<< 2024-09 >>
SunMonTueWedThuFriSat
1234567
891011121314
15161718192021
22232425262728
2930     


☆ 2016-03-02(水) ☆ 講と総有
§0.分家する息子は講に入れて、結婚した娘は入れないなんて不合理じゃない?§1.講山売却の分配をめぐる問題§2.共有と総有§3.総有と前近...

§0.分家する息子は講に入れて、結婚した娘は入れないなんて不合理じゃない?
§1.講山売却の分配をめぐる問題
§2.共有と総有
§3.総有と前近代的な生活
§4.総有意識の攪乱と希薄化
§5.慣習法的に認知される総有
----------------------------------------------------

先日、講の役員会があった。その時の議題のひとつに講規約の一部改正があった。
: 信仰を同じくする地縁集団。(集団内には血縁関係もある。)生活上の相互扶助、主として葬儀での相互扶助、を目的とする。
講中は同じ寺の門徒である。それゆえ、寺の下部組織のような機能もある。
§0.分家する息子は講に入れて、結婚した娘は入れないなんて不合理じゃない?
講の規約を見ながら、或る男性が疑問を呈した。

講員の資格を規定する条項は次のようになっている。
「講への新規加入は、講員全員の賛成を要する。ただし、講員死亡の場合、その主たる相続人は無条件に加入を認めるものとする。」
条項には明記されていないが、講の慣習として、分家(この地では「でえ」と呼ぶ)の場合も無条件に加入を認められる。ただし、講組織が存在する地区ないしその近隣で分家し、講の活動に参加できるという条件がある。

さて、その人の疑問は、結婚して出ていった娘についてだった。他家に嫁いだ娘が講に加入できないのは、おかしいじゃないか、と彼は言う。
「息子(この場合、《跡取り息子》や分家した息子をいう)が講に加入できて、娘ができない、というのは、男女差別だ。また、講には財産(不動産、および預金)があるが、講に加入できないなら、親は講の財産の共有者なのに、娘が親のその遺産を相続できないことになる。」
このように彼は疑問を説明した。
(婿をとる《跡取り娘》の場合は、跡取り息子と同等の扱い。)

しばらく意見のやりとりがあったあと、その疑問に対して、或る女性が「今どき講に入りたいゆう人はおらんよ。そんなことがあればええんじゃけどね」と笑いながら対応をした。舌鋒をかわされた男性もやはり笑いながら、現実味のない事例をあげつらっても詮ないと判断したのか、それ以上の議論をやめた。

実際、近年は、講の構成員であっても、葬儀のさい、講中の手を煩わすのを嫌い、私営の葬祭施設を利用するようになった。そうすれば、講中の仕事は、帳場だけになるからである。(以前は、自宅ないし自治会館[かつては「説教場」と呼ばれ、村の共同施設だったが、市からの補助金を受けて「自治会館」と名称変更した]を利用していたので、会場の準備、帳場、まかないなど、葬儀の全段階で講中の手がどうしても必要だった。)規約は、講の目的として、「講員の親善と相互扶助」をうたっているが、相互扶助は避けられる傾向にあるのが現状である。ましてや、人間関係が煩わしくなるのをわざわざ求めて、講に加入してくることは考えられない。

§1. 講山売却金の分配をめぐる問題
しかし、私の頭には、彼の問題提起が残った。講組織は近代以前から存在しているので、前近代的な性格を残している。彼の問題提起には、その性格のうちの所有関係が絡んでいて、それが私の思索を刺激した。

近代的な所有関係からすると、講の財産は講員の 共 有 のようにみえる。15年余り前、講所有の山(講山)が市によって買収された。売却金は、講としては、講の基金として預金することにした。ところが、売却金の分配をめぐって問題が生じたのである。

その基金を享受するのは、慣習的には、講の、現在の、構成員である。そして、かつては講に所属していたが、いまは講のある地域から出て行き、講の活動とは関わりのなくなった家族、およびその末裔、つまり講からの脱退者は、享受者からは除外される。

しかし、近代的な所有関係の見地からは、組織を脱退しても、脱退以前に、自分ないし先祖が、講山の共有者として登記されていれば、講山に対する相応の所有権はあり、したがって、講山売却金に対する権利もある。推測だが、遅くとも明治の地租改正時(明治6年、1873年)までに(*)、講山は当時の講員たち(おそらくは、全員)の名義で所有された。
(*)明治の地租改正を指標時点にしたのは次のような理由によってである。
 地租改正時に、民有地と官有地の区別がなされ、民有地に地租が課せられた。そして、民有地で所有者が特定できないところは、官有化された。入会地や用水路は村全体とか水利権者全体で所有されていて、所有者が特定できない場合があったので、官有化されたものも少なからずあった。たとえば、現在、法定外公共物に分類されている用水路は、そのような歴史をもっている。
 ところが、講山は民有地のままである。したがって、遅くとも地租改正までに-地租改正をきっかけとして?-、特定の所有者たちによる共有地になっていたはずである。
売却時の講役員たちは、講山の共有名義人ないしその子孫で、講の所在地には在住せず(外国在住の人もいたようである)、かつ講の活動と関わりがなくなった人たちと、連絡をとり、講財産の慣習的なありようを説明して、売却金に対する権利放棄を要請した。しかし、権利を主張して譲らない人もいた。隣町の講での先例からすれば、裁判にもちこめば講側が勝てる、との話もあった。しかし、裁判に必要な費用や日数を考慮し、また、仮に売却金を分割するとしても大金にはならないと判断して、権利を主張する人には、相応の額を分配することにした。

売却金分配問題は落着したが、私には、裁判をすれば勝てる、ということが引っかかっていた。共有者であれば、またその子孫であれば、共有している財産への権利があるはずなのに、なぜ、その権利を否定する講が勝てるのだろうか。その疑問が、私には合理的には納得できずに残った。

§2.共有と総有
ところが、井手[農業用水路]の水利権をめぐる議論のなかで、その理由がみえてきた。(井手の水利権をめぐる議論-数年にわたったが-は、井手の水利権者-私もその一人-と、井手の財産管理権をもつ市との間で、たたかわされた。この件に関しては、いずれ記事にすることがあるかもしれない。)

明治以前、入会地や用水路は、民有である場合には、所有形態は、それらに関係する人たちの 共 有 ではなく、 総 有 であった。土地を共有している場合、共有者は、その土地に対する相応の所有権がある。したがって、相応分の分割を請求できる。上の例でいえば、講山の売却金の配分を請求できることになる。ところが総有の場合、個々人は、土地の利用(入会地の草を刈り木を伐ったり、用水路の水を田んぼに引水する)はできるが、土地(財産)の分割は請求できない。言い換えれば、個々人には土地の所有権は、部分的であれ、ない。では、だれが土地所有者であるかと言えば、全体としての、入会地利用者集団や水利権者集団である。言ってみれば、ひとつの《組織》である。組織の構成員は出入りがありうる。そして、脱退した構成員は土地をもって出ることはできないのである。土地に対する利用権を放棄すれば、組織に属する限りでもっていた、土地に対する所有権も失う。土地は、完全な形で、《組織》に所属することをやめないのである。

講山は、そしてその売却金は、いま述べたような、総有的に所有されてきた財産である。

公有の祖型としての総有
余談に逸れると、総有は、公有の祖型と考えることができるかもしれない。公有されていて、生活に必要な財産、たとえば道路とか公民館とかは、公共団体に属する人間(「市民」と呼ぶことにしよう)なら、だれでも利用できる。また、その財産は、市民の税金で購入され維持されている。しかし、市民は財産の分割は請求できない。市民には利用権はあっても、所有権はないのである。かりに、たとえば市民をやめた時には財産の分割が可能だとすれば、道路が分断されたり公民館の一部の施設が利用できなくなったりして、利用に支障が生じることになろう。

公共物と市民との間には、財産所有と財産享受との関係に断絶がある。市民は公共物を享受することができるが、その財産管理は公共団体だからである。そして、その関係が一体化したのが、講の構成員と講山の関係であろう。講員は、個人として、財産の享受者であり、同時に、集団として、財産の管理者だからである。

ただ、総有の場合、所有権は組織に属する、といっても、その組織は、法人のように、実際の構成員とは独立したものとして意識されていたわけではない。そもそも法人のような観念はなかった。言い換えれば、講という組織は現構成員全体と等しい。最前は組織という言葉を使って説明したが、その言葉は現構成員全体の単なる名称以外の意味はもたない。

「公有」物「総有」物
財産所有:公共団体
利用者:市民
財産所有:組織=構成員全体
利用者:構成員

最初に紹介したエピソードに戻ろう。講山は総有的に所有されていることからして、嫁いだ娘には、講山に対する権利がないのは当然である。結婚した娘は、同じ講に属する家に嫁ぐ場合を除き、もはや講の構成員ではなくなるのであり、したがって、講の山に対する、いかなる意味での、所有権も失うのである。

§3.総有と前近代的な生活
さて、今まで説明してきた総有的所有は、どういう意味で前近代的のだろうか。講員たちの生活との関係で、考えてみよう。

全体として、地縁によって結合されている生活
冒頭に注釈したように、講は、構成員の間に血縁関係が目立ちはするが、基本的には地縁集団である。さらに、地縁は、たまたま住居が近隣であると、いう空間的隣接の意味だけでの関係(たとえば、団地の地縁関係ははこのような意味での関係であろう)ではなく、生業がその土地に根ざしている、という意味での関係でもある。具体的に言えば、構成員は農業という生業を通して地縁を結んでいる。生産空間(農地)が土地と不可分離に一体化し、また生産手段の一部(たとえば水路)を共同利用または相互融通している。つまり、生活全体が地縁によって有機的に結合されているのが、講の人間関係の基盤である。そして、このような関係は、近代の産業革命以前に特徴的な関係であろう。

流動性に乏しい地縁関係
その人間関係は家族単位でみた場合、流動性に乏しい。農業は職住隣接が必要条件である生業なので、農家は住居を、農地から遠く離れた場所に移すことはできない。子供は跡取り以外は、分家できなければ、他郷に出ていく。つまり、家族の構成員レヴェルで見れば、当然、流動性はあるが、家族のレヴェルでみれば、流動性に乏しいのである。

相互扶助における、共同性の優位
葬儀は人手と財力を必要とする。その人手と財力は家族だけでは賄いがたい負担であった。その負担を互助組織(講)がになう。講山は、棺作りや火葬のための木材を供給する。講小屋におさめられている什器類は大人数の煮炊きのためである。会場の準備、煮炊き、葬式、野辺の送り、火葬を講中が手伝う。葬儀は、一人でも、家族だけでも、できることを、他人たちがやってきて助けてくれる、といった仕事ではない。そうではなく、他人たちの力を借りてはじめてなりたつような儀式である。言い換えれば、葬儀という個人性に、講中という他の複数の個人性が加算される相互扶助ではなく、講中という共同性に支えられてはじめて個人性が可能になるような相互扶助である。つまり、講中の活動には、共同性あるいは相互個人性の優位があった。

現地での利用
さらに、講の財産は、現在の土地に生活していてはじめて有益な利用ができる。現代のような交通手段のない時代には、隣村に移住しただけで、すでに利用が無意味になる。したがって、講を脱退すると、講八分にあった結果でないのであれば、余所に居を移した結果であるので、講の財産に対する利用権を要求する意味がない。財産は、特定の用途と結びつく限りにおいて所有されていると観念されているとすれば、所有権を要求する意味もまたなくなる。

総有という所有形態は、上のような前近代的な生活に根ざした所有形態である、と言えよう。

§4.総有意識の攪乱と希薄化
ところが、総有の意識は近代化とともに薄れていく。

所有関係の近代化
ひとつは、明治の地租改正時に講の財産が共同名義で登記された結果、講財産は、慣習的に実際上、総有でありながらも、法律的には、共有としての仮象をとったのが原因であろう。旧民法によれば、家督の継承者が親の財産の相続者である。すると、もし講山が共有であれば、「講員死亡の場合、その主たる相続人は無条件に加入を認める」のは当然であるにせよ、親の財産を相続する権利をもたない分家も無条件に講に加入できるということは法律的には不合理である。しかし他方、講の慣習として、分家の無条件の講加入は認められている。その点からすると、総有の事実は変わらずにある。それに、少なくとも第2次世界大戦終了までは、§3で述べた、総有の意識の基盤となる前近代的な生活は、続いていた。それにもかかわらず、明示される法律上の共有が、暗黙の事実慣習上の総有を、講関係者の目から、覆い隠す可能性はあっただろう。

戦後の民法改正は、総有の観念をさらに攪乱することになったと思われる。改正民法では、子供全員に平等な相続権を認めている。一人の特定の子供(旧民法によれば、家督相続者)がすべて相続するわけではない。したがって、講財産が共有の仮象をとった上で、改正民法の相続規定が加われば、財産権は、講の活動と無関係になった者にまで及ぶ、という観念が可能になる。他郷に住んで講の活動と無縁になり、また講の基盤となる農村の生活は実感し得ないような人にあっては、そのような観念が確固とした信念になっても不思議はない。

生活の近代化
それに、講中内部においても、生活様式が変わり、それとともに、総有的所有が生活実感からかけ離れた奇妙なものに思えてくる。支えあいながら講の活動をやっていた時代とは比較にならないくらい物質的に豊かになった現代では、私営の施設を借り、講中の手を煩わせずに葬儀をおこなうことができるだけの財力はある。また、生業も農業が中心ではなり、個人意識が強くなる。

§5.慣習法的に認知される総有
このような状況で講山の売却がなされたのである。しかし、総有という前近代的な所有関係は、実際には、近代的に変形されたわけではない。法律的に否定されたわけでもない。法律の門外漢の考えではあるが、総有は慣習法的に認知されており、それがゆえ、売却金を講の基本金としようとする講が、売却金の分配を要求する講外の人と裁判すると、勝ちうるのである。

講山の売却金は、現在では講の名義で保有されている。個人に分配するのではなく、総有的に所有されている財産として保有されている。そのような手続のために、講山売却金配分問題をきっかけに、講の慣習が講規約として明文化された。そのことによって、講は法律的には法人ではないが、法人扱いをされる根拠ができたのはないだろか。ただ、講中が一致して講財産を総有的なものとして認識しているわけではないように、私には思える。

----------------------------------------------------
講について、別の観点から記事を書いたことがあります。興味のある方は、ご覧ください。

講中 2002-04-19
☆ 2016-02-23(火) ☆ 自治会(町内会)
自治会に入りませんか沿岸部の市街地にある集合住宅から、山間部にあるこの団地に引っ越して来てから1年近くになった。(正確には10ヶ月。)...

自治会に入りませんか
沿岸部の市街地にある集合住宅から、山間部にあるこの団地に引っ越して来てから1年近くになった。(正確には10ヶ月。)

引っ越してきた当初、道路を隔てて向いの家の奥さんから、自治会(町内会)への入会の意向を聞かれた。奥さんは自治会の班長をしていた。私は、自治会に入ると、役員としての仕事、面倒な共同作業、気の進まない募金などがついてくるので、躊躇の気持ちがあり、即答はしなかった。しかし、他方、自治会は生活に直結するような活動もする。ごみ収集場を管理したり、市の広報誌を配ったりするのも自治会である。生活上の互助組織であり、また行政の末端組織のような存在でもある。奥さんに2、3度、意向を尋ねられ、結局、円滑な社会生活のために、と自分を説得して、渋々ながら入会した。

入会時、奥さんから、来年の班長はお宅の番です、と告げられた。「引っ越して来たばかりなのに班長ですか。家の事情もあるし」と嫌そうな口調でこたえると、「大丈夫ですよ、私も、最初は、引っ越してきてから3年目に引き受けましたから」と奥さんはたいした仕事ではない、と言わんばかりに、にこにこしながら説明した。

それから1年近く経ち、先日の夕方、帰宅してきたところを小走りに追っかけてきた奥さんに呼び止められ、今度の(4月からの)班長をお願いします、いいですか、と相変わらずにこにこ顔で聞かれた。1年前から予告され心の準備ができていたこともあり、今度はつべこべ言わずに受諾した。奥さんは、じゃ、名前と電話番号を書いてください、と受諾を見越してか手に持ってきた紙を私に渡した。

一昨日、朝、二階のベランダで洗濯物を干していると、下から奥さんが、回覧板ですよ、と声をかけてきた。

自治会として神社に寄進することは廃止
回覧板を見ると、4月から自治会活動を簡略化する旨の知らせが挟まっていた。金銭関係の簡略化は次の通り。

・自治会費の減額。集金は年に1回。
・自治会の秋祭りのための戸別の負担金の減額。
・町内にある神社への寄進は廃止。(去年までは自治会で戸別に集金し、寄進していた。)
・日赤、赤い羽根、年末愛の運動の募金を戸別に集金することは廃止。ただし、自治会として一定額を寄付する。
・地区体協への補助金を戸別に集金することは廃止。ただし、自治会として一定額を寄付する。

班長の仕事で煩わしいと思ったことのひとつは、集金だった。その仕事が一挙に軽減されるのである! 4月から班長を引き受ける私にとっては朗報であった。また、集金関係でわが意に適ったと思ったのは、神社への寄進である。去年、秋祭り関係の集金があった。自治会独自の秋祭りの負担金は義務だが、神社への寄進は任意だと、奥さん班長から説明されたので、私は寄進はしなかった。

都会化した地区での神社
寄進しなかったのは、日本国民には信教の自由が保証されているのだから、自治会は、神社という宗教施設への寄付を強制すべきではない、といった理由ではない。むろん、一般論として、生活互助組織である(べき)自治会が信仰にまで踏み込むべきではない、ということには同意する。そうではなく、団地に住む都市生活者にとって神社は外的な存在でしかなく、自治会として神社に寄進することは、生活互助組織としての自治会になじまない、と考えたからである。

私がいま住んでいる町は、以前は山間の農村だった。むろん、その当時から問題の神社はある。(今は宮司が住んでいるが、当時からそうであったかどうかは知らない。)住民は、全員と言わないまでも、大多数は神社の氏子だったはずである。そして神社は、地域挙げての秋祭りを中心にして、住民の生活の一部をなしていた。ところが、50年ほど前から急速に団地開発が行われ、現在では、この地方の一大団地地域となっている。いまでは、団地の住民が町民の大多数をしめ、農村であった時代からの住民は少数派になったはずである。団地住民は、農家ではなく、しかも多くは町外に職場をもつ都市生活者である。都市生活者にとって、秋祭りは、地区運動会といった様々なイベントのひとつでしかない。しかも、自分たちが主体的に盛り上げなければ成立しえないような(住民参加型の)イベントではなく、自分たちとは無縁な伝統によって繰り返されているイベントである。祭りは季節感を彩ってくれる恒例のイベントであっても、自分たちの生活に不可欠な行事ではない。

自治会として、神社に寄進することに対する拒否感は、根本的には、以上のようなことにある。それに、寄進先が宗教臭のある存在であれば、拒否感はよけいに強まる。

祭り囃子の聞こえる村
しかし、住んでいるのが、先祖伝来の農地と屋敷のある村であり、その村の自治会が神社へ寄進をする、というのであれば、寄進行為に対する私の態度は、おそらく、同じではないだろう。むろん都会で長年暮らし、また、ヨーロッパ近現代思想の研究と教育を生業とし、そのことで自分の意識を形成してきたのだから、何の抵抗感もなしに、何の批判意識もなしに、自治会による寄進に加わることはない。しかし、少年期までではあったが、神社を生活の一部として生きてきた経験がある。自分個人の生活というより、村の生活全体の一部であったと記憶する。神社は、農村での生き方の宗教的な表現であった、と言えるかもしれない。その意味で、生活互助の自治会が神社に寄進するのは、私には理解できる。

最近、私が購読している新聞紙上で、自治会(町内会)の問題が取り上げられており、また、今回、私の加入している自治会で、神社への寄進を廃止することが決まったので、簡略に、その件についてざっと考えてみた。

なお、以前、秋祭りについて記事にしたことがある。いま読み返して見ると、情念に突き動かされながら、情念を制御しきれていない文章になっている。もし興味があれば、お読みください。ただしブログ記事としては、長文です。(400字詰原稿用紙30枚あまり。)途中で眠くなるかもしれません(笑)

「祭り囃子が聞こえる 2002-01-07」
☆ 2016-02-18(木) ☆ 「良好な景観」
一昨日の朝刊(朝日新聞)に、鞆ノ浦の埋め立てを広島県が正式に撤回した、という記事が載っていた。埋め立て計画とともに全国に広がった「...

一昨日の朝刊(朝日新聞)に、鞆ノ浦の埋め立てを広島県が正式に撤回した、という記事が載っていた。埋め立て計画とともに全国に広がった「『利便性』と『景観保護』をめぐる論争」は、2009年10月に広島地裁で、「『鞆ノ浦の景観は文化的・歴史的価値をもつ国民の財産というべき公益』と認定」され、訴訟としては決着していた。(引用は新聞記事から。)

この記事をきっかけに、以前、景観について「てつがく村」に載せた記事を思い出した。最近トップページに設置したサイト内検索機能を利用して、記事を《発掘》して読み直してみた。

☆ 2004-12-31 ☆ 風景とは?
☆ 2005-08-17 ☆ イノシシは走り続ける

景観といっても、名だたる「文化的・歴史的価値」がなければ、波風を一切たてずに破壊されてしまう。しかし、破壊は、そこに住む者にとっては、身を切られるような出来事である。景観のいわば実存的価値を根拠に、景観破壊を慨嘆し批判した文章だった。

新聞を読んで、現在では、「良好な景観」(景観法で使われている表現)を保全し創造するための法律が存在することを、はじめて知った。平成16年(2004年)成立の景観法である。この法律によっては、私が慨嘆した環境破壊はとめることはできなかっただろうが、こんな法律が制定されるところからすれば、この国もまったき《野蛮》というわけではないな、とすこし安心した。
☆ 2016-01-31(日) ☆ 寒いので、それについて今の耐寒生活を記述しながら考えてみました。
「てつがく村」ルネッサンスで最初の記事です。 いまはまだ寒中。寒さの弛みがあるにしても、いまは、その名にふさわしい寒さの時期である...

「てつがく村」ルネッサンスで最初の記事です。

 いまはまだ寒中。寒さの弛みがあるにしても、いまは、その名にふさわしい寒さの時期である。

 今冬は、去年の4月に引っ越してきた現在の住居で迎えるはじめての冬である。前の住居は、沿岸部の集合住宅。標高は海抜わずかで、市街地だった。ところが、今度の住居は、山間部の団地にある一戸建。海抜200mほどの標高である。冬に近づくにつれ、前の住居よりも寒さが身に沁みるようになった。(二つの住居は、市街地と山間部の違いがあるので、標高差のみに起因する気温差以上の温度差がある。)最初は、暖房器具を出すのが面倒なので、我慢していた。

 我慢していると、ふと昔の友人のことを思い出した。フランスで知り合ったスリランカ人留学生で、彼は母国では僧侶だった。フランスには夏にやってきたそうだが、秋になり、気温が下がりだした。それでも、彼は母国から着てきた僧侶の服のままでいた。冬服がなかった(スリランカ人であれば、母国では冬服は必要ない)こともあるだろうが、彼は僧侶であることに誇りをもっていた。母国では僧侶は尊敬の対象だったからである。その誇りも、僧侶服を着つづけていた理由のひとつだったかもしれない。(やがて彼は、僧侶の服装はフランスではむしろ奇異な目で見られることに気づきだすのだが。)しかし、とうとう寒さを我慢しきれず、冬服を買ったそうである。

 私はといえば、むろん、現在の住居では、服だけで防寒しようとしても、また重ね着をしたところで、本格的な冬になると、暖房器具は必要になることは分かっている。とうとう小さなストーブを出し、スポット的に暖房をした。(「スポット的」なのは、経済的な理由のために、光熱費を抑えたいから。)

 現住居は、住むには広すぎ、しかも築年数が古く断熱性が劣るので、冬になればその分よけいに冷え込む。冬が進むにつれ、寝具を前の住居の装備のままにしていると、明け方は、体全体の寒さで目が覚め、眠れないこともあった。室内でも5℃に下がることがある。それに対して、前に住んでいた、市街地の集合住宅では、5階建ての3階ということもあろうが、厳冬期でも10℃より下がることはなかった。

 思い起こしてみれば、18歳で進学のため家を離れるまでは、現在よりももっと寒さの厳しい住環境におかれていた。標高は現住居よりさらに高く、暖房具といえば、火鉢と炬燵(小学生のころに使っていたのは、櫓型の電気炬燵ではなく、炭を使う旧式のタイプ)だった。ちなみに、小学校に上がる前に短期間、住んだ藁葺き屋根の家には、囲炉裏もあった記憶がある。簡便な暖房方法ではないためか、また、倹約のためか、家では、暖房具を使う期間は、亥の子祭り[旧暦10月の最初の亥の日に行われた子供の祭り]から3月の終わりまで、と決まっていた。

 その頃のことを考えれば、今の住環境の方がはっきりとましである。ましではあるが、寒いのには変わりない。光熱費を抑えようとすれば、着込むしかない。保温性のいい下着をつけ、上にも重ね着した。寝具ももう一枚重ねたり、靴下をはいて寝た。(靴下をはいて寝ることは、今までの習慣にはなかった。小さいころ、病気でもしない限り、寝間着のほかに下着類をつけることは親が許さなかった。また、若いころは、冬でも足先を布団から出して寝ることもあった。)このようにして寒さを凌いできた。

 そうこうするうちに、温度変化に対する体の感性が変化してきたような気がする。体の耐寒性があがってくるとと同時に、寒暖に敏感になったようである。気温が2、3度違うと、朝の布団のなかでそれに気づいたりした(もっとも、これは普通の敏感さなのかも)。

 人間は生活が便利で快適になると、それが基準となり、以前の生活に戻ることが難しくなる。心理的な問題ではなく、体そのものの耐性とか感性が変わってしまう。そして、自然的傾向としては、利便性・快適性の基準はあがりこそすれ、さがることはない。ところが、今の私は、必要に迫られて反自然的に基準をさげた。すると、体そのものもそれにつれて変わったのである。(でも、リバウンドの勢いはしつこく潜在しているが。)

 「反自然的」と言ったが、技術を手にした人間の欲望の自然に反する、ということであり、環境に取り込まれている動物一般の自然に反する、ということではない。人間にとっては、動物一般の自然に反することが自然なのである。

…と論調を一段あげだしたところで、文章が続かなくなりました。しり切れとんぼですが、この記事はここで終わりにします。
「庭を耕さなければならない」
カンディードのように… フランス人の友人から来た手紙に、"Tu continues à entretenir ton jardin comme Candide de Voltaire."と書いてあった。「相変わらず、...

カンディードのように…
 フランス人の友人から来た手紙に、
"Tu continues à entretenir ton jardin comme Candide de Voltaire."
と書いてあった。「相変わらず、ヴォルテールのカンディードのように、畑の世話をしているんだね。」とでも訳せよう。

 ヴォルテールはフランス啓蒙思想家(1694-1778)であり、『カンディード』は彼の書いた哲学的コント["conte" 短い物語]の名前である、という知識はあったが、その小話は読んだことはなかった。友人は、私がパリで哲学を勉強していたときに知り合ったのだから、私が農耕するてつがく者、ないしてつがくする農夫であることはよく知っている。しかし、友人はいったいどういう意味で『カンディード』の言葉を引いたのだろうか? そもそも友人は『カンディード』を読んだことがあるのだろうか? 私は思案した。そこで、ともかく『カンディード』(植田祐次訳、岩波文庫。以下の引用は、この訳から。)を読んでみることにした。

 友人の言葉に対応する文章は話の最後に、以下のような表現で、二度出てくる。
「ぼくたちの庭を耕さなければなりません」
 すこし脱線するが、「庭を耕す」といういう表現に違和感を抱いた方がいらっしゃるかもしれない。私も、その表現からの連想ですぐに、食料難の時代に仕方なく庭を耕して芋を植える、といったイメージが浮かぶ。日本語の「庭」は農作物を栽培する場所は指さないからである。ところが、フランス語の「庭 "jardin"」は、庭木や花が植わっていたり、野菜などが栽培されていたりする、壁などで囲まれている場所を指す。つまり家庭農園でもある。だから「庭を耕す」のは当たり前のことである。なお、冒頭に引用した友人の文章の中にも "jardin" という言葉があるが、私は「畑」と訳した。
 閑話休題。

『カンディード』あらすじ
 話の最後に出てくる文章であるからには、話の結論めいた内容をもつともいえる。そこでごく簡単にあらすじを紹介する。

 カンディード[カンディード "candide" はフランス語で「純真な、うぶな」という意味の形容詞]はコントの主人公の名前。ドイツの貴族の館に傍系の子どもとして生まれ、館の主の娘(名前はキュネゴンド)に恋をする。二人の恋の現場を見とがめられ、館を追い出される。それから、ヨーロッパと南アメリカ大陸を舞台とした波瀾万丈の旅が始まる。戦争、殺戮、凌辱、暴行、略奪の世界を経めぐったのちに、主人公はコンスタンチノープルで、恋し続けた娘に再会する。彼女も波瀾万丈の人生を生きてきて、かつての美貌にも年月の経過が深く刻まれていた。カンディード一行は、その地でトルコ人の農民家族に会い、彼らに歓待される。彼らの幸せそうで豊かな食卓を見たカンディードは、家族の長である老農夫に「あなたはきっと広大ですばらしい土地をお持ちなのでしょうね」と尋ねる。すると、彼が答えて言うには、わずかな「土地を子どもたちと耕しております。労働は私たちから三つの大きな不幸、つまり退屈と不品行と貧乏を遠ざけてくれますからね。」

 悪が存在しているにしてもこの世は全体として最善の状態にある、というライプニッツ由来の説を信じていた主人公がこの世で実際に体験したのは、悪の連続だった。そして悪をもたらしていたのは、貴族たちのように、「労働」しない人たち。トルコ人農夫の言葉を聞いてカンディードは悟る。「ぼくたちもまた、ぼくたちの庭を耕さなければならない。」そう彼が言うと、彼と一緒に旅してきた神学者は「理屈をこねずに働こう。人生を耐えられるものにする手立ては、これしかありません」と同調する。しかし、カンディードに最善説を吹き込んできた哲学者が「ありとあらゆる世界の中の最善の世界では、出来事はすべてつながっているのだ。」と性懲りもなく屁理屈をこね始めると、カンディードは哲学者の言葉を「お説ごもっともです」と振り払い、「しかし、ぼくたちの庭を耕さなければなりません」と答える。この言葉でコントが終わる。

屁理屈をこねず、額に汗せよ
 仏語辞典(フランスの代表的国語辞典のひとつである "Le Petit Robert")の "jardin" の項を引いてみた。するとヴォルテールの、上記の言葉が成句として挙げられており、

"l'homme doit mener une vie calme et laborieuse sans perdre son temps à des spéculations."(人間は、思弁で時間を浪費することなく、骨身を惜しまず働いて平穏な生活を送らなければならない。)

と、その意味が説明されている。だから、友人は、思弁に時間を費やしながらも(浪費しながらも?)、他方では耕している私からカンディードを連想したのかもしれない。

 ヴォルテール自身、宮廷社会に愛想をつかし、晴耕雨読の生活を夢見て、土地を手に入れたことがあるそうである。しかし、彼はその生活を実践することはなかった。また、宮廷社会に生きてきたので、農民の生活に通じていたわけではない。だから、カンディードの言葉に農的生活に対する洞察を期待するのは、深読みにすぎるかもしれない。しかし、私は、カンディードの言葉について、もう少しさらに「思弁」してみた。

自給自足
 トルコ人家族の生活は、コントでは、悪のはびこる「労働」しない人たちの世界に対置されている。彼らの生活は、農耕を基盤とした自給自足の生活である。外の生活との交渉はほとんどない、自己完結した世界である。農夫はコンスタンチノープル(それが彼にとっての外の生活であるが)のことは何も知らない。そこには、ただ農作物を売りにいくだけである。余剰作物を売り、自給自足できないものを手に入れるためであろう。

能力に応じて:百姓
 自給自足であるからには一人一人は、耕すだけでなく、もてる能力を存分に発揮しなければならない。つまり農民でありながら百姓[ひゃくせい]でなければならない。コンスタンチノープルで再会したカンディードに関わりある人たちは「庭を耕す」という「賞賛すべき計画」に加わった。様々な来歴を経てきた「小さな共同体の仲間は、それぞれが自分の才能を発揮しはじめた。ささやかな土地は、多くの収穫をもたらした。確かに、キュネゴンドはひどく醜かったが、しかし菓子作りの名人になった。パケットは刺繡をし、老婆は下着類の手入れをした。ジロフレー修道士にいたるまで、役に立たない者はいなかった。彼は腕っこきの指物師だったばかりでなく、礼儀をわきまえた人物になった。」誰もが「能力に応じて」(マルクス)働き、誰一人、暇をもてあまして「退屈」している者もいなければ、耕す共同体から疎外される者もいない。したがって「不品行」に走る者もいない。

必要に応じて:知足して不踰矩
 自給の目的は、まずは、各人の命である。自足に必要なだけの供給ができれば、各人は命を養う「必要に応じて」(マルクス)とることができる。贅沢はできないにしても「貧乏」は遠ざけることができる。いや生活の必要を過度に超えるような贅沢が可能になるとすれば、そのとき欲望の炎が燃え上がり、今度は、富が目的になってしまう。そして、もてあました暇から「不品行」が生まれる。カンディードがドイツの館から追放され、コンスタンチノープルにいたるまで経験したのが、このような「不品行」のはびこる世界であった。したがって、「必要に応じて」とるにしても、「足るを知る」(老子)ことが必要なのである。あるいは、「庭を耕す」生活をしていると「心の欲する所に従って、矩[のり]を踰[こ]えず」(孔子)の心持ちが養われるのかもしれない。

楽土の原型としての「耕す」
 カンディードは、ドイツ貴族の館を追放され、南アメリカ大陸でエルドラードという黄金郷に迷い込む。最後に、コンスタンチノープルの「庭」にたどり着く。いわば楽土を三カ所経験する。貴族の館は人間的な楽土、ただし悪の園にたまさかに咲いた徒花である。エルドラードは贅沢の極致、贅沢が月並みになった楽土であり、「庭」はその対極にある、つましい楽土である。そしてエルドラードと「庭」はともに語源的な意味でのユートピア、すなわち《非在の-地 u-topia》である。エルドラードは欲望が目指しながら、それがかりに実現されれば欲望が消滅する地であり、「庭」は欲望がまだつつましい炎で燃えているだけの地である。同じユートピアでありながらも、しかし、「庭」は欲望の炎が燃えている限りにおいて、人間的ではあろう。その意味で「庭をたがやさなければならない」というカンディードの言葉は、人間的楽土の理念型、ないし原型を象徴しているともいえよう。

 ここで屁理屈 "spéculations" は終わり。たしかにこれだけの屁理屈をこねるだけでも、時間をだいぶ無駄にしました "perdre mon temps"。

2013-08-02(金)
Powered by
Serene Bach 2.19R