てつがく村の入り口に戻る
  日  々  想  々 2002年  次の記事
記事一覧
前の記事
> 農耕の合間に >
 
祭り囃子が聞こえる2002-01-07

横笛の練習をしている。祭り囃子でも吹く篠笛である。

村には二つの神社がある。ひとつは、村の平坦部に、もうひとつは、灰ヶ峰の山腹に登る斜面にある。それぞれ名前は、多賀雄神社、竹内神社という。
てつがく村
竹内神社地区多賀雄神社地区
栃原苗代
東谷西谷
西
私の実家は現在、竹内神社の地区、栃原[トチバラ]にある。ところが、旧来の屋敷、畑、田圃は多賀雄神社の地区、苗代[ナエシロ]にある。私は小学校に上がる少し前に、現在の地区に引っ越してきたので、竹内神社の秋祭りがなじみ深い。小学生のとき2年続けて稚児をやったこともあり、竹内神社の祭り囃子のリズムが体に刻み込まれている。体育の日が10月10日だった頃は、二つの神社の秋祭りは同じ体育の日に行われた。しかし、10月の第二月曜日が体育の日になり、今年は別々の日に行われることになった。多賀雄神社は体育の日の前日の日曜日、竹内神社は体育の日である。そこで、今年は、旧来の屋敷の近くの家から祭り囃子が出ることもあって、珍しく多賀雄神社の祭りに行ってみることにした。
多賀雄神社では、囃子は地区を構成する五つの集落が順番に受け持つ。そして当番になった集落では、一つの家が中心になって、集落全体の協力を得て囃子を出す。旧来の屋敷のある集落では、世帯数からして、一代で一度、囃子の世話をする計算になる。集落全体が協力してくれるとはいえ、世話役の心苦労と出費は相当なものである。そのような負担はあるが、祭りは、直接には集落の、遠くは地区の、結集力を新たにする機会になっている。だから、世話役の家族は、結集の核になるのをむしろ誇らしい任務のように受け取っているように思える。思える、としか言えないのは、我が家から囃子が出たのは60年前の祖父の時代であり、父の時代には別の地区に居住していたため、囃子の世話を目の当たりにすることがなかったからである。しかし、父の口ぶりから、囃子は自分の代には一度は担当すべき、担当したい役目といった印象は受けていた。
祭りの当日はさわやかに晴れ上がった。私は息子と一緒に、祭り囃子が当番の家から出発するときから、見物をはじめた。囃子の行列には、日常よく接する人とか小学生の同級生とかがいるが、祭りに参加する、と言うより、見物すると言った方が、私の意識をよく表現する。私は結局のところ別の地区に属する人間である。いくらよく知っている人たちがいるといっても、いなむしろ、お互いをよく知っているからこそいっそうのこと、部外者という意識が離れない。村の外からただ見物にやってきた人とは違う複雑な意識である。この意識は農村の社会的閉鎖性と言われるものの一端であろうが、その閉鎖性が祭りを支えているとも言える。我が家の旧来の屋敷のある集落は、村全体が過疎化している今でも、祭りを担いうる世帯が比較的多い。当日出会った同級生の話では、世帯数の少ない彼の集落では五年に一回まわって来る祭り当番が担いがたい負担になっている。栃原のように、自治会が祭りを主催してくれれば助かるのだが、と彼は言った。それでも主催方式が変わらない限り、当番がまわって来れば、祭りを引き受けなければならない。その集落の責任であるし、責任を果たさなければ、集落の顔が立たない。そこで、集落が結集し、当番を全うする。
だからこそ、祭りは、直接的には、地区よりもむしろ集落を結集させる。村の結集力は、まず生活上の強い関係を結んでいる集落が単位となり、集落の結集力と閉鎖性が他の集落のそれらと対抗し合いながらも入り込み合って作られる、ということを祭りの運営の仕方がよく示している。今年の多賀雄神社の祭りでは、囃子の行列の進行に一カ所間違いがあった。囃子はみちみち何度か休止しながら神社に向かっていくのだが、神社の鳥居をくぐる手前でも一度休止する。ここでひとしきり笛に合わせた太鼓の乱打ちがあったあとで、囃子はいよいよ境内へと入っていくことになる。ところが、今年は鳥居をくぐってから休止をしてしまった。すると他の集落の人が間違いを大声でなじり、当番の集落の老人は、いまごらぁ、年寄りがおらんよんなったけん、若あもんばかっりで、祭りの仕方も知らん、と愚痴る。祭りの運営は、集落の責任なのである。
私の息子は、小学校にあがったばかりである。広島市内の集合住宅にすんでいることもあり、村の意識とは無縁である。しかも、生来にぎやか好きなので、しばらくすると行列のなかに紛れ込んでいった。私の従姉が当番の集落に住んでいて、彼女も囃子のなかで横笛を吹いていた。子どもが行列に入り込んでいたのは、彼女の存在もあったのだろう。祭りが終わって子どもに様子を尋ねると、鬼と一緒に踊っていた、といったおどけた返事をする。子どもは、さらに、横笛に興味をもったようである。従姉は、そこで、祭りが終わってから、もっていた二つの横笛の一つを子どもにくれた。しかし、やはり子どもである。吹いてもなかなかうまく音のでない笛に、数日もすると愛想をつかしてしまった。かわりに、私が熱中しはじめた。

小学生のとき稚児をしたが、横笛に触れたことはなかった。子どもがもらった横笛を見ると、歌口(吹き穴)のほかに六つの穴がある。その穴を、左右の人指し指、中指、薬指の六本の指で操作する。最初は、六本の指で操作するという以前に、そもそも吹いても音が的確に出ない。吹いた息が、過不足なく歌口に入るときに音が出るようである。しかし、最初のうちは、穴に入る息よりも、ほかに抜ける息の方が多く、吹く息がヒューヒューと音をたてるだけで、笛の音は出ないことがしばしばである。一番出にくい音は、六つの穴を全部ふさいで出す音、洋音階で言えばドの音である。私は学校に出かける前の朝とか、帰ってからの夜に練習に熱中した。

横笛を練習していると、竹内神社の祭り囃子が思い出されてきた。
祭りの2週間前から夜になると、祭り囃子の練習の音が聞こえて来るようになる。練習は、実家の近くにある自治会館(かつては説教場と呼ばれていたが、建て替えるとき市から補助が出たため、名前が変えられた)で行われるので、太鼓の音ははっきりと聞こえてきた。その時期になるとまた、隣家の金木犀が強い匂いを放つようになる。私の記憶のなかでは、だから、金木犀が匂う満月の夜空に太鼓が聞こえて来る、というのが、祭り前の情景である。もっと、祭りの日取りは太陽暦で決められるので、祭り前が毎年満月の時期にあたるというわけではないが。
竹内神社の地区は二つの集落からなり、集落は東西二つの谷の名前で呼ばれる。私は西谷[ニシダニ]に住んでいた。私が小学生のころは、谷ごとに囃子を出していた。囃子は、笛を吹く大人たちと、手摺り鉦二人と太鼓二人、都合四人の稚児とで構成されていた。稚児は、背丈の順に、手摺り鉦、太鼓、太鼓、手摺り鉦と並ぶ。横笛の音は、祭り囃子の主旋律であり、指揮者である。当時、説教場で練習するのは、西谷の囃子であった。稚児たちを指導したのは、青年団の若者たち。若者たちは手取り足取り子どもたちを指導した。いつも笛が伴奏するというわけではなかった。口で調子を取りながら練習することもある。「ひゃひゃろ、ひゃひゃろ、ひろひゃひゃろ、ひゃひゃろでドーン、ひゃひゃろでドーン、ドンドンドンドン、ドンひゃひゃろ」といった具合である。練習が一通り終わると、太鼓の乱れ打ちとなる。乱れ打ちといっても、一定のリズムがあり、やはり笛がつく。その太鼓が静かな夜の谷に響いた。
竹内神社と多賀雄神社は同じ村にあっても囃子は違う。乱れ打ちの打ち方も違う。竹内神社の太鼓の乱れ打ちは、ひとことで言えば、勇壮である。太鼓のばちは桐で作られる。長さは一尺ほどであろうか。両端は握りきれるほどの太さであり、中央はそれより少し太い。乱れ打ちになると、ばちよ折れよ、太鼓よ破れよ、とばかりに、軽いばちをしっかりと握り力いっぱい叩く。実際、太鼓こそ破れないが、ばちが折れることはときおりある。

私の印象からすれば、竹内神社の人たちは、多賀雄神社の人たちに比べれば、気性が激しい。なぜそうなのか、原因を考えてみることはできる。多賀雄神社地区は村の平坦部にある。おそらくは、村に人が居住したのは、まず、この平坦部だったろう。村全体は地形的には、北に向かって下っているが、平坦部はそれでも日当たりがいい。農耕に有利な地区である。竹内神社地区は、平坦部もあるが、灰ヶ峰の北斜面に耕作地が展開する。棚田状のところもある。血縁関係や苗字から推測するに、平坦部で人口が増えてきて、山の手にも居住するようになったのではないと思われる。事実、竹内神社を創建した人たちは、北九州からやってきた、武士を中心とした集団である、との言い伝えがある。だから、竹内神社の人たちは、平坦部の住人よりも遅れて村にやってきて、悪条件と戦いながら、また、場合によっては多賀雄神社地区の人たちに対抗しながら、生活を営んできたのだろう。そのような歴史的・地勢的事情が気性を作り上げたのかもしれない。
竹内神社の祭りの名物は、高い幟である。大きな木の台に太く長い孟宗竹を取り付け、さらに、その竿の先端に、枝で飾った竹を継ぐ。三段幟である。木の台は、3メートルぐらいはあろう。根元を上にして、石製の深い穴に差し込む。一人ではむろんのこと、二、三人程度では、その台を据えたり外したりはできない。おまけに長い竿である。だから、一つの幟を立たり倒したりするのに何人もの男がとりつかなければならない。それでも木の台を立てたりするときには、台がバランスを失ってヒヤリとすることがある。
栃原[竹内神社地区]の祭りゃ、幟の祭りよぉ、と隣のおじさんは話してくれた。今は自治会が祭りをしょぉるがの、昔ゃ青年団がやったんで。ほいで、幟立てになると、東谷と西谷の若あもんらが競争して立ったもんよ。隣のおじさんの言葉は、いまもなお高々とたつ幟にかつての幟を重らせて、私が少年時代まではそうであったであろう幟を想像させる。
勢いのある若者が競って、自分の谷の幟を立てる。幟には、奉納者の名前として、各々の谷の「若衆」と書かれている。竹内神社の幟は、神社の高い位置とあいまって、村のどこからも見える。まるで二つの谷の力と気性とを誇示するかのようである。多賀雄神社の幟は祭りの1週間前から立てておくが、竹内神社では、祭りの二日前に立て、祭りの当日に倒す。幟がたなびく三日間の短さが、地区の力をいっそう鮮明に印象づける。

私が稚児をやったころは、まだ青年団が祭りの中心であった。私たちを指導した、当時の若者は囃子を教えながら、私たちによく言った。「おまえらが大きゅうなったら、今度はおまえらが教えるんど。ほいじゃけん、よお覚えとけぇよ。ええのぉ。」そして、丁寧に、しかし厳しく指導をした。
統計資料を手にしているわけではないが、おそらくその当時まで、村の人口はさほど大きく変化しなかったのではないだろうか。竹内神社の幟で古いものは大正年間に奉納されたことが、幟に書いてある年号から分かる。だから、少なく見積もって明治時代以降、若者人口に関しては、祭りの運営が困難になるほどには変化し減少しなかったのではなかろうか。
しかし、明治時代以降、といっても、現在までではない。
西谷では、2年に一回、祭りの当番が回って来る。今年は実家が属するグループが当番だった。私は住居は広島市であるから、栃原の自治会には入っていない。しかし、父親が年老いてからは、祭りの当日の仕事には私が出ている。今年は、小学校の同級生と、囃子の先頭を行く幟を受け持った。囃子が境内にまで進んだ頃、隣町に住む中学校の同級生が現れた。車で通りかかったら、祭りじゃったんで、ちょっと寄ってみたんよ、と説明した。わしゃ、祭りが好きじゃけん、この辺の祭りにゃ、よぉ行ってみる。ほいじゃが、栃原の祭りゃ素朴じゃの。わしゃ、こがいな祭りが好きじゃわい。隣町の祭りも、私が中学校を卒業する頃までは、同じように「素朴」だったはずである。しかし、その頃から団地が造成されるようになり、人口も急増した。それに伴って、祭りも様変わりした。人出は多くなり、露店が何軒も立ち並ぶ。賑わいは、あるひとつの目的に結集する人たちの熱気と厳粛さではなく、無数の目的が錯綜する街の雑踏に似て来る。そして、境内ですれ違う人たちは互いに匿名性を帯びる。たしかに、そのような祭りに比べれば、村の祭りは「素朴」である。
しかし、村の祭りには、素朴という単純な言葉では言いつくせない現状がある。私が稚児をやった時代には、各々の谷の囃子には太鼓が二つ必要だった。太鼓は一本の太い棒にくくりつけられ、その二連の太鼓を前後2人づつの男たちが担いだ。二つの囃子は別々の場所を出発して鳥居の前で合流した。そこからは互いに先を争いながら、境内に入り、また社にあがった。幟同様、囃子も二つの谷の力を競った。
ところが、いまは二つの谷の囃子は同じ自治会館を出発する。稚児は各谷3名。手摺り鉦二人と太鼓一人である。それでも、なかなか人数が揃わない。しかも、各谷一つしか出ない太鼓は、担ぐのではなく、台座に車輪をつけて、引っ張ったり押したりする。二つの囃子はもう競い合うことはない。もうできない。囃子の現状は、地区の、さらには村全体の、人口構成の変化と活力の低下を象徴している。
祭りの運営と囃子の構成がいつからこのように変化したのか、私にはたしかな記憶がない。私は高等学校を卒業すると、他の地方にある大学に進学した。そのときから現在まで、住民しては村に帰ったことはない。変化は、その間に生じたのである。

村は四囲を山に囲まれた山間部にある。広く開けた土地柄ではないので、農村といっても兼業農家主体の村である。各戸が所有する農地も狭い。現在、二町歩を所有している農家は存在しないのではないだろうか。だから、兼業農家といっても、農業外の収入が家計を支えている。私の父は大正後期の生まれ、祖父は明治十年代の生まれであるが、二人ともサラリーマンであった。祖父がサラリーマンをしながら農業に従事しえたのも、徒歩で1時間半程度の呉が1900年始め頃から海軍工廠をもつ軍港として発展しだしたからである。しかし江戸末期生まれの曾祖父の時代になると、サラリーマンになろうにも働き口はなかった。曾祖父の時代、生活は今とは比べものにならないくらいにつましいものではあった。しかし、それでも家計の足しにするため、農閑期には出稼ぎをしていたようである。
曾祖父が出稼ぎでどんな仕事をしていたか、父から聞いたことはない。ところが、隣のおばあさんが曾祖父の連れ合いの話をしたついでに、おそらくは、といった程度の確かさで、曾祖父の仕事について触れたことがあった。曾祖父の時代、いな父の時代でも、婚姻関係は同じ村、ないしは近隣の村に住む者同士で結ばれた。曾祖父の場合は、しかしそうではなかったのである。彼の連れ合い、すなわち私の曾祖母は、自動車などなかった当時、どんなに急いでも、村から1泊はしなければ辿り着けない県北の村の出身である。だから、どのようにして二人は知り合うことになったのか、私は以前から不思議に思っていた。隣のおばあさんの話によれば、こうである。曾祖父は、秋の刈り入れを早々とすますと、働きに出ていた。あんたがたの爺さんは、たしか屋根師じゃったかのぉ、とおばあさんは県北の村に出かけていた曾祖父の仕事を説明した。つまり、曾祖父は、連れ合いになる女性と、藁屋根の葺き替えに出かけた先で知り合ったというわけである。
出稼ぎをしながら、あるいはサラリーマンをしながらも、村に残れる者はまだいい。農家の次男三男たちは、生家が大農なら分家することもできよう。しかし、小農の場合、分家でもしようもなら、本家と分家の共倒れである。だから、所帯ももたずに生家にとどまるか、兄弟同士の熾烈な財産争いをして勝つか、さもなければ、村を出て新天地を求めるしかない。祖父の弟はたとえば、最後の道を選んだ。裸一貫で大阪に出て、財をなした。しかし、自分の店をもつに至るまでには、人にも言いがたい苦労があったにちがいない。そして、その苦労を耐え忍ぶだけの強い性格が必要だっただろう。そのことについて、話を聞いたことがあるし、小さいころその人に会ったとき、子どもながらじかに感じたこともあった。

しかし、今はどうだろう。長男、次男以下に関わらず、若者たちはこぞって村を出て、帰りたがらない。大学進学率があがる。すると勢い、職場も村から遠く離れた都市に求める傾向が強くなる。それに、現在では、都会に行けば職がえられ、それも、村で百姓を続けるよりはるかに高い収入を手に入れことができる。かつては村を出ることが地獄であった。しかし、今は村に残ることが地獄である。
都会はたしかに魅力的である。生活の利便性や文化的刺激は言うまい。それでも、農村にはない自由がある。
農村の社会的閉鎖性は、裏返してみれば、「自由」のない、ねばねばした人間関係である。その粘着性が、集落や村落をひとつに凝集させ、外に対しての閉鎖性を生む。粘着性にはむろん理由がある。
都会はまず、自由な個が集まっている空間である。その個たちが、己の或る才能、或る技術で結合し合い、ひとつの生産集団をつくる。その集団においては、個たちは、基本的には、或る才能であり技術であって、それ以外の何ものでもない。そして、その才能や技術の生産性に応じて報酬が支払われる。報酬を手にすれば、個たちは散り散りに己に戻る。そして、報酬はその生身を養う。しかし、養い方については、個々に任せられ、私秘性の領域から案出される。だから、個は自由なのである。
農村は、職住近接であり一体である。一体であるとは、たんに距離の問題ではない。農耕に携わるのは、或る能力や技術において結合された個ではなく、家族である。だから、家族関係がただちに働く関係である。都会では秘匿されている、家族という生身の関係が、農村では、働く現場に、したがって他者の眼差しに、現れる。しかも、農耕においては、生活の糧をサラリーとして稼ぐのではなく、直接生の糧になる作物を育てて身を養う。サラリーそのものは私秘的ではないが、その用途について私秘的な性格を帯びる。しかし、農耕においては、都会においては私秘的である生活、その基本である食生活が、ただちに作物として他者の眼差しに現れる。だから、都会で自由を保証している私秘性が、農村では存在しない。都会では己と他者との距離を保ってくれる装いが、農村では力をもたない。生身がそっくり他者のまなざしに現れるのである。
しかも、水田稲作は、集落の協同作業の上にたつ家族労働という形をとる。稲作に主食生産を負う日本のような農耕では、したがって、村落の協同作業が生産活動の、ひいては、生活の基盤をなす。農業用水路の整備はひとりではかなわぬ作業であるし、また、田の水のあて方にしても、自分の田圃の都合だけを考えていたのでは、他の田圃のためにならないし、めぐっては、自分の田圃のためにもならない。都会での生産活動も協同作業ではある。しかし、協同するのは、才能とか技術とかに抽象された個であり、生身まるごとの存在ではない。ところが、農耕における協同作業は生身の関係である。そこからある種の粘着性が生まれる。
農村の人間関係は、主食生産を稲作におく農耕という生産活動を、その基本的枠組みとしている。人びとは生身のまま、じかに交渉しあい、しかも、強固な強制ではないにせよ、粘着質の接点を介して、お互いにゆるく連動する関係において、交渉しあう。
ところが、都会は、粘着性の人間関係から解放され、また、その関係に折り込まれている自分の祖たちの歴史から解放されて、純粋な個として自由に行動することのできる空間である。しかも、そこが辛苦して身を立てなければならない苦節の地ではもはやなく、今や豊かな経済空間であるとしたら、どうして農村にもどることがあろうか。粘りつくような人間関係に窒息し、田畑に労多くして報われることの少ない汗を流すことがあろうか。

つまり、戦後日本の経済発展を支え、その経済発展によって日本の生活の標準になった自由な都会生活が、山あいの兼業農業の村で人口構成を変形させてしまったのである。村は呉や広島というこの地方の中核都市に隣接している。山々を削ってこれらの都市の周辺に造成される団地と比較して、通勤圏としては、けっして不利な条件にはない。それにもかかわらず、若年人口は減少している。いな正確には、たとえ通勤圏としては好位置にあるとしても、村の出身者にとっては、やはり村であり、しかも、市街地調整区域が指定されて外部からの人口の流入が規制された村であるがゆえに、若い力の移動は、村から都会への一方的な流出となり、村の若年層を空洞化させたのである。小学校の複式学級化や祭りのあり様に、その空洞化は端的にあらわれている。

自由な都市空間には、農村における集落相互の閉鎖性や村落の、外に対する閉鎖性に似たものはない。個の自由な結びつきと解離があるだけである。解離してしまえば、公共空間ではお互い匿名性としてすれ違うだけとなる。そして、己の住居へ一歩踏み入れ、公共空間に向かって施錠してしまえば、そこには誰にも侵されぬ私秘空間が存在する。いな、むしろ、他者に対して匿名性であることがすでに、己のうちに私的な空間を秘めていることなのである。同じことを時間の言葉で言い換えれば、公共空間を流れる時間は、そこを動く個たちと同じように匿名性を帯びている。誰に対しても同じように流れる、万人の、そして誰のでもない時間である。ところが、私秘空間を流れる時間は、濃密な個の時間である。思いのままに生きることができ、また、自分がその生き方に全面的に責任をもたなければならない時間である。
しかし、本当を言うと、粘着質の閉鎖性が都市空間では消えたというわけではない。生身をまるごと生産活動にかかわらせることから生じる農村のねばねばした閉鎖性が、都会空間では、個人の範囲にまで収縮し、それだけ堅固になっただけのことである。窓のない、しかも神を欠いたモナドたちが都市空間をランダムに動く。己に閉じ籠もり、そのなかで個の時間を紡ぐ。
さらにまた、孤立した個の時間はじつは、都会の公共空間を流れる時間から隔絶しているのではない。自由に結びつく限りの個たちは、公共的時間にしたがって勤勉に働く。そして働きに応じた報酬を受け取り、その報酬で、個の時間を生きる。だから、個の時間はけっして公共的時間の埒外にあるのではない。個の時間を養うのは、公共的時間において生み出された報酬である。また、物理的にも、個の時間は働きの公共的時間に挟み込まれる形で存在しているのである。
してみると、都会人であるモナドは「神を欠い」てはいない。神を匿名的な時間に象徴される何ものかに代えてしまっただけのことなのである。近代を成立させた神は、人びとに勤勉であることを、刻々とたゆみなく蓄えることを要求した。その代わり、輝かしい終末を約束してくれた。現代の「神」もやはり勤勉であることを要求する。勤勉はそれに応じた報酬を生む。人びとはその報酬を元手に自由な時間を享受する。個は自由を手にした代償として、己の終末の責任をも負わされる。ところが、自由な個の時間は匿名の公共的時間の埒内で流れる。そして、この公共的時間は、無窮の過去から無窮の未来に向かって流れる、直線として時間である。だから、個の時間も、来し方は無窮の闇に沈み、行く末もまた無窮の闇に閉ざされている虚空に、淡々と有限な軌跡を描くだけである。己の終末に責任を負うといっても、己が消滅したあとで誰かが代わって己の終末を聖別してくれることがなければ、その責務をまっとうすることはできない。個は己自身に閉鎖する存在であれば、個の時間とは、己をまったき無に帰する消滅の不安におののきながら流れる時間でしかない。「神」のシンボルである匿名の公共的時間は、人びとを個として互いに孤立させ、個を逃れようもなく虚無に陥れる時間にほかならない。

現代人が虚無化する無慈悲な「神」を受け入れなければならなかったのは、自由を手に入れた代償であるが、そのことを言い換えれば、「村」を捨て忘れ去って、「都会」に住みこんだ代償である、ということかもしれない。
水田稲作の農耕は協同せざるをえない農耕である。ともに生きることが基本的要件である。家族は、それぞれの能力や事情に応じて、違う仕事をすることもあろう。あるいは、同じ仕事をやりながらも仕事量と仕事効率に違いがでることもあろう。しかし、仕事の種類に優劣があるわけでも、量と効率に応じて取り分が決められるわけでもない。
晩年の父が、小さいころ、近所の子どもたちと一緒にあけび採りに行ったときのことを話したことがあった。あけびは木に絡みつきながら、高いところに実をつけることが多い。だから、年嵩で木登りが得意な子どもが実をもぐ。もいだ実を木の上から、下に待っている年少の子どもたちに放る。協同作業である。採りおわると、大きい子どもたちが、小さい子にも、おまえらぁ下でとってくれたんじゃけん、と言って収穫物を平等に分けた。父は、話し終えて、はぁ[もう]、あがいな時代にゃ帰えれんのかのぉ、と付け加えた。私は一瞬、父が年老いた身を悲しみ、若返りたい、と言ったのだと思った。晩年の父にはどこか、あきらめたような寂しいような雰囲気があったからである。しかし、話の流れからすれば、父は教育談義をしていたのである。最近の子どもは、田舎の子どもでも友達と外で遊ぶことが少ない。家のなかで遊んだり、塾に通ったりする。そのような話の文脈上に、あけびの話が出たのである。
あけび採りでの収穫を平等に分けたのは、リーダー自身の性格もあったのだろう。しかし、子は親の鏡という俗諺によれば、大人たちの行動を倣ったとも考えられる。私たち今の人間には、あけび採りの話は記憶が理想主義的に変形された絵空事のように思えるが、それは、私たちが能力に関係のない平等な分配といったものを主義主張のレヴェルで考えたことしかないからである。おそらく子どもたちは大人たちよりはるかにストレートである。たとえ子どもたちに平等主義を吹きこもうとしたとて、当の大人がそのように生きていなければ、子どもは押しつけられた主義を実践しはしない。逆に、主張しなくとも、主張できなくとも、大人たちがごく日常的な振る舞いで「主義主張」を生きていれば、子どもはその生き方を会得する。子どもは大人たちがそれぞれに働く現場を見、また家族が働きに応じてではなく、必要に応じて食べるのを経験したはずである。たとえ力仕事ができないにしても、たとえ仕事の量をこなせないにしても、一個の生身であることには違いはない。せめて一個の生身であることは保証されなければならない。おそらく子どもはそう会得した。
家族労働とは、つまり、能力主義の世界ではなく、条件の違う全員が、それぞれ一個の生身として、ともに生きうることを目的にする働きなのである。家族がひとつの有機体として生きうることを目的にするのである。そして、「村」とは、協同作業を通して、様々な家族がねばねばした関係で結びつきながら編み上げる、ひとつの有機体なのである。だからこそ、集落や村落は、有機体として、外に対して閉鎖的である。しかも、閉鎖的でありながら、有機体として、他の有機的閉鎖性と生きるもの同士の関係を結びうる。ちょうど、竹内神社の二つの谷が、幟立てや囃子でせり合い、お互いの力をぶつけ合いながらも、その競い合いをひとつの祭りとして燃え上がらせたように。またちょうど、出自や歴史の違う二つの地区が、ときに山論で流血の争いをしたりしながらも、灰ヶ峰山麓のひとつ山村として、和合しえたように。
「都会」に住み込むとは、「村」の生活にある生身の関係を拒否することである。私秘空間においてのみ生身として生きつつ、公共空間において抽象的な匿名性として存在することである。個の結合は、生のねばねばした関係によるのではなく、無機的な結合であり、つねに解離への傾向をはらんでいる。結合しながらも、個は互いに競い争うのみである。結合しながらの孤立であり、孤独である。だから、個の集合が目的をもつことがあれば、それはしばしば生にそぐわない。時間をもつことがあれば、それは単位の規則正しい連続である。息づかいの緩急と多様性を一律のリズムに従わせる。生きることを個というただ一点に凝集しながら、無数の個が繁栄の無限虚空を動き回る・・・

篠笛を吹いていると、音楽の器具(instrument)ではなく、何か生き物と触れ合っているような感覚を覚える。私は楽器に関してはずぶの素人なので、この感覚は篠笛特有のものなのか、楽器全般の特徴なのか、言うことはできない。それでも、篠笛が、木を削りほり抜いたり、金属を成形したりして、人為的な仕方で筒をつくるのではなく、女竹という自生した筒をそのまま使って作る、という特殊な事情によるのではないか、と推測する。篠笛が上達する、ということには、むろん技術上のこともあるだろうが、どこか個性をもった生き物となれ合っていくようなところもある。吹きこめば、笛もそれだけいい音を出すようになる。笛を替えれば、その個性に応じて、吹き方も微妙に変えなければ、いい音がでない。生き物と、あるいは人と、生身のつきあいをしているような感覚さえ覚える。
篠笛の音と肌触りが、祭り囃子を甦えらせる。祭り囃子を教えてくれたかつての若者たちの言葉を思い出されてくる。「おまえらが大きゅうなったら、今度はおまえらが教えるんど。ほいじゃけん、よお覚えとけぇよ。ええのぉ。」
結局のところ、私はその言葉を祭り囃子の練習場に放りなげて、都会に出た。以来、住人としては村に帰ったことはない。もし祭りが素朴であったときがあるとすれば、私があの言葉を生で聞いた時代までであったのかもしれない。そのときには、祭りが、生きる勢いのそのままの発露の場である、という意味で素朴であり、素朴であることによって、村落の結集を新たにする機会であった。しかし、今の祭りの素朴にさは、たしかにあらずもがなの飾りはありはしないが、うちから噴き出るような勢いがいまひとつ感じられない。境内にかつてのように人が溢れなくなったのは、ただ若者の人口が減っただけのことではない。「都会」とは、たんに地理的な場所ではない。いまでは、村でさえ、「都会」の風が吹いている。
祭り囃子とともに、「はぁ、あがいな時代にゃ帰えれんのかのぉ」という声も聞こえる。抑圧された生身の声である。単純な復古は不可能であるし、幻想である。しかし、私はそう信じているのだが、「都会」が崩壊する日には、また篠笛が勢いよく祭りを囃しだすだろう。希望の未来をあえて口にするとすれば、それは、村の復古にあるのではないのと同様、都会の単純な延長上にも存在しない。ただ篠笛とのなれ合い方が革まるときである。

[先頭に戻る]


てつがく村
depuis le 1er avril 2000