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  日  々  想  々 2002年 
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講中2002-04-19

3月後半の日曜日に講の寄り[寄り合い]があった。

講とは、葬儀の互助組織である。村のサコ[集落]ごとに一つずつあるから、村の平坦部の地区[苗代]には、都合5つの講があることになる。我が家は、そのうちのひとつの講に所属している。葬儀の互助組織と一口に言っても、講ごとに少しずつ事情が異なるから、我が家が属している講での近年の状況にもとづいて、その実態を大まかに説明すると、次のようになる。
講が動くのは、葬儀のときだけである。それも葬儀の当日に限られる。講に属する各家から一人を出す。朝8時に葬儀のある家(「当家」と呼ぶことにする)に集合。まず、講小屋から葬儀用の什器を運んでくる。調理用具(竈を含む)、食器、テーブルなどが共同所有の什器として講小屋に納めてある。
女性は煮炊きをする。男性は帳場に詰める。家ごとに男を出すか女を出すかを指定するわけではないから、ときに女性が帳場を務めなければならなくなる。作る料理は、葬儀のあと、当家の家族、親類縁者、講中がとる昼食にあてられる。最近は葬儀の日から魚や肉がついた料理を出すのをよく見かけるようになったが、講中で作るのは、精進料理である。
葬儀の仕方についても、講でいくつかの申し合わせがある。まず、祭壇は業者から借りるが、そのランクは決められている。わが講では、指定業者の、下から2番目のランクの祭壇を借りる。一番下のランクを使っていた時期もあるようだが、近年ランクアップされた。それでも、通常選ばれるランクから比べると質素な祭壇である。花輪は、親族からのもの以外は禁止。さらに、会葬者に渡す香典返しは、会葬御礼の、薄いはがき1枚である。普通、はがきは封筒に入れられ、それにハンカチとかお茶とかが添えられたりするが、わが講の場合は一切何も付けない。はがきは、あらかじめ印刷して保存されている同じ文面のものを使う。帳場の人が当日、それに日付を入れて、当家の判を押す。
当家の人たちが火葬場(現在は、市営火葬場を使う)から帰ってくると、帳場の担当者が集めた香典と会葬者リストを渡して、講中は解散する。講の仕事はそこまでである。共同所有の什器を洗い、講小屋に納めるのは、当家の仕事になる。
つまり、相互扶助の組織であり、しかも、現代のように贅沢な時代では、葬儀を派手にしないための相互「規制」の組織としての機能もしている。節度ある葬儀を行おうとしても、平生つきあいが深い隣近所が派手な葬儀を行えば、なかなか実行できない。しかも、家族の死に直面して当家の家族は動転している。冷静な判断はなかなかできない。勢い、高い祭壇を使ったりするようになる。そのような状況にあって、講中は葬儀の「理性」を受け持っているようなところがある。

サコごとに一つずつ講がある、と書いた。しかし、講は自治会組織とは重ならない。サコは村の自治会の下部組織である班を構成し、班の構成員は、現在そのサコに住んでいる人たちである。サコを出入りすれば、同時に、班や自治会組織も出入りすることになる。それに対して、講はサコとは一致しない。成立当初は、或るサコに住んでいた人たち母体になったと思われるが、長い年月を経ると、別のサコに移住する講の構成員(講員)も出るようになる。それでも、村を出ない以上、講員として残ることができた(言い換えれば、村を出てしまえば、基本的に、講からも除外される)。だから、現在では、構員の多くは同じサコに住んでいるが、別のサコに住んでいる人も何人かいる。ついでに、分家について言えば、分家も講に所属できる。
一体いつから講組織が存在しているかについては、知らない。というよりは、分からない。しかし、人がいれば葬儀はつきものだから、漠然とした言い方であるが、遠い昔からあったと思われる。ところで、村の(すなわち、苗代のみならず、栃原も含めて)大半の講は、熊野町にある寺と結びついている。しかし、わが講を含む二つの講だけは、呉市街の寺と関係をもっている。このように講毎に特定の寺と結びついているところからすれば、寺との結びつきが自然発生的な互助組織をはっきりした組織化へ促した、との推測はできる。自治会組織と比較して考えてみれば、ともかく、講は、地縁と血縁で結ばれ、身を寄せ合いながら生きてきた人たちが自然に結びついて生まれた共同体であるように思われる。

葬儀にしか機能していない講が寄り合いをもったのは、特別なことである。山林だったところに40年近く前に開かれた旧ブドウ園が、去年、市に買収された。講山[コウヤマ。講中が共同所有している山林]もブドウ園に含まれていたため、講にも売却金が入ってきた。寄り合いは、その売却金の処理に関する話し合いをもつためであった。
講山の売却と売却金の配分をめぐってトラブルがあった。そのトラブルは、一般的に言えば、講という前近代的組織と遺産相続についての近代的な(戦後日本の)法律との確執と表現することができる。講組織の事実を認める人たちは、講山の売却と売却金の取り扱いを講の現組織にゆだねる法律的手続きをしたが、他方、法律上の相続権を主張する人は講の現実を否定した。(むしろ、村を遠く離れて生きているがために、講の現実を知らず、それがゆえに、あくまでも法律上の権利を主張した、と言った方が正しいような気がする。)そして、法律上の権利に従った、売却金の配分を要求した。トラブルを解決するため、結局、売却金の一部は講の外部に出さなければならなかった。それでも、相当の金額が講に入ってきた。
寄り合いは、売却金の収支報告が中心議題であった。さらに、収入の一部を古くなった講小屋の建て替えに振り向けることにし、理事会決定ですでに建て替えに取りかかっている旨の報告があった。

すでに書いたように、講小屋には葬儀に使う共同所有の什器が納めてある。3坪ほどの文字通り小屋であるが、なかは二区画に分かれており、一方には什器が、他方には木材が入れてある。現在はもっぱら什器の納めてある区画が使われている。木材は、かつて村外れの火葬場(村では、ヤキバと呼んでいた)で火葬していた頃に使われていたが、現在では市営の火葬場を利用するため、使われないままになっている。

寄り合いの中心議題が終わると、食事と酒が出て、膝を崩しての話しになった。
70歳半ばの、隣に座った人がわたしに講の昔話を始めた。「昔ゃ、講中の集まりが年に二回、あったんでがんすでぇ。一回は、切り入れ、ゆうて、寒に講山に木を切りに行くんでがんす。」
木は火葬用の薪と棺を作る材木に使った。死者が出ると、講の男たちは木を削り、棺を作る。ヤキバでの仕事も、自分たちが切ってきた薪を使って、講の男たちがする。当番たちは火をつけ、ちゃんと燃えているのを確認してから、家に帰る。次の朝、骨拾いの前に、骨だけになっているかどうか確認に行く。必要とあらば、また火をつける。使用料を払えばすべてやってくれる市営火葬場が利用できなかった昔は、講という互助組織がなければ、葬儀はできなかった。講に属することは、だから、生きるためにどうしても必要なことだった。
「寒に木を切るんは、虫がつかんけんでがんす。」(ちなみに、その人によると、竹は11月から12月頃に切ると、長い間使えるそうである。)その人は続けた。「ほいで、古い木は燃やして、そのまわりに集まって、和をつくったんでがんす。」その人はそれ以上は説明しなかったが、酒好きのわたしは、焚き火のまわりに一升瓶が転がり、切り入れを終わった男たちが談笑しているさまを想像した。
木を切るのは、死者を弔う準備のためである。その意味で、切り入れは死と結びつく。しかも、切り入れに参加することは、死者の弔いが講中の助けを得なければできないことであれば、義務である。しかし、その死と結びついた義務が、死者に使われなかった古い木が燃えるところで、生者たちの和に昇華する。
「ほいで、もう一回は、寄り講、ゆうて、順番に当番になって、当番の家に集まったんでがんす。」年に二回のうち、もう一回は親睦会の性格をもつ集まりであった。
しかし、今は、講小屋の木は更新されることなく、朽ちるにまかせられている。一体いつの時代からそうなっているのか、わたしにははっきりと言うことができない。中学生の頃まではヤキバが実際に使われていた記憶がはっきりと残っている。高校生の頃になると、はっきりとした記憶がない。近親者での最初の葬儀はわたしが大学生の時である。その時は、市営火葬場を利用したような覚えがある。とすると、わたしが大学に進学して村を離れる前後頃から、講小屋の木は更新されなくなったということになる。講山がブドウ園に組み入れられた時代とほぼ重なる。村のヤキバが使われなくなったことと、講山がブドウ園になったこととは直接の関係はないだろうが、何か暗示的ではある。

話しているうちに、賄いの仕方について意見が出た。
先に書いたように、女性が賄いを担当し、必要な料理はすべて用意する。材料代は当家が負担する。当家の立場からすれば、なるほど他人の手を借りるわけではあるが、相互扶助だから、世話になりっぱなしといった場合に感じる気兼ねはない。しかし、相互扶助である以上、今度は自分の方から人手を出さなくてはいけない。気兼ねはない代わりに、あとが煩わしい。
しかし、今は料理を専門店に簡単に注文できる時世である。しかも、たいていの家はその費用を負担できないわけではない。いな、葬儀という特別な場合であることを考えれば、その程度の負担は仕方ない、と思えるほどには、たいていの家は裕福になっている。だから、当家の煩わしさがあるとすれば、食事の後片付けをするときから、煩わしさは始まるとも言える。一般に、今は、葬儀を相互扶助でしなければ経済的な負担が過重になる、といった時代ではないのである。
だから、賄いもなしにしようとか、賄いの範囲を縮小しようとかの意見が出た。賄いを縮小するすれば、その分、帳場などへ手を回せる。すると、講から出す人手もこれまでより少なくすることができる。平日は家中、皆稼ぎに出てしまうような時代である。人を出すといっても、やりくりが難しい。賄いを縮小したりして講から出す人の数が少なくてよくなれば、当番制にして、講の負担を軽減することもできる。要は、当家が金を出せばいいことである。それは、時代が要請し、時代が可能にしてくれている。
旧来の講のあり方を変えてしまおうとする意見は、賄いの仕方をめぐるだけにとどまらなかった。会葬御礼のはがきの質素さについても注文が出た。あんな薄っぺらの紙切れ一枚では、遠来の会葬者に申し訳ない。封筒に入れてほしい。それに、当家の負担でもいいから、何かを添えたい。
切り入れと寄り講の話をしながら講中が和をつくった昔を懐かしがった、わたしの隣の人が、金のかかる威勢のいい提案を聞きながら、「昔ゃ、みんな貧乏じゃったけん、講で助けおぉたんでがんすで」と独り言のように言った。講が何であったか、何でなければならないか、といった正面切っての言葉ではないが、戦前戦後を生きてきて、長い間変わらなかった講の活動と講中のつきあい方を身をもって生きてきた人の、講の現状を前にしてのため息のようにも聞こえた。
威勢のいい提案の行くつくところは、業者が経営する斎場である。実際、隣町の斎場が話題に出た。隣町は、わたしが中学生の頃、呉市のベッドタウンとして団地の開発が始まり、いまや文字通り「町」と化している。そこに最近、私営の斎場ができた。祭壇料の具体的な金額も紹介された。わが講が使う祭壇の三倍の使用料である。むろん斎場使用料は祭壇料にとどまらない。「高いけど、何から何までやってくれるけん、何の手間もいらんよね。」値段は高いが、出せないこともない、といった響きであった。講は、裕福な時代の立派な斎場の前では、もはや不要な前近代的な組織のように色あせる。

講の、いわば「近代化」についての話題がひとしきり続いたあとで、「講を無ようにしちゃ、わからん[だめだ]。講が無ようになったら、村が壊れる。」と或る男性がはっきりとした声で言った。「講山も、わしらの祖先が残してくれたもんじゃ。大事にせんにゃ、わからん。」「おい、若ぁもんらは、どう思んな。自分らが思うちょることを言うとかんにゃ、わからんで。」彼はわたしが座っている方を向いて言った。講の集まりに出ている人たちのうちで、わたしは二番目に若い。一番若い人はわたしより4歳年下で、一人おいてわたしの隣に座っている。彼は二人の「若ぁもん」に問いかけたのである。あるいは、二人の「若ぁもん」に同調を求めたのである。
威勢のいい提案の行くつくところは有料の斎場だ、と書いた。その斎場はまさしく死者の弔いに特化した施設である。死の場である。生者は、そこで、自分の手を煩わすことなく、死者を弔い、己は生の側にとどまる。死を生と切り離す同じ手で、己と他者を切り離し、己は己の側にとどまる。それを可能にしてくれるのは、経済的な豊かさであり、また逆に、経済的な豊かさはそれを要請するかのように思える。
帳場をやっていると、いつも不思議な感覚に襲われる。死者の弔いの場なのに、生の賑わいを感じるのである。
その賑わいは、男たちがつどって、講小屋に什器を出しに行くときから始まっているように思う。当家の庭に竈に据えて木をくべ[燃やすために入れ]、料理の準備に大きな鍋で湯を沸かす。冬であれば、まだ帳場の仕事が始まっていない男たちは、そのまわりに集まり暖をとりながら雑談する。常ならぬつどいであるがゆえに、どこか気分がかきたてられるような雰囲気がある。場違いな心の動きと頭では分かるのだが、気分の方は抑えきれない。女たちは料理をはじめる。料理は葬儀の一部ではあるが、食べるのは生者たちである。だから、料理には生の、しかも相つどった生の、暖かいにおいがする。葬儀の始まる頃になると帳場の仕事が忙しくなる。よく知った者同士がその日のメンバーに応じて仕事の分担を決め、村の他の協同作業と変わらぬ動きで、帳場をこなしていく。帳場で会葬者の顔を見たり、会葬者名簿に書かれた住所を読んだりすると実感することであるが、普段はめったにやってこない人たちが、死者の弔いを機に、一堂に会する。講中の帳場という雰囲気から会葬者を見るからかも知れないが、まるで生者を集めるために弔いがあるような気にもなる。帳場が一段落つくころは、葬儀も終わり、帳場の男たちは食事をとる。「上條講の八寸は、ほんまにうまいのぉ」と料理に舌鼓をうちながら、酒を飲む。帳場の男たちは、そのときには、切り入れのあと古い木を燃やしながら、和をつくる、あの男たちである。
だから、わたしは帳場を務めるたびに、死者は生者を集め、お互いの生と己の生を意識させる、と感じる。もっと言えば、人は生者に生を鮮明に意識させるために死ぬのである。だから、人は死ぬことによって、生者の中に、生の意識として甦えるのである。

「講を無ようにしちゃ、わからん。講が無ようになったら、村が壊れる。」という叫びは、それゆえ、わたしたちの或る生き方を壊してしまうな、という叫びである。講とはたんに葬儀の互助組織ではない。和して生きるための組織なのである。そして、死を生の側に取り戻すための組織なのである。講山は野辺の送りを伐り出すためだけの山ではない。共に働き、和をつくるための山なのである。だから、今はなき祖先たちは、生きよ、生を慈しめよ、と講山をわたしたちに残したのである。講山として己を残したのである。
叫びが叫びであるのは、講がすでに危うい存在だからである。講山がブドウ園に組み入れられ、利益を生み出す装置に変えられる。ブドウ園が失敗しても、〈前近代的な〉関係に縛られた講山そのものは戻ってはこない。〈近代的な〉売却金に化けて帰ってくる。山であれば、いつまでも生き残る。しかし、金はうつろいやすい。事実、金に変わったとたんに、「講山」は近代的な法律関係によって切り崩されてしまった。
金はしがらみを清算してくれる。生きるために必要なしがらみであった講の関係を薄めてくれる。金で賄いを軽減できれば、わたしはわたしの生活を他者から煩わされずに済むようになる。自分の生活をそれだけ楽しむことができる。葬儀を有料の斎場で行えば、他者とのしがらみをいっそう軽くできると同時に、己の生活を死者から守ることもできる。わたしの生活は、他者から、そして死者から守られる。
しかし、同時に、葬儀のあの賑わいは、講中のあの和は、消えてしまう。思うに、生は、他なる生と交わるときに、また、死と交感するときに、いっそうその炎をかきたてられる。いっそう輝く。金ですべてを処理しようとするときに、逆に、生そのものがうつろいはじめる。
だから、講の存在が危うい、ということは、わたしたちの生そのものが或る危うさにむしばまれていることだ、とわたしは思う。わたしたちとは、たんに講員だけではなく、おそらくは現代に生きるわたしたち全員である。

講山はすべて売却されたわけではない。二つあった講山のうち、ひとつが旧ブドウ園として売却され、ひとつが残っている。
「講を無ようにしちゃ、わからん」と言った人は、講の長老たちに質した。「まだ、講山は残っちょんじゃろうが。」残った講山の存在は、その場に集まった人たち全員は知っている。だから、その人はわざとその質問をしたのである。「うん。まだ残っとる。」「ほいなら、今度みんなで山に行ってみょうや。[山の]境を確かめんにゃいけんし、それに、若ぁもんにも境を教えちょかんにゃわからん。」実際、わたしはいずれの講山にも入ったことはない。だから、漠然としてしか、講山の場所は知っていない。「ほうじゃの。行ってみょうか。」長老のひとりはこたえた。
長い放棄のあと、わたしたちは、また講山に入ってみようとしている。入る前からはっきりしていることは、講山は、村の他の山同様、荒れきっている、ということである。人以外の生が、人なしに営まれるにまかせられている、と言ってもいい。わたしたちは、そこにまた人の手を加えてみようとするのだろうか。そうだとすれば、人以外の生と、わたしたち生と、そして死とがあい和し、あい燃ゆるような、そのような手の加え方が試みられなければなるまい。残った講山は、「近代化」の波をくぐり抜けて、わたしたちの手に残された、生の可能性だからである。

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