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ひろば(BBS)

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2004-12-31 ☆ 風景とは?

●風景は誰のものか
−[景観は創られる]−[世界は私たちの身体]−[風景はそれを見る者のものである]
●風景と倫理
−[景観の中で痛み、憤慨する私たちの身体]−[アンテナは倫理を逆撫でする]−[倫理の軋轢]−[生きられる倫理]−[新しい倫理に向けて]

黄金の滝の整備、ドコモのアンテナ建設、富士見100景への応募と採択といった一連の動きをkotaroさんのホームページで見てきました。しかし、そのことに関しては僕はいっさい発言しませんでした。僕の性格からして、あることに直感的に反応することはできませんし、また、それらの動きにはホームページには書かれない深い根があるように僕には思え、しかも、その深い根が僕にはよく見えず、またかいま見ることができたにしても、うまく明るみに出すことができなかったからです。
しかし、今回kotaroさんの呼びかけに応じ、問題を僕なりに少し掘り下げてみることにしまた。


ドコモのアンテナが景観を阻害するというkotaroさんの憤りはよく伝わってきます。しかし、その憤りはどこから来るのでしょうか。

●風景は誰のものか
その問いの前にまず、景観とはいったい何でしょうか?kotaroさんのよく使う表現で言えば、風景はいったい誰のものでしょうか?

[景観は創られる]
景観《それ自体》、風景《それ自体》という表現は意味をなしません。
黄梅の群落である黄金の滝はkotaroさんや地域の人たちのボランティア活動で整備されました。そして黄金の滝には「村上義清が『この地は我が物』と威厳を示し植え」たという歴史があります。その黄金の滝を現代によみがえらせ後代に伝えようという思いがkotaroさんたちの整備の熱意を支えたのです。
ところで、kotaroさんたちのボランティア活動で黄金の滝という景観は、厳密に言って、《よみがえっ》たのでしょうか。村上義清にとって黄梅という景観は自分の政治的権威を表現するものでした。しかし、kotaroさんたちにとって黄金の滝は政治的権威を象徴する景観ではありません。また、ただ単に美しい景観でもありません。ひとつは、地域の歴史を記銘するための景観でしょう。またひとつは、時代に対する警告を発する象徴として景観でしょう。なぜなら、黄梅の群落は、化石燃料の消費が増大した結果、里山が荒廃し、消滅の危機にたたされていたからです。つまり、よみがえった黄金の滝は、村上義清に対してもっていたのはとは別の意味をもつ景観になったのです。
けっして同じ景観が時代によって別の意味をもつ、という訳でありません。斜面それ自体、植物それ自体は意味をもちません。意味とともにはじめて景観が成立します。だから、村上義清は中国伝来の珍しい黄梅で、ひとつの景観を創ったのであり、またkotaroさんたちは、黄金の滝という、また別の景観を創ったのです。
景観にはこのように、存在そのものに手を加える人たちの意味づけを表現しており、また、その人たちの意味づけ抜きには景観は成り立ちません。

風景にしても同じことです。たとえば周りを山に囲まれた盆地に住んでいるとします。遠くの高山はあまり人の手は加わっておらず、しかも住民がそれらの山に登ることはほとんどないとします。砥石米山から見える富士山を例にとっても結構です。しかし、そうした山は風景として認識されたとき、やはり人間の意味づけを表現しています。美しくて崇高な山として富士山を眺めるとすれば、山《それ自体》は《美しさ》も《崇高さ》ももっていません。美と崇高の源は人間の意識にあります。

[世界は私たちの身体]
景観にしても風景にしても、広い意味での私たちの生活空間の側面のひとつです。
私たちはけっして自然それ自体のなかに住んでいるのではありません。家は私たちを守る空間です。この道路は町に向かい、この小道は鎮守の森に通じます。鎮守の森と里山はいずれも木が生えているところですが、一方は神を祀る厳かな空間であり、他方は生活に必要なものを供給してくれる空間です。生活空間の各々の場所は、私たちの行動を促すそれぞれ独特な意味をもっており、しかも、この道は鎮守の森に通じ、その森では神が祀られている、と表現できるように、様々な意味は有機的なつながりをもっています。このような意味をもつ生活空間を《世界》と名づければ、私たちは世界以外のところに住むことはできません。(これ以後、世界という語は、ここで定義した意味で使います。)
世界の中心が狭い意味での生活空間であり、その地平には山や海、背景である空が広がります。さらには、宇宙という私たちには知覚できない空間が広がり、また、宇宙の成立から太陽系の誕生、そして今度は太陽系の消滅という、人間的尺度からするれば無窮の時間が流れています。しかし、それらはすべてが世界を構成し、その意味によって私たちの行動を促します。
「風土は我々の身体である」と和辻哲郎は書きました。その顰みにならえば、世界は私たちの身体です。なぜならば、世界はその意味によって私たちの身体の可能性を呼び起こすからです。道は歩くという可能性を、鎮守の森は祈るという可能性を呼び起こします。動物は狩るという可能性を呼び起こすかもしれません。

[風景はそれを見る者のものである]
そして、世界の眺められた側面が、景観であり風景なのです。言い換えれば、私たちの身体の可能性が視覚化したものが景観であり風景なのです。
ここまで考えてくれば、風景は誰のものか、という問いに答えることができると思います。風景は私たちのものです。あるいは、それを風景として見る者のものです。誰のものでもないのではなく、明らかに誰か或る者のものです。


●風景と倫理 [景観の中で痛み、憤慨する私たちの身体]
黄金の滝近くに立てられたドコモのアンテナはkotaroさんを憤慨させました。kotaroさんは、「快適な風景を犯す」犯罪である、とアンテナ建設を批判し、利便性と引き換えに「景観と中世の遺跡」を失うのは余りに代償が大きすぎる、と慨嘆しました。
ところでkotaroさんが憤慨したのはなぜでしょう?それは、なによりもまず、アンテナ建設がkotaroさん自身の身体を侵害したからです。黄金の滝という景観はkotaroさんのものであり、kotaroさんの身体の一部だからです。
身体という言葉は文飾以上のものです。
僕の村には名高い遺跡も美しい風景も存在しません。その村で通勤経路として通過する車が朝夕渋滞を引き起こすからといって、田圃を潰してバイパスが作られつつあります。重機が田圃を壊すのを見ると、僕は《身が引き裂かれる》思いがします。そして壊した後に道路の土台となる土が詰められたのを見ると、今度は《息が詰まる》思いがします。あるいは、あちこちに見られる耕作放棄田を見ると《臓腑がえぐられる》思いがします。風景が、もっと一般的に言えば世界が、その意味に逆らうような力によって改変されるとき、意味の根源である私たちの身体は実際に痛みを感じるのです。そしてその痛みが、憤慨になり、慨嘆になります。

[アンテナは倫理を逆撫でする]
さらにその憤慨や慨嘆は、アンテナ建設を「犯罪」である、と批判する倫理的な判断に発展します。世界は、私たちの行動を促す意味の有機的つながりである、と書きました。倫理とは私たちの行動の規範だとすれば、世界は私たちの倫理の基盤である、と言えます。だからこそ、世界の意味に逆らう景観の変化は、私たちの倫理を逆撫でし、その変化が人の手で行われたとすれば、私たちはそれを「犯罪」と断ずるのです。
[倫理の軋轢]
アンテナ建設が倫理を逆撫でするのは、それが別の倫理をもっているからです。ドコモは「公益性の高い」企業である、とkotaroさんは書いていたと記憶します。ところで、その「公益」とはいったい何でしょうか?ドコモはなぜ黄金の滝の近くにアンテナを設置したのでしょうか?おそらくはその場所が「公益」にかなう場所だったからに違いありません。電波の送受信に好適であり、そして建設費も「公益」に貢献しうるほどの(低)額だったからに違いありません。ドコモは慈善奉仕団体ではありません。資本主義経済下の企業であるかぎり利潤の追求が最優位の目的です。それ以外の条件は、黄金の滝の景観も含めて、その目的を損なわないかぎりにおいて考慮されます。あるいは、まったく考慮されない場合もあるでしょう。携帯電話が普及すれば生活が快適になるといった、いわゆる公益(ただし、本当に公益なのか、よく考えなければならない問題ですが)は、ドコモにとっては利潤追求の結果にすぎません。
私たちが住む世界が外からの力によって《改造》されるとき、しばしばこうした倫理的軋轢が生じます。そして現代社会においては、外からの力はたとえそれが《公共事業》だとしても、かならず利潤追求を中心部に内包しています。しかし問題を複雑にしているのは、外からの倫理が世界内部に住む人の倫理とけっして無縁ではない、ということです。ドコモのアンテナ建設に反対しながら、携帯電話を使用する、あるいは、バイパス建設には賛成ではないと言いながら、通勤に車を使う、といった具合です。そして、事情がこうである以上、たとえ或る特定のアンテナ建設を阻止しえたとしても、景観を、そして世界の調和を、阻害するアンテナ建設がまたどこかで行われるはずです。

[生きられる倫理]
しかし携帯電話を使用しているからといって、あるいは車通勤をしているからといって、アンテナ建設やバイパス建設に疑義をはさみ、また何らかの行動を起こすことはできない、というわけではありません。現代日本に住むかぎり、私たちの世界にはアンテナを好適な場所に建設するような倫理は必ず含まれています。ところで、倫理学者が示すような倫理の体系と違い、私たちが生きている倫理は、形式論理からすれば矛盾が含まれていたり、体系癖の理論家からすれば異質な部分が含まれていたりします。生きられる倫理はまさに生きているからであり、動いているからです。生きられる倫理の価値を測る目安は、それ自体として見られた要素(たとえば、携帯電話を利用するという行動)ではありませんし、論理的無矛盾性や体系性でもありません。その全体的方向性(これを倫理の《意味》と呼ぶことにします)が価値の指標です。そしてその意味が、たとえ携帯電話をもっていても、アンテナ建設に異議申し立てをする根拠になります。
kotaroさんのホームページを読んでいて気がつくのは、いくつかの主旋律が聞こえてくることです。庭は内側に向いているだけではなく、外にも開かれていて、内と外とを仲立ちするのは緑である、ということ。化石燃料の消費(浪費?)を憂え、消費するだけではなく、消費した分をできるだけ大地に返すべきだ、ということ。伝統や歴史の尊重と保存。美しい景観の創造と保全。さらにこれらの主旋律をkotaroさんは実践に移しているのもホームページからうかがえます。僕にはこれらの主旋律がkotaroさんの倫理を象徴的に具象し、或るひとつの意味をなしているように感じられます。むろん僕にとってその倫理は直観的にしか感じられず、おそらくkotaroさん自身も、はっきりと意識しているわけではないと思います。それらの主旋律が倫理的意味をもっていることさえ明確に意識に上っていないかもしれません。しかし生きられる倫理とは、そういったものです。

[新しい倫理に向けて]
僕が思うに、kotaroさんが生きている倫理は、アンテナ建設の倫理(それを《野蛮な》倫理と称することにしましょう。その倫理はしばしば世界という文化を破壊するからです。)とは違う意味/方向性をもっています。事実、kotaroさんはドコモのアンテナ建設の野蛮さに憤慨しています。
ドコモのアンテナは事実です。それはたんに、黄金の滝にアンテナが建設されてしまったからではなく、さらに現代日本の現実の一部だからです。kotaroさんは「次の時代に素敵な風景を残すことが私たちの使命だ」と書いています。僕はドコモのアンテナに象徴されるような倫理が現代日本を動かすかぎり、kotaroさんにとっての「素敵な風景」はけっして残されないし、実現されることはないと思います。世界は私たちの身体である、と書きましたが、私たちの身体は世界である、とも言えます。倫理を実践して風景を創ると、今度は風景の方が私たちの身体と倫理を形作ります。アンテナが幅をきかせるような風景は私たちの倫理を野蛮にしてしまいます。たとえ黄梅の滝のアンテナを撤去しえたとしても、景観を阻害するアンテナ建設がまたどこかで行われるはずです。それは推測にすぎないのではありません。自分自身の身辺で、そしておそらくは日本のいたるところで、「素敵な風景」が野蛮な倫理によって実際に破壊されているからです。
kotaroさんは、ドコモのアンテナは撤去することはできない、いまできるのはその愚行をインターネットを通じて広く知ってもらうことだ、という趣旨のことを書いていましたが、その通りだと思います。事実はしっかりと見据えなけれはいけません。また、kotaroさんは、どんな小さなことでもいま自分にできることをする、と書いていたではないでしょうか。アンテナに象徴される野蛮さを矯める(消滅させる、とは書きません)ためには、《革命》か地道な実践しかないでしょう。僕は革命には期待を抱いていません。革命はしばしば社会の骨格を変えずに、頭だけすげ替えるようなところがあるからです。地道な実践によって、自分の倫理を再組織し成熟させる。「素敵な風景」が着実に創られていくのは、そんな実践が輪を広げ、合流するときだ、と思います。
 
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