありませんでした。そこで漬け手のわたしは、今年漬けるときは塩を少なくする、と小さくなっていましたが、4カ月をすぎるころから、評判が上がり始めました。
むろん、塩分が減ったわけではありませんが、大根の甘味と塩分とが溶け合い、こなれた味になったのです。大根の甘味に関しては、わたしの母が、「砂糖を入れんでも、大根は甘いんじゃね」と感心したように言ったので、合格、と言えましょう。老人は概して甘い味が好きで、母もその例にもれないのですが、その母が「甘い」と感じたのですから。
いや、これで「まぼろし」の味の復活です。あと興味があるのは、いつ酸っぱくなるかです。砂糖を加えた去年の場合、6月になると酸っぱくなりましたが、今年はどうなりますか。

 
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2002-04-14 ☆ ジャガイモの定植

昨日は風邪気味だったが、今朝起きると少し熱が出ている。37度1分である。体もだるく、一日静養していたい気分である。しかし、ジャガイモの定植が気になる。ジャガイモは萌芽状態から見て、今日あたりが定植適期である(普通、3月半ばに伏せると、定植は1カ月後である)。それに、1週間後の天気はどうなるか分からない。天気の都合で、2週間も遅れると、種いもの芽が大きくなりすぎる。だから、天気のいい今日はどうしてもジャガイモを定植しなければならない。

ジャガイモの定植
寒けがするので、冬に使っていた防寒用下着を着て仕事を始める。
種芋を三つ鍬で掘り出す。懸念していた通り、メイクイーンの種芋に腐っているものがある。数え上げると、五分の一が腐っていた。一昨年は、種芋のほとんどが腐った。そのとき推測した原因は、湿害であった。今年は伏せたあとで、種芋がが溝の水準と同じくらいの位置にあるのに気づいた。耕土の浅いところなので、注意したつもりだったが、伏せ床を深く掘りすぎていたのである。湿害にあわなければいいが、と思っていたが、懸念が現実になってしまった。男爵には腐り芋なし。
メイクイーンは種芋を切り分けるとき頭頂部を切り落としてみたが、その点はよかったと思う。単なる印象にしかすぎないが、頭頂部以外の部分から出た芽の方がしっかりしているように見える。
さて、掘り出した種芋は、勢いのいい芽を1つか2つ残して、あとはかき取る。その際、残す芽も取ってしまわないように注意する。長さ120cmほどの縦ガンギ[畝の方向に対し垂直に切った蒔き床]に定植していく。1ガンギあて、種芋は3つである。鍬でガンギを少し掘りさげ(穴を掘ってもいい)、芋を30cmほどの間隔で置いてから、芽が少し出るくらいに覆土する。
ガンギ間の間隔は40cm弱。(間隔は、我が家で使っている平鍬の幅で測る。平鍬の幅の3倍。「鍬3つ」と表現することにする。)大根では鍬2つの間隔、人参では2つ弱の間隔であるが、ジャガイモの場合、広く間隔をとってあるのは、2度、元寄せ[芋が露出しないように、根元に土を寄せること]し、土をガンギ間からもってくるためである。
定植したあと、切り藁をかけておくと霜除けになる。村では5月始めまでは遅霜の可能性がある。ジャガイモの芽は霜に弱い。霜にやられても、種芋自体が腐らなければ、また芽が出るが、成長が遅れる。梅雨時期、雨が続き蒸し暑いと、せっかくできた芋が腐ることがあるから、成長は遅れない方がいい。しかし、風邪のせいで、今日は切り藁をかける元気はなかった。

ジャガイモを定植する畝が足りなかったので、鍬を使って耕す。すると、汗が出て、体が少しすっきりした。風邪の熱は暖かくして寝、汗をかくと下がってしまう、というのと同じ生理である。少々荒療治ではあるが、これで風邪の治りははやくなるかもしれない。

ビートの、自然畝への播種
ジャガイモ定植が終われば、今日は帰ってしまいたい。しかし、もうひとつやらなければならないことがある。昨日は、今日これほど体調が悪くなるとは思っていなかったので、ビートの種を水につけておいた。だから、ビートを蒔いておかなければならない。
ビート[ベトラーヴ bette-rave]はホウレンソウの仲間(アカザ科)で、草全体が暗赤色。根が直径5cmほどにふくらむ。根は中までで赤く、甘味がある。その根を、鬚根などとらずに茹でてから皮をむき、さいの目切りにする。それを酢につけてサラダとして食べる。日本の八百屋ではまず見かけないが、わたしが食べ知ったフランスでは普通の野菜。茹でてから売っていることもある。わが農園では春と秋とに蒔く。
アカザ科の野菜(フダン草もそうである)は、種が硬く、発芽抑制物質がついているので、一昼夜水にさらしてから蒔くと、発芽がよくなる。
今回初めてビートを自然畝に蒔いてみた。自然畝での種の蒔き方はまだ模索中である。今回は次のようにしてみた。平鍬2つ分の間隔で縦ガンギを切り、表面を薄く削り、横におく。薄く削るのは、蒔き床にしばらく草が繁茂しないようにするためである。それから、ガンギを縦に二分割するような形で、中央にシャベルで狭くて浅い溝をつける。角材などを定規のように使うと、楽にしかもまっすぐ溝が掘れる。その溝に3、4cm間隔で種を落としていく。それから溝のまわりで覆土して、鎮圧する。最後にスクモ[もみ殻]をかけておく。
いまの予想では、発芽まではうまくいくだろう。問題はどう肥大させるかである。自然農法2年目の畝であるから、少しは肥沃になっているだろうが、追肥をこまめにして肥大を促進していかないと、ある程度の大きさのものはできないような気がする。

カタツムリ、蜘蛛
ビートを蒔いていると、手が空いた家族がやってきた。スクモをかけたり、灌水したりしてもらう。子どもはカボチャを蒔いた別の自然畝の一部に繁っているカラスノエンドウを見たり触ったりしている。数日前、カボチャを蒔くため、カラスノエンドウを一部刈ったところ、何匹もの小さなカタツムリが出てきた。カラスノエンドウの茂みはカタツムリの繁殖場になっていたようである。だから、カボチャのためには、陰を作るのでよくないのだが、カラスノエンドウを、カボチャを蒔く部分を除いて、そのままにしておいた。その話をしたので、子どもはカラスノエンドウに興味をもったのである。
しばらくすると、今度は、「蜘蛛の巣がある」と声を上げる。ビートを蒔いている畝に広島菜が残っており、薹が立っている。その茎の間に小さな蜘蛛が巣を張っている。ビートを蒔き進むうちに、巣は破れてしまったが、広島菜はそのままにしておく。「こうしておくと、また蜘蛛が巣を張る」と言うと、「蜘蛛は鍬に潰されてしまうかもしれない」と、わたしの使っている鍬を見ながら、子どもが心配する。「大丈夫。蜘蛛はすばしっこいから、すぐに逃げてしまう。」
子どもにとって自然畝はドラマに満ちた場所のようである。

いよいよ明日から授業は第2週目に入り、授業の準備に忙しくなります。2月始め以来、定期的に書き継いできた「コラム」での「農耕日誌」を今まで通り更新し続けることができるかどうか、見通しは不透明です。農耕の一年を具体的に意識してみたい、という「農耕日誌」の意図がはやくも崩れてしまうのではないか、と心配になります。でも、力の続くかぎりは、書き続けます。
(4月16日掲載)

 
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2002-04-29
子芋の定植
 
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竹の秋
 
2002-04-27
講小屋
 
2002-04-22
今年の沢庵漬け
 
2002-04-14
ジャガイモの定植
 

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