てつがく村コラム

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2002-06-09 ☆ 休耕田・耕作放棄田

梅雨の時期なのに日照り・・・
平年ならもう梅雨に入っている時期(平年の入梅日は、6月2日)なのに、5月半ばからずっと晴天が続いている。井手(フシワラ井手)の終端部近くにあるわが家の田圃までは、なかなか水が流れてきてくれない。日照りが続くと上の田圃が取水してしまうからである。ため池の水を抜くときと違い、取水の仕方について規則はないので、日照りで割りを食うのは、下の田圃である。水をせくときは、少しは下に流れるようにせけ、と父は教えてくれたが、あるいは上の田圃の所有者に対する、表立っては言えぬ要望でもあったのかもしれない。
それでも、わが家には裏の手があるので、なんとか凌ぐことができる。わが家に属する田圃の一番上の一枚は、二つの井手から取水する権利がある。田圃の面積からして、3分の2はフシワラ井手から、残り3分の1は別の井手から取水できることになっている。後者の井手は水量が豊富なうえに、わが家の田圃は井出の終端から3番目に位置している。そこで、下の田圃2枚の水量と取水状況を見ながら、権利以上の水を引く。一番上の田圃から水を溢れさせ、横手[田圃の中に設けられた狭い水路]を通して、本来は権利のない下の田圃に水を落とす。むろん、下の田圃の所有者は、水が余っているときは、見て見ぬふりをしてくれている。
自分が農耕をやらなかったときは、近所づきあいなど気にもかけていなかったが、いまは、村ではお互いもちつもたれつで生きていることをしみじみと感じる。近所づきあいは、生きるために必要不可欠のことである。裏を返せば、村八分は、徹底的におこなわれると、撥ねられた家族は、精神的苦痛などという前に、そもそも生きていけない。大げさに、しかも単純化して言えば、村は、集落は、それ自体がひとつの大きな有機体であり、一人一人は、各家族は、その組織に守られて生きていると同時に、その組織から除外されれば、生きることさえおぼつかない窮地に追い込まれることになる。

休耕田の畑作物
昨日(土曜日)は家族も一緒に来たので、一日を畑で過ごしたが、今日は田圃で農作業をする。
午前中は、黒大豆を蒔く畑を休耕田に作る。黒豆は6月半ばに蒔くので、できれば梅雨入り前に畝立てしておく。種のつき始めたレンゲを刈り払い、耕耘機で鋤く。3回ほど鋤くと、昨秋の稲の収穫以来一度も耕起したことのない土も細かく砕け、畑らしい土になる。肥料は、酸度矯正のための石灰を撒布するだけである。大豆はあまり肥料を要求しないし、田圃は畑に比べれば肥えているからである。
田圃は2グループに分けて、交互に休耕しているが、休耕田の一部では野菜を作る。定番は、子芋と大豆である。大豆は、6月半ばに蒔く黒大豆(表面が蝋をひいたように光る大粒の、丹後黒大豆)、7月終わりに蒔く青大豆(皮が薄緑色で、中は普通大豆同様、黄色の豆)である。いずれ普通大豆も加えたいと思っている。黒大豆と青大豆は開花期が違うので交配はしないが、それでも念のため、違う田圃に作るようにしている。いずれの大豆も初秋に枝豆としても利用する。黒大豆の枝豆は美味である。
枝豆の季節?
(盛夏に枝豆を食べようとすると、春に蒔かなければならない。しかし、春蒔きの大豆は、すくなくとも村の場合、時ならぬ大豆のようである。たいていの場合、実がつくとカメムシに吸われる。カメムシがついた大豆は変色し生育不良になるばかりか、味も悪い。それに対して、夏に蒔く大豆はほとんど虫害を免れる。言い換えれば、大豆の「蒔きサゴ」は夏なのである。すると、食べ「サゴ」は初秋ということになろう。夏の暑さにはビールと枝豆が似合うといった固定観念があるが、大豆の生態からすれば、夏の枝豆はどうも夏の体にはあわないようである。固定観念は、農耕する生活から生まれたのではなく、商業的に作り出されたものであろう。実際、ビアガーデンなどで出る枝豆は、あきらかに「抜けた」味がする。)
休耕田には、蕎麦を蒔いたこともある。蕎麦も定番に加えたい作物のひとつである。もう一つかなり本気に考えているのが麦である。まずは、粒のまま食用にする大麦(裸麦)を蒔いてみたい。過度なオーバーワークにならない程度に(現状ですでにオーバーワークです・・・)、休耕田も有効利用して、作物を増やしたいと思っている。

午後は、県道を挟んで反対側の田圃で草刈りをする。
耕作放棄田の活用方法
こちら側には、田圃が3枚ある。そのうち、現在耕作しているのは、一番面積の広い1枚だけである。このあたりは、湿田地帯であり、そのため、ひどい湿田はいまでは耕作を「放棄」している。そのうちの1枚は深い湿田であり、将来よほどのことがないかぎり復田することはないだろうと思っている。ところが、何も作らないとなると、ついつい管理もおろそかになる。年にと1、2度しか草刈りをしないので、セイタカアワダチソウを主体に草が高く生い茂っている。しかし、耕作を「放棄」していることはいつも気になっていた。ふと思いついたのが、ブルーベリーの栽培である。ブルーベリーは、原産地が酸性土壌の湿地帯である、と知ったのがきっかけである。日本の土壌は一般に酸性であるし、しかも湿田とくれば、栽培に適しているのではないか、と素人考えには思われた。そこで、去年の冬、苗を3本植えた。今年ももう3本ほど植えてみようかと考えている。田圃の片隅にでも何か作物があると、きちんと管理しようとする気になる。残りの部分は・・・何かうまい利用方法でもないでしょうか。
復田
今日は、耕作しているが今年は休耕しているところの畔の草刈りと、ブルーベリーを植えている耕作放棄田の草刈りとをすませたが、もう一カ所、草が茂っている耕作放棄田がある。湿田ではあるが、ブルーベリーの田ほど深くはない。しかし、わたしが農耕をはじめてから一度も耕作したことがない。父の時代を含めて、10年に余って耕作していない。水はけが悪いからである。秋になっても、なかなか土が乾かない。まだ手刈りの時代、当時学生だったわたしは、その田圃で稲刈りをしたことがあった。水が残っているところは、足が沈まないよう、切り株の上に足をおいて、刈り進んだ。手刈りであれば、水はけが悪くともなんとかなる。しかし、機械刈りをしようと思うと、水が残っていては作業ができない。こうして、機械化という近代化は、機械の入らない田圃を切り捨て、放棄してしまった(わが家に限らない)。
ところで、いま、その田圃の復田を考えている。いままでも考えたことがあるが、なかなか実行に移せなかった。むろん時間がなかなかとれないということもある。さらに、その田圃の上側に他家の広い田圃があり、それが水に浸かると、わが家の田圃も水浸しになり、耕耘機は入れなくなる。乾いていないと、耕耘機では耕せない。そういうわけで、復田に取りかかることができなかった。しかし、去年から今年にかけて、その広い他家の田圃は休耕しており、わが家の田圃は比較的乾いている。だから、夏の間に草を刈って、鋤き返そうと思っている。夏なら時間に余裕があるからである。
復田したとしても、湿田であることには変わりはない。しかし、田植えは機械でもできるだろうから、場合によっては稲刈りを手でやればいいことである。250m2程度の狭い田圃である。一日もあれば、刈り取りとハゼ[稲架]掛けはできるだろう。一日といっても、実際にはつらい作業になるだろうことはすぐに推測はつく。それでも、いまでは過去の記憶の中にしか存在しない一連の農作業を、記憶の中に入っていきながら、そして記憶を甦えらせながら、やると想像すると、体がうずうずする。機械で断ち切られ、忘れられた連続が、この体に生き返ることになるからである。
湿田は負の財産であるとともに、正の財産でもありうる。むしろ、負の所与を、生身の智恵は正に転換してしまう。隣のおばあさんが日照り続きの最近、畑でぽつりと言ったことがある。「ダブ[湿田]は、他の田じゃ[米が]できんような日照りの年でも、できるんで。」おばあさんの家には湿田はない。おばあさんはわが家の田圃のことはよく知っている。だから、おばあさんは何気なく言いながらも、わたしに湿田の価値を示そうとしたのである。機械に頼ろうとすれば、湿田は負のままである。しかし、この生身を動かそうとするとき、湿田が正の価値を内包していることが見えてくる。だから、復田とは生身の智恵の復活でもある。体踊るのである。
夕方、ブルーベリーの田圃で草刈りをやっていると、例の他家の広い田圃にトラクターがやってきた。運転しているのは、わたしより10歳あまり年下の、その家の「跡継ぎ」である。あとから「当主」が軽トラックでやってきた。「当主」が体調を崩したため、今年はその家は全面的に休耕している。しかし、トラクターで耕すなど、管理は怠っていない。その田圃は目測で、1町(1ha)くらいあるだろうか。もともと幾枚にも分かれていた田圃をひとつにまとめたものである。このあたりは耕地整理はされていないから、全体の形は曲線によって構成されている。その田圃は2週間ほど前に一度鋤かれたため、枯草色をしている。だから、狭い田圃群のなかにぽっかりうがたれた空虚のようにも見える。その空虚のなかを、若い衆は、回転する鋤で土埃を巻き上げながら、トラクターらしからぬスピードで走り回る。オフロードタイプの車が好きなわたしは、若い衆の勢いに思わず微笑みながら、トラクターを目で追う。たぶん彼の家では遠からず、農耕従事者の世代交代がおこなわれるだろう。そのとき、彼の田圃とわたしの田圃と、対照的な二つで、競(共)作してみたいものである。
(6月12日掲載)

 
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2002-06-01/02 ☆ 田植え

前の記事で予告したように、6月1日(土)は田植えでした。
田植えの感動 ...
田植えが終わったあとの祝いのことを「さのぼり」と言います。手植えの時代は、田植えは家族を総動員し、親族や隣近所の力を借りる、時間のかかる一大イベントでした。だから、それが終わると喜びにみちた安堵感があったでしょうから、実際に儀式を行なうかどうかは別として、「さのぼり」という言葉も感慨のともなった意味をもっていたと思います。しかし、いまは代かきまではトラクター、田植えは田植機を使って、省力的かつスピーディーに、しかも農家単位でことは進みます。だから、「さのぼり」は、口にされるにしても、稲作のプロセスの一段階を画するといった散文的な意味を大きく超えることはありません。とはいえ、田植えは、少なくとも耕作者自身にとってはイベントであることには変わりはありません。ただ、稲作の大きな一段階が終了したという感動が、耕作者だけに留まって、家族全体には拡がりにくく、また家族を超えて共鳴することが少なくなっただけです。
この記事は、6月1日と2日の、こんちゃん農園の田植えについて書きます。記事冒頭に、田植えは1日の土曜日だった、と書いたので、おやっと思う人もあるかもしれませんが、機械植えの現代では、田植機が田圃を走っただけでは、本当には「さのぼり」にはならないのです。さらに人間の手で補植をしてはじめて「さのぼり」になります。
では始めます。

61(土)

4月終りから5月半ばにかけて梅雨のような日が続いたか思うと、一転して、今度は晴天続き。今年は梅雨があけた、と農耕者にとっては「悪い」、冗談を言ってみたくなるくらいである。田圃の水が気になったので、昨日は田圃に寄ってみた。すると、水は田植えに必要なだけは入っていた。長雨のおかげか、3日照ると涸れるといわれるほど流水量の少ない井手(フシワラ井手)にも、水は流れていた。苗(田植えをしてもらう人に育苗してもらった)はすでに運ばれて田に浸けてあり、田植機も田圃に入れてあった。
田植え開始
10時に田植え開始。10時という農耕の朝としては遅い時間から始めたのは、家族を連れてきたかったからである。昨夜、子どもは、明日は田植えと知って、大喜び。将来、わたしと同じように「兼業農家」になって欲しいとは強くは望まないが、また、望めないが、せめて子どもの体に農耕の風景と季節を刻み込んでおきたいと思っている。そうは思っても、子どもが田舎を嫌がれば、無理に引っ張って来るのは辛いが、大喜びしてくれるのでこちらも心が明るくなる。
田植機は、4条植えの乗用型田植機である。田植機の後をついて歩く歩行型が2条植えなので、単純に計算して倍の速さで植える。大径で細いゴムタイヤをつけているので、歩行型のように、代かきで平らにした泥状の田土を足や機械で乱すことはせずに、植えていく。田植えを委託した人(これからSさんと呼ぶことにする)は、普段よりはしゃれた格好でやってきた(とわたしには思えた)。田植機に乗れば泥にまみれることはないからである。
わたしの仕事は、育苗箱に入っている苗に殺虫剤を振りかけることと、絨毯状の苗を育苗箱から巻くようにして外し、手渡すことである。殺虫剤は稲象虫予防のため。Sさんによれば、稲は稲象虫に卵を産みつけられると、根を十分に張らず、生育を途中で止めてしまう。もっとも、6月始めは、季節的には稲象虫は少なくなる時期だそうである。わが家では、稲作に使う農薬は、この殺虫剤と田植後10日ほどしてから散布する除草剤である。だから低農薬栽培ということになろうか。
田圃と麦
午前中で8割方済み、残りは昼食後ということにして、昼食前のビールを飲む。Sさんがライ麦を見ながら、きく。「この麦はどうしんさんや。」昨秋、休耕田の隅っこにライ麦を蒔いた。それがいま穂を垂れ、茎は黄ばみ始めている。「はじめは緑肥になるゆうんで種をこおて[買って]蒔いたんじゃが、緑肥にするんじゃったら、トラクターがいる。耕耘機じゃ、鋤きこめん。ほいじゃけん、いまは毎年とる種を蒔くだけで、どうしようゆうつもりもなあ。」Sさんは麦の話をさらに続けた。「四国に行きゃ、よけえ[たくさん]麦を蒔いとるよのぉ。わしも、麦を蒔いてみようかのぉ思うんじゃが。」「稲と二毛作にするんや。」するとSさん、「二毛作は禁止じゃ。」「禁止?」とわたしが訝ると、Sさん、「二毛作をしたら補助金がもらえんわいの。」国は米余りの現在、奨励金を出して大豆や麦への転作を促しているが、どうもその転作の話のようである。
ひとしきり麦の話をしてから、わたしはSさんに聞いてみたいことがあったので、そのことに話を転じた。ムナクトを塞ぐとき藁を使うことである。「わしゃぁ、おやじに藁を捻じって二つ折りにして、ムナクトを塞ぐのを教えてもろうたんじゃが、何のためにそうするんか、ほいで、捻じった方をどっち側に置くんか、教えてもろうたかもしれんが、覚えとらん。ありゃ、秋に水を落すとき、ムナクトを切りやすうするためかのぉ。」するとSさんは笑いながら答えた。「ありゃの、苗がこまい[小さい]とき、水を調整するために、ムナクトを足で踏む[そして、ムナクトを低くして、小さい苗が水没しないように水量を加減する]ためのもんじゃ。ムナクトに藁をひ[し]いときゃ、弾力性があるわいの。踏みゃ、簡単に低うなる。ほいじゃけん、捻じった方を田圃のほうに向けるんよ。」わたしは目的に関して、完全に誤解をし、また、藁の置き方に関して、逆に覚えていた。逆というより、あやふやな記憶しかなかった。Sさんは説明を続けた。「昔ゃ、稲じゃのぉて、麦を使よおった。稲はすぐぺっしゃんこになるが、麦はなかなかならん。麦わらはなかなか腐らんしの。」「麦ゆうても、田植えの頃はまだ・・・」と、わたしは田植え時期のいま、まだ熟しきっていない目の前のライ麦を見ながら喋り始めて、ふと気がついた、「ほうじゃ、昔ゃ麦を刈ってから田植えをしよったけん、新しい麦わらを使えるんじゃ。」「うん、ほおよ。」
(ご存じでしょうが、手植え時代は、6月の梅雨の時期に田植えをしていました。稚苗田植えの機械植えと違い、もっと大きい苗を使っていたのです。そして、7月始めの二十四節気のひとつ、半夏生は、田植えを終了させなければいけないタイムリミットとなっていました。だから、いまは昔に比べると1月余りも早く田植えをしているのです。)
ムナクトのわざと循環について書いた前の記事には誤りがあり、ムナクトには、そこで書いたとは別の、もっと合理的な、理由にもとづくわざと、いまでは忘れられてしまった循環が埋もれていたのである(秋にムナクトを掘り開くとき、藁が敷いてあると作業が楽であるも事実であるが)。長い間村に生き、農耕に従事してきた人と話をするのは楽しい。わたしのように歳をとってから農耕を始め、しかも、長い間村に不在だった者にとって、生きる様々なわざとか自分のいまの根底に沈殿している歴史とかが詰まっている宝の箱を開くような、わくわくとした驚きと発見があるからである。

午後からの作業でちょっとしたハプニングあり、子どもは大喜びだったのですが、今日はここまでとし、また明日でも書き継ぎます。
(6月3日掲載)

共鳴し合う田植の波
ビールを飲んだあと、分かれて昼食をし、約1時間後に作業を再開した。残っているのは4畝ほどの田圃一枚。だから時間はかからなかった。ところが、あと一回田圃を縦断すれば田植えが終了するというとき、突然田植機が横倒しになり、Sさんは運転席から田圃の中に放り出された。田植機とは反対側の畔から見ていたわたしは、すぐに駆けつけた。転倒した直前の様子は目撃しなかったが、Sさんの話では、畔に乗り上げて転倒したそうである。「畔に乗ったぐらいで倒れるとは思ぉちょらんかった。」しかし、その場所は畔が高くなり、田圃が深くなっているところなので、機械はバランスを崩したのである。二人で田植機を起こそうとするが、軽量に作ってあるとはいえ、わずかに動くだけである。「二人じゃ、だめじゃわい。誰か呼んでくるわい。」わたしは離れたところで田植えをしている人の方に向かう。その人に事情を説明して、力を貸してもらうことにした。二人で帰ってみるとSさんはいない。子どもが話すには、着替えるために家に帰ったのだ。
(家に帰ってから、子どもは大笑いしながら、その時の状況を説明した。「おじちゃん、ズボンを脱いで、パンツ一枚で、軽トラに乗って帰ったんよ。パンツ一枚じゃけん。ワッハッハッ!」Sさんには悪いが、土壇場のハプニングは子どもにとって田植え最大の見せ場だったようである。)
しばらくすると、別の人がさらに二人やってきた。どうもSさんが帰り道に声をかけたようである。そのうちのひとりは裸足である。今どき裸足は珍しいので、「裸足で田植えをしよぅんさるん?」ときいてみる。「裸足の方が気持ちがええ。昔ゃ、みな裸足じゃったんじゃけん。ほいで痛いのを踏んだら、頭までカチーンとくるんよの。」その人は、言い終えながら、その痛さがさもおもしろいかのように、笑顔になる。すると、今度は別の人が自分の足元を見せながら、「わしゃ、[裸足になりたいが痛いので]しょうがなぁんで、これよ。」見ると、膝下まである靴下のような地下足袋を履いている。わたしははじめ見た地下足袋である。裸足の人も地下足袋の人も、まるで子どもがなんでもない自分の持ち物を自慢し合うような、ふざけた開放感のある口ぶりである。倒れた田植機が、あちこちで田植していた人たちを呼び寄せ、その人たちの気分の波が田植機のところで合流する。それまでは一人一人、田植機のあとを追いながら黙々と泥の中を歩いていた人たちが、その波の干渉と増幅を楽しむ。「さのぼり」に向かう感動の共鳴が、束の間ではあるが、再現する。
しばらくすると、ズボンを着替えたSさんが、皆に申し訳なさそうな笑いを見せながら到着した。「あと一歩ゆうときに、よぉあることよ。」と言いながら、5人は田植機を起こす。すると、2人のときにはほとんど動かなかったのに、あっと言う間に、いとも簡単にもとに戻った。助っ人に来た3人は、共鳴の余韻を他愛のない言葉で埋めながら、また自分の田圃に戻っていった。

62(日)

植えつぎ
機械植えの場合、田圃の角は、機械の出入りの場所であったり、回転の場所であったりするので、植えられないまま残る。また、植え爪が苗を挟みそこなったり、水深の加減で土中にうまく挿入できなかったりして、欠株が生じる。欠株を放っておくと、むろん収量にも関係するし、また広い範囲でまとまって欠株があると、そこの日照がよくなり、雑草が繁茂したりする。そこで、どうしても手での植えつぎ(補植)が必要になる。田植機が田圃を走っただけでは、「さのぼり」にならないわけである。
田植の翌日、朝9時くらいから植えつぎを始める。苗は機械用に育苗したものを使う。機械は絨毯のようになった苗を淡々と鉄の爪で掻きとっては植えていくが、その絨毯から手でちぎりとるのは、手間な上に力が必要である。手植えの時代には1株1本で植えたそうだが、稚苗植えの機械の場合、1株2、3本植えている(何本植えが標準か知らないが、実際に植わっている苗を見るかぎり、1本ではなく、2、3本が基準になっている)。だから、2、3本ずつちぎりとっては、欠けたところに補植していく。午前中で植えつぎを終えるつもりが、結局夕方までかかった。
なぜ畔はなだらかに塗るか
直前の記事に書いたように、隣のおばあさんが畔はなだらかに塗るように教えてくれた。しかし、おばあさんが教えてくれたのは畔塗りの二日目だったので、最初の日に塗った畔は急なままにしておいた。昨日今日とその畔を観察して、なぜ、なだらかな畔でないといけないかが分かったような気がした。
水面と90度の角度をなすように畔を塗ったとしよう。すると、しばらくすると畔の下側は水の浸食作用を真正面から受けてえぐりとられる。当然、その箇所は塗り泥の厚さが薄くなり、最悪の場合は、畔の地肌が出てしまう。さらに、えぐられた部分の上側が崩れ落ちる。つまり、畔塗りの効果がなくなってしまうのである。反対に、なだらかに塗れば、水の浸食作用をかわすことができる。塗り畔は長続きする。だから、傾斜のきつい畔塗りをすると水が漏るのである。
藁の中での午睡
朝早く起きたせいか、昼食時になると眠い。なじみの村の食堂、「はらぺこ」で注文した料理を待つ間、座ったままでうとうとしてしまう。食事をしながら生ビールも飲んだため、昼食後はすぐに田圃に戻る気がしない。そこで屋敷に帰って軽トラックの運転席で昼寝を始めたが、ふと思いついて、藁が納めてある小屋に入る。
小屋は、納屋というほど本格的ものではなく、蔵以外は建っていない更地の屋敷の隅にある、仮設小屋といったものである。だから、農耕に使う藁は地面にビニールシートを敷いた上に積んである。小屋の入り口には、戸の代わりに葦簾が立てかけてある。わたしは地面に座り、背中を藁にもたせ掛ける。地面からしっとりした冷たさが体に上り、背中は乾燥した藁の軟らかさに受け止められる。日陰の空気に包まれ、半ば仰向けになりながら目を閉じた。
子どもの頃を雰囲気のように思い出した。藁は納屋の低い二階に納めてあることが多かったように記憶している。おそらくは藁が湿気を吸い込んで腐ってしまうのを防ぐためだろう。納屋の二階は、だから、猫たちの寝床であったり、子どもたちの密かな遊び場だったりした。薄暗い二階の、黴の匂いがほのかにする藁の間に入ると、どきどきとしながらもわくわくしたものである。もしこの屋敷に家を建てることがあれば、農家風に納屋も併設し、その二階には藁をたっぷりと納めておきたいものだ・・・小さい頃の記憶に浸りながら、そんなことを思いながら眠りに落ちた。
「お茶をやろうかぁ」
30分ほどは眠ったと思う。目覚めるとまた田圃に戻る。最後に残った、一番上の田圃に入ると、その下の他家の田圃でお兄さんがやはり植えつぎをしている。たぶん金曜日に田植えを済ませたのだと思う。わたしの姿を認めると、「はぁ[もう]、下は全部済ませたんか。早ぁのぉ。」と声をかけてくる。「うん。朝からやりょぉるけんのぉ。」彼は、なぜか、「うん」とだけ、そっけない返事を返す。それから二人は自分の田圃で黙々と植えつぎを続ける。
夕方近くになり、奥さんが孫の男の子を背負ってやってくる。「おじいさん」であるお兄さんと何かを話した帰りがけに、「今日は、子どもさんは一緒じゃないんですか。昨日は、自転車に乗っててシャーとお父さんのあとを追いかきょぉちゃったが。」「子どもは1週間に1回連れてくることにしとるけん、今日はこんかったんですよ。」とわたし。
お兄さんはわたしよりはやく田圃から出た。彼は井手のそばに座り、わたしは田圃のなかに立ったまま、しばらく話す。彼は「今日は朝からしょぉったのぉ。わたしゃ、朝は消防の演習じゃったんで、消防の小屋のところからあんたを見たんじゃ。」だから、あのそっけない返事になったのである。「そういゃぁ、昼前、消防の小屋に人がおったのぉ。」とわたし。彼は村の消防団の一員なのである。わたしたちは、作る稲の品種だとか、ジャガイモの品種や植え方だとかを話題にする。結局のところ話題はなんでも構わないのである。立ち話/座り話は、情報交換というより、お互いの絆を確認し、更新する触れあいのようなものだから。
去り際、彼は、「お茶をやろうかぁ」と、二本もっていたペットボトルの小さい方を差し出した。「おおけえのはわしが飲んだんじゃが、このこまい方は孫が口をつけただけじゃけん。」わたしは水筒に水を入れてもってきてはいたが、「ほいじゃ、もらうわい。その畔のへん[あたり]に置いといてや。ありがとう。」と言って、ボトルを受け取った。もしかしたら奥さんは、そのボトルをもってきたのかもしれない。「無理はせんようにしょうで。」わたし同様、まだ「現役」の兼業農家である彼はそう言い残して帰って行った。

夕食時、むろん、わたしは「さのぼり」を祝うため、いつもより余計に酒を飲みました。
(6月5日掲載)

 
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2002-05-30 ☆ 畦塗り

毎週なんとか続けてきた「農耕日誌」が2週分抜けてしまいました。簡単なメモは残っていますが、生々しい記憶は消えてしまったので、遡って綴らないことにします。今日は田植えの準備をテーマに「農耕日誌」を書いてみます。春先から田植えまでの作業は順に、荒起こし、あらじ、畔塗り、施肥(化学肥料の元肥)、代かき、田植えですが、このうち、荒起こし、あらじ、畔塗りを話題にします。

荒起こしとあらじ
まず、「荒起こし」。地方によって花の種類は違うが、田打ち桜は荒起こしの頃咲く花である。春先、草が伸びないうちに1度、「あらじ」の前に、伸びた草を鋤き込むためにもう1度、都合、2度くらい行う。1度で済ますこともある。2度だとすれば、最初は3月が終わるまでに(とすれば、村での田打ち桜はこぶしということになるだろうか)、2度目は5月になるまでに、行う(田植えは5月終わりとする)。
今年のわが家の場合、3月始めに3分の2ほどの田圃の荒起こしをおこなっただけであった。それ以降、とくに4月から5月半ばにかけて、例年になく雨が多かったため、荒起こしの機会を失った。耕耘機を使うため、雨で軟らかくなった田圃は鋤きにくいからである。雨がよう降るけん、荒起こしができん、と隣のおじさんにぼやいたところ、ツケズキ(浸け鋤き)をすりゃぁええ、と教えてもらった。つぎに説明する「あらじ」をかねた荒起こしのことのようだが、すると、耕耘機だとタイヤを鉄車に付け替えなくてはいけない。ゴムのタイヤでは埋まりこんでスタックしてしまうからである。鉄車に付け替えるのが面倒なので、中途半端な荒起こしのまま、つぎの「あらじ」をやってもらうことにした。
「あらじ」。漢字をあてると、おそらく荒地だと思う。畦切りをした田圃に水を張り、鋤く。むろん、水をあてるまえに、ムナクト[畦に設けた排水口]はふさぐ。水の入った田圃を、いまでは耕耘機かトラクターで鋤くと、土がこなれてどろどろになる。あらじを終えることを、「田を浸ける」という。なお、わが家では、トラクターをもっている人に頼んで、田を浸けてもらう。
畦塗り
あらじが済むと、畦塗りをする。
畦を塗る百姓魂
最近は、畦塗りをする代わりに、畦の水際にビニールマルチを埋め込むようにして畦をビニールマルチで覆ったり、水際にトタンやビニールの板を挟み込んだりする田圃も目立つ。ビニールマルチにすると水漏れが少なくなり、しかも面倒な畦塗り作業も省けるので、ビニールマルチの利用者は多い。ビニールそのものは安いし、それを畦に張るためには道具も、複雑なものではないので、さほど高価なものではないだろうが、ともかく購入しなければならない。畦を塗りさえすれば、鍬一本、田圃にもってくればことは済むのに、外国から輸入した原料で作るビニールだとかをわざわざ田圃の中に入れる。マルチをかけた畦は不格好だし、秋に取り除くとき破れたりして一部が飛散する。つまり、美しくない。しかも、マルチをかけ続けると、畦が低くなる。できるだけ農耕生活の内部で手持ちのものを工夫して使い、また、農地を大事にする、言うなれば百姓魂を、ビニールマルチは失っている。曲がりなりにも百姓でありたいわたしは、畦は塗ることにしている。
(ちなみに、ムナクトをふさぐには、昔からの方法として、ムナクトとして畦に切り開いた溝に、捩じりながら二つ折りにした一束の藁を、折った側を畦から外に少しはみ出すようにして敷き、その上に石を置いたりして、土を被せ、溝を塞ぐ、というのがある。しかし、このやり方は最近ではあまり見かけなくなった。溝を板でせきとめて田圃の側に土を入れるとか、ムナクトのところに塩ビのパイプを埋め込むとかしてある田圃もある。畦がコンクリートになったといった田の構造の変化が絡んでいる場合もあるが、どうも、便利なものであれば外からもって来てでも使う、というビニールマルチと同じ心が働いているような気がする。わたしはといえば、いまでも藁を使っている。いま時わざわざそんなことをする者はいない、といった呆れたような言葉を聞いたこともあるが、藁を使えば田圃の外から、しかも金を払って、ものをもってくる必要はない。−以上の記述には誤りがあります。正しくは、次の記事を参照してください。−)
畦を塗ることにしている、といっても、じつはいままでは畦塗りも委託していた。自分でやろう、と思った年もあったが、「本務」の忙しさにかまけて、その年も委託してしまった。いくら生意気なことを言っても、自分で畦塗りをしなければ、所詮は薄っぺらな言葉にすぎない。とうとう今年は本気で決心した。
アガタをとる
畦塗りをする前に、それに必要な泥を畦に寄せておかなければいけない。この作業を「アガタをとる」と言う(ただし、アガタの語源は分からない)。アガタをとるためには鋤簾[ジョレン]を使う。鋤簾は、鉄製の塵取りのようなものが柄の先についている、泥などをすくう道具である。あらじの直後は、田の土は軟らかい泥である。だから、アガタをとるには、泥が落ち着く2日ぐらいあとがいい。泥は、できれば畦のきわまで、しかも、畦の高さぐらいに、寄せる。アガタをとって1、2日泥が固まるのを待つ。日にちを置きすぎると、泥が固くなり作業が難しくなる。わたしは水曜日の早朝アガタをとり、土日に畦を塗ったため、難渋した。
あんたみたいな畦の塗り方じゃ、わからん
さて、畦を塗ったのは先週末の25日と26日である。自分で畦を塗る、と決心しても、正直なところ、畦の塗り方を知らない。先週木曜日だったか、夕方田圃に寄ると、隣の田圃のお兄さんがあらじを終えた田圃で鋤簾を使って作業していた。これさいわいと、わたしは声をかけた。「今年ゃ、自分で畦を塗ろう思うんじゃが、塗り方を教えてぇや。」その人には以前教えてもらったことがあったが、細部は忘れてしまっていた。その人はわたしの田圃のやってきて、鋤簾を鍬に見立て実際に作業をしながら丁寧に説明してくれた(なお、畦塗りには平鍬を使う)。わたしは車に戻ると、見てきたばかりの畦塗りを図入りでメモしておいた。しかし、25日は、せっかくのそのメモを確認することなく、うろ覚えで作業をした。手間から考えて、アガタとりよりも数倍時間がかかるとは漠然と予想していたが、予想を上回る時間がかかってしまった。午後4時間くらいを費やして、広さにして3分の1弱程度の田圃の畦塗りをやっただけである。初めての経験であるということを差し引いても、畦塗りは大変な作業だ、と思いながらその日の作業は終えた。
26日の午前中、わたしは畦塗りを続けていた。そこに隣の90歳になるおばあさんが通りかかった。自分の家の田圃にゴミを捨ててから帰り道、わたしが声をかけると、にやにやしながら近づいてきた。「あんたみたいな畦の塗り方じゃ、わからん[だめだ]。」にやにやは、素人が下手な畦塗りをしょぉる、という笑いだったのである。農道からの説明では要領を得ないと分かったおばあさんは、田圃に降りてきて、わたしのもっていた鍬を握った。「靴[田靴]を履いちょりゃぁ、畦の1本や2本、塗っちゃげるんじゃがの。」普通の長靴を履いているおばあさんはそう切り出しながら、説明を始めた。「田圃に入らずに、畦に立っちょってから塗るんじゃ。土をこうやって寄せる。」おばあさんはアガタとりであらかじめ寄せておいた泥をさらに畦の方に高く寄せた。「まず、上を押さえるんじゃ。それから鍬で[田圃側の]泥を叩く。あんたみたいに畦を急にしたら水が漏れる。なだらかにするんじゃ。こうやっていっぺん畦を塗っちょってから、田圃に入る。今度はしっかりと押すように、畦を塗るんじゃ。」
人は褒めてくれるにしても、なかなか面と向かって欠点を指摘してはくれない。おばあさんは手本を見せながら、畦塗りはわたしの祖父に教えてもらった、と言った。「わしゃ、親にゃ何にも習わんかった。ブイっつあんに百姓の仕方をいろいろ教えてもろぉた。世渡りも教えてもろぉた。」年齢を計算してみると、おばあさんとわたしの祖父は親子ぐらいの年齢差がある。家同士は血縁関係にあり、隣家でもある。祖父がおばあさん夫婦の仲人になった、という話をおばあさんから聞いた記憶もある。だから、祖父はおばあさんに実の子のように、ということは、遠慮会釈なしに、農耕や世間を教えたのだろう。おばあさんとわたしは親子よりもう少し年が離れている。わたしたちは住人として隣同士でもないし、会う回数も少ない。しかし、今度はおばあさんの番である。時折、わたしが知らない昔話をしてくれたり、百姓の仕方について、歯に衣を着せることなく、教えてくれた。昔話には、たんに、いまは昔の面白い話といったものもあったし、わたしの知らないわが家の歴史もあった。そして今日は畦の塗り方である。
「水が全体を貫いて流れている・・・」
傾斜のきつい畦の塗り方を指摘されたわたしは、多少気色ばんで、「なんで急な畦じゃったら水が漏れるんや。」と質した。「わけは知らん。ブイっつんがそう言いんさったけん、わしゃ、ずっとそうしょぉる。」投げ捨てるようにおばあさんは答えた。祖父とおばあさんの関係がうかがえるような返答であったが、同時に、おばあさんを通じて、祖父が語りかけているような錯覚を覚えた。
父は畦の塗り方など、百姓の仕方を祖父から教わっただろう。しかし、わたしは父から教わる機会がついになかった。いや、もしかしたら父は祖父から百姓の仕方をすべては学ばなかったかもしれない。学生時代はさほど真剣には百姓はやらなかっだろうし、卒業すると中国に渡り、戦後1年して復員してきた。それから3年して祖父は死んでいる。父は復員してきた当初は百姓だけをしていたようだが、その間にどれほどのことを祖父から教わっただろうか。もしかしたら、父にとってもおばあさんが祖父であったかもしれないと思われる節がある。彼女のことを「わしの百姓の先生」と言ったことがあるからである。
すると、おばあさんは祖父の言葉を伝えるために、父に語り、そして10歳年下の父より生き延びて、わたしに語っている、とも言える。そして、わたしはいま、50年以上前の祖父のように、祖父が塗ったのと同じ畦を塗っている。あるいは、祖父と共に、塗っている。実際、田圃でひとり作業をしていると、ときどき妙な錯覚に襲われことがある。現実にいるのはわたしひとりなのに、その場所で、わたしとわたしの知らない父祖たちが、向かい合う鏡の中の像のように、無限に連なり、そしてひとつになる、そんな錯覚である。目眩と言ってもいい。
誰が誰に教える、ということは本質的なことではないのかもしれない。祖父のやり方をおばあさんを介してわたしが教わる、といった何か因縁めいた言い方はわたしだけの感傷かもしれない。以前書いた記事について友人が感想を送ってきた。その中に、「田んぼ一枚一枚に特性があり、所有者も変わり、時代も変わり、しかし水が全体を貫いている。」という一文があった。百姓をする、とは、この「全体を貫く水」を生きることなのかもしれない。その生きることは、いまの場合で言えば、隣の田圃のお兄さんや、隣のおばあさんから畦塗りを教わることである。畔を塗ることによって稲を育て、わたしを養う水を確保することである。ところが、水は、ただ単に井手から田圃に流入する水であるだけではない。まさに「全体を貫く水」である。根元としての、根元から湧きでる、水である。その水がたまたま農業用水になり、稲になり、わたしになる。百姓のわざとは、「水」の循環する水路をしつらえ、自分自身も「水」に還流することである。親から子へ、子から孫へとわざを相承することにより、時を貫く「水」を回帰させ、また、田泥で畔を塗り、稲藁をムナクトに使うことにより、土地を貫く「水」を生き進む。それが百姓であることなのかもしれない。
「ほいじゃ、おばさんがゆうたみたいに、やってみるわい。」わたしが言うと、「やってみんさい。畔はなだらかに塗らんにゃ、わからんで。」ともう一度念を押しておばあさんは帰って行った。
畔塗りを田圃一枚済ませて、次の田圃に入ったところに、あらじをやってもらい、代かきと田植えをやってもらうことになっている人が軽トラックで通りかかり、車から降りてきた。その人とは昨日、畔塗りをする前に会っていた。「今朝、田圃を見たら、上[の田圃]しか済んじょらんかった。煙草を吸うて休みんさるわけでもなぁのに、どしてあがいに時間がかかるんじゃろう、思おたで。」とその人は笑いながら言った。「いやぁ、初めてで要領がわりいけん、時間がかかったんよ。」するとその人は、畔塗りは時間はかからん、といってわたしの鍬をとって彼のやり方を教えてくれた。「こうやりゃぁ、すぐに済む。」
結局3人に畔塗りを教えてもらい、新前の畔塗り男は、腕はさておき、頭ではすっかり一人前になってしまいました。
なお、田植えは今週末の土曜日です。

 
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2002-05-06(土) ☆ 彼岸花

原ノ田井手の井手堰
昨日、5月5日(日)の午前中は2度目の井手堰。原ノ田[ハランタ]井手は関係する農家が少ない。そのうえ、休耕する家もあり、昨年はひとり減り、今年はまたひとり減った。今年出てきたのは7人。この井手は、先週井手堰のあった井手についで短い。しかし、難所が3箇所ある。正確にはあった。というのも、そのうちの1箇所は、先日U字溝を入れて、手がかからなくなったからである。残り2箇所は、−これこそが本当の難所なのだが、−川からの取水口から数mが暗渠になっているところと、井手が人の背丈ほどに深くなっているところである。
最初の難所は、去年、「来年はわしがやる」と宣言したところなので、わたしが暗渠に入ってみた。暗くて狭い暗渠は圧迫感がある。情けないことに、入り口から2mほど入ったところで撤退してしまった。井手頭は「ええわい。今年ゃ、あんまり砂も溜まっちょらんし。中に入ると、圧迫感があって、息が苦しゅうなるじゃろう」と慰めてくれたが、今度はヘッドランプを用意し、屈んで仕事をしても靴に水が入らないように、長靴を田靴に変えて挑戦してみようか、と去年ほどには威勢のよくない思いを心でかためてみた。

彼岸花
さて、今日は午前中に、田圃で彼岸花の球根を植える。
昨日の午後、田圃の畦切りをしたとき、畦の端に生えている彼岸花の株を半分ほど切り取らなければならなかった。長年その場所にある株で、球根が増えていた。以前から、秋、畦を彼岸花で花盛りにしたい、と考えていた。彼岸花は秋の彼岸ころに咲き、それからは深緑の細長い葉が茂って、春も終わりになると枯れ始める。本には、葉の黄化が進んだ6月ころに掘りあげて分球する、と書いてあったが、5月であろうと6月であろうと繁殖力の強い彼岸花にとっては変わりあるまい、と、切り取った球根を同じ畝に植えることにした。
植え方は適当に判断して、一カ所2球、株間60cmで植えていく。全部で35カ所になった。今秋の花を見て、来年以降、他の畦に植えるかどうか決めようと思う。

彼岸花といえば思い出す情景がある。
10年以上も前、前任校を離れる直前だったから、9月も終わりのことである。当時の同僚のひとりが、家族で送別会をしてくれた。彼の家族4人とわたしの家族(といっても、当時は2人だったが)とで、彼の運転する車に乗って、松山市の郊外に出た。目的地は釣り堀を備えた料理屋であった。奥道後を過ぎ、道は上りながら山間部に入っていった。ふと見上げると、傾斜のきつい山腹に田圃があった。その田圃の畦に、びっしりと彼岸花が咲いていたのである。
その日は雨催いの曇り空だった。おまけに午後も夕方に近い時間だったので、山間部は暗くなりかけていた。彼岸花は盛りを過ぎてはいたが、それでも深紅の畦は、そこだけ明かりがともっているように見えた。
おそらくその日の空と山という場所柄のせいであろう、わたしの頭に、救荒作物という考えが浮かんだ。かつて人びとの生活が厳しかった時代、饑饉に備えて畦に植えていた彼岸花が増殖し、あの妖しくも鮮やかな花の色に、いまも、かつての悲哀をにじませている。彼岸花は、そんなふうに、わたしの目に映ったのである。
彼岸花の光景は強い印象をわたしに残し、それからは何度となく、あの時の情感ともに思い出された。秋、畦を彼岸花で花盛りにしたい、という願望は、あの情景に遡る。
わたしはつい最近までは、畦の彼岸花は救荒のためだけのものと思っていた。畦豆といって大豆を植えることもある。耕地を最大限に利用するためである。だから、耕地としてはあまり利用価値のない畦に植えて、まさかの時に備えたのだ、とわたしは理解していたのである。むろん、その理解は間違ってはいないだろう。しかし、畦の彼岸花にはもっと身近な役割があったのである。畦を切ると、あちらこちらにモグラが掘った穴が見つかる。この穴は赤土で潰しておかないと、畦を塗っても、また穴があいて田の水が漏る。ところが、彼岸花が植わっていると、その毒性のゆえに、モグラが近づかない。そのことを新聞のコラムで知ったのである。だから、ただに感傷や審美のためだけではなく、実用的効果も考えて、今回彼岸花を植えたのである。

彼岸花には悲哀とか不気味さとかを喚起するイメージがある。他の植物が枯れる秋から春にかけて繁茂するとか、その前に花茎だけがすっと伸び、異形で、毒々しいとも言える色の花をつけるとかいった特異な生態と形態、さらには、全草に毒がある有毒植物という性質、それらが不安をうむイメージを作る。また、村では見かけたことはないが、彼岸花は墓地にも生えているという。彼岸花は球根でしか繁殖しないので、人がわざわざ植えたのである。そのような植生も彼岸花のイメージに関係している。
そのようなイメージがゆえに、彼岸花は想像力や思索をかき立てる。わたしは秋に畦に咲くであろう深紅の花を思うと、何か居心地の悪さを感じ、球根を植えてからというもの、彼岸花が頭から離れなかった。

彼岸花は、縄文時代に中国からもちこまれた、と多くの人が考えている。むろんそれは、救荒植物として利用できるという実際的理由もあっただろう。つぶして何度か晒さないと食べられないが、強い生命力をもつ。耕起によって切られた球根でも再生力があるそうである。だから、どんな環境でも生育する。しかも、毒を含むので他の生物に横取りされることはない。まさしく最後の食料源として最適である。
しかし、わたしは想像力をたくましくする。縄文時代、新天地を求めて、中国から人びとが渡来してきた。そのなかには稲作の技術をもっている人たちもいた。かれらは稲の種とともに彼岸花の球根も携えてきた。かれらにとって作物を守り育ててくれる魔術的な力をももっていたからである。かれらは耕地のまわりに彼岸花を植えた。彼岸花は、最後の食料源であるとともに、平時の食料源である稲を守った。生に対立するその毒性のゆえに、かえって稲の生の守り神たりうるのである。むろんそうであるのは、モグラの害を防ぐという散文的な働きのゆえであるが、しかしさらに、毒性をもつとか異形であるとかの、通常の生に対立する性質をもちつつも、飢餓の生を救う力を秘めている、という相反する力をあわせもつ、いわば魔性のゆえでもあった。
命は死と対立するものではない。あるいは、根源的な命は、生と死とをともに含んだものである。そのような根源的な命に触れているときに生は「輝く」。大陸から渡来した人たちは、そのような生のありようを彼岸花にみていた。あるいは、大陸を出発するときには、彼岸花はたんに実用的な価値しかもっていなかったかもしれない。しかし、生命の危険を冒しながら新天地を求める旅を続けるうちに、その実用的な価値が命の象徴に昇華したのである。
だから、彼らは耕地のまわりに彼岸花を植えた。命の根源に守られながら、作物が育ち、その作物によって自分たちが生きるために。そして、命の根源へと死ぬために。

墓地に彼岸花が植えられているとすれば、それは仏教神話の影響である。仏国に咲くという曼珠沙華の別名が与えられているように、死者たちが仏国に生まれ変わるようにとの願いを込めて、生者たちは彼岸花を植栽したのだろう。たしかに仏教的に変形されてはいるが、渡来人たちが彼岸花に感じた、とわたしの想像する、命の魔性が、墓地の彼岸花にもいきづいている。死者たちと、死者たちを訪れる生者たちは彼岸花を結び目に通い合うからである。

すると、秋咲く花は、根源の命の束の間の炎なのであろうか。そう思うとわたしは、相変わらず落ち着かぬ気持ちながらも、秋の畦から立ち上がる、あの炎の形が待ち遠しくなった。(彼岸花の写真は、ここをクリックしてください。)

農作業
 セロリラーヴ、フダン草(色付きフダン草と普通のフダン草)播種。。半白キュウリ、ニガウリ、レタス定植。いずれも自然畝。

菖蒲湯
畑の井戸近くの湿ったところに菖蒲が生えてる。一日遅れだが、10株ほど根元から切り、今夜は子どもと一緒に菖蒲湯につかろうと思う。菖蒲は根元が赤い色をしていて、そのあたりが一番においが強い。湯に入れても、柚子湯のようににおいが浴室に広がるというほどには強くはない。赤い根からまっすぐ青く伸びる茎を見ながら、かすかなにおいを楽しむ、それが夏に向かう菖蒲湯なのかもしれない。
(5月16日掲載)

 
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2002-05-03 ☆ ジャガイモの元寄せ

豆類の播種
スイートコーン、インゲン、刀豆[ナタマメ]を蒔く。豆類やスイートコーンは、露地では、霜のおそれがなくなる5月に入って蒔く。
インゲンは、収穫期が梅雨時になるので、つゆ豆とも言う。つゆ豆はいままで、ツルなしインゲンを蒔いていたのだが、今年はツルあり品種も蒔いてみた。味、大きさ、形を比べるため。収穫期はツルありの方が長い。
ナタマメははじめての栽培。家族の希望による。
ジャガイモの元寄せ−第1回目−
ジャガイモの追肥と元寄せ。
ジャガイモは普通2回元寄せ[株元に土を寄せること]をする。1回目を、小元[コモト]を寄せる、2回目を、大元[オオモト]を寄せる、と言う。いずれも芋が露出して青くなるのを防ぐため。1回目は定植して株が大きくなり始めたころ。2回目は開花し始めるころ。大元の名前の通り、しっかりと土をかける。そうしないと、梅雨時に土が雨に洗われ、芋が露出してしまう。
今年は元肥は、定植後、株のまわりにばら蒔いただけだが(子芋の定植を参照)、予想通り、生育には問題ない。今日は、株の両側に追肥したあと、元寄せする。

愚痴
なかなか農耕日誌が追いつきません。
農作業をして数日後までに綴ると、生々しい記憶が残っていて話がふくらみますが、1週間以上も経ってしまうと、単なる作業日誌のようになってしまいます。5月4日は雨催いの日だったので農作業は休みましたが、5月5日は2度目の井手堰、5月6日は畦に植えた彼岸花の球根、と話がふくらみそうな話題があります。でも今日、5月11日は、もう書き継ぐエネルギーがなくなりました。
じつは今日は休日出勤で、卒論の第1回目の中間発表会に出席しました。コース(「学科」にあたる教育単位)の委員をしているので、昨日あたりから準備でゴタゴタしていました。発表会が午後2時くらいに終わり、後片付けなどをしてから、農耕日誌を綴り始めましたので、残ったエネルギーではたくさんは書けません。4月29日と5月3日の2日分が精一杯です。
毎年そうですが、新学期が始まるととたんに忙しくなります。仕事が手からどんどん溢れ出てしまうような状態です。でも、学校の仕事はやらないと給料はもらえないし、また、野菜や米を自給しようとすると農作業をやめるわけにはいかない。本当に猫の手も借りたい、いや体が二つ欲しい・・・でも、きっとだれもが忙しいんでしょうね、わたしだけではなく。いや、もしかしたら、わたしはことさら忙しくしているのかもしれません。
ままよ、忙しいときが華か。
(5月11日掲載)

 
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2002-06-09
休耕田・耕作放棄田
 
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田植え
 
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畔塗り
 
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