てつがく村コラム

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2002-09-08 ☆ 道うち

9月8日(日)は地区の道うちである。道うちとは、道路周辺の草を刈ったり、側溝を浚ったりする作業で、1年に一度9月始めに行われる。いまは、軽自動車でさえ入りにくい農道までも舗装されているので、道うちと言っても午前中2、3時間で終わってしまう。しかし、道路が舗装されていなかった時代は道うちは実質的な意味があり、それだけ重労働であった。雨が降れば、農道は溝から溢れ出た水で浸食される。1年経てば、土を入れなければいけないほど浸食された部分も出てくる。補修しなければならない溝もある。だから、鎌で草を刈り、鍬で溝を整備し、人力で土を運んだ。生活道を協同作業で維持したのである。
わたしは広島市内に居住しているので、村の自治会主催の道うちに出る理由はない。しかし、村には老母ひとりが住んでいるので、道うちとか秋祭りの仕事とかの力仕事にはわたしが代理で出る。代理と言っても、生まれてから大学入学までは村に住んでいたので、村の人からすれば、その家からの人手にほかならないであろう。
農作業に貴重な週末の時間がとられるのはつらいが、私自身は道うちをそれなりに楽しんでいる。作業をしながら年齢も生活も違う隣の人たちとお喋りをするのが楽しいのである。そしてまた、そのお喋りを潤滑油にして、人間関係が更新されるのが楽しいのである。村の、いわば公の、組織は、全員を組織するものとして自治会があり、さらに、農業用水の水利権グループである井手と葬儀扶助組織である講がある。それぞれ、仕事の他に、お喋りがあり飲み食いがある。組織の目的からすれば周辺的なそれらの関係が、成員を核となる目的をこえて互いに触れ合わせる。身体的なつながりと言っていいような関係に入らせる。ゲゼルシャフトに対するゲマインシャフトと表現してもいいが、そのような関係のいくつかが絡み合いながら、都市の無機的な集合体とは違う、村という有機体が構成される。

棕櫚縄
今回お喋りをしているうちに、昔の生活についてひとつ知識を得たことがある。
わたしが向こうの棕櫚の木を見ながら、「棕櫚は早よう大けぇなるの。わしがこまい[小さい]頃ぁ、あの木は身の丈より低かっんじゃけど、いまは見上げるほど大けぇなっとる」と言うと、隣の人がそれを受けて棕櫚の話を始めた。
「うちにも、先代が植えたのが何本かあったんじゃけど、全部切っちゃった。昔ゃ、棕櫚で縄を綯よったけん、棕櫚の木を植えちょったんよ。」わたしはと言えば、これまでは、あんなにすぐに高くなり邪魔になる棕櫚をどうして家の近くに植えるのだろう、と訝しがっていたのである。「棕櫚の皮を剥がして叩くと、繊維が一本一本はずれる。それを綯よぉった。棕櫚縄は水を吸わん。[稲]藁はすぐ水を吸うてだめになるじゃろう。ほいじゃが、棕櫚は強い。ほいじゃけん、つるべの縄に使よおった。」つるべで井戸水を汲むことは、わたしの小さいころはまだ残っていたが、その縄に棕櫚縄が使われていたことは、その人の話ではじめて知った。「ほいで、田植えのとき、縄を張って[それに沿って稲を]植えよぉったろうが。その縄も棕櫚を使よぉった。水に強いけんの。今のビニール縄のようなもんよ。」しかし、ビニール縄よりかたくしまっており、伸縮も少なかっただろうと思う。そう言えば、棕櫚は外掃き用の箒にも使われている。耐久性と耐水性のゆえである。
棕櫚の皮は強い。その人の話を聞いていた別の人が、「わしゃ、棕櫚を切っちゃろうか思ぉて、草刈り機でやったら、皮が糸みたいに絡みついてだめじゃった」と笑いながら言う。すると最前の人は話を続ける。「皮は強いんじゃけん、鋸で切ろう思うてもだめじゃ。皮を剥がしちゃってから切るとすぐ切れる。木はやおい[軟らかい]んじゃけん。」
昔話は好きである。棕櫚縄を必要あって綯うことはわたしにはないだろうが、棕櫚が縄の可能性をもっていることを知ることは、たんなる樹木であった棕櫚に自分の生活の、それまでは埋もれていた可能性を発見することである。それと同時に、樹木と自分との、それまでは気づかなかった、いわば血縁関係の糸が突然見えて来て、自分の生活圏が拡大する。わくわくする驚きである。

大根は蒔けるか
雨が降らんの、はいまや挨拶代わりになってしまった。道うちの作業をしながら、隣のおばさんと雨の話になった。「雨が降らんにゃ種も蒔けん。」そう言うと、おばあさんは自分の経験を話してくれた。「ほいじゃがね、お兄ちゃん[その人はわたしのことをそう呼ぶ。自分の子どもの視点からの呼び方だと思う。その人の息子は、我が家の田圃の隣の大町[広い田圃]を4WDのごとくトラクターを走らせた、あの若い衆である]、うちにゃ20日に大根を蒔いたことがあるんよ。[10数pの大きさを手で示しながら]よそのがこの位になって間引くごろに蒔いたんよね。ほいじゃがええもんじゃね、最後にゃよそのと同じぐらいになったけん。」大根の蒔きどきは村では9月10日である。だから、10日遅れの播種ということになる。
夕方畑で作業していたとき通りかかったおばあさんとも同じ話題になった。おばあさんもやはり遅まきの経験を話してくれた。「○○に屋根を葺きかえんさったときときじゃけん、ありゃ、たしか9月15日ごろかの。大根が蒔けんかったけんどうしょうか思よぉったら、屋根師さんが、いまからでもええけん、蒔いてみんさい、言いんさったけん蒔いてみたら、こまかったが、ちゃんと大根になった。」

播種2週間のソバ
播種後18日のソバ
品種は「信州大ソバ」。大きいので草丈20cmほどか(撮影のとき測らなかったので、記憶による)。ソバの向こうには、早生の稲が実っている。
5日遅れでも10日遅れでも雨が降れば蒔ける。しかし、いま畑は乾燥しきっている。育苗しているものは適期が来れば定植せざるをえない。たとえば白菜はあまり遅れると白菜にならない。すなわち、結球しない。だから8月終わりに、遅くとも9月始めに、蒔いて育苗する。(育苗するのは、幼苗期のハムシの食害を防ぐためである。)しかも、白菜は本来移植を嫌う作物なので、本葉4枚までに定植しないと活着が悪くなる。だから播種して2週間程度すると否応なく定植せざるをえない。しかし、直播きの場合は極端に乾燥していると種蒔きを見合わせる。蒔いても発芽が悪いし、発芽を揃えるために灌水する手間はかけられない。8月に照っても、たいてい9月に入ると「大根雨」は降るものであるが、今年はその気配がかけらも感じられない。
8月半ばに、休耕田に蒔いたソバも乾燥の影響で(だと思う)、発芽が悪かった。大根の発芽率は、種袋に記載されているものによると、85%である。秋大根の場合、丁寧に蒔けば、90%は発芽する。ソバの場合、種袋の発芽率は90%である。そのソバが50%を下るような発芽率であった。練習のつもりであったから、来年の種さえ採れればいいのではあるが、やはりショックであった。
むろん8月半ばと9月に入ってからでは、いくら乾燥といっても条件は違う。9月に入ると地面からの蒸発が少なくなる分、乾燥していても地面が湿ってくる。しかし、今年は異常である。これから1週間の天気予報を見ても、雨は来そうにない。稲の方は、晴天にもかかわらずそこそこに水はあったので、むしろ出来はいい。しかし畑の方は、今秋は記憶に残る年になるかもしれない。
(9月9日掲載)
 
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2002-09-06 ☆ 夏の野菜

畑の農繁期
畑の農繁期は春と秋の、年に2回である。春は、3月下旬から5月上旬にかけての1カ月半、秋は、8月終りから10月始めにかけての1カ月余り。この農繁期に種蒔きをきちんとやっておかないと、春の場合は、初夏から秋の始めにかけての野菜に、秋の場合は、秋の半ばから初春にかけての野菜に、事欠くことになる。とくに秋の場合は、1日種蒔きが遅れると1週間収穫が遅れる、と言われるくらいなので、播種期を逸しないようにしなければならない。冬ごもりに向かう動物が雪の降る前に急いで食べ物をあさるように、種蒔きも、日一日と日が短くなり、気温が下がるのに遅れないように、せわしく進められる。
今年はまだ暑さが残り、畑が乾燥しているので、少し種蒔きを遅らせている。それでも9月に入ってからは、朝とか夕方の短い時間を利用して、主として育苗用の種蒔きを始めた。今日までに、人参、白菜、レタス、トレヴィス、エンダイブ、極早生タマネギ(4月終わりから収穫できる。普通のタマネギは6月初旬に収穫する。)を蒔く。(人参以外はすべて育苗。)乾燥しているので発芽まで1日1回は灌水する。とくに好光性の発芽をする人参、レタス、トレヴィスは、ほとんど覆土しないので、注意を要する。

渇いた体が欲望する命の精
降雨のきわめて少なかった8月であったが、稲の方は順調に成育している。いまは出穂し、花が咲いている。数えてみれば、8月から9月始めにかけて、5回も池の水を抜いた。最初の2回は週末だったので、自分の田圃は自分で面倒を見たが、残りの3回は週日だったので、田圃に張りついているわけには行かず、井手頭などの好意に甘えることになった。礼を言うと、お互いさまよ、と返されるが、わたしは田圃に関しては世話になりっぱなしである。いつになったら、お互いさまよ、という言葉を自分が口にすることができるようになるのか・・・
今年の夏はいままでになく田圃の面倒を見た、という意識がある。「夏」というよりは「今シーズン」といった方がいいかもしれないが、ともかく8月は田圃と共にすぎた。
気象上も農耕生活上も暑い今夏を経ながら、ふと気づいたことがある。
夕食時、まずは冷たいビールを一気に流し込む。弾ける炭酸ガスが口の中を心地よく刺激し、冷たい感触が喉を通りすぎる。農耕で一日が暮れた夕べであれば、大ビン1本は気持ちよく一気飲みできそうな気がする。それから食卓のものをつつき始める。トマトの輪切りに塩をふったものは、ビールでは消えやらぬ乾きを鎮めてくれる。キュウリのぬか漬けを口に含むと、汗と共に塩分の抜けた体が生き返るような気がする。
夏はナス科(ナス、トマト、ピーマン、シシトウ等)やウリ科(キュウリ、ニガウリ、ソーメンウリ、カボチャ、トウガン、スイカ、マクワウリ等)の季節である。野菜の陰陽説によれば、こうした野菜は陰に分類され、体を冷やす、と言われている。しかし、それらを育てながら口にする農夫の実感を表現すれば、こうである。
わたしたちが口にするのは、種子を包む果肉や果皮である。夏の間に、これらの植物は種子を成熟させ、次の命を用意する。夏の暑さと乾燥は、生命の維持に必要な要素を生命体から奪い取る。果皮と果肉は、それらの要素を未熟な種子のために、蓄え、種子の成熟を暑さと乾燥から守るのである。生物学的に正しい説明かどうかは分からないが、胎児を包む羊水のように思える。あるいは、砂漠を旅するラクダのこぶのように思える。わたしたちはそうした機構をもっていない。太陽のエネルギーにわたしたちの生命維持に必要な要素は灼かれる。だから夏になると、わたしたちの体はナスやウリを欲望し、それらから命の精を補給するのである。
これらの野菜が陰とされるのは、たぶん、太陽という過度な陽に抗して体のバランスをとってくれるためだろう。しかし、渇いた農夫の実感からすれば、トマトやキュウリを食べるときは、草食動物というより、生きた動物を無心にむさぼる肉食動物である。「陰」と名づけられた、やはり熱い命をむさぼっている。むさぼれば、生き返ったと実感する。つまり、旬の野菜とか四里四方の野菜とか言われるのは、折々の体に、それに欠けた命の精を恵んでくれる野菜のことである。そして、必要な精を知り欲望するのは、ほかならぬわたしたちの体である。
根本の思想に関しては、当然のことに気づきながら、他の様々な農作物が与えてくれる命について、体に尋ね語らせてみると面白いかもしれない、とさらに夢想してみたりもする。初夏の豆、秋から冬にかけての葉菜類や根菜類、穀類、完熟した豆類、あるいは漬け物類。それらをむさぼる身体。うまい言葉が見つからないが、響応し共生する命の現象学・・・(やはり、うまくない。)

これで「農耕日誌」の夏の部は終了します。次回からは「農耕日誌」も季節に合わせて秋になります(なる予定です)。

 
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2002-08-10(土) ☆ 畔豆

8月はコラム記事を1度書いたきりで、もう9月になりました。
8月中は雨らしい雨は2度かぎり。今年は例年になく雨の少ない夏でした。異常気象とマスコミが騒ぐほどには神経質にはなっていないわたしも、これでもかと続く干天にさすがに身に迫る異変のようなものを感じた夏でした。こんな夏には、強い日差しの昼日中、葉をしおれさせたり閉じたりして暑さを凌いでいる植物同様、日陰で汗をうちわで乾かしながらぐったりとしているのが一番なのでしょうが、二足草鞋のいずれも夏ばてしようとする体を休ませてくれませんでした。8月は、日中はそれでも冷房の利いた研究室での期末レポートの採点と、朝や夕方にはムッとする田圃でのヒエ刈りとで過ぎてしまいました。最後の週に、人間ドッグに入ったり、3日連続の夏季休暇をとったりして、ゆっくりしたと思うともう9月です。研究室のカレンダーを見ると赤い丸印のついた日が目白押し(少々オーバーな表現です)。学校の先生って夏休みがあっていいですね、と羨ましがられますが、夏休みがあるのは生徒や学生だけです。給料取りなのですから、勤務日には休ませてはもらえません。
さて、今日は、8月10日の「農耕日誌」を綴ります。

8月10日(土)はフシワラ井手の池の水を抜く。今夏2度目である。
上の田圃から順次水をあてて行くため我が家の田圃には夕方にならないと水が来ない。そこでその間、休耕田で作業をして、青大豆を定植する畝とソバを蒔く畝とを作る。まず、耕耘機で耕起し、つぎに、畝に沿って溝を作る。本来溝などない田圃だから、溝にするところの土を鍬で掘り上げることになる。ところが、田圃の土は、畑の土に比べ、粘くて重い。だから、最初から平鍬で土を掘り上げると、労力がかかる上に溝の底が凸凹になったりして、うまく溝ができない。回り道のようだが、まず三つ鍬であらまし溝を掘りあげてから、平鍬で仕上げるたほうが、手間と労力を節約できる。とはいえ、鍬を使う作業は畑仕事のなかでも一番きつい。しかも炎天下となれば、掛け値なしにきつい。ときどき水筒から水を補給しながら、汗だくになって青大豆とソバのためにそれぞれ二畝、都合四畝を作る。
畝幅を一定にし(畝幅は、わたしの場合、鍬の柄の長さで決めるので、約120cmである)、溝をまっすぐにつけるには、労力に加えて、それなりの細心さと工夫が必要である。だから、わたしはきれいにできあがった畝を見ると達成感に支えられた満足感にひたされる。農耕の楽しみはむろん収穫もあるが、手間と労力を費やした整地や作物の成育も、農耕の気分をはずませる節々の楽しみなのである。

畝を作りおえて休んでいるところに、井手頭[井手の代表者。通常、その井手沿いで耕作地が最大の家が務める]がやってくる。いまは水のあて方を、「時間水」[田圃の広さに応じて時間を決めて配水する]方式から浸水方式[わたしが勝手につけた名前。田圃全体に水が行き渡るまで配水する方式で、水の入り具合は田圃の耕作者が確認する]に変えたので、井手頭は、池の水を抜く日には何度も井手や田圃を見回り、水のあたり具合を確認しながら、池から流れ出る水を加減したり、支流への水の流れを調整したりする。「何ぃ、植えるんな?」公務員を定年退職して3年ほどの井手頭は立てたばかりの畝を見て尋ねる。
「青大豆を定植しよう思うんよ。」
「遅いんじゃなぁか?」井手頭は説明をする。「昔ゃ、畔に豆を植えよった。それが田植えが済んでからじゃけん、ほうじゃの、6月終わりか7月始めよ。その頃、大豆を蒔きょぉたんじゃ。」
「うん。普通の大豆はそうじゃろう。」わたしは遅く蒔く根拠を示す。「黒豆は6月始めに蒔いて、このぐらいなっとる」と、青大豆を定植する畝の傍の黒豆を指してから、「ほいじゃが、この青大豆は7月終りか8月始めに蒔く。いままで3回ほど作ったが、ちゃんとできた。」じつは最初種を買ったときの種袋に書いてあった播種期に忠実に従ったまでのことである。
「ほうか。いままでできたんなら、できるじゃろう。」と井手頭。

畔の姿
井手頭が言うように、かつては畔に豆を植えていた。棒で畔をついて穴をあけ、そこに豆を蒔く、と聞いたことがある。畔は踏み固められているから、棒でなければ蒔き穴はできないのである。普通の作物は栽培できないような、そんな農地の隅でも、豆は立派に成長する。だから、自家用に豆を植えていたのである。いまでも畔豆を植えている田圃を見ることがあるが、まれである。かつては農地を最大限に利用しながら命の糧を作っていたのである。
しかし、いまは畔には草しか生えていない。畔の草刈りは草刈り機で済ませるからである。草刈り機は鎌のように小回りはきかないので、豆が生えていても、草と一緒に刈ってしまう。草刈り機のように「便利な」機械をいまさら鎌に代えるなどできはしない。
しかも、手間をかけ、わずかな豆を、勝手の悪い場所で栽培しなくとも生活が成り立つ、という事情もある。いや、草刈り機の使用と畔豆の消滅とは表裏一体の事情なのである。生活が「豊か」になる。すると草刈り機を購入することは過大な出費とは感じなくなる。しかも草刈り機を使用すると、時間と労力を節約できる。だから草刈り機を導入し、同時に畔豆の栽培はやめる。草刈り機と畔豆は、あれかこれかの苦渋の選択というわけではない。畔豆は積極的に放棄されたのである。農耕の近代化(農耕の農業化とでも言おうか)によって節約できた時間と労力は、農業経営の拡大や農業外の労働に振り向けられる。より効率的に得られた収入が、消滅した畔豆の代わりに商品としての豆の購入を可能にする。こうして農耕の近代化は、時代遅れの畔豆を刈り払ってしまったのである。
畔は生活の変化を映している。6月だったと思う。わたしは朝早く、学校に行く途中に田圃に寄った。すると隣のおばさんが朝早いのに田圃にいた。おばあさんの家の田圃は今年は全面休耕なので、生ゴミや畑の草を捨てに来たのである。お互い珍しい時間に珍しい場所で顔を合わせたこともあり、わたしたちは話し始めた。そのうちおばあさんは昔話を始めた。どういう話のつながりで畔の話になったかは記憶にないが、きれいに草を刈ってあるわたしの田圃の畔を見ながらおばあさんは昔を語りだした。
「昔ゃ、こがいにきれいに草は刈りょぅりゃせんかった。」わたしは、いまは草刈り機を使うので、わたしのように時間に余裕のない者の田圃の畔も短く刈られている、ということだと思って聞き始めた。「昔ゃ、長ごうなった草を、今日はここまでゆうて決めて、めご[背負う竹籠]いっぱい刈って帰って、牛の餌にしょぉった。」
畔豆と違い、牛の餌刈り場としての畔をそれとして意識して見た記憶はない。だからおばあさんの話を聞きながら、いまの畔に昔の畔を想像で投影してみるしかない。牛の餌であれば、十分に繁らせて刈った方がいい。しかも一度にたくさん刈り取っても、一匹の牛が食べきれなければ無駄になるだけである。だから、同じ田圃の畔でも、ある場所から草丈がはっきりと段違いになっている、ということもあったにちがいない。しかも刈ったばかりだと思われるところには、草刈り機で刈り散らすのとちがい、刈った草の姿は見えない。畔によっては、草に隠れていた畔豆が姿をあらわしているだろう。たしかに見慣れない畔である。
畔は水を溜めるための堤防の役割だけでなく、二重三重の用途をもっていたのである。畔豆、飼い葉、救荒作物としての彼岸花。畔は何重にもわたしたちの命を養っていたのである。かつての畔の多様な姿は、自分の命は自分の手で養おうとする、養わざるを得ない、当時の生活を映していたのである。
そして、いま、畔は短く刈り込まれてさっぱりした姿をしている。草刈り機の刃は、金属製の円盤ではなく、プラスチック製の紐をつけることもできる。プラスチック製の紐は強力である。地面の凸凹にもかかわらず、根こそぎといっていいほど草を短く刈ることができる。すると刈ったあとの畔は草色の絨毯を敷きつめたように見える。美しい、ともいえる。しかし単調な美しさである。生活のにおいも一緒に刈り払われている。その畔は、農耕が自らの手で自らの命を養う営みから、貨幣経済に組み込まれた農業に変容した、その変化を映している、と言ったら、誇張であろうか。そして、ひいては、命の糧を貨幣経済の手に譲り渡してしまった現代社会を映している、と言い募れば、もはや妄言であろうか。しかし、単調な美しさには毒がある、とわたしは言いたい思いにかられる。

夕方5時ごろから我が家の田圃に水があたり始める。畑からポット育苗した青大豆を運んできて、作ったばかりの畝に定植する。田圃といえど、乾ききっている。しかも耕転したばかりなので土に含まれていた水分も飛んでしまっている。そこで、井手の水量が豊富なのを利用して、わたしはたごに水を汲んで、その水を天秤棒で担いで畝に運ぶ。そのわたしを見かけた上の田圃の所有者が「そがいなもん、ようあったの。ひいじいさんのころのじゃないか」と笑う。プラスチック製のたごなので、むろんひいじいさんの時代のものではないが、たしかにたごを担ぐ姿は珍しくなっている。
定植穴に水をたっぷり流し込み、青大豆を定植する。都合120ポット。

ところで、この日も井手のジンクスは外れませんでした。夜から明け方にかけて雷を伴った雨がたっぷりと降ったからです。梅雨明け以来、はじめてのまとまった雨でした。ジンクスを外すことのない井手頭は、もしかするとユーモアたっぷりの名気象予報士かもしれません。
(9月3日掲載)

 
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2002-08-06 ☆ 8月6日

池の水を抜く
8月4日、「三日照ると水がなくなる」フシワラ井手で今年初めて池の水を抜いた。7月21日の梅雨明け以来、日照りが続き、今年は井出の終端となった我が農園の4枚の田圃のうち、一番下の2枚の田はひやぎ[乾き]切って、地面がひび割れてしまっていた。そろそろ穂肥[幼穂形成期に施す肥料。品種によるが、出穂前2週間ほど前に施すのがいいとされている。]をやらなくては、と思いつつも、乾いた(化学)肥料を乾いた地面に施したところで吸収されるはずがないので、施肥を見合わせていた。
照ると気を揉むのはいつも井手末端部に田圃をもつ者たちである。井手からの取水には、通常時は、ルールはない。思い思いに水を引くので、結果的には、上の田圃から順番に水を取っていくことになる。だから日照りが続くと、田圃地帯に入るまでは水が流れていた井手は、しだいに水量が減少し、末端部では湿り気さえない、といった状態になる。しかも、休耕田がすぐ上側にある場合には、うだり[上の田圃からの漏水]も期待できないので、末端の田圃は文字通り干ばつである。末端部の者が半ば自棄になるころようやく、井出の上の方にも影響が出始める。そしてやっと池の水が抜かれる。
池の水を抜くと聞いて、私は当日、急いで穂肥を撒いた。ともかく水が入れば、水に溶けやすい肥料は効く。
朝6時に抜いた池の水が我が農園にあたりだしたのは、夕方5時。それ以前から雲行きが怪しかったが、とうとう夕立がやってきた。通り雨だったので、地面のごく表面を濡らすだけのものだったが、「池を抜くと雨が降る」とのジンクスは今回も的中。すぐ上の田圃の人と雨に濡れながら大笑いをした。池の水はまるで雨の「誘い水」のようである。
地中をうだる水
「うだり」を今回まざまざと見た。上の田圃に水があたりだすと、その田圃から水が溢れだしているのではないのに、渇ききっていた下の田圃の表面が湿ってくる。その田圃は下側が水路と農道に接しているので、下側のゲシはコンクリート壁になっている。そのコンクリートに細いひび割れができているところがある。すると、まだコンクリート壁に近い田土は乾いているにもかからわず、ひび割れの周囲が湿ってくる。水はたしかに地中を「うだっ」て来るのである。
ヒエ取りの8月6日
水が入り穂肥を撒くと、稲同様、私にも元気が出てきた。先週後半からはじめているヒエ取りを続けてみようという気になった。ともかく我が家の田圃にはヒエが多い。ヒエが多すぎるので、取る気にもならない。だからヒエは大量の種を落とす。すると翌年も、除草剤にもかかわらず、かなりのヒエが稲の中に立つ。悪循環である。悪の連鎖を断ち切らないかぎり、我が農園の「名物」はなくならない。
朝1時間余りヒエを刈る。この時期になると、ヒエは大きくなり抜くのは大変である。だから根元から刈る。根元からまた株が伸びてくることもあるが、稲の陰になって成長はできない。朝露に濡れながら1時間ほど作業をしてから、出勤する。
今日は8月6日。広島に住む人間にとっては特別な日である。私は小さいころから8月6日の朝8時15分になると、被爆の犠牲者を悼んで黙祷をしてきた。今朝家を出たのは6時前である。子どもに、原爆の日だから8時15分には黙祷するように、とメモを書き残して出た。私自身は被爆二世ではないが、家族は被爆二世であり、被爆三世である。親類縁者や近所の人に被爆者は多い。子どもの頃からの習慣もあり、8月6日は黙祷しないと気持ちが落ち着かない。
家を出るとき、私にはひとつの計画があった。田圃で黙祷をしてみよう、ということである。屋外で黙祷するということはほとんどなかったように記憶している。だから屋外で、というわけではない。57年前のあの日、村では野良できのこ雲を目撃した人があるはずである。もしかしたら田圃の草取りをしていてふと見上げた山の向こうに奇妙な雲を見た人もいたかもしれない。いまの時期、暑い真っ昼間に野良に出て働く人はいない。しかし、朝の8時とか9時ごろまでなら野良に出る人はいる。だから、8時15分に田圃に立つことによって、57年前といまとを接合してみようと考えたのである。
8時15分、私は作業の手を休め、広島の方向を向いて立った。おそらく8月15日は、57年前のあの日のように、いつの年も強い日差しが地上に降り注いでいた。今年もそうである。北西に見える山は濃い緑に輝いていた。私は黙祷を始めた。2分くらい目を瞑っていただろうか。時折県道を走る車の音以外は周囲に人の気配はなかった。耳を澄ますと、サイレンや鐘の音がかすかに聞こえてくるように思えた。むろん広島市内から聞こえてくるはずはない。15kmも離れているからである。幻聴であろうか。57年前、田の水に足を突っ込んだまま、きのこ雲を見やった人がいた。きのこ雲の下では、水を求めて死んでいく人たちがいた。そして、いま私は朝露に濡れながら田圃に立っている。私にとって、田圃とは幻想の空間である。水が時を隔てた命たちを結びつける魔術的な空間である。私はテレパシーのように幻聴し、一瞬、死たちと生たちの感応の場となった。また8月6日がめぐってきた。生きよ、と。

 
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2002-08-01 ☆ 炎天三話

夏荒れする農園
週末農耕を中心に綴る「農耕日誌」を2週間分休載しましたが、むろん、その間、畑や田圃を放っておいたわけではありません。照りつける暑さと汗の流れる湿気のおかげで、畑は[雑]草が繁茂し、田圃は我が農園名物のヒエが穂を出し始めて、なかなか手の回らぬ週末農耕人の農園らしく「荒れ」てきましたが、実際は、週末のみならず、朝晩も足繁く農園に通い、「荒れる」のをしっかりと見守ってきました。
田圃のヒエは、抜き取らなくてはと気を揉みはするものの、授業期間中の忙しさゆえに手も足も出ず、ただ見守ってきました。そして、授業が終わり多少時間に余裕ができたいまは、梅雨明け後の酷暑、なかなか田圃の中に入っていく気も起きません。ヒエは、畔に立ちあぐむわたしをあざ笑うかのように、まだ穂を出す気配もない稲から抜きんでて、はやくも穂を出し始めています。
畑の方は、「荒れる」のをむしろ楽しみながら見守ってきました。化学肥料を全面散布し、耕耘機で鋤いた畑に育つ作物のようには、草は均一な繁り方をしません。同じ畝でも、波うつように草が生えていることがあります。その波は、肥沃度を縦軸にとったグラフに見えます。高く生い茂っている場所は肥えており、低く疎らに生えている場所はやせている、ということです。だから、草が旺盛に繁れば、それだけ、見守るわたしも嬉しいわけです。見守るだけでなく、「荒れ」た畑のあちこちに種を蒔きさえしました。自然農法も少しずつコツがつかめ出したような気がします。それとともに、記事種も少しずつ溜まってきて、開店休業中の「自然農法爾」も更新したい気はするのですが、二兎を追う者、一兎も得ず、と言いますので、今年はコラムの「農耕日誌」に力を注ぐことにします。
さて今日は、「農耕日誌」を放っておいた半月ほどの出来事の二三を綴ってみることにします。

子芋の元寄せと枯れ草マルチ
7月21日(日)は、朝早く出て、田圃で一日を過ごす。子芋の元寄せと、畔の草刈りをする。空は、梅雨を引きずっているような雲が流れている。(夜になって知ったのだが、その雲は梅雨が引き上げていく衣の裾であった。平年より1日遅い梅雨明けである。)

写真タイトル
子芋から芽が出たサトイモ
子芋[サトイモ]は、3回目の元寄せ。サトイモはこの時期になると、親芋についた子芋から芽が出ている。子芋も葉を伸ばし、また子芋をつける。最初の親芋から言えば、孫芋である。子芋から出た芽は、子芋自身が太り、さらには孫芋がつくように、そのままにしておく。父は、9月終わり頃には芽を切る、と言っていた。子芋の茎をそのままにしておくと、本物の親芋になって、芋の味が悪くなるからかもしれない。しかし、わたしは、回す手がないことがよくあるので、必ずしも切り取らない。
子芋の元寄せを行ってから、畔の草刈りをする。ふたつを同時に行ったのは、理由がある。梅雨が明けると晴天が続くので、乾燥を嫌う子芋のために、畝に草マルチをしようと考えたからである。畔の草はマルチの材料である。
子芋に限らず、黒ポリマルチを使った栽培はよく見かける。マルチは、乾燥防止と抑草の効果がある。ポリマルチの場合、たしかに効果は高い。しかし、「皮膚呼吸」ができず「毛」も生えなくなった土で育つ子芋はどこか病的な雰囲気がある。ポリマルチを使わない作物と使ったのとの両方を食べ比べたことはないし、ましてや成分分析などしたことはないので、たんに印象にすぎないかもしれない。たとえ印象にすぎないにせよ、さらに、ポリマルチ使用は或る生き方を内包している。分析総合主義だとか、人為主義だとか、効率主義だとか、抽象的な言葉を使えば、(そしてここではそれらの言葉の内容については省略するが、)そんな生き方を内包している。そして、そのような生き方、ないしは思想がそもそも「病的」であるように思えるのである。わたしは、そのような思想を受け入れがたいからこそ、ポリマルチは使わない。そして、ポリマルチを使わないことも、またひとつの生き方、思想だと思っている。
1ガンギあたり2株、都合100株余りある子芋のすべてに草マルチをし終える前に、家路につく時間になった。裸の数ガンギは、マルチをしたガンギとの比較対象のためにそのままにしておこうと思う。
一日、汗は流れっぱなしだった。一体、どれだけの水が体から抜けていったのだろうか。ちなみに、作業中に飲んだ水(わずかに塩を混ぜてある)は3リットル。それでも、夜はビールをがぶ飲みし、さらに夜は喉の渇きで目が覚める始末。(この時期、朝から晩までぶっ続けで農作業はできない。12時から3時間ほどは日陰とか家で休む。)

炎暑の完熟ジャガイモ
7月22日(月)は有給休暇をとって二度目のジャガイモ掘り。前回は、男爵を掘ったが、今日はメイクイーン。前回に続いて、家族と「失業中」の妹が手伝い。わたしは8時から作業開始。妹には、昼近くになると暑くて作業どころではなくなるので、できるだけはやく畑にやってくるように、と念を押しておいた。10時過ぎ、応援隊が妹の運転する車で、悠々と到着。炎天下の作業を経験したことのない彼女たちは、全身汗まみれになり、一鍬下ろす毎に喘ぎながらジャガイモ掘りをやっているわたしを涼しい目で見やる。
しかし、作業が始まれば、まさしく灼熱のサバイバルゲーム。ジャガイモ掘りが終わるまで脱落者は出なかったが、彼女たち、熱中症がたんなる言葉ではないことを実感したはずである。
順当な収量。ジャガイモの選別と搬入を担当した家族によれば、今年は特別大きい芋は少なかったそうである。わたしの推測では、元肥を全面散布ではなく、スポット施肥にして、肥料を押さえたため、肥満した芋が少なかったのだろう。茎は枯れ、干からびて小さくなった株も多かったが、予想通り、腐り芋はほとんどなかった。炎暑にふさわしい、完熟トマトならぬ完熟ジャガイモの収穫である。

真夏の暗鬱
− 通いの百姓 −
授業期間中は、農作業が忙しくとも、なかなか早朝や夕方に作業をすることはできない。肉体的な疲労が授業に影響するというより、そもそも物理時間的に不可能なことが多い。だから、授業期間が終了すると、それまでのつけを払い戻すかのように、学校に行く前とか帰宅途中とかに畑や田圃で1時間ほど作業を行うことが多くなる。
兼業農家にとって、出勤前とか帰宅後とかの農作業は普通のことである。作業をしないまでも、畑を見回ったり、田圃の水を見に出かけたりするのは日課と言っていい。農繁期になると、無理を強いられることさえある。たとえば、先日、昼間、村の食堂で知り合いに会った。その人は元高校教師である。彼はわたしの歳を尋ねてから、「歳をとると頭に体がついていかんようになる、やらんにゃいけん思うても、体がついていかんのじゃ、53になったらだめになった」と言いながら、現役時代の思い出話をした。田植えの時期、早朝トラクターで田植えの準備をして、出勤時間が来ると、トラクターは田圃につけたままで上がり、シャワーを浴びて、朝食は、むすびを出勤途中に頬張る。「ほしたら、近所の人が、水につけちょったらトラクターが悪りゅうなるけん、せめて田圃から出しちょきんさいや、言いんさる。わしも分かっとるんじゃが、その時間がなぁんよ。」ハードである。しかし、その人は例外ではなく、兼業農家で、自分が主力であるような場合には、誰でも同じような無理をやっている。
だから、本業をはさむように朝晩農作業をすることは自分に特別なこととは思わない。ただ、いつも思うのは、農家は農住隣接、あるいは農住一体が基本だということである。農耕は生き物相手の生活である。相手は生きて絶えず変化している。また環境も絶えず変化し、ときに激変する。それらの変化をいつも観察しながら、作物という生き物にその都度必要と思われる手を貸す。農地が住居の延長でなければ、そのような手の貸し方はできない。また、作物に貸した手は、生き物としてのわれわれに命の直接的な糧として還元される。つまり、農耕とは、人間と作物との、物理的距離の近さという一体性であると同時に、命の循環という一体性でもある。そのような農住一体という点からすれば、わたしのような通いの百姓は変則的である。
命の循環が全うされるためには、作物が風土の中で十分に生きることが必要である。それであってはじめて、わたしたちの、季節季節の身体が十分に養われるからである。そして、その循環のためには、やはり住居と農地との近さが要求される。いくら直線距離にして15kmほどの隔たりを車で疾駆できるにしても、歩いて数分にはとうてい匹敵できない。朝晩、農作業をしながら歯がゆく思うのは、だから、通いの百姓ゆえに、分かっていても手が回りかねるところが、ちょうど流水が、掬いとめようとする手をどんどん溢れ出るように、湧き出てくることである。

7月30日(火)の朝、青大豆をポットに蒔いた。種は、去年は作らなかったので、一昨年のものである。
青大豆は、週末農耕を始めたころ、煮豆にも利用できる枝豆と銘打った種を買ったものである。最初は物珍しさで買い求めたように記憶する。大豆は黄と黒がよく見かけるものであるが、青、正確には緑の大豆もある。皮だけでなく、実も緑色がかっている。きな粉には、文字通り黄色のものと、黄緑のもの(うぐいすきな粉)があるが、後者は青大豆を利用している。青大豆を作ろうと思ったとき、うぐいすきな粉のことも思い浮かべた。
当初の計画では直播きにするつもりであったが、播種地の休耕田に、播種期になっても畝を作ることができなかったので、ポットで育苗してから定植するように計画を変更した。15cmほどの背丈の草が生えた休耕田の土の表面を平鍬で削り取り、つぎに、三つ鍬で耕して、その土を直径7cmほどのポットに詰める。そのポットに種を2粒蒔く。種は土に埋める方向に注意する。
大豆の発芽を観察すると、すっと双葉が出るものと、発芽が遅れ、しかも、最初は、双葉が土の中に埋もれ、茎だけが逆U字型に出るものがある。後のタイプは、しばらくして重い頭を土から引き出して、双葉になる。この発芽は、時間がかかるだけでなく、無理をしただけに健全な子葉にならないことがある。大豆には根が出る場所が決まっていて、その場所を上にして土に埋めた場合、後のタイプの発芽になるのである。実験をしてみると、豆には鞘から外れた跡が傷のように残っているが、そのあたりから根が出るようである。したがって、「傷跡」を下にして埋めると、双葉は下から押されるようにすっと地面に現れる。
合計120ポットに蒔く。ポットは稲の育苗箱に並べて畑にもって帰り、防鳥のためネットで覆う。予想では、発芽率が高くて発芽が揃い、しかも健苗ができるはずである。
休耕田には6月半ばに蒔いた黒豆がある。しかし、畝には草が生い茂り、草の海の中から黒豆が頭を出している、といった状態である。青大豆をポットに蒔きながら、夕方はその畝の草を刈ろうと決心した。

夕方、黒豆の畝の草を刈る。1時間ほどかかっただろうか、刈り終えるころ(18時30分過ぎ)には、日は山の向こうに沈みかけている。短くなった日を実感させるような速さである。
大豆の株を数えてみる。124カ所蒔いたうち、7割しか残っていなかった。直播きの場合、歩留りが悪いのは分かっていたが、7割という数にはさすがに愕然とした。今年はとくに悪いような気がする。「ひとつは地の虫、ひとつは鳥、ひとつはわたし」であれば、3割残ればいいということになるが、こちらとしては寒冷紗を被覆したりしたのは、せめて9割くらいは「わたし」に確保したかったのである。実際、9割方は発芽したと思うので、それ以降、「地の虫」(たぶん若い野菜の茎を切るヨトウムシの幼虫のことだと思う)と鳥にやられたのである。今年の鳥は食い意地がはっている。ということは、食い物が少ない、ということなのだろか。あきらかに鳥が食いちぎったと思われるような切り口で茎が切られているものもあった。
黒大豆の歩留りを思うと暗鬱たる気持ちになるが、青大豆をポット育苗にしたのは、怪我の功名ではあるにしても、せめてもの救いである。通いの百姓ゆえ、できるだけ手間は省きたいが、大豆は今後、育苗の手間はかけなくてはいけないかもしれない。
しだいに目立ち始めるヒエに気を揉みながら、畑に帰る。

帰宅する前に、畑で水を必要とする野菜に灌水する。ナスに水をやっていたときである。従姉が「今年のナスは元気がないね。トマトも大けぇならんし。」とわたしの畑を見ながら声をかけてきた。わたしは生返事を返して、水をやり続けた。
トマトは若い自然畝に作っているので、肥料の関係でさほど大きくなっていない。もともと背の低い調理用トマトも作っている。食べるだけの収穫はあるが、ただこまめに追肥をしてやらないぶん、というか、できないぶん、手間をかけてもらえない野菜の姿はしている。通いの百姓として気になっていることである。ナスも自然畝で作っている。ただこちらは肥料のやり方の失敗で障害を受けてしまって、その障害が尾を引いている。だから「元気がない」。(いずれ自然農法と肥料の関係について書こうと思っているので、そのときナスの障害について触れることもあるだろうが、ここでは障害の説明は省く。)

通いの週末農耕が肉体的にきついのには耐えられる。しかし、作物がうまくできてくれないと、こたえる。除草剤をかいくぐって成長したヒエ、肥料障害のナス、追肥の手間をかけてやれないトマトなどの野菜、それらが頭の中をめぐる。意気阻喪し、暗澹たる思いで帰途についた。

 
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