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ひろば(BBS)

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2003-05-29 ☆ 田植、まぢか
(旧暦 628日)

−「畦塗り週間」−「趣味」としての農耕−損得の埒外

畦塗りの仕方についての詳しい説明は 「畦塗り」 にあります。

「天地人籟」は、もう2ヶ月近く更新していません。
学期が始まると同時に農作業も忙しくなったこともありますが、去年はそういう状況でも「コラム」(「天地人籟」の前身のひとつ)は1、2週間に一度は更新していました。それまで、ただ生きるだけであった二足草鞋のうち、農耕の「草鞋」を1年かけて意識してみよう、という目標を掲げていたからです。目標の1年は過ぎましたが、生活は言葉では汲みつくせぬ、豊かな具体性であるうえに、絶えず変化していますから、「意識する」ことは、続けるつもりさえあれば、いつまでも続きます。私としても、「意識」は続けたいと思ってはいるのですが、或る事情のゆえに、「天地人籟」に注ぐエネルギーをセーブすることにしました。その結果、更新が滞ってしまったわけです。
しかし、授業期間と農繁期が重なった今の時期、セーブしたエネルギーを注ぐべき対象に時間を割くことができず、書くことを「禁欲」した状態になっています。私にとって書くことは息をするようなものになっているので(お喋りは得意ではありませんが)、「禁欲」状態が長く続くと息苦しくなってきます。そこで、禁を解いて、今の〈天地人籟〉の一端をお届けすることにします。

「畦塗り週間」
3月後半から始まった畑の農繁期は5月半ばで終わり、田植に向けた、田圃の農繁期がいまや頂点を迎えようとしています。春は、畑の農繁期と田圃の農繁期はおおよそ重なりますが、畑の農繁期が同じ調子の速歩で進むのに対し、田圃の農繁期は最初はゆっくりとした歩みで始まり、最後になって急に速度を増します。最後は、アラジ[田圃に水を引いて、土をあらましに鋤き返す作業]、畔塗り、代掻き、田植と続きます。いまはこの4つの作業を機械でやることはできます。しかし、畔塗りは私自身が手作業で行い、あとの3つの作業を委託しています。

今週はその畔塗りをやりました。一昨日、午前中の半日を有給休暇をとって作業したほかは(わざわざ有給休暇をとったのは、畔塗り以外にも、やるべき畑の仕事があったからです)、早朝と夕方、通勤途中に田圃に寄って、少しずつ畔を塗っていきました。実際に稲作しているのは2反(2,000平方メートル)足らずですから、たいした作業ではありませんが、作業時間が細切れなうえに、私の手が不器用なため、月曜日に始めて今日、木曜日までかかりました。
圧巻(?)は火曜日。朝1時間半ほど作業して、9時開始の1コマ目、2コマ目、最後に、17時30分に終わる4コマ目の授業をこなしました。4コマ目はさすがに燃料切れの感覚がして、喋るのが億劫になりました。でも、ちゃんとお勤めは果たしました。それから帰宅・・・ではありません。それから、車で40分かかる田圃に急ぎ、暗くなるまで作業を続けました。1日だからいいようなものの、こんな生活が1週間も続くようであれば、間違いなくダウンしてしまうでしょう。

畔塗り
畔塗り
(5月29日7時30分)

アラジが終わったあと、畔塗りをする。まず鋤簾(じょれん)で泥をすくって、畔に寄せる(この作業は「アガタをとる」と言う)。泥が或る程度固まると、平鍬でさらに畔に寄せて、畔塗りを始める。田圃の土の平面と直交する角度で切った畔の切り口に、泥を塗りつけて漏水を防ぐ。
漏水を防ぐために、まず畔を切ったときにモグラの穴などを赤土でふさいでおく。しかし、田に水を入れると見えなかった穴から水が漏れだす。大きな穴は泥で塞いでおく。アガタをとると、あらかた水は漏れなくなる。最後に、畔塗りをすると漏水はなくなる(なくなるように畔塗りを し な け れ ば な ら な い)。

写真、手前の鍬状の道具が鋤簾。鋤簾の手前がアガタをとった状態。時間が経っているので、泥が少し固まっている。鋤簾と後ろの平鍬との間は、平鍬でさらに泥を寄せた状態。平鍬の背後が、塗り終えた畔。

畔塗りは去年から始めました。その、畔塗りの初体験は、1年前コラムに書きました
機械化が進んだ現在の稲作では、畔塗りは重労働のひとつです。畑でも鍬を使う作業はきつい作業ですが、泥を相手の田圃では、もっと大変な作業になります。一昨日の夕方、畔塗りをしていたところに、隣の田圃の所有者である70代後半の人がやってきて、話をしていきました。その人は「わしゃ、腰が痛たぁけん、畔はよう塗らん。田の仕事で、鍬を使うのが、いちばんしんどい。」と言っていました。実際、その人の田圃は、畔をビニールマルチで覆ってあります。このやり方は、畔塗りに代わる簡便な方法として、最近ではあちこちで見かけます。ビニールマルチは「美しく」ないうえに、稲刈りあとに切れ端が残るので、私は嫌いですが。

「趣味」としての農耕
1週間ほど前、教授会が終わったあと、或る老教授(といっても、私より10歳年長であるにすぎないのですが)に声をかけられました。「田植は終わりましたか?」その人は、私が「兼業農家」をやっていて、稲作もやっていることを知っています。「まだです。田植が終わらないと落ち着きません。秋からの1年、食って行けるかどうかが、かかっていますから。」そう答えると、「何言ってるんですか、大袈裟な。あなたのは、高級なホビーじゃないですか」とその教授から笑われました。村でも、「[高価な機械を使う]今頃の百姓は割に合わん。趣味じゃ思わんにゃ、やっていけん」という声をよく聞きます。むろん老教授の「ホビー」と村の人たちの「趣味」とはニュアンスが違っていますが、「趣味」とは、いずれにせよ利益をあげない活動のことです。私も百姓は「趣味」だと思っています。「趣味」であるからこそ、易きに流れず、「趣味」的なやり方を貫徹します。睡眠不足と疲労の蓄積にも負けず、鍬を使って腰に負担をかける畔塗りをやってこそ、「趣味」の醍醐味でしょう。損得を度外して全身全霊を傾けないことは「趣味」にはなりません。
朝早く作業に行くと、隣の田圃のお兄さん(この人も私より10歳年長です)もかならず作業をしています。お兄さんの家と我が家は、近辺では毎年、田植のしんがりをつとめます。今年は講(葬祭互助組織)の旅行が6月の2回目の週末に予定されているので、近所から「旅行までには田植をすませちょけぇよ」と急かされています。急かされても急かされなくても、お兄さんの家も我が家も5月終わりか6月始めには田植は終わるのですが、今年はなんとなく急くような、しかも、どこかうきうきした気分になっています。
朝早くから作業をしているのは、しかし講の旅行のせいではありません。とくにお兄さんの場合、よく早朝や夕方に仕事をします。そのわけは、お兄さんも私も「現役」だからです。すなわち、まだ第二の人生を歩み始めていないからです。「この辺で、現役はわしらだけじゃけんの。全部はできゃせんのんじゃけん、無理せず、ゆっくりやろうで」とお兄さんはよく私に声をかけますが、そのくせ、お兄さんはいつも朝晩、精出します。私は畔塗りだけですが、お兄さんの場合、すべてをひとりでやっているからです。

損得の埒外
我が家は、祖父の時代から兼業農家でした。祖父は呉市街で働いていましたが、朝早く野良で働き、出勤時になるとみなりを整えて、1時間ほどの山道を歩いて働きにでていたそうです。私が週末農耕をやったところで、祖父の労働量にはかなわないでしょう。1週間畦塗りをやりながらお兄さんの姿を毎朝毎夕見ていると、ふとお兄さんの姿に祖父の想像上の姿が重なりました。重なった二人の姿は「趣味」の兼業農家を貫徹することの意味を考えさせます。
祖父にしろ、お兄さんにしろ、農業外の収入だけで食べていけないことはなかったでしょうし、ないでしょう。ではなぜ、からだを傷めるようにしてまで農耕に精出したのでしょうか、精出すのでしょうか。その動機のひとつは、農家であることの自覚であるような気がします。学問上の定義は知りませんが、農家であることは、自分の身を自分で養うことだ、と私は考えています。米や野菜を作り、家畜を飼って、食料を自給することから始まり、家を建てる木材さえ自分の山から伐りだす。自給自足へのベクトルをもった生業が農家だ、と考えます。米を作るのと、米を買うのと、どちらが得でしょうか。労働量と必要経費からすれば、サラリーマンになって米を買うほうが、よほど得です。少なくとも実感からすれば、そうです。しかし、農家であることは、損得勘定よりも自給自足を優先させることです。損得の埒外に農家は成り立ちます。
兼業農家であることは、自給自足ができない部分を補うために農業外の仕事をもつことです。農業外の、より実入りのいい仕事のために農耕を切り捨てることでありません。軸足はあくまでも農耕にあります。軸足は収入の多寡によってではなく、自給自足の意識をもつかもたないかによって決められるのものだ、と考えています。だから、軸足が自給自足の農耕にあるかぎり、大規模経営の専業農家であろうがわずかな土地を耕す自給的農家であろうが、いずれも立派な農家です。そして、専業農家でも、その中核は損得の埒外に据えられています。農家であるかぎり、埒外に据えられているはずです。農家は、だから、利益追求の資本主義社会にあって、資本主義が貫徹しえない部分だと言い換えることもできるでしょう。だから、今の世の中では、兼業農業をやることは「趣味」だと見えるのでしょう。
もしかしたらそもそも生きることが、損得を度外視することなのかもしれません。損得勘定に走って生きることは、本当は、生きることを損なうことかもしれません。なにもかもが、そして戦争さえも、利益追求のために行われる今の世の中を見ていると、そんな気がします。

畦塗りは、まず、畦の側からあらかた畦を塗り、仕上げに、田の水に入り、塗った泥の表面を平鍬の裏側でスーと滑らせるように押しつけます。水の中から腰をあげると、ホトトギスの歯切れのいい啼き声が聞こえてきます。「テッペンカケタカ」(まだ啼きなれていないためか、「テペンカケタ」といった具合に聞こえます)。なんとも気持ちいい瞬間です。こんな瞬間があるということは、兼業農家はやはり「趣味」でしょうか。

 
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