てつがく村コラム

     
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2001-06-15 ☆ 熟成し果てた沢庵

ここのところ疲れています・・・田植えが終ってホッとしたのも束の間、今年の田圃はザル。水をあててもあてても、あてた端から抜ける。ちょっと油断すると、水がなくなる。おまけに、高低[タカヒク]のある[表面が水平でない]田圃もある。高いところは水面から顔を出しやすい。田植えが終わって10日ほどで除草剤を撒くが、除草剤は湛水状態でないと効かない。除草剤を撒いてからは、連日、早起きをしては田の水を見に行ったが、甲斐なく、ひどいザルの上、高低のある田圃ではヒエが生えはじめた。明日は田の草取りです・・・(トホホ)
田植機を使わなかった時代は、今からが田植え時期だった。梅雨になって田植えをするのは理に適っている。水稲は水なしには作れない作物だから。
ところで、かつては、今からの農繁期に、冬に漬けた沢庵が最後の働きをした。忙しいときのおかずになったのである。だから、沢庵はこの時期まで、もたせなければならなかったのだろう。時代錯誤だと分かっていたが−今という時代の方がむしろ時代錯誤なのかも知れないが。。。やっばり、疲れているのかな−、昨冬は昔風の塩梅で沢庵を漬けた。塩梅と重石の重量のおかげで、5月終わりまでは、沢庵の熟成が楽しめた。ところが、6月になって樽から出した沢庵は、とうとう熟成の果てまで行き着いていた。形は重石のせいでぺしゃんこになり、色は黒ずんだ黄色になった沢庵は、口に含むと酸っぱくなっていた。もっとも、熟成を終えて老化しはじめた沢庵もまた乙なもの。刻んでご飯に混ぜる。疲れていても食が進みますよ!
骨の髄まで味わい尽くす、酸っぱい沢庵も頭の葉っぱから根の尻尾までしゃぶり尽くす、これが、からだを養ってくれる命への礼儀であり、食の極意ではありませんか。

 
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2001-06-10 ☆ トマトって強い!

昨日、トマトを定植した。トマトは普通、苗を買うが、このトマトは、自分で種を蒔いて作った、調理用トマトの苗である。4月始め、子芋やサツマイモと一緒にビニール・トンネルの中に蒔いた。一緒に蒔いた長ナスやピーマンはまだ定植するには小さいが、トマトの方は、2週間ほど前に定植適期を迎えた。気になりながらも、他の作業が忙しかったので、とうとう昨日まで放っておいた。二段目の花が咲き始めたものや、一段目の花が小さなトマトになっているものもあった。(ちなみに、トマトの定植適期は、一段目の花が開花しはじめた頃である。)初めて作ったトマトの苗であるし、しかも、今まで作ったことのない(というよりも、そもそも、種苗会社のカタログに載っていなかった)調理用トマトなので、ともかく定植してみることにした。
定植は、まず穴を掘り、そこに水をなみなみと注ぐ。水が染みこんでから、その穴に苗を植える。さらに、植えた苗の周りに水をたっぷりと注ぐ。最後に、株の周りを切り藁や堆肥で覆えば、定植終わり。切り藁などは、水分の蒸発防止のためある。堆肥(稲藁堆肥)は、肥料にもなる。
定植すると、いったんは萎れる。昨日は、強い陽射しのもと、午後3時過ぎに定植を始めたので、トマト苗はすぐに萎れてしまい、頭を垂れた。夏は、陽射しが強いので、夕方定植するのがいい。だから、昨日は苗にとっては厳しい定植であった。苗は、萎れても、日がかげると元気を取り戻し、翌朝にはしゃんとしている。しかし、数日間は、日中は萎れている。
定植は苗にとって環境の激変である。また、畑で育苗されていた苗は、掘り上げのときに根を切られるので、大手術である。しかも、今回は大苗。苗は大きくなればなるほど活着が悪くなる。トマト苗も人の子、じゃなくて野菜の子、定植はさすがに堪えたようである。全部で16本定植した。ところが、である。最後のトマトを定植した頃から、最初に定植した苗が頭をもたげはじめた。まだ、陽射しは強い。結局、定植して1時間もたたないうちに、苗はしゃんと立ち上がった。
トマト苗は、根を水で洗って定植しても、次の日にはもう頭をしっかりともたげる、と野菜作りの本に書いてあった。その本の著者のやり方は豪快なので、私にはどうもついていけないところがある。場合によっては、眉に唾をつけてしまう。しかし、昨日のトマト苗を見て、根を水で洗っても活着するというのはまんざら嘘ではあるまい、と思った。(ちなみに、キャベツは、移植栽培の場合、本葉2、3枚の頃、移植するが、この頃のキャベツは、根から土がとれようが、主根が途中から切れようが、立派に活着する。)

いやぁ、トマトって本当に強いですね。転んで茎が地面に触れると、そこから根が出たりする。原産地では、石の多い斜面を、わずかな土を手がかりに這いながら生育していると、聞いた(読んだ?)ことがある。トマトって生命力が旺盛なんですね。でも、日本の夏の高温多湿には弱いようですが。
今度は、定植時の私の不手際を乗り越えて、どんな実をつけてくれるか楽しみです。

 
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2001-06-01 ☆ ジウ・慈雨

5月27日(日)に田植えが終わった。5月半ばは2週間ほど雨がなく、水が乏しい井手掛かりの田圃では田植えの準備がなかなかできなかった。池の水を抜いて準備をした田圃もあったが、苗代を作ってみても、それ以降、雨が降らないため田植えを見合わせているうち、田が干上がってしまうところもあった。下旬になって、雨が降り、やっと同じ井手掛かりでは、稚苗の植わった田圃が多くなった。。
田植えが終わってホッとするのも束の間、今度は田の水で気を揉まなくてはならなくなる。母は村に住んでいるが、80歳近い彼女に田の水の管理を任せることはできない。だから、私が朝は6時に自宅を出て、田圃の水を確認して、出勤し、場合によっては、帰宅するとき、また田圃を回る、ということが多くなる。本務の忙しい時と重なると、このような生活はさすがにストレスになる。いずれにせよ、秋の収穫まで、天気に一喜一憂する日が続く。

5月の後半になり、待望の雨が降った日のこと、教授会が終わって廊下でZ教授と一緒になった。話好きで語り口も滑らかな教授は窓から外を見て、「やっと雨が降りましたね。」と話しかけてきた。「ジウです。」と私は答えた。「えっ?」「ジウです。」と私は繰り返した。少し間を置いて「慈雨ですか。」と教授はつぶやいた。5月の爽やかな日々が続いたあと降る雨が慈雨であることは、教授も理解はできたようだが、唐突な言葉とそんな言葉を口にした訳にしばし面食らったようであった。それでも教授はすぐに話を自分の方に引きつけながら続けた。「これからは雨が降ると嫌なんですよね。湿気が多くなると、本が黴びるんですよ。」「そうですか・・・」「ええ、とくに革表紙が駄目ですね。」18世紀を研究するゲルマニストであり、本好きな教授のコレクションが彷彿とした。さらに付け加えて「クロス製も黴びることがありますね。だからときどき本を乾しているんですよ。」黴を拭い、晴れた日には慈しむように本を広げている教授の姿を想像した。
同じ講座なので常日頃言葉を交わすことが多いのだが、教授はいかにも学究肌の方である。きちんとしたみなりをし、物腰が柔らかく、言葉づかいも丁寧で正確な教授は、いわばピュアーな学者という印象を与える。「隠れ二足草鞋」の私(といっても、吹聴しないというだけで、秘密にはしていない)は、口下手で人付き合いが悪く、みなりといえば、いつでも山に分け入ることのできるようなラフなスタイル。外見ですでに、違った「風土」に生きていることがうかがえるのだが、思考スタイルもやはり別の「風土」。同じ自然環境を生きていても、拠って生きるところが違えば、その同じ環境も別々の「風土」の契機となりうる。そして、別々の思考を生む。・・・飛躍を許してもらえれば、近代=現代は「風土」の自然環境的契機をできるだけニュートラルにする方向で成立した社会である。それが、「近代」が、ヨーロッパ原産でありながら、世界を曲がりなりにも席巻した理由の一つであろう。現代の「風土論」といったものがあるとすれば、そのあたりに問題が潜んでいるようにも思える。・・・教授の人と言葉に煽られて、私も湿気を含んだ空気とはかけ離れた思考の世界に飛んでしまったようである。

 
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2001-05-10 ☆ 

今朝、学校に来る途中で、畑に寄った。朝早いので、広島市内の道路は閑散としており、畑まで車で、普通なら1時間かかるところを、40分でカバーした。
畑を見回る。去年の秋、作付けした畝のうち、4畝で「自然農法」を試みに始めた。昨秋の作付けの際は、化学肥料を使ったが、これからは化学肥料は使わず、肥料が必要なようであれば、米糠など、いわゆる「有機肥料」を使用するつもり。今春は、畑がまだ農法に馴れていないので、肥料をあまり要求しない作物を植えつけた。現在までのところ、エダマメ、つゆ豆、トウモロコシ、ズッキーニ(外見はキュウリそっくりだが、カボチャの一種)を蒔いている。エダマメとズッキーニは芽を出した。つゆ豆とトウモロコシはこの前の土曜日に蒔いたばかりなので、まだ芽は出ていない。それでも、播種後ふり撒いておいた稲藁堆肥をそっと持ち上げてみると、場所によっては発芽が始まっているところがあった。アットランダムに堆肥を持ち上げると、今度は、トノサマガエルが土の中から顔を半分出した。そこで冬眠していたものか、いったんは外に出たものの、寒いのでまた地中に戻ったものか分からないが、堆肥の下でぬくぬくと眠っていた様子である。
畝を耕転せず、藁とか草とかで覆っていると、いろいろな生き物が住むようになる。蛙もそうである。しょっちゅう耕転する畑には蛙はいない。冬眠しようにも、ねぐらを壊されてしまうからである。昨夏以来、必要以上に畑を耕転したり、草を抜いたりしなくなってから、蛙をよく見かけるようになった。
また、つゆ豆を蒔いたときである。蒔く場所だけ草などを除いた。すると、昨秋撒いた藁から堆肥のにおいがする。これはなかなか〈いける〉[おいしそうだ]、と思わせるようなにおいである。つぎに、種を埋めるぐらいの厚さで畝の表面を掻いた。すると、小さなミミズが何匹も出てきた。正直、わくわくしてきた。自然農法はうまくいくかもしれない、そんな予感である。
重々無尽の命の海で育つつゆ豆は、どんなふうになるだろう。自然農法が〈動き〉だしたら、いずれ報告をします。

 
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2001-05-08 ☆ 井手堰

田植えが近くなると、井手堰が行われる。村には私が知っているだけでも5つの井手がある。実際の数はもう少し多いだろう。井手に関係する田圃(休耕田は含まない)がある家は、井手堰に、各家一人の労力を出す(というのが、少なくとも、私の関係する井手の慣習である)。
取水口から田圃までの経路が長い井手、短い井手、山の中を通過する井手、里だけを流れる井手、人手が多い井手、少ない井手、井手の性格によって井手堰の労力は異なる。
この前の日曜日に、「こんちゃん農園」が関係する井手堰があった。井手は、里を流れる短い井手だが、人手が少なく、〈難所〉もある。川からの取水口[井手床-イデドコ-]から数メートルが暗渠になっていて、そこに砂や泥が溜まる。ここが難所の一つである。暗渠は人一人が屈んで入れる位の高さである。中腰で泥砂を掻きださなければいけないが、腰に不安のある中老年が労力では、誰も中に入って作業をしようとはしない。長い竿に結びつけた鋤簾[ジョレン]を暗渠に突っ込み、少しずつ掻きだす。取水口から離れたところにある、深さが人の丈ほどゆえの、もう一つの難所が片づき、一息入れていても、取水口で作業している人たちは一向に姿を見せない。例年よりも大分長い時間をかけて、やっと取水口の暗渠が片づいた。
井手堰が終わると、農協の裏で缶ビールを飲みながら、決算報告や雑談をする。入り口の暗渠も話題になった。去年まで暗渠に入っていた人が、今年から休耕するため、井手堰に出てこなかった。その人は、「わしゃ、細いけん」と言って、今まで暗渠掃除を買って出ていた。ビールの酔いが回ってきた勢いで、私は、「わしも細いけん、来年はわしが入ろうか。」と言ってしまった。

畑と違い、稲作は共同作業なしには成り立たない。それも、肉体そのものをつなぎ合わせるような共同作業である。稲作のこのような性格は、農村の生活にも影を落とす。だから、自由気ままに生活できない、と言って若者たちが村を離れて戻らない。だが、稲作の共同性は、村落共同体への絶対的服従ではない。共同作業が必要な時期を除けば、各人自分の田圃の面倒を思い思いに見る。言わば、ゆるやかな共同性である。だからまた、肌触れ合いながらも融通のきく共同性と、生ける自然を求めて、永い間、都会でしのぎを削ってきた人たちが定年帰農を夢見る。もっとも、夢を現実に生きるためには、長い都会暮らしを田舎風に矯めることができなければならないが・・・

【井手堰】稲作に備えて、井手[農業用水路]を整備する作業。井手の水源は多く川なので、川水を堰いて井手に導く作業、という意味で、井手堰と呼ぶのであろう。山の中の溜め池を水源とする井手もある。

 
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