てつがく村コラム


     
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2002-03-30(土) ☆ 伝え来ったわざ

村へ入るとき、本庄水源地から村の西條に通じる峠道を越える。峠にさしかかる直前に、大きな山桜がある。路傍に生えているので、否応なく目に入る。今朝その桜が満開になっているのに気づく。26日には気づかなかったところをみると、満開になったばかりである。昨春、「てつがく村」の入り口に、その山桜の満開の写真を載せたことがある。写真の日付は、4月8日となっているから、今年は1週間以上も早く満開になったことになる。やはり今年の春は歩みが早い。

実家の近くに、ビニール・トンネルに温床を作っている畑がある。車から見ると、その温床で畑の持ち主が働いている。以前、その人が温床を作るため、藁を編んでいるのを見たことがある。遠目ではあるが、しっかりと編んでいるように見えた。
温床などを作るため、枠を藁で編むことは、前回のコラム記事(2002-03-26)で、ゴボウの蒔き方について書いたところで、紹介した。そこでも書いたが、わたしは藁の編み方を誰かから直接習ったことはない。ゴボウの枠を編みながら、編み方にどこか問題があるような気がしていた。しっかりとした仕方で編めないのである。しかし、父の残した枠の編み方が悪いのか(言い換えれば、父の編み方に問題があったか)、枠を解体しながら調べたわたしの理解の仕方が悪かったのか、それとも、実際には何の問題もないのか、わたしには確かめる術はなかった。
藁の編み方を教わる
今日、畑の持ち主が温床のそばにいるのを見たとき、その人に教えてもらってみよう、と急に思い立った。我が家の畑の近所には藁を編んで枠を作る人はいないので、この機会を逃しては、本当にもう誰にも教えてもらえないかもしれないのである。
車を少し先の広いところにとめて、わたしは引き返す。
「おはようございます。ええがいに[うまい具合に]、作っとんさるね。」その人とはむろん面識はあるが、ほとんど話をしたことはない。道うち[集落の人が共同で道の草刈りや補修をすること]とか祭りの当番のとき言葉を交わす程度で、いつもは出会えば簡単な挨拶をするぐらいの関係である。だから、わたしが畑に来て言葉をかけたことに、その人は多少の戸惑いを感じているかもしれない。「この藁、ええがいに編んどんさるが、どぉやって編むんや。おやじがやりょぉたのを見たことはあるが、教えてもろうたことがなあけん、よぉ分かんのじゃ。」「おやじがやりょぉっても、自分がやらんにゃいけんよぉにならんにゃ、覚やぁせんけんのお。」と、その人は、わしも、ほうじゃった、といった口ぶりでこたえる。
「ほうじゃの、こおすんよ。」その人は、盛った土にスコップを地面と水平に突き刺し、近くの藁束を手にすると、スコップの柄を骨組みに見立てて説明を始める。その人のやり方は、わたしのと似てはいるけれど、はるかにしっかりと編むやり方である。「すぐ忘れるけん、ちょっと待ってや、写真にとるけん。」わたしはウェストポーチからデジタルカメラを取り出すと、要所要所で動作をとめてもらい、3ポーズをカメラにおさめる。
踏み込み床の作り方
編み方の説明を受けたあとで、今度はビニールを剥がしてある温床を見ながら話を続ける。その人は、温床に並べたビニール・ポットで苗を作っていた。ビニール・ポットは土に埋めてある。おそらくは乾燥を防ぐためであろう。苗は、トウモロコシとキュウリである。すでに発芽している。(ちなみに、露地栽培の場合、共に4月後半から蒔き始める。)
「[土の]下にゃ、藁なんかを踏みんさったんじゃろう?」踏み込みの温床だとは分かっていたが、その人の温床の作り方を知りたくて、きいてみる。「ほぉよ。藁や、山からしば[枯れ葉]をとってきて入れるんよ。青い草も、その辺から刈ってきて、入れる。青い草を入れると、よお燃える[発熱する]。ほいで、ドーズをかけるんよ。」
ドーズとはあまり聞かない言葉である。わたしが知っているのは、夏になると母が、「『ナスはドーズをやらなきゃ、[実が]成りゃんせん』とおじいさん[わたしの祖父]が言よんさった」とよく言うからである。ナスは乾燥期には水を遣る。わたしはホースをナスの畝まで引いておいて、水道を利用して灌水するが、昔は肥担桶[コエタゴ。水や液肥を入れて天秤棒で担ぐ桶]で水を担いで行き遣っていた。だから、わたしはドーズとは水のことだと思っていた。しかも、ひしゃくで一株一株かけるので、英語の dose と音と意味とでつながっていた
しかし、その人の説明を聞くと、ドーズとはどうも下肥のようである。考えてみれば、祖父の時代、単なる水を遣っていたとは思えない。今のように化学肥料を使っているわけではなかったから、施肥をかねて水をやっていたはずである。すると、台所排水とか下肥がドーズとして利用されたのだろう。小さいころのかすかな記憶であるが、台所からの排水はいったん大きな穴に溜めるようになっていた。また、小便は肥担桶に別にしていた。いま考えると、それらの「液肥」は野菜の灌水などに使われていたにちがいない。(ちなみに、小さいころ、尿意を催すと、自分の家の畑まで戻っていた。肥料になるものを、他所に捨てるのはもったいないからである。)
さて、その人はドーズをかける。堆肥は発酵を始めるには、水分が必要だから、水分補給の意味がある。また、窒素分が補給されれば、「点火剤」にもなる。「ほいで、糠を撒くんよ。糠は田や畑に撒かずにとっといての。糠を入れると、早よう燃えるんじゃろうの。」堆肥の発酵を早めるには、糠でも鶏糞でも、ともかく窒素分を加えるといいのである。
その人の説明を聞きながら、父に教わった温床の作り方を思い出していた。わたしは藁と糠ないしは鶏糞だけを使って発熱させるが、父は藁以外にも野菜クズとかを入れる、と説明していた。
サツマイモ育苗のためのイモの埋め方
ひとしきり説明をし終えると、その人はイモ(サツマイモのことは、普通、イモと言う)を見せてくれた。「はあ、芽が出よぉんで。」たっぷりかけたスクモを除けると、縦方向に半分を土に埋めたサツマイモが出てきた。「芽の出る方を間違えて植えたりするけんの。」その人はまだ芽の出ていないサツマイモを見ながら、笑った。
サツマイモの植え方をみて、おやと、思った。わたしもサツマイモは育苗するが、横に置いて、両端は土から出るようにして土を被せる。どちらから芽が出ても対応できるようにしているつもりである。しかし、この人は芽の出る方を見極めて、縦に埋めている。そういえば、週末農耕を始めたころ、わたしがサツマイモを育苗するのを見て母は言ったことがある。「おとおちゃん[わたしの父。わたしが小さいころは、だれもが父母を、おとおちゃん、おかあちゃん、と呼んでいた。]も、半分埋めよぉんさった。ときどき、芽の出る方を埋めてしもうて、しもうた、芽が出んわい、と言よぉんさった。」わたしのやり方は、本を読んで学んだものである。父がやっていたのを実際に見て覚えたものではない。子芋に関しては、芽の出る方向を見極めることはできるが、サツマイモに関しては、芽が出る方があるなど考えたこともなかった。やはり方向があるのである。いま手元の本を調べてもその点に関する記述がないから、推測するしかないのだが、サツマイモのイモは縦方向につく。するとツルにつながっている方が上になるから、上の端から芽が出るのが自然である。今年は、芽の出る方向に注意して、来年は、この人のようにイモを埋めてみようかと思う。
イモを半分埋めた上にスクモをたっぷりとかけるのは保温のためである、とその人は説明した。土であれば芽が出にくい。しかしスクモは軽いので、問題ない。
かつての技
農耕が近代化され合理化されると、かつての技が省みられなくなり、忘れられる。踏み込み床にしてもそうである。村のたいていの農家は、ナスやトマトやピーマンなどは、苗を購入する。サツマイモも、近所で育苗するのはわたしだけである。温床はこのごろでは電気を使う。家庭用の電気温床も販売されている。すると、踏み込み床の作り方、枠の編み方は忘れられていく。それを、時代の流れだ、と言ってしまえば、たしかにその通りだが、わたしは釈然としない。己の身を養う術は、できるだけ己の手の届く範囲に置いておきたい。命はおおよそ近代化や合理化にはそぐわないものである。あるいは、近代化や合理化にゆだねてしまうと、衰えてしまうものである。そんな思いがわたしにはあるからである。細かいことに目くじらを立てることはない、わずかなことにこだわる必要はない、と言われるかもしれない。しかし、わたしには、その細かなこと、わずかなことが互いにつながり、命を養っているような気がするのである。

昨日の雨のため、畑は作業のできる状態ではない。そこで今日は田圃に出かけることにする。これからの季節は雨が降らないかぎり、必ず何かやるべき仕事がある。
まず、10年近く耕作していない田圃で作業をする。2畝あまりの狭い田圃である上に、排水がうまくいかないので、耕作をしていない。「自己保全」ということで届けを出してある。何とか利用したい、と思ってはいるが、うまい利用方法がない。ハスを作ろうかと思ったことがあるが、それだけの余裕が今はない。再び稲作のローテーションに入れてみようかとも思ってみる。いや、その前に、水を張ってビオトープにでもしてみようか、とも思う。いずれにしても、それなりの管理はしておかなければ、いざ利用しようと思ってもできない。だから、草刈り、草焼き、上の他家の田圃との境に横手をつける、といったことはしている。今日は、横手を2、3年ぶりに浚うことにした。他家の田圃は法面が石垣でないので、崩れる。だから、横手をはっきりとつけていないと、境が分からなくなる。また、横手をつけて排水するようにしておかないと、上の田圃に水が入ると、我が家の田圃は水浸しになってしまう。草が伸び始めて、浚いにくくなっていたが、排水を考えて深めに浚う。

畦きり

畦切り
向こうから手前に畦を切ってきている。鍬は畦切り専用のもの。
畦切り
つぎに、今年耕作する田圃の畦切り。田植えは5月終わりか6月始めだから、もっと後でもいいが、暇のあるときにやっておかないと、できなくなる。畦を切るには、スコップで掘ったり、平鍬で削ったりもするが、畦切り専用の鍬がある。わたしはその鍬を使う。畦は、あまり厚く切ると、耕作面積が狭くなるだけでなく、夏の草刈りにも手間がかかる。切って狭くなっても、畦を厚く塗ればいいのである。
畦を切っていると、ところどころモグラのあけた穴がある。その穴は潰しておかなくては、水漏れの原因になる。まず、肥料袋(ビニール製)を千切って押し込み、最後に赤土でしっかりとフタをする。草を詰め込めばいいようだが、草はすぐに腐ってまた穴があく。モグラの穴を見つけると木の枝を立てたりして印をして、後日潰しに来る。
畦切りは鍬が土を打つ反動が腕に来るので、腕が疲れ、手マメができる。日はまだ高かったが、切りのいいところで、今日の作業は終わりにする。

土筆の甘酢漬け

土筆の甘酢漬け

土筆の甘酢漬け
屋敷に帰って、近くの人と世間話をしていると、弟がやってくる。弟は広島市内に住んでいるが、今日は土曜日なので、会社が休みなのであろうか。土筆を探しにきたが、ほとんど長けていた、と言う。先週末、土筆を家族がたくさんとったが、どうもその頃が採り時だったようである。土筆は頭がかたく締まっているのがいい。開くとおいしくない。それでも、すこし標高の高いところに行って、長けていない土筆を採ってきたらしい。「どがいにして、食べるんな」ときくと、「炒めるんよ。」「甘酢漬けにすると、酒の肴にええで。」「炒めても、酒の肴にならぁ。」
でも、お酒好きなひとは、是非甘酢漬けをおすすめします。冷蔵庫に入れておくと、1年くらいはもちます。簡単に作り方を。
土筆は袴をとって、まず水にさらします。水にさらすと歯ごたえがよくなります。つぎに、酢を入れたた水でさっと茹でます。ざるにとって水を切った後、酢4、砂糖1、塩少々の配合で作った甘酢につけます。
では、お試しあれ。
(4月2日掲載)
 
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2002-03-26 ☆ 雨と競争 −農耕日誌−

有給休暇
日曜日の埋め合わせに、また有給休暇をとる。今年になって4日目である。
有給休暇は年に20日ある。使わなかったら、最大20日まで次年度に持ち越せる。そういう訳で、わたしは今年度は40日の有給休暇の権利がある。権利があるといっても、真にやむを得ない場合を除き、いつでも休めるわけではない。むろん、休みます、と言えば誰もとめはしない。しかし、授業や重要な会議があるときなど、休むのは気が咎める。授業の場合は、補講をすればいい、とも言えるが、学生からすれば、とんでもない時間帯に補講をされるのは迷惑である(時間割の都合で、補講の時間帯は限られており、休日にしなければならないことさえある)。だから、いくら農耕のスケジュールが詰まっていても、まずは本務を優先させなければならない。
夏休みが始まるまでに休暇をとって農作業をするのは、今日が最後になるだろう。これからは農作業が滞れば、昼の長いのを利用し、朝早くとか夕方からとかに時間を作って、季節の歩みに追いつくしかない。

朝起きて空を見ると、数時間もすれば雨が降り出しそうな様子をしている。昨日の天気予報では、夕方から雨になる、ということであったが、夕方まではもつまい。
今日から小学校は春休み。いつもは母親が行かなければあまり畑に行きたがらない息子が、一緒に畑に行く、とすっかりはしゃいでいる。そこで息子を連れて行く。
畑に着くころ、すでに雨が落ち始める。すぐには本降りにはならないようではあるが、今日は半日分しか仕事はできないだろう。

ゴボウの蒔き方
夕方に蒔こうと思っていたゴボウを真っ先に蒔く。ゴボウは1日ほど水にさらしてから蒔いた方が発芽が早いし、発芽率もいい。というのも、ゴボウの種には発芽抑制物質がついていて、それが洗い流されなければ、発芽が始まらないからである。だから、できれば流水にさらした方がいい。発芽抑制物質がついている他の例としては、アカザ科のホウレンソウとかフダン草がある。
ゴボウの播き方としてもう一つ留意しなければならないのは、ゴボウは好光性の発芽をする、ということである。だから、覆土はするにしても(しなくてもいい)ほんの気持ち程度にして、平鍬の裏などで鎮圧したあとに、乾燥防止にスクモ[もみ殻]を撒いておく。さらに、わたしは、そのうえに寒冷紗をべた掛けする。スクモを撒いても風が吹くと飛んでしまう。ところが寒冷紗をべた掛けしておくと、飛散を防止することができ、さらに乾燥防止にもなる。


枠を藁で編む
左から右へと藁を編んでいる。骨組みの全体は下の写真を参照。
ゴボウを作るとき問題になるのは、耕土の深さである。我が家の畑は少し掘るとすぐに赤土の層に突き当たる。だから、できるだけ耕土を深くする工夫をする必要がある。また、品種も滝野川ゴボウのように、いかにもゴボウらしい根の長い品種ではなく、短い品種を選ぶ。たとえば、大浦ゴボウとか渡辺早生である。大浦ゴボウは見栄えは悪いが味はいい。わたしは年3回蒔くが、春は渡辺早生、初夏と秋は大浦ゴボウ(渡辺早生も可能)を使う。年3回蒔くと、一年中ゴボウが食べられる。
さて、耕土を深くする工夫であるが、深耕するにしても赤土を掘りあげるのは大変だし、耕土に赤土が混じると扱いにくくなる。だから、土を盛って耕土を深くする。深くする、というより、高くする、といった方が正確だろう。実際の方法として、畝幅を通常の半分にして、そのぶん土を高くする。また、下の方に抜いた草とか藁くずとかを入れて少しでも高さを稼ぐ。他方で、盛った土を崩れないように藁で枠を編む。
具体的なやり方は、まず、ゴボウを蒔くところを掘りさげ、土を脇に避ける。すると底面が長方形の穴ができる。つぎに、竹などで骨組みを作り、骨組みに絡ませるようにして藁で枠を編んでいく。藁が盛り土が崩れるのを防ぐのである。枠が編みあがると、底に草などを入れる。その上に、最初に避けておいた土を入れる。これで蒔き畝ができあがる。

ゴボウを蒔いた畝
畝にはスクモが撒いてある。右側の空いたところには、5月にもう一度ゴボウを蒔く。
藁を編んで枠を作るのは、父がやっていたやり方である。時間がかかるが、効果はある。父の生前、藁の編み方は教えてもらっていなかった。しかし、さいわい、父が作った芋の伏せ床が残っていた。父は伏せ床にも藁の枠を使っていたのである。(わたしは、伏せ床には、農耕を始めて最初の2年ほどは別にして、藁の枠は使っていない。)藁は腐りかけていたが、わたしはていねいに分解しながら、藁の編み方を調べた。編み方は、文章では説明が難しいので、残念ながら紹介できません。
雨がぽつぽつ降るなか、昨夜から水にさらしてた種を蒔く。水にさらしていた以上、蒔いてしまうしかない。時間があれば、種を新聞紙のうえに広げ乾燥させてから蒔くが、今日はそんな悠長なことはしていられない。雨と競争である。濡れて手にくっつく種をイライラと蒔く。
なお、種は、互いに5cmほどの間隔をあけながら、ばら蒔きにする。

雨はやんだかと思うとまた降り出す。ときに薄くなった雲の背後から陽の光が鈍く射したりもする。そのたびに、ほっとしたり、また、急いたりする。
子どもは仕事をやりたがって、「何かすることない」ときいてくる。やっとゴボウの種蒔きが終わり心に余裕ができたので、子どもにやるべきことを教えてやる。今年は、子どもが望むので、狭い畝を子ども専用にして、子どもに世話させることにした。今はまだ、普通の種蒔きには早いので、鍬で耕させたりしている。今日は、畝の端に去年から生えているフダン草を掘り起こさせる。子どもは、自分用の、柄の短い三つ鍬で畝を打ち始めた。

人参の蒔き方
わたしの方は今度は、人参を蒔く。
蒔く畝は、すでに苦土石灰を施して耕してある。さらに化学肥料を施し、三つ鍬でかき混ぜてから、レーキで均す。鍬の幅の1.8倍ほどの間隔をあけて縦にガンギを切り、一度鎮圧してから、種を蒔く。
鎮圧するときには、ガンギの両端は少し残す。端まで鎮圧してしまうと、強い雨が降ったときに、端から種が溝に流れ落ちてしまうことがある。また、種は密にばら蒔きにする。人参は小さいときはひ弱なので、群れて生えていた方がいいからである。
蒔いたあとは、篩を使ったりして気持ち程度に覆土し、もう一度鎮圧する。それからスクモをふりかけ、寒冷紗などをべた掛けにしておく。

人参を蒔き終えるころには、畑は雨で湿ってしまい播種作業はできない状態になっていた。
踏み込み床(温床)
雨を避けて、軽トラックの運転台で昼食をすませたあと、弱い雨のなか、さらに、ジャガイモとサツマイモの伏せ床に、子どもと一緒に、藁を踏み込む。
伏せ床はすでに、ほぼ畝幅に掘りあげてある。長方形の穴に、押し切りで切った藁を入れて踏む。さらに「点火剤」として鶏糞をふり入れ、また藁を入れては踏む。必要に応じて水をふりかける。堆肥を積むのと同じ要領である。5、6cm踏み込んで、その上からビニールを掛けてトンネルにする。
1週間ほどおくと発酵が始まり、発熱する。そこに土を入れると温床のでき上がりである。最初から土を入れると、うまく発熱しない。発酵は好気性で進むから、土を入れると空気が遮断されて、発酵が始まりにくいのかもしれない。

最後に、水道で使った水が流れるところに、クレソンを蒔く「田圃」を作って、今日の仕事は終わり。雨は下着までしみ通っていた。
(3月28日掲載)

 
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2002-03-23/24 ☆ 廃園 (旧ブドウ園) −農耕日誌−

323(土)

風が強いうえに、寒い。冬に逆戻りしたような気がしないでもない。実際、広島市内では車のフロントガラスに雨粒が時折あたっていたのに、村に入ると、雪がちらつく。車載温度計は5℃。

トマト発芽開始−温床と冷床−
昨日も強風だったので、畑のビニール・トンネルははがれていた。育苗床にしている方のトンネルをなおそうとすると、トマトが発芽している。3月3日に蒔いたので、発芽まで2週間あまりかかったことになる。
去年、トマトをビニール・トンネルで4月始めに蒔いて育苗したときには発芽と成育がよかったので、今年は、時期を早めて蒔いてみた。しかし、予想に反して、発芽が遅れた。よく考えてみると、たんに播種時期が早まっただけではなく、ビニール・トンネルの条件も違っていた。去年は、子芋とサツマイモと同じビニール・トンネルで栽培し、しかも、イモの部分は踏み込み床[底に藁などを踏み込み、発酵・発熱させたうえから土を入れた温床]にしていたために、トンネル内の温度が高かった。それに対し、今年は冷床[加温をしない苗床]なので温度が上がらない。むろんビニール・トンネルを被せただけでも温度は上がるが、3月始めに蒔いて発芽させるにしては、低温だったのだろう。来年同じ時期にトマトなどを蒔くとすれば、この点を改善して、温床にしなければいけないだろう。

山で孟宗竹を切る

豆のウロ

エンドウのウロ
枠の支柱に竹の枝を結びつけたところ。
枠は緑色の支柱(ビニールを被覆した鉄パイプ)と真竹で作ってある。竹の枝は地面に突き刺したうえに、横に伸びる枠のうち下の方の枠(枯色の真竹)に縛りつけて固定してある。
竹の枝が分かりづらいので、拡大写真を下に載せてみた。茶色で細長いのが竹の枝。根元にみえる緑の固まりが、伸び始めているエンドウ。 地面は切り藁で覆ってある。

豆のウロ−拡大写真−

午前中は、山に竹を切りに行く。先週日曜日にエンドウのウロを立てたが、大枠を作っただけで、一株一株の豆が這い上がるための支柱までは立てなかった。その支柱としては、藁をぶら下げたり、枝のついた竹(真竹の太くないもの)をさしたりする。わたしは事情があって孟宗竹の枝をさす。
我が家の山(わずかな面積であるが)[ここで、「山」とは、山塊全体ではなく、その一部分のことである]には、隣の山から孟宗が侵入して来ているところがある。放っておくと、山は竹林になってしまう。そこで、竹を伐採して、はびこるのを防ぐ。筍のうちに折ってしまうのが一番楽であるが、なかなか山まで行く暇がなくて、ついつい竹を成長させてしまう。春に生えた筍ならば、いくら高くなっても、夏にでも根元を切断しておくと、萎れてしまう。しかし、1年もたつと、そうは行かなくなる。筍みたいに柔らかくないし、細い竹のように山鎌で一刀両断にすることもできない。切り倒しても、そのままおくと邪魔になる。そこで、鋸で切り倒し、適当な長さに切って、しかるべき場所に集めておく。
あるとき、孟宗の枝は豆のウロに好適であるに気づいた。枝は主脈からまた小さな枝を伸ばしている。豆がつかまりながら上っていくのに格好の形をしているのである。それからは、孟宗退治もかねて、春になると山に竹を切りに行く。

廃園
目的の山にいく途中、送電線の鉄塔が立っている山に寄る。
去年の夏ごろ、或る町の森林組合の人がやってきた。電力会社の委託で、鉄塔周辺の木を伐りたので、所有地の境界を教えてほしい、とのことだった。それから、今年になってからか、伐採が終わったとの電話連絡があった。山に寄ったのは伐採されところを確認したかったからである。
鉄塔は旧ブドウ園と我が家の山が接する地点にある。旧ブドウ園の作業道の入り口で軽トラックを止める。作業道は鉄塔あたりまで通じているが、ブドウ園が廃園になってからは、管理されていないため、車では乗り入れることはできない。それでも、1年あまり前に来たときには道をふさいでいた倒木が片づけられていた。森林組合の人たちが、鉄塔への作業道として使うために、整理したのかもしれない。
鉄塔周辺はきれいに伐採され、伐採された木は、おそらく土砂の流出を防ぐためだろう、斜面と直交する方向に柵のようにおかれていた。もって帰れば使えそうな木もあったが、手間暇が必要なため、そこで腐るにまかせることにした。
作業道は鉄塔下からもう少し伸びているので、好奇心の赴くままにたどってみる。すると、ポンプ小屋があり、そのあたりで道は消えていた。ブドウ園が使われていたときには、ここまで水を揚げて、園内に配水していたのだろう。作業道周辺にも、使われなくなったいくつか水道栓がそのままで残っている。
ブドウ園小史
ブドウ園は、手元のメモによれば、昭和40年(1965年)、国と呉市の補助を受けて、開園された。広さは20万平方メートルあまり。個人所有の山、講中とか井手とかの共同所有の山などが果樹組合のもとに集められ、かつての所有者は組合員となった。しかし、2、3年で人手不足のため、経営が困難になり、開園8年後には、実質的に廃園となった。借金返済のために呉市に小学校用地として一部を売却したあと、区画整理が行われ、かつての所有者は、組合の永久小作人として、各々の山を管理することになった。開園から15年後のことである。
なぜ区画整理の際に所有者を個人に戻すことができなかったかというと、登記上の問題があったからである。開園以前、各々の所有者は国の測量にもとづいて自分の区画を所有していたわけではなく、「談合図」とよばれる手書きの大雑把な図にもとづいて所有していた。だから、山を果樹組合に統合する場合、法律的な手続きを経て、個人から組合に所有を変えたわけではなかった。だからまた、、区画整理後も、果樹組合から元の所有者に法律的な手続きを踏んで返還することができなかった。そこで、永久小作という形をとって、返還したのである。しかし、所有者はあくまでも果樹組合であるために、永久小作人的所有者は個人的に山を処分することはできない。山は、組合所有地として、一括して処分しなければならないのである。かつての所有者は奇妙な立場におかれた。
苦境打開に呉市が動いた。というのも、先に書いたように、呉市などが開園を推進したからである。ほぼ実現しそうになっていた構想が住宅団地の造成であった。呉市がまず買い取り、それを今度は広島県が買って、700戸の一大住宅団地に造成する、という構想であった。平成8年(1996年)、図面を使っての具体的な説明会が関係者を集めて行われた。ところが、平成11年、県は撤退を決定した。もっともらしい理由は示されたが、採算にあわない、という計算が撤退の本当の理由のようであった。
ブドウ園問題の解決は宙に浮いた。つぎに、呉市が独自で買い取りを行うことになった。ただし、買い取り規模はいくぶん縮小された。そして、一昨年、買収が完了した。
我が家もブドウ園に参加した。父の口ぶりからすると、積極的にではなく、村全体のためなら、ということで参加したようである。2区画あるが、いずれもブドウ園の端である。ブドウ園の中ほどにあるならまだしも、文字通り端であるから、参加しなくともブドウ園としては管理上、不都合でなかったはずである。そのような参加の仕方だから、ブドウ園での実際の作業には出なかった。また、父はサラリーマンであったから、出る余裕もなかった。
農業政策史には疎いが、それでも考えを巡らせてみれば、ぶどう園の開園は、農業従事者の所得を第二次・第三次産業従事者に近づけようと、金儲けの農業がめざされていた(そして、いまでもめざされているが)時代の流れと共に動いていた。実際、昭和40年といえば、高度成長期の真っ只中にあった。
ぶどう園に開発された山は、かつてはいわゆる里山であり、生活の山であった。木を間引き、間引いた木は燃料などに使われた。松林ではモク[枯れた松葉]を集めて、焚き付けにした。筋のよさそうな木は手入れをされ、建材として使われたり、売られたりした。秋には松茸などキノコ狩りの場所となった。山の辺縁は畑として開かれていたりもしていた。大人だけでなく、子どもたちも山を遊び場にしていた。山は生きていたのである。
山に吹く都会の風
生活の利便と少しでもいい所得を求めて、村を捨てて都会に出る人たちが増えるにしたがって、山もまた捨てられた。山は捨てられても、人が入らなくとも、それだけでも生きていく。山との長いつきあいを断つのなら、山には山本来の生活を戻してやるべきだった。
しかし、村にも都会の風が吹くようになると、村では本末転倒が始まる。むろん村にいても、貨幣経済で動く社会である以上、金を稼がなくては生きていけない。出稼ぎとか、兼業に現金収入を求める。あるいは、専業農家でなくとも、余剰農産物を換金する。ただ、わたしの考えでは、畑や田圃や山がわたしたと関係をもちながら、かつ生きているのは、それらが、何よりもまず現金を生み出すための手段である、とされないときである。そのときには、畑や田圃や山はわたしたちの生活の場である。そこでわれわれが生産活動をするという普通の意味でも、生活の場であるが、同時に、わたしたちの命を養うものをそこから直接得るという意味でも、生活の場である。そのときには、わたしたちに手を入れられながらも、畑や田圃や山は生きている。生きていて初めて、わたしたちの命をまっとうに養えるからである。だから、わたしたちはそれらを殺すことはないからである。
しかし、村にも都会の本末転倒の風が吹きだす。生活の場が金の手段になる。むろん、大規模経営の農家でなくとも、農産物は金の手段にもなる。しかし、それはあくまでも、われわれの身を養ったあとに残る余剰生産物としてである。われわれの身を養うものと基本的に同質である余剰生産物としてである。しかし、金の手段なった畑や田圃や山はもはや、二重の意味での生活の場ではない。金になりそうであれば、木を伐採し、ブルトーザーで自然の凸凹を整地し、生活風土におおよそ不似合いな植物を植えることも厭わない。たとえ宅地に造成するところまでいかなくとも、それですでに山は命をたたれる。
再生・・・?
一昨年のクリスマス前、わたしは幼稚園の息子をつれて、今日歩いている鉄塔あたりの山を歩いた。そのあたりは、我が家所有のうちでは広い山だった。大部分が旧ブドウ園に組み入れられ、一部が山林のまま残った。尾根付近は赤松林で、秋になると松茸がとれた。すこし下ると別のキノコもあった。下の方は畑だった。旧ブドウ園区域は子どもを連れて入るには荒れすぎていたので、山林のままで残った部分を歩いてみた。石垣が積まれた段々畑だったあとが、いまだに残ってた。戦後しばらくまでは畑として使われていた。いつからわたしには一切覚えがないが、耕作がやめられ山に戻っていた。小学生、あるいは中学生の頃かもしれない、親戚の人がそこに生えた松の枝を払ってくれたことを覚えている。いずれ建材として使うつもりだったのだろう。同じ区画の別の場所には、桐が植えられていた。その桐はブドウ園になっても残され、いまでも残っている。父が言っていたことには、いずれ娘が、すなわちわたしの妹が、結婚する頃に伐採して利用するために植えのである。わたしの父祖たちの生活の跡と、ブドウ園の遺構と、いまやそれ自身の生命力で生き始めたかのようにみえる山とが混在していた。
今日わたしはその同じ山を見ている。呉市に売却されたブドウ園は、いつまで、廃園の趣を残しつつも、それ自身で生きていくことができるのだろうか。わたしも含め、都会の風にやられた村人たちに見捨てられ、殺され、また再生しかかっている山。その山を再びわたしたちの手段にすることなく、せめて再び生活の山とすることはもうできないのだろうか。わたしは思うのだが、山が死ぬとき、わたしたちもけっしてまっとうには生きていけなくなる。

山の獣
閑話休題。語り口も元へ。
今日は孟宗竹の侵入を受けている2箇所のうち、かつての井手山[井手の関係者が共同所有している山]に出かけた。井手山の端から、村を走る井手の一つが川から水を引いている。井手山はどういう使われ方をしていたか、わたしは知らない。面積からすると、水源涵養のためとは思われない。あるいは、木を売って、井手の補修などにあてる金を工面するため、共同所有されていたのかもしれない。その山を祖父の時代に購入した。
山は、昔の道(現在は廃道)沿いに細長い帯のように伸びている。山に入ると、花の色がわたしの大好きな山ツツジの葉が出かけている。4月の終わりから5月の始めにかけて山ツツジは満開になる。下の方が竹が多いが、さらに上の方に行く。竹はまばらになるが、去年一度もこの山に来なかったうちに、やはり増えている。
山の中ほどで伐採を始める。2時間ほどで8本倒したから、1本あたり15分程度かかったことになる。孟宗竹は太い。竹切り用と銘打った鋸を使うが、竹に負けて、折れ曲がってしまう。といっても、木を切る鋸では竹は切りにくい。今度からもっと頑丈な鋸にしなければいけないか、と思いながらも、曲がった鋸をだましだまし使う。切り倒すと、長さ1.5mほどに切り分ける。うえから三分の一ほどは枝がついている。枝を払いながら、ウロ用になりそうなのはよけておく。
山に入るまではあれほど強かった風が、木に遮られて吹いて来ない。竹を切る手をふと止めると、高い枝がザワザワと揺れる音がする。山での作業には、山登りをするときとは違う感覚がある。山登りは、普通踏み跡をたどる。踏み跡には人の雰囲気が感じられる。ところが踏み跡をはずれ、山の中に入り込むと、人の雰囲気は希薄になり、別の雰囲気にとって代わられる。村の山は大体が雑木林である。様々な木が入りくんで生えている。下からは腐葉土のにおいがする。春先には木々の、青臭いような独特のにおいもある。そのなかでひとり作業していると、獣になったような気がする。薄暗い木々の下を動きながら、他の生命のにおいを敏感に嗅ぐ。ある種不安な心地がするが、同時に、木々の命に包まれているような安心感もある。高いところで動く枝に、その安心感を聞く思いがするのである。
軽トラックの荷台にいっぱいの枝(100本弱)を積んで、畑へと引き上げた。

午後は、まずウロ立て。1週間前に立てた骨組みに竹の枝を結びつける。山と違って畑は吹きっさらしである。北の方から吹いてくる風をもろに受けるので、寒い。枝は一株あて1本の割合で結びつけるから、エンドウとスナックエンドウ合わせて、80本になる。だから、作業に結構時間がかかる。震えるほどではないが、寒い思いをしながら、麻縄で一本一本縛りつけていく。
最後に、ゴボウと大根を蒔く畑を下準備する。鍬の作業である。

324(日)

家族デー。わたしは午前11時から講中の集まりに出席した。昼食と酒つきの集まりで、散会したのは午後3時過ぎであった。結局、今日は農作業なしで、広島に帰る。
この埋め合わせは、また有給休暇をとってしなければならないだろう。それも今週中に。4月に入ると、悠長に休暇をとっていられなくなるので。
講中の集まり、もしかしたら「日々想々」の記事にするかもしれません。
(3月27日掲載)

 
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2002-03-17 (日) ☆ 子芋の掘りあげ

家族デー。晴れているが、霞んでいる。いかにも春という雰囲気である。しかし、鼻の粘膜の敏感な人は、花粉だけでも大変なのに、おまけに黄砂が加わると、春霞といって風流がってはいられないそうである。

子芋が教える暖冬?
10時半ごろ畑に着くと、まず家族で田圃に植えてある子芋[里芋]を掘りあげに行く。子芋は3月半ばに掘りあげ、4月始めに伏せる。種芋用には20株残しておいた。5月始めに子芋を植えつけるとき、大きい種芋を選んで種芋用の株にしておく。
わたしが四つ鍬で株を掘りあげ、家族が芋を外して、大きい芋と小さい芋とを選り分ける。大きい芋を種芋にし、小さい芋は食べる。種芋は大きいほど収量が多い。今の時期食べるにはかなり固くなっている親芋も、種芋にはなるのでとっておく。
農道を自転車で通りかかった近所の人が声をかける。「芋は腐っちょらんかったか。」「うん、腐っちょらん。」掘りあげた子芋は冬から春にかけての気温の全般的な傾向を教えてくれる。冬が寒い年だと、腐っている芋が目立つ。腐っていると、指で押すとグシャとつぶれる。しかし、今年は腐り芋がひとつもない。種芋の株にはスクモをたっぷりかけて防寒しているおかげもあるだろうが、今年は暖冬だったのだろうか。また、暖かくなるのが早いと、掘りあげた子芋が芽を出し始めていることがある。そのときには、子芋を親芋から外すとき、芽を傷つけないように注意する。ジャガイモと違い、子芋は頭頂部分から一つ、多くて二つしか、芽が出ないからである(ただし、親芋は複数の芽が出る)。芽を傷つけない、ということから考えると、あまり暖かくならないうちに掘りあげた方がいい。その意味でも、3月半ばの掘りあげは理に適っている。さて、暖冬だったとすれば、芽の出ている芋も目立っていいはずなのだが、ほとんどの芋で出ていない。頭をひねる。

畑に帰って、昨日終わらなかった堆肥の切り返しの続きをする。積み終えた堆肥にはビニールシートを被せておく。雨に濡れると、肥料分が流出するからである。2、3度切り返せば理想的なのだが、時間の余裕のないわたしは、1回きりにする。

エンドウのウロ立て
午後は、収穫の終わった家族にはジャガイモの芽掻きをしてもらい、わたしはエンドウのウロ[支柱]を立てる。
11月始めに蒔き、小さいままで越冬したエンドウは、これから急速に伸びる。その前にウロを立てて、上によじ登る準備をしておいてやらなければならない。エンドウは、実エンドウとスナックエンドウの二種類をそれぞれ40株/箇所ほど蒔いている。蒔くときは株間20cmで、1箇所4、5粒の種を蒔く。2条蒔き。実エンドウは1箇所4粒、スナックエンドウは実エンドウに比べると勢いが弱いので5粒蒔く。ウロを立てるときに2株ほどに間引き、少し大きくなると、実エンドウは1箇所1株にする(2株にすると、混みすぎる)。しかし、スナックエンドウは草勢が弱いので、2株のままにしておく。
ウロの立て方は言葉で説明すると面倒なので、いずれ写真で示すつもりである。
(3月22日掲載)

 
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2002-03-16 (土) ☆ ジャガイモを伏せる −農耕日誌−

家族の買い物につきあったので、畑に着いたのは朝11時頃。
途中、先週水曜日と木曜日に荒起こしした田圃に寄る。木曜日午後から雨が降ったが、排水溝を作っていたおかげで田圃に水は溜まっていない。きれいに耕されている農地を見るのは気持ちがいい。

3月15日を目処にジャガイモを植える。
午前中はジャガイモの種を切り分けた。切り分けたあと、数時間切り口を日に当てて乾かし、それから、伏せる[育苗地で芽出しをする]
春ジャガの品種
ジャガイモの品種は、メイクイーンと男爵。それに、農林。農林は秋に植える品種で、春ジャガとしては最初の2品種を使う。
農林はいつもは種芋を買うのだが、今年は、春に植えて種芋を作り、それを秋に使ってみようと思う。メイクイーンと男爵の種芋は北海道産である。これら2品種の自家採取した芋は種には向かない。春ジャガは6月の終わりに収穫する。ジャガイモは休眠期間があるが、それでも、春ジャガは年内に芽を出し始める。芽が出たままにしておくと、芋の養分が消費されるので、何度か芽を掻きとりながら、次年度の春ジャガが収穫できるまで食いつなぐ。ところが、芽を掻きとっても、芋は老化していく。それを春に植えても収穫はできるが、収量はあがらない。わたし自身はやったことはないが、実際に前年の春ジャガを種芋として利用したことのある父が体験談として話してくれた。いまはどの農家も種芋を買っている、と思う。

種芋

種芋
左から順に、農林、メイクイーン、男爵。
農林は、昨秋、自然農法畝で育てたもの。昨春はジャガイモの収量は多かったので、秋ジャガは実験的に自然畝で作ったが、出来が非常に悪かった。せいぜい、一株に2個程度の芋しかつかず、株によっては小さな芋がついているだけのものもあった。原因は、肥料と思われる。
中央のメイクイーンは頭頂部分を少し切り落として、割ってある。大きい芋の場合、頭頂部分を切り落とすと本にあったので、今年は試してみた。理由は、頭頂部分に芽がたくさん出るので、芽を掻くのが面倒である、ということだろう。頭頂以外の部分からも芽は出る。
農林の方は、広島県産の種芋を使う。種芋の箱には、生産者として、瀬戸内海沿岸の町の名前が印刷してある。農林の休眠期間は短い。推測するに、暖かい地方で春早く植えて、種芋を生産する。3カ月もすると休眠から醒めるから、それを種芋として供給する。ところが、村の気候では早植えはできないから、完熟させると、8月半ば休眠期間中に伏せることになる。だから早掘りをして、種芋として使おうと考えている。うまくいけば、秋ジャガは自己採取種で対応できるかもしれない。
ちなみに、食味は、農林の方が他の2品種より劣る。だから、実験が成功しても、農林だけを栽培するつもりはないが。
種芋を切り分ける
さて、種芋は50g程度の小片に切り分ける(30gあれば種になる、と書いてある本もある)。種芋の大きさによって、2分割とか3分割にする。頭頂と尻尾を結ぶ線で分割する。芽は頭頂部分に多く発芽するからである。頭頂部分は、芽がたくさんあったり、出かけたりしているので、どこか分かる。メイクイーンのような細長いタイプでは縦方向に切ることになる。
今年は、去年同様、種芋を各々6kg買った。去年は母が芋を切ったが、今年はわたしがやった。記録を見ると、メークイーンの場合、去年は147片の種ができたが、今年は、102しかできなかった。どうも今年は大きく切りすぎたようである。切ったあと考えると、種芋はほとんど2分割したが、3分割してもいいくらいのもかなりあった。大きい種の方が収量が上がるというから、まあいいだろう。ちなみに、男爵は、小さいのそのまま使い、それ以外はすべて2分割して、全部で120の種ができた。これは去年とほぼ同じ。
種芋を伏せる

種芋を伏せる
種芋を並べたあと、左から土を被せている。この写真は、2000年の秋ジャガを8月半ばに伏せているところ。品種は、したがって、農林。
芋を伏せる
切った芋を数時間干したあと、午後、芋を伏せた。伏せる場所を10cm弱、掘りさげて、そこに種をぎっしりと並べる。並べた上から土を被せ、さらに藁などで覆って乾かないようにする。
直播きにしないで、なぜ伏せるかについては、以前「農事録」に書いたことがあるので、ここに再録する。
直播きする方が手間がかからないように思えるが、必ずしもそうではない。種芋からいくつもの芽が出るが、そのままにしておくと小さな芋しかできない。普通は1つだけ残し、後は摘む。伏せる方法だと、定植する際、勢いのいい芽を2つ残して、あとは摘み取る。定植してしばらして、1つにする。伏せる方法の方が、芽を摘む作業が楽である。また、種芋の中には腐るものがある。直播きの場合は補植しなければならない。そのためには別に伏せておかなければならない。ところが、伏せる方法の場合は、定植する際、腐った芋は捨てるので、その手間も要らない。さらに、畑の準備にも余裕ができる。
伏せる理由として、春の場合、霜害を防ぐ、ということもある。直播きにする場合、切り藁を被せて、霜害に備えるが、範囲が広くなるので、管理が難しい。しかし狭い伏せ床であれば、管理しやすい。芽が出たあと、藁を厚くしたりすれば、芽が霜にやられるのを防ぐことができる。寒冷紗を被せてもいい(もっとも、わたしはそんな手間はかけないが)。

今日のメインの仕事はジャガイモを伏せることだったから、あとは畑をまわり、気づいた細々した作業をする。
トレヴィスの発芽
3月3日にビニール・トンネル内に蒔いた、トマト、ピーマン、ブロッコリー、カリフラワー、トレビスのうち、ブロッコリーとカリフラワーは1週間あまりで発芽を始めた。今日見ると、トレヴィスも発芽を開始している。トレヴィスは好光性の発芽をするので、覆土しない。しかし、乾燥を防ぐため、スクモをかけた上に新聞紙で覆いをする。新聞紙をめくると、ばら蒔きにした種がいくつか発芽し、中にはもう徒長しているのもある。寒いためか、発芽が均一ではない。新聞紙の覆いを外さないと、発芽したものが徒長するし、外すと乾燥しがちになり、まだ発芽していない種が発芽しにくくなる。そこで新聞紙を透明なべた掛け[防鳥・防虫や乾燥防止のため、フィルムやネットを作物に直接掛けること]用のフィルムに代える。
自然畝の草刈り
2月23日に自然畝に蒔いた人参と大根のビニールトンネル内は暖かいため、草の成長も早い。大根は本葉の出始め、人参は発芽を開始したところなのに、草が大根と人参を覆うように繁っている。大根と人参は、もう少し大きくなれば、草と共存でいいが、このままでは草に負けてしまうことになる。そこで、草刈りをする。
自然播種
一昨年(2000年)の春に蒔いたイタリアンパセリは去年の春か夏までは利用していたと思うが(収穫は家族の仕事なので、わたしには正確な記憶がない)、薹が立ってからそのままにしておいた。冬の間か春先か分からないが、こぼれ種がそのあたりに発芽した。今春、その畝はジャガイモを植えるつもりなので、いずれ近いうちに耕す。家族の要請があったので、イタリアンパセリの苗を他の畝に移植する。都合20株を自然畝の隅に移す。
「農事録 2001」に掲載した「あさつきとマーシュ」の写真でも説明したが、わが農園ではマーシュはこぼれ種で作っている。他に、チマ・サンチュ(朝鮮半島で栽培され、焼き肉を包んだりするレタス)もそうである。慣行農法では一作ごとに耕起し、除草するので、なかなか「こぼれ生え栽培」はできないが、自然農法にしてからは、野菜の中にも雑草のように育つものも出てくる。種を蒔いて育てている野菜の間に、他の野菜が雑草に混じって、雑草のように生えている。収穫などの作業効率は悪いかもしれないが、そんな自然混植栽培は、野に出て野草を摘むような楽しさがある。収穫担当の家族も楽しんでいるようである。
堆肥を切り返す
夕方近くになって、2月2日に積み終えた堆肥の切り返しを始める。堆肥は冬だと1カ月もすれば最初の発酵を終了する。発酵時には発熱するので、発酵終了は熱の有無で確かめることができる。一回の発酵では、発酵にむらができる。たとえば、内側より外側は発酵しにくい。そこで、堆肥の山を崩し、ほぐしたり混ぜ合わせたりして、もう一度積みなおす。発酵していないところは内側に入れるようにする。積みなおすときは、最初に積むときのようには踏まない。堆肥の状態によっては踏まずに積むだけにしておく。なお、切り返しにはホークを使う。
思ったより時間がかかり、肩が凝る。半分ほど積んだころ5時のサイレンが鳴ったので、続きは明日にすることにして、畑から引き上げる。
(3月21日掲載)

 
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