てつがく村コラム

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2002-07-12 ☆ ジャガイモ掘り

12日、金曜日は休暇をとってジャガイモ掘りをする。
ジャガイモの収穫適期
ジャガイモを芽出しのため伏せるのは、3月半ばであるから、それから約4カ月経っている。ジャガイモの収穫期は、茎がおおむね枯れた時期である。
近所には、我が農園より1カ月ほど早く収穫する畑もあるが、茎が青いうちに掘りあげると、イモはまだ未熟である。未熟なイモは、味が青臭い上に、太りがよくない(肥料のやり方にもよるが)。また、皮が薄くて軟らかいため、収穫時に皮が剥けやすい。それでも近所の人たちが6月初旬に掘りあげるのは、本格的な梅雨入りの前に収穫を済ませておきたいとの思いからであろう。梅雨に入れば、掘りあげ作業がやりにくくなるし、長雨でイモが腐るかもしれない、という心配もある。隣のおばあさんも、早よう掘らんとイモが腐る、とよく言うし、我が家でも、父の時代に、梅雨の晴れ間がなく、掘りあげの機会がないまま放っておいたため、イモが腐ってしまったことがあったそうである。
ただ、私は、畝が何日も水浸しになるような状態でなければ、そうそうイモは腐るものではない、と思っている。だから、畑は、溝の傾斜などに気をつけて、雨が降ってもすぐに排水されるようにしてあるので、長雨でも心配していない。心配なのはむしろ、雨で畝が浸食され、イモが露出することである。露出した部分は青く変色してしまう。すると、そこにソラニンが形成されるので、削り取らないと食べられない。だから、畝を見回って、露出しそうなところに土をかけてやることもある。
我が農園でのジャガイモ掘りは、したがって、父の時代から、梅雨の終わりの晴れ間を狙って行うことにしている。
行儀のいい男爵、悪いメイクイーン
春ジャガは、男爵とメイクイーンの二品種を作る。男爵の方が早生である。茎の状態を見ると、メイクイーンはまだ青いので、今日は男爵だけを掘り上げることにする。二つの品種は、収穫期に違いがあるだけでなく、保存期間、形状、味にも違いがある。我が家で二品種を作るのは、味の違いによる。男爵はほくほくイモなので、たとえばサラダに向くし、メイクイーンはしっとりイモなので、煮物に向く。だから、料理によって使い分ける。
ふたつはイモのなり具合にも特徴がある。男爵はイモの数が少なく、比較的粒が揃っている。しかも、茎の下に行儀よく埋まっている。ところが、メイクイーンはイモの数が多いし、行儀が悪い。こんなところまで茎は伸ばしていないだろう(ジャガイモは、根ではなく地下茎が太るのです)、と無造作に鍬を入れると、鍬でイモを切ってしまうことがある。だから、収穫作業は、品種に応じて鍬使いも変えなければならない。

ジャガイモ掘り
ジャガイモ掘り
掘る前に、まず茎を引き抜く。ほとんど枯れている茎は地中にイモを残して簡単に抜ける。掘り出したイモは、大まかに土を払う。土が湿っていると、イモから泥がとれにくい。だから、できるだけ、雨が降らない日が続いたときに掘り上げる。
イモは大きさにしたがって、大中小くらいに分別し、 木箱に、重ねないように並べる。小屋に運んだ木箱は、上下すこしずらして重ねる。風が通りやすくするためである。2、3週間後に、腐ったイモは除いて、今度はイモを重ねて詰め、木箱もずらさずに重ね、筵で覆って、保存する。
 
ジャガイモの上手な掘り手は、イモを(鍬の刃で)切らない、掘り残さない、のふたつの「ない」を実行できる人である。今日のジャガイモは男爵だから、三つ鍬を、株の外側から深めにぐさっと差し入れて、鍬を自分の方に引き気味に動かして、ぐいっと土を持ち上げると、簡単にイモが出てくる。
ジャガイモの上手な掘り手になるにはまず、自分にあった鍬を選ぶこと。我が家には三つ鍬が3本ある。それぞれ柄と鍬の刃の角度が違う。一本は、刃の真ん中あたりで柄の側の方に向けて曲げてある。刃を折り曲げた三つ鍬は他家でも見かける。三つ鍬は土の表面を掻いたり、浅く耕したりするために使う。(四つ鍬は、土を起こすために使う。)だから、使う者の体に合わせて、既製品の刃を折り曲げて角度を調整したのであろう。母は、その三つ鍬を使う。しかし、私には角度が狭すぎる。だから、写真に写っているものを使う。
これでまた1年食べられる
農耕は、基本的には、休暇などとらずに週末にやりたいのだが、週末の予定とか天候とかによっては、授業と会議に支障がでないような日を選んで休暇をとらざるをえない。幸い、今日は家族以外に、現在「失業中」の妹と母も手伝ってくれる。
私は朝8時から掘り始めた。台風一過の晴々とした空だが、畑に働く者としては、この時期はむしろ曇り空の方がいい。ジャガイモにとっても、強い光があたらない方がいい。数時間、炎天下におかれたとしても皮が青く変わることはないが、しかし、曇り空の弱い光にこしたことはない。掘り上げる株は90余り。10時ぐらいに援軍がやってくる。彼女たち3人はジャガイモを集めて小屋に納める。私は何度も水筒から水を補給しながら、汗だくでイモ掘り、女たちは喋りながら、イモの選別と搬入。一家総出の、全体としてみれば、むしろゆったりした作業といった風情である。
ジャガイモは、まだ肌寒い春先から蒸し暑い梅雨までのあいだ、しだいに強く長くなる太陽を受けて成長する春ジャガをほぼ1年間食べる。秋ジャガも少々栽培するが、晩春から梅雨時のジャガイモの収穫期にかけて、底をついたり、古くなったりした春ジャガを補うためである。だから、掘り終えて無事収穫できたジャガイモを見ると、これでまた1年食べられる、といった満足と安堵の感情にひたされる。米、麦、サツマイモ、子芋、ジャガイモ、タマネギ。時代によって作物の変化はあるにしても、思うに、人びとは、保存の利く作物を収穫し、季節の命の結実を手にしたとき、作物の命が続くかぎりは、その季節をこえて、生き長らえることができる、という感慨にひたされたてきた。農耕の時間がまた新たにはずみ勢うときである。
(7月15日掲載)
 
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2002-07-08 ☆ アカスジカメムシ

フェンネルに酔いしれるカメムシ
6月も半ばになると、フェンネル(茴香−ウイキョウ−)の花が咲き始める。すると、春太くなった根元を食用とする種類のフェンネル(フローレンス・フェンネル)は、茎がしぼんで堅くなり食用にはならなくなる。しかし、芳香は衰えず、花が終わると種子に凝縮する。
先日、目の高さくらいにまで成長したフェンネルをふと見ると、カメムシが花に群がっていた。
今年の自然畝は、春はてんとう虫の繁殖場となったかと思うと、夏近くになってカメムシが「大発生」した。「大発生」したと言っても、害虫・益虫を区別するのに慣れた百姓の実感からして、そうであるだけで、実際には、春、薹立ちして結実したアブラナ科の野菜が枯れて倒れたところで二カ所、その野菜に成虫や幼虫が蝟集していたのを発見した、ということなのである。虫を敵とせず、の自然農法を試みている私もさすがにぞっとして、カメムシを野菜の残骸もろともビニールの肥料袋に入れて、荒れ地に捨ててしまった。むろん、そのさい畑に逃れたカメムシも少なからずいるし、しかも、私が発見したのはカメムシの繁殖場の一部だろうから、我が農園の自然畝区画のあちこちにカメムシが跋扈しているのはたしかである。

アカスジカメムシ
アカスジカメムシ
写真の中央にいるのが、アカスジカメムシである。まわりのカメムシは、畑ではよく見るタイプである。
そのカメムシたちがフェンネルの匂いに酔いしれるように群がっていたのである。彼らが枝豆のふくらみ始めた子実やトマトについているのを見ると、この悪童どもが、という気持ちになるが、フェンネルの花に群がっていると、フェンネルの匂いとさわやかな色のせいか、彼らも、花に群がる蝶や蜜蜂同様、愛らしい昆虫に見えてしまう。(いや、本当のところは、実害がないので、そのように見えるだけなのだろうが。)よく見ると、数匹、他のカメムシとは違った模様のカメムシがいた。このようなカメムシを過去に見た記憶はない。突然変異なのだろうか、と漠然と思ったりした。
蓼食う虫
先週の土曜日、東京から広島に遊びに来た知人を畑や田圃に案内した。自然畝を見て回っているとき、その人は、「素人からみると、こんなに草が生えていると、野菜に害虫がたくさんつくんじゃないかと思いますが」と感想を述べた。「いや、百姓からしても、そう思いますよ」と私は答えた。思うだけではなく、実際、去年、自然畝に蒔いた二十日大根やカブが発芽まもなく、葉を食い荒らされて消えてしまった経験もある。慣行農法でやっていたときには経験しなかったことである。しかし、自然畝が成熟し、そこでの生態系が「調和」状態になると、虫同士の食物連鎖のおかげで、適期に蒔きさえすれば野菜は虫の害をさほど受けなくなるだろう、と予想し期待している。
その人は午後の新幹線で帰京した。広島駅まで送っていった私は、さすがに、その日は畑に戻って仕事をする気にならず、久しぶりに街に出て、本屋に入った。カメムシのことが気になっていた私は、昆虫図鑑を立ち読みして、カメムシの項を調べた。すると問題のカメムシは、突然変異ではなく、歴とした名前の付いたカメムシであることが分かった。アカスジカメムシという名前である。視覚的特徴が名前になっている。短い説明を読むと、セリ科の植物を好む、とある。
ああ、そうか。心で相槌を打った。フェンネルはセリ科である。野菜でセリ科といえば、我が農園で栽培しているものから挙げれば、人参、パセリ、セロリがある。いずれも匂いの強い植物であるが、ファンネルは抜きんでている。おそらくアカスジカメムシはカメムシの中でも美食家で、おまけに呑兵衛なのだろう。
美食家とは、擬人的な発想である。心で相槌を打ったのは、フェンネルに「酔いしれる」カメムシのゆえだけではなかった。私が目の敵にしているヒメムカシヨモギによくカメムシがとまっているのを見ることがある。枝豆やトマトなら、分かる。正確には、人間の感覚からして、理解できる。しかし、よりによって、いい匂いがするわけでも、おいしい汁が吸えるわけでもないヒメムカシヨモギになぜついているんだろう、という疑念が最初見たとき、一瞬頭をよぎった。しかし、すぐに、或る自然農法家が、虫には野菜より好きな草があることがあるんです、と語っていたのを思い出した。つまり、「蓼食う虫も好き好き」ということである。そのことに、はたと思い至ったのである。
共食と共存
私からアカスジカメムシの話を聞いた家族は、翌日の日曜日、カメムシを畑で確かめて、その美しい模様に感動していた。その日の夕食時、彼女は、カメムシの天敵って何?と無邪気に尋ねた。私も往々にしてそのような発想をしていた。アブラムシの天敵はてんとう虫。カマキリや蜘蛛は、害虫を食べるから益虫。たしかに、害虫を駆除する、しかも環境にインパクトを与えないような仕方で、駆除する、とすれば、そのような発想は間違ってはいない。自然農法の原則のひとつが「無農薬」だとすれば、自然農法は、畑に様々な虫を住まわせ、虫たちの間の食物連鎖の環を利用しながら、殺虫剤を使わない農法を実現する、と定義してみることができる。一面的であるにしても、その定義は間違ってはいないだろう。しかし、いまだ害虫と益虫という図式にとらわれている。
自然農法では、畑に草を生やし、野菜と草が共存する。したがって、肥料を奪い取ったり、害虫の繁殖場となるという意味での「雑草」という概念は自然農法にはない。さらに、害虫と益虫という区別もない。ないはずである。ないためには、天敵概念を内包する食物連鎖だけが「無農薬」を可能にするだけでは十分ではない。アカスジカメムシが教えてくれることは、さらに、共食しながらも共存しうる宇宙が畑に実現する、ということではあるまいか。多様な植物が競いながら共生する畑が、それぞれの虫に彼らにふさわしい住処を提供する、ということではあるまいか。
虫はいつも感動させてくれるとは限らない。しかし、フェンネルの花にとまるアカスジカメムシは美しい。「害虫」という言葉を無化してしまう感動がそこにはある。「天敵」という言葉でしか虫と虫の関係をとらえることのできない存在こそが虫にとっての天敵である、ということを見せてくれる美しさである、とも言える。
 
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2002-07-01 ☆ サツマイモ

サツマイモを植える
先々週の土曜日(6月22日)にサツマイモを植える畝を作った。
サツマイモは霜が降りると茎が枯れる。また、収穫までに3カ月ほどかかるので、村での植え付けのタイムリミットは7月終わりである。できれば7月半ばまでには植え付けを終えたい。いまの時期、イモの苗床では、やっと苗がとれるぐらいに蔓が成長してきている。 そろそろ梅雨前線も日本列島上で活動を始めそうな天気図である。だから、先々週末がちょうど畝の作り時だった。

ちょっと脱線して、自然農法畝のおはなし
春先には自然農法畝をどんどん増やそうと思っていたが、野菜の種類によっては、自然農法では、少なくともいまの私の畑の状態では、踏み切れないものがある。たとえばイモ類や大根や人参の根菜類がそうである。
自然農法を始めてまだ2年目でしかない我が農園では、自然畝はやせている。自然農法の三大原則のひとつ、不施肥は曲げて、有機肥料(購入する発酵鶏糞と、自家製の発酵米糠)を追い肥として施している。控えめな施肥のためもあって、慣行農法での作物に比べれば、貧弱なものしかできない。ところが、いま挙げた作物は、あまりに貧弱なものしかできないと、自給に大きな影響がでる。1度や2度の作付けで1年分を栽培するうえに、菜っ葉類のように他の野菜との代替がきかないからである。
しかも、ジャガイモやサツマイモは、不耕起の原則も曲げなければならない。ジャガイモは元寄せを二度する。すると必ず畝の土を動かすことになる。元寄せで土を動かすのは不耕起ではないが、土を動かせば土中の生態系を破壊し土がやせる、ということを根拠にする不耕起原則にはもとる。栽培量が少ない場合、雑草なりで株元を覆えば元寄せの代わりになるだろうが、自家用とはいえ種芋を6kg使う我が農園の場合は、そういうわけにもいかない。また、サツマイモの場合、特別耕土が深くないかぎり、芋が成長する場所を確保するため、高畝にしなければならない。すると、やはり土を大きく動かすことになる。
そこで、春先の目論見を変更して、現在では畑をほぼ等しい面積の二区画に分割し、それぞれの区画で慣行農法と自然農法を別に行っている。

イモと言えば、サツマイモ
食糧事情がよくなかった昔は、サツマイモは主食の米を補う食料であった。(村では、たんにイモと言えば、サツマイモを指す。サツマイモがイモ類のなかで主要な位置を占めていたことをうかがわせる。)だから、大量に栽培して、専用の場所(よく床下が利用された)に囲い、冬の間中食べていた。考えてみれば、一般に芋類は主食を補う食料であったし、現在でもその名残はある。わが家で栽培している芋類は、日本列島での栽培の歴史の古いものから順に挙げれば、子芋、サツマイモ、ジャガイモである。サツマイモは、わが家では頻繁には食べなくなったが、それでも、春先には自家採取した種芋を伏せて育苗するという手間をかけている(近所では苗の芋蔓を買う家が多い)。子芋も自家採取した種芋を育苗して定植している。そして、秋から春先まで常時食べている。ジャガイモは春秋二度栽培し、一年中食べている。
だから、我が農園では、芋類の栽培は、米やいくつかの主要な野菜(大根、人参、秋から冬にかけての菜っ葉類、タマネギなど)とともに「蒔きサゴ」の主要な時節をなす。それらの時節は季節のリズムに組み込まれながら、農作業のリズムを、したがって私たちの息づかいを作る。
本格的に梅雨入りする前にサツマイモの畝を作る。昔と違い、いまは耕耘機で短時間で耕起し砕土する。
ブドウ園が廃園になり、かつての山の所有者が永久小作人となったころ、定年退職した父は山の端にあった畑を開墾しなおし、サツマイモを植えていた。すでに耕耘機は存在したが、機械の入るような畑ではないので、鍬で作業をしていた。隣の畑ではまだブドウを栽培していたため、その畑にもコンクリート製の支柱が残してあり、ブドウの蔓を這わせるための針金が張ってあった。おまけに赤土の畑だったので、作業は大変だったろう。しかし、サツマイモは赤土土壌がかえっておいしいものができる。もしかすると、ブドウ園ができる前、山の中にあったその畑はサツマイモ中心に耕作されていたのかもしれない。そのことを思い出した父は、復畑しサツマイモを作ったのかもしれない。何年続けたのだろうか。私が農耕を始める何年も前にその畑は作らなくなっていたので、せいぜい10年くらいだろうか。
ところが、いまは耕耘機を使い、しかも、屋敷まわりの畑のごく一部で、まるで過ぎ去った時代の記憶のようにサツマイモを作る。
しかし、私としては、帰らぬ日の、感傷にひたされた思い出のように作っているのではない。「蒔きサゴ」の編み物がある。この風土を生きてきた人たちが長い間に編み上げてきたものである。それは同時に私たちの身体を織り上げている。編み物の結び目のひとつがほつれる。すると、いずれ編み物全体が崩れていく。だから、サツマイモの栽培は、感傷ではなく、現に生きることの結び目である。その結び目の更新である。たとえ、その結び目がいまではさほど注意が向けられなくなっても、やはり結び目であることに変わりはないのである。

サツマイモの植え方

サツマイモの畝
サツマイモの畝
写真からお分かりいただけるように、サツマイモの畝は赤土まじりの土である。屋敷まわりにあるわが家の畑は、概して耕土が浅く、すぐに赤土層に突き当たる。本文にも書いたように、そのような土でおいしいイモ(ジャガイモを含めて)がとれる。
 
さて、耕耘機で鋤いた後は、畝づくりをする。鍬で3つ分(約45cm)の間隔をあけて、鍬1分の溝を掘る。掘りあげた土は溝の両側に上げる。 すると蒲鉾状(底辺が、大体130cm×45cmの長方形)の畝が横に並ぶような格好になる。「蒲鉾」の上をレーキで整地して、仕上げる。今年は、17畝作った。
サツマイモの苗を植えるのは、母にまかせてある。母は月曜日からの雨がやんだ水曜日(6月26日)に、1畝あて苗3本、都合6、7畝分植えた。
母は父(私の父のことである)から教わったと言って、植え方を次のように説明する。まず、苗床から苗を採取するが、その場合には、葉っぱを3枚くらいは残すようにして、葉っぱが5枚ついた蔓を切り離す。残った蔓からはまた新しい蔓が伸び、それがまた苗になる。切り離した蔓は、地面に平行に土に埋めるように植える。そして一番上の葉っぱは土から出す。蔓は葉っぱの付け根から発根し、その根がイモに成長する。
まだ10畝ほどが残っているが、苗床で蔓が伸び次第、タイムリミットの7月終わりまでに、順次植えていく。
 
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2002-06-16 ☆ 地の虫、鳥、私の三粒

午前中は、稲の植えつぎと、午後黒大豆をまく畝(休耕田)の用意をするつもりで田圃に行く。
2回目の植えつぎ
田圃に着くと、ちょうどSさん(田植えと除草剤撒布をを委託した人)が軽トラックから降りてわが家の田圃を覗き込んでいた。傍に近づいて声をかけると、畔で中腰になったSさんは「除草剤は効きょぉるようながのぉ」と田圃のなかを指さす。「ほら、この草は枯りょぉる」たしかに水没している草は変色しかけている。「ほいじゃが、大けえ草は枯れんじゃろう。ちいたぁ[少しは]、草を取っちゃらんにゃ、わからん[駄目]じゃろう。」とわたしが言うと、「なぁにぃょん[何言っている]」と強い語気でSさんは答える。除草剤を使う今どき、わざわざ田の草を取るやつがいるか、少しぐらい草が生えても問題じゃない、といった口ぶりである。しばらく観察した後で、「わしゃ、いまから[自分の田に]薬まきに行くんじゃ」とトラックに乗り込んだSさんに、わたしはふと思い出し、両手を大きく振って訊いた。「植えつぎしょぉ思うんじゃが、大丈夫かのぉ。植えつぎした稲が除草剤にやられたりせんかのぉ。」田植えの翌日、植えつぎを済ませたつもりが、じつはまだ苗が植わっていないところがかなりあった。しかし、除草剤撒布の前後に植えつぎをしたのでは、植えたばかり苗も一緒に枯れてしまうのではないか、と心配して今日まで待っていたのである。「なぁに、枯りゃせんよ」とSさんは言い残して、車を発進させた。
結局、午前中をまるまる使って2回目の植えつぎを済ませた。・・・薬剤撒布後5日目でも、むろんわたしは田靴を履きビニール手袋をはめて、植えつぎをしました。1週間ものあいだ、まっすぐ歩けなくなったのでは大変ですから。

午後は家族を連れて田圃(休耕田)で作業をする。黒大豆の播種と子芋の追肥・元寄せ(2回目)である。
黒大豆の播種
黒大豆の畝は1週間前に作った。しかし、一度雨が降ったため、畝は少し崩れた。だから、平鍬で溝[に崩れた落ちた土][畝に]上げ、畝の表面を三つ鍬で耕してから、レーキで整地し、もう一度しっかりと畝立てする。畝を引っかくように耕しておくと、雑草の防除にもなる。わたしが大豆の畝で作業をしている間、家族には子芋に追肥[化学肥料]してもらう。
ガンギ[蒔き床]を切ってから家族を呼ぶ。黒豆を蒔くのは家族の役目である。
ガンギの間隔は2鍬分。するとガンギの中心線同士は45cmの間隔になる。1ガンギあて、50cmほど離して、2カ所蒔く。1カ所あてには、5cmほどの間隔をあけて2粒蒔く。すると、株が畝に2列に並ぶことになる。大豆の発芽率は高いので、欠株はほとんどない。2粒とも発芽しても間引かず、1カ所2株で育てる。
「ひとつは地の虫、ひとつは鳥、ひとつは私のため」
農耕を始めて2、3年はポットで育苗してから定植していた(地床育苗でもいい)。豆は発芽したときに鳥に狙われやすい。最初出てくるのは双葉のようではあるが、じつは豆が二つに割れ、色が緑になっているだけのことである。だから、目立つし、おそらく鳥にとって食べ甲斐がある。「ひとつは地の虫のため、ひとつは鳥のため、ひとつは私のため」と言いながら、母の継母は豆を3粒ずつ蒔いていたそうだが、鳥はそれほど行儀はよくはない。全部わしのため、と言わんばかりに、食べられるだけ食べてしまう。そこで、私はポット育苗にしたのである。すると育苗床は狭いので、ネットを張るなりして鳥害を防ぐことができる。定植適期(二つの割れた豆の次に出てくるのが、双葉の初生葉で、その次に本葉が出る。本葉が出始めたころが適期である。)ぐらいに成長すると、もう鳥は狙わなくなる。
移植栽培したところで、大豆の成長のためにはならないし、手間もかかる。そこでわたしは直播きにすることにした。ただし、行儀のよくない鳥を寄せつけない対策は必要である。さいわい、わたしは自家用にしか豆は作らないので、畝の面積は限られている(今年の場合、62カ所、都合124粒、蒔いた。)。そこで、寒冷紗のようなネット類を本葉が出始めるころまでべた掛けしておく。これで「2粒とも私のため」の大豆直播きが可能になったのである。
(聞くところによると、或る農薬をまぶして蒔くと、鳥害が防げるそうである。販売用に多量に栽培することを考えれば、育苗もネットのべた掛けも現実的ではないから、いかにもありそうな農薬であるが、ただ、わたしはその存在を確かめたことはない。)
「最初は親芋、次は子芋、最後は孫芋のため」
家族二人に豆まきはまかせて、わたしは子芋の元寄せ[株元に土を寄せること]をする。一回目は親芋のため、二回目は子芋のため、三回目は孫芋のため。これはわたしが勝手に作った子芋の「元寄せ歌」だが、定植から梅雨明けまで、3回に分けて追肥・元寄せすることにしている。どこかにもう書いたかもしれないが、子芋は土を被せてやらないと太らない。しかし、一度に被せすぎると、逆効果である。だから、1回につき、数p(5cmから10cm未満)の土を掛けてやる。今日は「子芋のため」の元寄せである。(なお、1回目の元寄せは、5月26日にやりました。)
(6月23日掲載)

 
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2002-06-15 ☆ 除草剤

614(金)

自然畝に鳥の卵
金曜日、学校からの帰りに畑に寄ると、畑で草取りをしていた母が、ちょっとこれを見てみんさん、と畑の隅の草陰においてあった鳥の卵を取り上げて見せた。灰色で下ぶくれの、長径4cmほどの卵である。あそこにあったんじゃが、と言いながら、先日、自分が片づけたエンドウの畝をさした。支柱は取り除かれ、エンドウの枯れた蔓が2箇所にまとめておいてあった。2年目の自然畝なので、草が生えている。エンドウが支柱に絡まっていたときには、畝は、地面には草が生え、エンドウの蔓がトンネル状に覆っていたので、鳥には、産卵し雛を育てる巣としては格好の場所と見えたのかもしれない。
それにしても、畑に鳥が巣を作ったのは初めてである。エンドウを片づける前に巣があると分かっていれば、巣立ちまではその畝は触らずにいたのだが、母は、というよりむしろ誰が片づけても、まさかそんなことは想像もしないので、片づけたあとに気づいたようである。三つあって、ひとつは壊れちょった、と言うので、ひとつは片づけの途中で踏み割ったのであろう。草陰においてあった二つのうちのひとつも壊れていた。そこは通り道になっているので、母かわたしが踏んだのだろう。
どぉしょぉか、と母が訊いた。巣が壊されたと分かった親鳥はもう帰っては来ないだろうが、孵化はしないにしても、せめて踏み割られないように、と思い、木と草が茂っている(つまり、荒れている)隣接する他家の畑に置くように言った。
2日後の日曜日、壊された巣の近くの畝で山鳩を見かけた。鳥は普通、人が近づくと飛び立つものだが、その鳩はわたしが後ろから近づいても、うろうろと歩いている。卵の大きさから判断して、山鳩のものではないか、と考えていたわたしには、その鳩は卵を探しながら歩いている親鳥に見えた。
山鳩はよく見かける鳥である。電線に止まって畑の様子をうかがっていたりする。野菜の芽が出たばかりのを狙って食べてしまうのは、たぶん彼らである。豆など大きい種の芽が狙われやすい。だから、鳩は「害鳥」に見えるのだが、この日ばかりは、可哀相だった。母に頼んで、捨てた卵を拾ってきてもらい、巣があったとおぼしきところに卵を戻した。まわりを藁で囲っておいたが、親鳥が帰り、その卵を抱くことはあるまい・・・山鳩の後ろ姿に感じた、取り返しのつかない遣る瀬なさから逃れるためだけのことかもしれない。

615(土)

田の水の管理と除草剤
田植えから稲刈りまでの4カ月ほどの田圃での仕事は、田の水の管理と、畔の草刈りである。田植えが終わってからしばらくは、朝、田圃に寄り、水の状態を見てから、学校に行くことが多くなる。だから、すっかり早起き鳥になってしまう。5時起床、6時出発、その40分後に村に到着して畑と田圃の見回り、そして、場合によっては一汗流し、また40分自動車を運転して学校到着、といった具合である。
とくに除草剤を撒いてから2週間ほどは、湛水状態で地表が露出しないようにしておかないと、農薬が十分には効かない。除草剤は水に溶けて、二葉期程度までの草の、水没している地上部に直接作用する。だから、泥が露出していると、そこに草が生えたり、生えた草に農薬が効かなかったりするのである。
除草剤には、粒状のものと液状のものがあるが、わが家では粒状のものを使用する。化学肥料は、花咲か爺さんが灰を撒くように、片手いっぱいに握ってはふり撒くが、除草剤はパラパラといった感じで撒いていく。つまり、面積に対してきわめて少量を使うのである。だから、手で撒布する場合には、むらのないよう神経を配って撒かなければならないので、時間がかかる。手では一様になりにくいので、ハンドルを回せば少しずつ粉が落ちるような仕掛けになった道具があるようだが、それでも田圃の中を余すところなく歩いて回らなければならないので、時間はかかり、疲れるそうである。わが家では、去年から田植えを委託している人に頼んで、機械で撒布してもらっている。機械を担いで畔を歩くと、機械の撒布口から田の中に除草剤が撒きとばされる。機械撒布ははるかにスピーディで楽である。
その除草剤撒布を6月11日(今年の入梅日)にやってもらった。だから、いまは、田の水は、湛水状態であり、しかも溢れ出てしまわないように(さもなければ、除草剤も流れだしてしまう)調整しておかなければならない。去年は、田圃が「ざる状態」だったので水が溜まらず、薬が効かなかった。今年は、畦にあいたモグラの穴をしらみ潰しに塞ぎ、初めてではあるが、自分で丹念に畔を塗った甲斐があり、水溜まりがいい。しかも、晴天続きにしては、井手の水も涸れない。だから、いまのところ、田の水に気を揉むことはない。
畔の草刈り
午前中は、取水している田圃の水の入り具合いを見張りながら、畔の草刈りをする。草刈りは田植え前に一度やったから2週間ぶりである。草刈りは、むろん田圃を見回るとき草が茂っていては歩きにくいし、水漏れの部分も発見しにくいから、ということもあるが、畦畔そのものの維持という目的もある。長い間休耕し、管理を怠っていると、草の繁った畦畔は崩れてしまう。草の根で畦畔の土が膨満になり、また、肥沃化し軟らかくなるからである。だからといって、草が生えていないと、コンクリートで固めないかぎり、雨による浸食で、やはり畦畔は崩れてしまう。草が生えていれば、根が土をつかみ、土砂の崩壊や流出を防いでくれる。だから、草は生やしても繁らさせず、という管理が必要なのである。
今年は、自分で畔を塗ったせいか、草を刈っていても畔に妙に愛着が湧く。低くなっているところは、今年の冬に土を入れてやろうとか、少しずつ流れた土が畔から庇のように突き出ているところは、削って畔にもどしてやろう、とか考える。来年また自分が畔を塗るときのことを考えるからである。むやみに機械を導入したり、区画整理してコンクリートで固めたりしないで、できる限り手作業を残しておくと、畔を相手にしていても、まるで生き物とスキンシップをしているような気がしてくる。そういえば、わたしは畔に生えているアザミは切らずに残しておく。アザミは田植え前から咲き始め、いまごろになると、そろそろ種をつけ始める。稲の緑がしだいに嵩をまし広がってきた田圃の、きれいに刈られた畔に、アザミが深緑の葉を広げて立ち上がり、いくつもの茎の先に赤紫の花が咲く・・・農作業の手を休めて目をやると、心なごむ思いがする。
農薬中毒
草を刈っていると、上の田圃の所有者が話にやってくる。除草剤と水の関係について喋っていると、その人は、「わしゃ、農薬中毒になったことがあるんじゃ」と話しだした。「除草剤を撒いた次の日、植えつぎをしたんよ。素手で、おまけに裸足じゃった。その晩、ひとりで食事してから横になっとると、天井が回りだしたんじゃのぉ。脳の血管でも切れたんかの、思うたんよ。はあ[もう]そがいな歳じゃけん。その日は家には誰もおらんかった。はじめは目が回るだけじゃったが、吐き気もするようになった。それで、[別のところに住んでいる]子どもに電話して、病院に連れてってもろうた。そうしたら、農薬中毒じゃった。1週間ぐらいたっても、まっすぐ歩けんかった。神経でもやられたんかのぉ。農薬はひどいもんじゃ、とつくづく思うたよ。」その人は、除草剤を撒いて4日目のわが家の田圃で蛙やオタマジャクシが泳いでいるのを見ながら、「ほいじゃが、蛙は平気で泳いどるよの。わしらと神経の構造が違うんかの。」と笑う。
農家の人は比較的農薬に無神経である。わたしは農薬を扱うときは(といっても、せいぜい年に2回、それも幼苗の害虫と雑草防除のためにしか使わないが)、マスクをして、ビニール手袋をつけるが、無防備な服装で農薬撒布をやっている人もよく見かける。たとえ完全防備で農薬を扱うにしても、事故は起こりうるし、そもそも農薬を体からシャットアウトしきることはできない。農作物の残留農薬が問題になるが、一番の被害者は農家の人(そして、田畑に生きている動植物)ではないかと思う。ならば農薬を使わなければいいではないか、という消費者の声が聞こえてきそうだが、しかし、消費者のニーズにあう商品として出荷しようとすると、農薬を使わざるをえない。虫食われのない、姿形の美しい野菜を求める。季節外れの野菜を求める。そのとき消費者は、じつは、農薬を使えと言っているに等しいのである。そして「神様」の声を拝聴して、農家は農薬を使用する。
季節の巡りにしたがって、折々の野菜を作る。その野菜はまず自家用であり、そして、余った野菜は非農家に回される。農家も非農家も折々の野菜を食して、折々の体を養う。それが自然でないかと思う。自然な流れにしたがって農耕が営まれ、消費が行われるとき、農薬などという反自然なものはそうそう介入しては来ない。しかし、いまの社会は、その自然の流れが逆流している、とわたしは思う。生活の基準と目的は都会であり、生産物の範型は工業製品である。人工構築物のなかを非人称的な時間が流れ、ひとは人為的システムにしたがって生きる。様々な工業生産物を欲望し、消費する。そうしながら、しかし、人は生きて欲望していることの「自然」を忘れている。だから、農作物も、「欠陥」のない商品、需要に応じていつでも供給される商品であることを要求する。残留農薬、産地偽称、「安全性」に問題のある外国産の農作物の流通・・・原因の大半は、消費者自身にあるような気もする。生きて欲望するとは、まずは、季節の巡りに従うことである。巡りの中の生命の営みに従うことである。この「自然」を踏まえないと、生きて欲望すること自体が危うくなる。
農薬中毒も、軽く済んでしまえば、笑い話にできる。しかし、農耕に携わる人たちは、現代社会に生きている以上、つい自然の逆流に従ってしまう。そして、取り返しのつかぬ事故に巻き込まれることがある。だから、近代農業的技術は、その逆流性に注意しながら、利用しなければならない、と思う。
「蛙は平気で泳ぎょうるよの。ほいじゃが、昔に比べりゃ、蛇が少のぉなった。蛍も珍しゅうなった。稲刈りの頃は、イナゴがなんぼでもおったが、いまは一匹も見んようになった。」そう、人間だけでなく、耕作地とその周辺全体が「農薬中毒」で苦しんでいるのである。

耕作放棄田に除草剤?
午後は、復田を考えている耕作放棄田の草刈り。250m2程度の広さである。

休耕田の草刈り
休耕田(耕作放棄田?)
最近は写真を掲載していないので、いい写真ではありませんが、村のにおいをお届けするため、あえて掲載してみました。
左側、草が帯のように倒れているところの左端から、右の、耕起してある田圃との境までが、復田候補の耕作放棄田。一番手前にセイタカアワダチソウの頭が写っているが、それが生えているのは他家の耕作放棄田。その田圃とわが家の田圃との境には井手が通っている。しかし、わが家の田圃は向こう側、軽トラックが駐まっているあたりに流れている井手から取水する。
ご覧のように、田圃は細長い形をしている。しかも、写真では分かりにくいが、まわりに比べて田の水準が低い。ところが、取水口と排水口が向こう側しかにしかないため、取水はともかく、排水が悪い。干ばつ時にも穫れるかわりに、稲刈り時に水が落ちにくい。そのため長い間耕作しなかったのである。
ちなみに、左側の帯は、田圃の長辺を一往復して刈った。2時間半という労力が想像してもらえるだろうか。
 
少し刈ってから、草刈り機の刃を交換するために、農道に駐めてある軽トラックに戻ると、県道から軽トラックが農道に入ってくる。そして、わたしのトラックの後ろで停まり、運転していた人が降りてきた。その人はわたしが草刈りをしているのを見て停まったようである。「ここもあんた方の田圃や。」とその人。「うん。わしが[百姓を]やりだしてから一ぺんも作っとらんがの。」「そういえば、お父さんが作りょぉんさったわい。」その人は続ける。「草を刈るのは、やねこい[労力を要求する、きつい]じゃろう。除草剤を使いんさりゃええのに。一袋買やぁ、噴霧器に2杯とれる。このぐらいの広さなら、1杯でええ。草がこまい[小さい]ときに撒きゃ、土にしみこんで根から枯れる。そうしんさいや。」むろん、専業農家のその人は、力仕事とは無縁の仕事に就いているわたしのため、親切心で教えてくれているので、わたしは除草剤という言葉に戸惑いながらも「ほうじゃのぉ」と曖昧な返事を返す。しかし、本音は、労力、しかも不可能ではない労力の節減のためだけに、除草剤を撒きたくない。ましてや、復田を考えている田圃である。しばらく話した後、車に戻りがけにその人は「1袋300円じゃけん、150円でええ。いまごろぁ、安い農薬があるんじゃけん」と念を押すように言ってくれた。結局、草刈りは2時間半もかかった。しかし、除草剤撒布あとの後味の悪さに比べれば、草刈り機を掛ける肩の凝り、高いエンジン音に麻痺する鼓膜、振動からくる腕のしびれ、右から左へ草を払う機械を動かす腰の痛み、総じて不自然ではあるが、その疲労の方がまだましである。

今日の「農耕日誌」は農薬漬けになりました。そのせいか、文章の流れも右往左往、いやはや、農薬はそれについて書くだけでも神経に効いてしまうようです。
(6月20日掲載)

 
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