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2001-09-14  「自然農法爾」を始めるにあたって

「自然農法」という言葉を知ったのは、今から約15年前、福岡正信著『自然農法 わら一本の革命』(春秋社)という本を読んだときである。そのころ私は、職もなく、実家で畑の草むしりをしながら時間をつぶしていた。とくに農業についての経験とか知識とかがあったわけではない。それでも、その本の常識を逸した考えと実践報告は面白かった。自然農法とは、簡単に言えば、「何もしない農法」、すなわち「不耕起」、「無肥料」、「無農薬」、「無除草」を四大原則とする農法である。当時の私にとっては、しかし、自然農法は書物の中のことがらにすぎなかった。
それから10年が経った。父の死後、サラリーマンをするかたわら、わずかな農地で野菜と米を作り出した(「週末農人こと始め」)。すると、『わら一本の革命』が、今度は実践的な興味から、思い出されてきた。しかし、農耕はまったくの素人であったので、まずは、耕起し肥料を施す普通の農法で作物を作る技術を身につけようと思った。ともかく収穫したい。そう思うと、自然農法は冒険的に感じられたのである。実際、自然農法を実践している人は身近にはいない。農法の力を目で確かめられないのである。しかも、自然農法の実践書は少ない。それに対し、慣行農法は普通に行われている農法であり、しかも、実践書に困らない。
ところが、農耕を始めてからある時、本屋で川口由一著『妙なる畑に立ちて』(野草社)という本を見つけた。その本には自然農法による稲作や畑作の写真が豊富におさめられていた。写真に写った具体的な様子は、自然農法への思いを強めた。さらに、川口の講演が広島であり、その際、彼の農耕の1年をビデオで見ることができた。その講演を聞き終えると、自然農法はさほど冒険的ではなく、普通に実践可能であり、しかも、収穫も慣行農法に比べてさほど遜色ない程度かもしれない、という気がしてきた。

自然農法に惹かれた理由のひとつは、機械を使い化学肥料・農薬を投入する近代農法に対する思想的な批判がある。この理由については、ここではふれない。もうひとつは、きわめて実際的なものである。
本業はサラリーマンである。そのかたわらに農耕を営もうとすると、時間のやり繰りがなかなか難しい。まず、耕起して畝立てしなければならないが、耕耘機を使うにしてもそれなりの時間はかかる。しかも、いつでも耕せるわけではない。畑が乾いていないと、耕せない。耕すと土が捏ねられてしまうからである。また、種まきも畑の状態に左右される。耕起した直後の畑は、雨が降ると水を吸い込んでなかなか乾かない。ぬかるみの中では、播種作業はできない。作業は、本業との関係で、週末に集中しなければならないが、その時に畑の状態がいいとは限らない。だから、週末農耕をやっていると、しばしば播種や移植の適期を逃してしまう。しかし、もし耕起して畝立てする手間が省けたら、時間的な制限がゆるくなる。むろん、労力も軽減できる。
また、草取りもなかなか大変である。日本のような気候風土での農耕は、草との戦いとも言える。もし除草をしなくてもよいのなら、時間的・労力的に楽になる。つまり、「不耕起」と「無除草」で農耕ができるのであれば、私のような兼業の極小農にとって、これほどいい話はない。おまけに、「無肥料」とくれば、自然農法は極楽農法である。
この実際的な理由からすると、私に実践可能なものとして惹かれたのは、稲の自然農法ではなく、野菜の自然農法である。稲も自然農法で作ってみたいが、しかし、今の私には無理である。書物を読む限り、自然農法は、慣行農法より手間隙がかかる。それに対して、私のやっている畑作は、機械と言えば耕耘機を使うだけであり、除草剤とか殺虫剤とか、農薬を使用しない、自給的な極小規模畑作である。こうした場合、自然農法をやれば手間隙を省くことができる

しかし、いくら本を読み、講演を聞き、ビデオを見て感心し納得したところで、自然農法に踏み切るには、決心がいる。「不耕起」は作物によっては十分可能であることは、慣行農法をやっていても分かる。しかし、「無除草」と「無肥料」に対しては、なかなか抵抗感を取り除けない。草をとらないで種が落ちたら畑が草だらけになって野菜どころではなくなるのではないか、とか、あまり草を生やすと肥料が草にとられて野菜は生育不良になるのではないか、とか、肥料をやらないで野菜が満足に大きくなるなんて、まるで無から有を生むようなものだ、とか、そんな疑念をなかなか心から払いきれない。
それでも、とうとう去年の秋から自然農法を実験的に始めることにした。ひとつは、極小農でも、サラリーマンをしながら一人で切り回している現状では、時間的・労力的な負担が大きい。いな、大きすぎるからである。またひとつには、たとえ負担が軽くなるにしても、いわゆる「趣味の日曜農耕」をこえる時間とエネルギーを農耕に割いていることには変わりはない。だから、大げさに言えば、それだけ「身を削っている」なら、それに応じたことをやってみたい、と思うからである。

実践してみれば、自然農法ほど決意のいらない、ごく「自然」な農法であることが分かってくるかもしれない。しかし、今は何か冒険的な実験をするような思いがある。そこで、思いがまだ高ぶっている時を利用して、「てつがく村」に新しいコーナーを設けようと考えた。それがこの「自然農法爾」である。
このコーナーでは、自然農法の実践的な事柄に限り、試行錯誤や畑の様子をノート風に、あるいは日記風に、写真を入れながら、書きとめる。

なお、「自然農法爾」は、「自然農法」と「自然法爾[ジネンホウニ]」とを合成して作った言葉である。「自然法爾」は親鸞の書簡から引いている(注)。なぜ、このコーナーを「自然農法爾」と名づけたかについては、ここではふれない。



自然農法を実践するにあたっての参考図書
(といっても、参考書にようにいつも参照しているわけではありませんが ^^;)
福岡正信『自然農法 わら一本の革命』春秋社
福岡正信『無 V 自然農法 (実践編)』春秋社
福岡正信『〈自然〉を生きる』春秋社
川口由一『妙なる畑に立ちて』野草社
徳野雅仁『完全版 農薬を使わない野菜づくり 安全でおいしい新鮮野菜80種』洋泉社
自然農法に関するサイト
自然農実践 http://ww1.linkclub.or.jp/~anal/


自然法爾
じねんほふに
自然といふは、自はおのづからといふ、行者のはからいにあらず、しからしむといふことばなり。然といふは、しからしむといふことば、行者のはからいにあらず、如来のちかひにてあるがゆへに。法爾といふは、この如来のおむちかひなるがゆへに、しからしむるを法爾といふ。法爾は、このおむちかひなりけるゆへに、すべて行者のはからひのなきをもて、この法のとくのゆへにしからしむというふなり。すべて、人のはじめてはからはざるなり。
「末燈鈔」より
 
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