☆ 2002-07-12 ☆ ジャガイモ掘り
□12日、金曜日は休暇をとってジャガイモ掘りをする。
□ジャガイモの上手な掘り手は、イモを(鍬の刃で)切らない、掘り残さない、のふたつの「ない」を実行できる人である。今日のジャガイモは男爵だから、三つ鍬を、株の外側から深めにぐさっと差し入れて、鍬を自分の方に引き気味に動かして、ぐいっと土を持ち上げると、簡単にイモが出てくる。 □ジャガイモの上手な掘り手になるにはまず、自分にあった鍬を選ぶこと。我が家には三つ鍬が3本ある。それぞれ柄と鍬の刃の角度が違う。一本は、刃の真ん中あたりで柄の側の方に向けて曲げてある。刃を折り曲げた三つ鍬は他家でも見かける。三つ鍬は土の表面を掻いたり、浅く耕したりするために使う。(四つ鍬は、土を起こすために使う。)だから、使う者の体に合わせて、既製品の刃を折り曲げて角度を調整したのであろう。母は、その三つ鍬を使う。しかし、私には角度が狭すぎる。だから、写真に写っているものを使う。 これでまた1年食べられる □農耕は、基本的には、休暇などとらずに週末にやりたいのだが、週末の予定とか天候とかによっては、授業と会議に支障がでないような日を選んで休暇をとらざるをえない。幸い、今日は家族以外に、現在「失業中」の妹と母も手伝ってくれる。 □私は朝8時から掘り始めた。台風一過の晴々とした空だが、畑に働く者としては、この時期はむしろ曇り空の方がいい。ジャガイモにとっても、強い光があたらない方がいい。数時間、炎天下におかれたとしても皮が青く変わることはないが、しかし、曇り空の弱い光にこしたことはない。掘り上げる株は90余り。10時ぐらいに援軍がやってくる。彼女たち3人はジャガイモを集めて小屋に納める。私は何度も水筒から水を補給しながら、汗だくでイモ掘り、女たちは喋りながら、イモの選別と搬入。一家総出の、全体としてみれば、むしろゆったりした作業といった風情である。 □ジャガイモは、まだ肌寒い春先から蒸し暑い梅雨までのあいだ、しだいに強く長くなる太陽を受けて成長する春ジャガをほぼ1年間食べる。秋ジャガも少々栽培するが、晩春から梅雨時のジャガイモの収穫期にかけて、底をついたり、古くなったりした春ジャガを補うためである。だから、掘り終えて無事収穫できたジャガイモを見ると、これでまた1年食べられる、といった満足と安堵の感情にひたされる。米、麦、サツマイモ、子芋、ジャガイモ、タマネギ。時代によって作物の変化はあるにしても、思うに、人びとは、保存の利く作物を収穫し、季節の命の結実を手にしたとき、作物の命が続くかぎりは、その季節をこえて、生き長らえることができる、という感慨にひたされたてきた。農耕の時間がまた新たにはずみ勢うときである。 (7月15日掲載) |
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☆ 2002-07-08 ☆ アカスジカメムシ
フェンネルに酔いしれるカメムシ
□そのカメムシたちがフェンネルの匂いに酔いしれるように群がっていたのである。彼らが枝豆のふくらみ始めた子実やトマトについているのを見ると、この悪童どもが、という気持ちになるが、フェンネルの花に群がっていると、フェンネルの匂いとさわやかな色のせいか、彼らも、花に群がる蝶や蜜蜂同様、愛らしい昆虫に見えてしまう。(いや、本当のところは、実害がないので、そのように見えるだけなのだろうが。)よく見ると、数匹、他のカメムシとは違った模様のカメムシがいた。このようなカメムシを過去に見た記憶はない。突然変異なのだろうか、と漠然と思ったりした。
蓼食う虫 □先週の土曜日、東京から広島に遊びに来た知人を畑や田圃に案内した。自然畝を見て回っているとき、その人は、「素人からみると、こんなに草が生えていると、野菜に害虫がたくさんつくんじゃないかと思いますが」と感想を述べた。「いや、百姓からしても、そう思いますよ」と私は答えた。思うだけではなく、実際、去年、自然畝に蒔いた二十日大根やカブが発芽まもなく、葉を食い荒らされて消えてしまった経験もある。慣行農法でやっていたときには経験しなかったことである。しかし、自然畝が成熟し、そこでの生態系が「調和」状態になると、虫同士の食物連鎖のおかげで、適期に蒔きさえすれば野菜は虫の害をさほど受けなくなるだろう、と予想し期待している。 □その人は午後の新幹線で帰京した。広島駅まで送っていった私は、さすがに、その日は畑に戻って仕事をする気にならず、久しぶりに街に出て、本屋に入った。カメムシのことが気になっていた私は、昆虫図鑑を立ち読みして、カメムシの項を調べた。すると問題のカメムシは、突然変異ではなく、歴とした名前の付いたカメムシであることが分かった。アカスジカメムシという名前である。視覚的特徴が名前になっている。短い説明を読むと、セリ科の植物を好む、とある。 □ああ、そうか。心で相槌を打った。フェンネルはセリ科である。野菜でセリ科といえば、我が農園で栽培しているものから挙げれば、人参、パセリ、セロリがある。いずれも匂いの強い植物であるが、ファンネルは抜きんでている。おそらくアカスジカメムシはカメムシの中でも美食家で、おまけに呑兵衛なのだろう。 □美食家とは、擬人的な発想である。心で相槌を打ったのは、フェンネルに「酔いしれる」カメムシのゆえだけではなかった。私が目の敵にしているヒメムカシヨモギによくカメムシがとまっているのを見ることがある。枝豆やトマトなら、分かる。正確には、人間の感覚からして、理解できる。しかし、よりによって、いい匂いがするわけでも、おいしい汁が吸えるわけでもないヒメムカシヨモギになぜついているんだろう、という疑念が最初見たとき、一瞬頭をよぎった。しかし、すぐに、或る自然農法家が、虫には野菜より好きな草があることがあるんです、と語っていたのを思い出した。つまり、「蓼食う虫も好き好き」ということである。そのことに、はたと思い至ったのである。 共食と共存 □私からアカスジカメムシの話を聞いた家族は、翌日の日曜日、カメムシを畑で確かめて、その美しい模様に感動していた。その日の夕食時、彼女は、カメムシの天敵って何?と無邪気に尋ねた。私も往々にしてそのような発想をしていた。アブラムシの天敵はてんとう虫。カマキリや蜘蛛は、害虫を食べるから益虫。たしかに、害虫を駆除する、しかも環境にインパクトを与えないような仕方で、駆除する、とすれば、そのような発想は間違ってはいない。自然農法の原則のひとつが「無農薬」だとすれば、自然農法は、畑に様々な虫を住まわせ、虫たちの間の食物連鎖の環を利用しながら、殺虫剤を使わない農法を実現する、と定義してみることができる。一面的であるにしても、その定義は間違ってはいないだろう。しかし、いまだ害虫と益虫という図式にとらわれている。 □自然農法では、畑に草を生やし、野菜と草が共存する。したがって、肥料を奪い取ったり、害虫の繁殖場となるという意味での「雑草」という概念は自然農法にはない。さらに、害虫と益虫という区別もない。ないはずである。ないためには、天敵概念を内包する食物連鎖だけが「無農薬」を可能にするだけでは十分ではない。アカスジカメムシが教えてくれることは、さらに、共食しながらも共存しうる宇宙が畑に実現する、ということではあるまいか。多様な植物が競いながら共生する畑が、それぞれの虫に彼らにふさわしい住処を提供する、ということではあるまいか。 □虫はいつも感動させてくれるとは限らない。しかし、フェンネルの花にとまるアカスジカメムシは美しい。「害虫」という言葉を無化してしまう感動がそこにはある。「天敵」という言葉でしか虫と虫の関係をとらえることのできない存在こそが虫にとっての天敵である、ということを見せてくれる美しさである、とも言える。 |
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☆ 2002-07-01 ☆ サツマイモ
サツマイモを植える
□ちょっと脱線して、自然農法畝のおはなし
□イモと言えば、サツマイモ
□サツマイモの植え方
□さて、耕耘機で鋤いた後は、畝づくりをする。鍬で3つ分(約45cm)の間隔をあけて、鍬1分の溝を掘る。掘りあげた土は溝の両側に上げる。
すると蒲鉾状(底辺が、大体130cm×45cmの長方形)の畝が横に並ぶような格好になる。「蒲鉾」の上をレーキで整地して、仕上げる。今年は、17畝作った。 □サツマイモの苗を植えるのは、母にまかせてある。母は月曜日からの雨がやんだ水曜日(6月26日)に、1畝あて苗3本、都合6、7畝分植えた。 □母は父(私の父のことである)から教わったと言って、植え方を次のように説明する。まず、苗床から苗を採取するが、その場合には、葉っぱを3枚くらいは残すようにして、葉っぱが5枚ついた蔓を切り離す。残った蔓からはまた新しい蔓が伸び、それがまた苗になる。切り離した蔓は、地面に平行に土に埋めるように植える。そして一番上の葉っぱは土から出す。蔓は葉っぱの付け根から発根し、その根がイモに成長する。 □まだ10畝ほどが残っているが、苗床で蔓が伸び次第、タイムリミットの7月終わりまでに、順次植えていく。 |
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☆ 2002-06-16 ☆ 地の虫、鳥、私の三粒
□午前中は、稲の植えつぎと、午後黒大豆をまく畝(休耕田)の用意をするつもりで田圃に行く。
□午後は家族を連れて田圃(休耕田)で作業をする。黒大豆の播種と子芋の追肥・元寄せ(2回目)である。 |
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☆ 2002-06-15 ☆ 除草剤
□6月14日(金)
自然畝に鳥の卵 □6月15日(土)
田の水の管理と除草剤
耕作放棄田に除草剤?
□少し刈ってから、草刈り機の刃を交換するために、農道に駐めてある軽トラックに戻ると、県道から軽トラックが農道に入ってくる。そして、わたしのトラックの後ろで停まり、運転していた人が降りてきた。その人はわたしが草刈りをしているのを見て停まったようである。「ここもあんた方の田圃や。」とその人。「うん。わしが[百姓を]やりだしてから一ぺんも作っとらんがの。」「そういえば、お父さんが作りょぉんさったわい。」その人は続ける。「草を刈るのは、やねこい[労力を要求する、きつい]じゃろう。除草剤を使いんさりゃええのに。一袋買やぁ、噴霧器に2杯とれる。このぐらいの広さなら、1杯でええ。草がこまい[小さい]ときに撒きゃ、土にしみこんで根から枯れる。そうしんさいや。」むろん、専業農家のその人は、力仕事とは無縁の仕事に就いているわたしのため、親切心で教えてくれているので、わたしは除草剤という言葉に戸惑いながらも「ほうじゃのぉ」と曖昧な返事を返す。しかし、本音は、労力、しかも不可能ではない労力の節減のためだけに、除草剤を撒きたくない。ましてや、復田を考えている田圃である。しばらく話した後、車に戻りがけにその人は「1袋300円じゃけん、150円でええ。いまごろぁ、安い農薬があるんじゃけん」と念を押すように言ってくれた。結局、草刈りは2時間半もかかった。しかし、除草剤撒布あとの後味の悪さに比べれば、草刈り機を掛ける肩の凝り、高いエンジン音に麻痺する鼓膜、振動からくる腕のしびれ、右から左へ草を払う機械を動かす腰の痛み、総じて不自然ではあるが、その疲労の方がまだましである。
□今日の「農耕日誌」は農薬漬けになりました。そのせいか、文章の流れも右往左往、いやはや、農薬はそれについて書くだけでも神経に効いてしまうようです。 |
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