てつがく村コラム


     
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2002-03-14 ☆ 今日も、荒起こし −農耕日誌−

午後から雨になる!
昨日、田圃から引き上げる際に、今日も一日荒起こしをするつもりで、耕耘機や鍬などの農具を田圃に、ビニールシートをかけて残しておいた。昨日の天気予報では、今日は雨が降るが、夕方にならなければ落ちて来ない、となっていた。ところが、朝起きて電話で天気予報を確かめると、午後から雨が降るという。荒起こししていない二町[フタマチ。田圃二枚]のうち、せめて狭い方の一町でも済ませておこうと、朝食後あたふたと出かける。出ぎわに家族の者が新聞の天気予報を示しながら、夕方から雨となっている、と教えてくれた。わたしは、新聞の情報は古いから、と言い捨てて玄関を出た。
農作業は天候に左右される。しかも、サラリーマンとかけ持ちで、通いの週末農耕をやっていると、作業時間が窮屈に限られているため、いっそう天候の変化に敏感になる。

朝6時半頃、起きてすぐに見あげた空は、薄雲が広がり、いかにも数時間後には雨が落ちてきそうな様子をしていた。しかし、家を出るころには雲も消え、さらに、田圃で仕事を始めた頃には、天気予報は誤報かと思われるほど晴れ渡った。なんだ、これなら、朝、不機嫌に急いで家を出るほどでもなかったか、と明るい空を見ると照れくさいような気もしてくる。ともかく、作業開始。夕方まで天気がもってくれると儲けもの。
ゆるゆると鋤き返した田圃を鳥たちが訪れる
耕耘機での耕起は、要所要所では神経を使うこともあるが、たいていは耕耘機についていくだけの単調な作業である。しかも、一回目の荒起こしということで1速で動かしているため、ついていく足どりはじつにゆっくりしている。うるさいエンジン音とハンドルから手に伝わってくる振動がなければ、スローモーション映画のようでもある。目は耕耘機の前方、すでに鋤いた部分の端を見ている。その端に片側の車輪が乗るように、耕耘機の進路を調整する。耕耘機の鋤き幅は車輪の幅とほぼ同じだから、このように調整すると、鋤き余しのないように耕起できる。
田圃を耕起すると、鳥たちがやってくる。土を鋤き返したところに降り立って虫やミミズを探す。カラスや鳩や、わたしが名前のよく知らない小鳥が、エンジン音を聞きつけてか、遠くから耕起する様子を見つけてか、必ずやってくる。昨日と今日とはトンビもやってきた。田圃の上をゆっくりと旋回する。おそらくは蛙のような小動物を探しているのだろう。頭上を高さ3mくらいまで降りてきたりすると、自分が獲物になったようで不安になったりする。昨日などは、最後にはふてぶてしくも(そして珍しくも)田圃に降り立ちもした。

わたしは鋤きながら、昨日の、おばあさんとの話を思い出していた。おばあさんは、麦の話だけではなく、田圃絡みの他の話もした。おばあさんがわたしに何度か愚痴をこぼしたことがある。昨日もその話が出た。

田圃はきわまで、ていねいに鋤く
おばあさんは連れ合いを3年前になくした。おじいさんは農作業にはあまり出なかったが、田圃の耕起や苗代作りは晩年までやっていた。わたしが週末農耕を始めたころ、おばあさんのうちでは程度のいい中古のトラクターを購入した。その時、家の人が、「じいさんのおもちゃじゃ思ぉて、買[コ]うたんよの。」と言ったのを覚えているから、最晩年までトラクターで田圃を走っていたのである。おじいさんが亡くなってからは、トラクターの仕事はおじいさんの孫に回ってきた。おじいさんの晩年、おじいさんが孫にトラクターでの耕起を教えていたような記憶があるので、その若者はまったくの素人ではない。とはいえ、自分で責任をもって田圃仕事を切り回しているわけではない若者としては、田圃仕事を本腰を入れてやる気はしないようである。そこで、車を運転する感覚で田圃の中をトラクターで走り回る。だから、仕事は早い。しかし、おばあさんにとっては、それが気がかりである。
仕事が早い、ということは、裏返せば、粗い、ということである。まわりを残して鋤く、とおばあさんは愚痴る。昨日までは、ただ粗いというにすぎない、と解釈して、「おばさん、ほいでも米ができりゃええじゃない」と軽く流していた。おばあさんは、すると、「ほぉよのぉ」と気のない返事をした。しかし、昨日話しているうちに、問題は単なる粗雑さではないことに気づいた。
おばあさんは田圃を目にしているからか、孫の耕起の仕方がなぜ気になるのか、さらに説明してくれた。
おばあさんの家の田圃も、その向かい側の我が家の田圃も、村の開けた中央に位置しているから、日照はいい。しかし、井手の終端部分に位置しているため、夏の渇水期には困り果てる。我が家の場合は、上の田圃が耕作されているのと、他の井手からの水も取れるのとで、それでも、なんとか日照りをしのげたりする。ところが、おばあさんの家の場合、我が家のような条件に欠けている。だから、渇水期には、我が家の田圃は湿っていても、おばあさんの家の田圃はひび割れていることがある。
悪条件に対処するためには、他の田圃以上に田の水を漏らさない努力をしなければならない。何枚かの田圃のうち、とくに一番下の田圃は漏水対策をしっかりとしておかなければならない。ところが、おばあさんは「一番下の田圃から水が道に漏りゃげるんじゃけん」と、農道に接している田圃の状態を嘆く。おばあさんの説明では、田圃の隅までしっかりと鋤かないことと、水の漏ることとの間には因果関係がある。「おじいさんは、隅はていねい鋤かんと、水が漏る、よおんさった[言いなさっていた]。そりょぉ、[孫は]知らんのんじゃけん。聞くは一時の恥じ、聞かざるは末代の恥じ、じゃけん、本家のおっさんにでも聞けぇ、ゆうんじゃに[言うのに]、聞かいせん。」
じつはここまで聞いて私自身、思いあたる節があった。
まずは、ゲシがコンクリート壁のところ(写真は、ここをクリック)は、田圃と壁の境の部分を掘りあげろ、と父が教えてくれたことである。3月2日の記事では、掘りあげるのは耕耘機ではきわまで耕せないから、と書いたが、いま思い返してみれば、たしかにそれも理由のひとつだが、もうひとつ理由があった。コンクリート壁との境には草が生えている。休耕すると、チガヤなど多年生の草が地下茎を伸ばしている。地下茎をそのままにしておくと、地下茎を伝って水が外に漏れやすくなる。実際、週末農耕を始めた最初の年、コンクリート壁と田圃との間に数pの不耕起部分を残して、畦を塗った。すると、いつまでも水がしみ出たのに困った。コンクリート壁とのきわを掘りあげるのは、草の根を取り除き漏水を防ぐためもあるのである。
もうひとつは、去年、前年休耕していた田圃を耕作したところ、水漏れがなかなか止まらなくて困った。しかし、連続して耕作した田圃はさほど水漏れはしなかったのである。わたしは、畦の塗り方に問題がある、と考えていた。というのも、田植え作業を委託している人がはじめて畦塗り機なるものを使用したからである。土が比較的乾いているときに、機械で畦を塗る。手作業の場合より塗ったところは厚くなり、しかも、泥を塗るわけではないので、土の目も粗い。こんな塗り方で大丈夫かな、という気持ちがあったので、漏水を畦塗り機のせいにしていた。しかし、いま思い返してみれば、畦塗り機も原因の一端ではあったにしても、田圃と畦のきわの耕起の荒さにも原因があったのではないか、と思われてくる。休耕田だから、畦とのきわには多年生の草の根が張っていたはずである。その根を裁断して、土を細かくし、畦をきちんと切る作業をする前に、畦塗り機が動いたのである。
だから、私自身、おばあさんの話のおかげで、一度聞きながらも忘れていたことを思い起したのである。
嘆き笑む土
おばあさんの話は、耕起の技術論にとどまらなかった。
おばあさんの家は、おばあさんの連れ合いの時代に分家した。田舎で分家すると、田圃や畑を分けてもらえるにしても、少ないし、しかも、耕作条件のよいところは分け地としてはもらえない。田舎から都会へ人が流出する現代とは違い、以前は田地の広さが家の格を決めていた。あそこは田地がいくらある、と言うのが、その家を評価する言葉であった。だから、分家して金が溜まると田圃を買った。我が家も、わたしの曾祖父の時代に分家した。本家は大百姓ではなかったので、分け地はわずかなものだったろう。それから、おそらく祖父の時代にかけて苦労して田圃を買い集めた。父の時代に田畑は半分になったが、別に父が田地なぞ意に介しなかったからではない。つまり、父の時代まで、したがって、おばあさんの時代までは、田地をもつことが村の人のひとつの目標であった。
おばあさんは、狭く条件の悪い分け地から現在の場所に田圃を得るに至った話をしてくれた。その話は、おばあさんの嫁いでからの歴史と重なる。言い換えれば、現在の田圃には、おばあさんとおじいさんが生きてきた歴史が堆積している。そこに苦労の歴史が埋まっているからこそ、おばあさんは管理に手を抜くことはなかった。
「ほいじゃが、いまごらぁ、田圃がいらん時代じゃけんの。」おばあさんは様変わりしたいまを、そう嘆き捨てる。耕起の仕方のみならず、畦にマルチをかけて畦塗りに代える簡便な方法(この方法は漏水対策としては効果的であり、マルチを利用する家は多い)を見ても、自分たちの苦労がないがしろにされる思いがするのだろう。しかし、90になり、昔のように身体が動かなくなったいまは、ただ次の世代のやり方を黙って見るしかない。嘆きは、かつては自分たちの歴史を刻んだ田圃に、捨てるしかない。田圃を見ながら話すおばあさんは、わたしにはそんな様子に見えた。
そのおばあさんは、笑みを浮かべながらライ麦を踏んで見せる、あのおばあさんでもある。嘆きと笑みが奇妙に共存していたのを思い出すと、わたしには、おばあさんの嘆きは、おばあさん個人が自分の子や孫たちに向ける嘆きだけには聞こえなくなった。笑みは、ただにおばあさんの思い出だけから湧いてくるとは見えなくなった。おばあさんは、土と共に生き、土から生かされてきたおばあさんを通して、喪失を嘆く土であり、おばあさんを通して、残された可能性に笑む命であるようにも思える。わたしたちの未来に向かっての嘆き、笑みであるようにも思える。

そのように、わたしは昨日のおばあさんの話を反芻しながら、耕耘機について歩いた。

やはり、雨が
朝の早いうちはあんなに晴れ渡った空が昼に近づくにつれて、曇ってきた。天気予報は誤報どころか、正確に雨を予測していたのである。わたしは一町[ヒトマチ]を鋤き終えると、ひとまず耕耘機を屋敷にもって帰り、鋤き刃やその周辺についた泥を洗い流して、農機小屋に納めた。それから、田圃に引き返すと、鋤いたばかり田圃の中に排水路を付けなおした。午後2時、引き上げる軽トラックのフロントガラスに雨粒が落ち始めた。
(3月19日掲載)

 
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2002-03-12/13 ☆ 荒起こし −農耕日誌−

3月12日から3日間、有給休暇をとって、田圃で荒起こしまでの作業を行った。今年度、作付けを予定している田圃の3分の1は、荒起こしできなかった。荒起こしは、荒地[アラジ。苗代作りの最初の作業]までに、2回行う予定。

313(水)

「絶滅危惧種」
一日中晴天。朝10時過ぎに田圃で作業を始める。まず、残っていた最後の横手浚いを済ませる。
横手には水はないように思えたが、浚うと水が出る。まるで、 溝に溜まった土の下に水の層が隠れていたかのようである。浚った土は、上の田圃(わが農園の所有)のゲシに上げる。ゲシは年月が経つと土が浸食されて低くなる。浚い土をゲシに上げたのは、流れた土を補うためである。土は横手の田圃側に上げて、横手と田圃とを隔てる狭い「堤防」にしたり、田圃の中に投げ入れたりもする。状況に応じて、土の置き所を決める。

イモリ

イモリ
ゲシに上げた泥をふと見るとイモリが二匹いた。土の中の水の層に潜んでいただろう。この横手では春の溝浚いのとき、よく見る。陽光を受けて身体が光っている。あまり動かない。イモリは冬眠するかどうか知らないが、まるで雌雄一緒に冬眠していたかのような風情であった。わたしは二匹を一緒につまんで、浚った溝の水の中に帰してやった。
横手浚いをしていると、軽自動車1台がやっと通れる幅の農道を軽トラックがゆっくりと下ってきた。わたしが作業している近くで止まったトラックから、上の田圃の持ち主が降りてきた。挨拶をして雑談を始める。その人は定年退職して5年あまりの歳である。わたしが鍬を使う仕事をしているのを見ると、「がんばるのぉ。わしゃ、力が衰えてきたわい。この頃は、一日一日衰えてくるような気がする。」最近は田の耕起は、耕耘機かトラクターを使う。その人はトラクターをもっている。しかし、それでも鍬を使う仕事はなくなりはしない。その人は以前にも、田圃で鍬を使うのはきつうなった、と嘆いたことがあった。
わたしは身体が続くまで農耕するつもりであるが、一体何歳までできるだろう、と考えることがある。父が70歳をこえた頃、述懐したことがある。「おやじ[すなわち、わたしの祖父]が、70をこえたら百姓はつらぁわい、ゆうたことがある。70なってみて、おやじのことが分かる。ほんまにやる気が起きんようなる。」祖父も父も兼業農家。しかし祖父の時代の方が農地は広かった。今と違い、すべてが人力と牛に頼る稲作りである。それをなんとか70歳まではやってきたのだろう。すると、第二次世界大戦は終わり、父は復員して、祖父に代わって、最初は専業のつもりで農業を始めた。計算してみると、その頃、祖父から聞かされた言葉ということになる。
トラックの主は70歳にはまだ数年ある。その人の弱気の言葉を聞き、父の言葉を思い出すと、70歳あたりが身体の限界なのであろうか、と思ってみたりする。トラックの主の子どもは、百姓はやらない、と断言しているらしい。わたしも子どもはいるが、今の時代、村に残って百姓をやる、とは強く期待できない。すると、今雑談している私たち二人は「絶滅危惧種」であろうか。ひとりは後継者の期待なしに、もうひとりは強く期待せずに、身体のきかなくなるまで百姓をするのだろうか。
「あんたは、なんぼ[いくつ]なったんかいの。」答えると、「あんたも、はあ、そがいな歳よの。まあ、お互い、あんまり無理せんで、やろうで。」その人はまたトラックに乗ると、下って行った。

横手浚いが終わると、屋敷に帰り、耕耘機をもってきた。いよいよ荒起こしである。
耕耘機
耕耘機での耕起は、トラクターとは違い、力仕事である。わたしは牛耕の経験はないが、想像するに、牛耕と同じくらい、あるいはそれ以上に力が必要だろう。ただし、時間は短くて済む。牛耕の場合、話に聞くところによると、20cmくらいの幅の鋤で耕すから、耕耘機と比べると、気の遠くなるほど長い時間がかかったにちがいない。今の百姓は百姓じゃなあ、と牛耕の昔話をしてくれた人が最後に言ったが、説得力のある言葉である。

耕耘機

耕耘機
父の生前に中古で買った耕耘機。だから、買ってから7年くらいになるだろうか。カタログをなくしてしまったので正確には言えないが、型名から推測すると、7馬力である。
耕耘機の耕起は危険でもある。耕起する時になると、鋤の部分にも駆動力がかかり、いわば3輪駆動の状態になる。しかも、鋤の方が回転が速い。土が固いと、鋤が土に深く食い込まず、土を蹴って回転することになり、その回転力で耕耘機が人間のコントロールを振り切って「走り」出す。耕耘機の前に人がいたり、崖であったりすると大変なことになる。わたしも何度かヒヤリとしたことがある。
逆に、土が軟らかいと、車輪がうずりこみ[埋まりこみ、スタックし]引き出すのに一苦労する。焦らず、車輪のまわりをスコップなどで掘って、あぶみ[鉄やアルミ製の渡し板。耕耘機やトラクターを渡すのに使う。目の詰まった梯子のようになっている。]をかませる。そして、耕耘機の上に乗って体重をかけ、あぶみの上を通して、耕耘機を脱出させる。
今日は、田圃に入ったところで、排水のために掘った溝に早速スタックさせてしまった。まわりをスコップで掘るだけで脱出できたが、久しぶりの耕耘機なので扱いの勘がすぐには戻らないようである。今日鋤くのは休耕田で、一昨年の稲刈り以来、一度も鋤いていない。だから土が締まっている。そこで、1速でゆっくりと鋤いた。一町[ヒトマチ]、3畝[セ]ほどを鋤いてから、2時頃、遅い昼食にする。夕方までに、二町[フタマチ]、都合8畝を鋤く。

麦を蒔きたい!?
今日の耕起はこれまでにして、鋤いた時に壊した排水溝を作りなおす。田圃にはたいてい、水の溜まりやすいところがある。横手を作ったり、稲刈りのあと、田圃の中に排水溝を作ったりして、水が抜けやすいようしておく。そうしないと、耕耘機が入らなかったり、入っても動くのに難渋したりして、耕起作業がしにくい。もう一度荒起こしをするつもりであるから、排水溝を付けなおしていた。するとそこに、隣のおばあさんが、一輪車に野菜の残さを載せてやってきた。
このおばあさん、「てつがく村」にはもう何度も登場している。現在90歳。2、3年前から田圃の仕事からは引退したが、自家用の畑は自分が切り回している。田圃にはときどき、畑で出た野菜の残さや雑草を一輪車に載せてやってくる。そのことについて何度もわたしに説明した。「ブイっつぁん[わたしの祖父]が、草でも何でも田圃にもっていけぇよ。田圃に入れりゃ、肥えになるんじゃけん、と言よんさった。ほいじゃけん、わしゃ、何でも田圃にもってくるんよ。」
農道を挟んで我が家の田圃の向かいにある、自分の家の田圃に残さを入れてからの帰り、おばあさんは何を思ったか、わたしに麦を蒔く話をし始めた。
「麦は稲刈りが終わってから、田圃を鋤いて蒔く。昔ゃ、今より稲刈りが遅かったけん、麦を蒔くのは11月の始めじゃった。ハダコゥ[裸麦]は、11月10日までに蒔く。それから、大麦を蒔あた。大麦は牛に食わすんよ。」
裸麦は、いうまでもなく、人間の食用である。父の話では小麦も蒔いていたようである。「小麦は、米で言やぁ、モチのようなもんよ。ちいと[ちょっと]作って、うどんに使[ツコ]うたりした。」そう父は説明してくれた。
おばあさんは三女が生まれた年の麦播きを思い出しながら続けた。「10日までにハダコゥを蒔あて、それから大麦を蒔く。○○が生まれたときゃ、おおけな[大きな]を腹をして麦を蒔いた。その時に生まれたんよ。」16日生まれだそうだから、出産間際まで農作業をしていたということになる。わたしはただの昔話として聞いていたが、おそらくおばあさんの脳裏にはその年の麦播きの記憶が甦えっていたのであろう。初春の、現在の情景に重ねて、過去の晩秋を見ているような口ぶりだった。
ひとしきり話したあとで、おばあさんは農道から午後わたしが鋤いたばかりの田圃を見下ろしながら言った。「この鋤いた田圃を見たら、麦を蒔きとうなったんよ。」おばあさんは照れくさいような、うれしいような笑いを浮かべた。鋤いた田圃がおばあさんに晩秋の情景を思い出させたのである。
「昔ゃ、何が何でも麦を蒔きょぉった。ええとこ[乾いて麦を作りやすいところ]にゃ、ハダコゥを蒔あて、わりいとかぁ[悪いところは]大麦を蒔いた。ダブ[湿田]で、ドジョウが出るようなところでも蒔あた。かけ土[覆土用の土]がなあけん[覆土用の土は乾いた土を使う]、代わりにスクモ[もみ殻]や、唐箕でサビた[穀類や豆類の殻などを除いた]ゴミもかきょうった。ほんまに昔ゃ、どこえでも蒔きょぉった。」
「ほいで冬の寒いのにのぉ、麦ゃ踏みゃようできる、ゆうて麦を踏みょぉった。昔ゃこがいな靴[いま自分が履いているゴム長靴]なんかなかったけん、破れた足袋を履あて、それから草履で踏みょった。ほりゃぁ、足は冷やかったで。」手も冷やぁけん、こうやって腕組みをしてのぉ、とおばあさんは実際にその格好をしてみせた。
「おばさん、麦ゃ土をかけんでも芽が出るんじゃなあや。」「うん、出る。」「わしゃ、去年稲刈りをしたあとで、今年作らん田圃にちょっとライ麦を蒔いたんよ。パラパラと蒔いて、そのうえに藁を被せちょった。ほいなら芽が出たで。」わたしはおばあさんをライ麦が芽を出した田圃まで連れて行った。「ほぉ、麦が芽を出しちょるの。」おばあさんはまだ晩秋から冬にかけての麦畑にいるのであろう、10cmあまりの麦をうれしそうな笑みを浮かべながら、腕組みをして踏み始めた。「こがぁにして踏みよったんよの。」
おばあさんは、それからまた一輪車を引くようにしながら、「あんたも、早よう帰りなさいよ。」と振り返るでもなく言い残して、ゆるい上り坂になっている農道を帰って行った。
(3月17日掲載)

 
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2002-03-09/10 ☆ 今年は水が少ない? −農耕日誌−

39(土) 酒抜きに田圃仕事

一日中晴れの暖かい日。
昨夜は、同僚と痛飲し、起きたのは10時頃。昼食のあと、酒抜きもかねて田圃に出かける。
先週の「農耕日誌」にも書いたが、3月中に田圃の溝浚い、畦きり、最初の荒起こし[春先、田植えに備えて、田圃をざっと鋤き起こすこと]はやっておかなくてはならない。4月になると、草が生えて作業がしにくくなるのに加え、3月終わりからは畑の作業が本格化し、4月いっぱいは畑の、春の農繁期になる。さらに、サラリーマンの身としては、季節に応じた農耕の順序だけでなく、本業のスケジュールも考えあわせなくてはならない。4月早々には新学年が始まり、本業の方でも忙殺されることはたしかなので、3月にしっかりと農作業の貯金をしておかないと、4月に入って本業、兼業の双方で、仕事が手から溢れてしまうことになるのである。

田圃での作業としては先週の続き。横手を浚っていると、セリが生えている。セリは田圃によく生えている草であり、むろん食用になる。母が自分の継母に聞いたと言ってよく話す。「セリは田植え以降は食べるなよ。蛭が卵が産むけん。」今でも田圃に蛭はいると思う。ただ昔と違って、水の入った田圃へは裸足ではなく、膝までの長さのゴム靴[田靴]で入るので、蛭に吸いつかれるということはない。だから、「蛭が卵を産む」という話には実感がない。しかし、セリを見るたびに、繰り返し聞かされた母の話を思い出す。
干上がった別の横手を浚っていると、今度は小さな蟹が一匹出てきた。井手は川から水を引くので、川の生き物が田圃にいても不思議はないが、1年間休耕した田圃の横手に、春先、しかも乾いたところにいるのには少々驚いた。横手の住人としては、イモリをよく見かけるが、蟹は珍しい。迷い込んだものだろう。
5時のサイレンと共に作業をやめる。サイレンは村の小学校にあり、朝6時、昼12時、夕方5時に鳴る。サイレンはいつ頃から鳴るようになったか覚えていないが、今のように腕時計が普及していなかったときには、寺のない村では、バスの通過と共に、時間を知る手がかりだった。

畑に帰って、2週間前に蒔いた大根と人参の発芽具合を確認する。ビニール・トンネルのなかで、大根はすでに発芽していた。双葉の状況から判断して、先週半ばに発芽を始めたのであろう。発芽率は、目測では、8割弱だろうか。秋に比べて発芽率は少し劣る。人参の方は、発芽し始めたのがほんのわずか認められる、といった程度であった。この調子では、かなりが芽を出すまで、あと数日はかかるだろう。
先週、やはりビニール・トンネル内に蒔いた種(トマト、ピーマン、ブロッコリー、カリフラワー、トレビス)はまだひとつも芽を出していない。大根の例からして、発芽にはあと1週間は必要だろう。

実家に帰ると、洗濯をしていた母が「今年ぁ、雨が少ないかね。洗濯をしょぉっても、2回洗うと、水があがる[井戸水が少なくなって、モーターが水を吸い上げなくなる]んよ。大雪も降らんかったし、雨が降っても大降りになることはなかったし、今年[の冬]ゃ雨が少ないかもしんれんねぇ。」と言う。そういえば、この時期たいていは水のありそうな横手なのに、干上がっているところが多い。去年は冬の間、雨(雪)がよく降った。おかげで、夏は雨があまり降らなかった割りには、田の水には困らなかった。とすれば・・・今年の夏は水に苦労しそうで、いまから心配。予想が的中しなければいいが。

昨夜の痛飲の傷跡は、夜になっても残っていた。それでも、午後3時間余り働くと喉が渇き、腹が減る。夕食には、ビールを飲み、ご飯もたっぷり食べてしまった。

310(日) 鍬耕

週に一回の家族デー。朝は天気がいい。しかし、新聞の天気予報を見ると小さな雨マークが。3月中のいつか、晴れの続いたときに有給休暇をとって田を鋤こうと思い、今週あたりを狙っていたので、今年は水が少ない、との昨日の心配はどこへやら、えぇっ、雨ぇ、と呟いてしまった。農耕のスケジュールをサラリーマンとしてのスケジュールに合わせなければならない兼業農人の身勝手な嘆きである。
家族を急かしながら家を出る。

畑に着いたのは11時。風は強い。子どもと二人で田圃に子芋[里芋]掘りに行く。子芋は4月はじめに温床に伏せる。そのために3月半ばには種芋を掘りあげ、2週間ほど置く。置くのは、腐ってしまう種を除くためである。今日は、(種芋でなく)食べるための株の最後を掘りあげた。6株。
来週、種芋用の株、20株を掘ってみないとはっきりとは言えないが、今冬は暖かいのか、それとも、防寒用に被せたスクモ[もみ殻]がきいたのか、腐り芋が少ない。子芋は熱帯原産なので寒さには弱い。だから、防寒しても腐り芋が出やすい。ただ、暖冬だと、掘りあげると芽が出始めているものもあるが、そのような芋にも出会わない。すると、スクモのおかげか。
6株も掘れば、とても1週間では食べきれない。来週また掘りあげ、種用に大きい芋を選り分けた残りは食べるので、今日の大きい芋は友人にあげることにする。

午後からは畑作業。まず、子芋とサツマイモを温床の下準備をする。畑の一角を30cmほど掘り下げた(それ以上掘ると赤土の層になる)。来週にはそこに温床を準備する予定なので、温床の詳しい話は来週の「農耕日誌」に書きます。

三つ鍬、四つ鍬、平鍬

三種類の鍬
左から順に、三つ鍬、四つ鍬、平鍬。撮影したのは、昨日作業をした田圃である。コンクリート製の畦のきわを、三つ鍬と四つ鍬で掘りあげる作業をした。コンクリート壁きわの、鍬の幅くらいの黒い部分が、掘りあげたところ。
3月下旬から本格的な春の播種シーズンが始まるので、畝を用意しなければならない。自然農法畝を拡大しようと思っているが、まだ人参や野菜は自然畝では自信がない。そこで今春の人参と大根は慣行農法で栽培する。その畝をそろそろ準備しておかなければならない。
まず、人参の畝から。人参は同じ場所に作るといい人参ができる、と言われている。連作が有利にはたらく数少ない野菜のひとつである。今までは畝作りには耕耘機を使っていたが、今年は自然畝拡大のため耕起すべき畝が少なくなったので、鍬で耕すことにする。それに、鍬を使った方が土とより直接対話できるので、労力とか時間とかを度外視すれば、いや少々の労力や時間がかかっても、鍬耕が好きである。
秋から春先まで草の生え放題だった畝から草を除いたあとで、苦土石灰と溶リンを撒いてから、四つ鍬で土を起こす。苦土石灰と溶リンは土壌酸度の矯正のためである。四つ鍬は角度の関係で深く土に突き刺さる。それから、てこの原理も利用しながら、土を起こす、ないしは、ひっくり返す。大きな土の固まりは、鍬の横で砕く。四つ鍬は、鍬がざくっと土中に突き刺さる感覚が腕に伝わってくる。大地を相手にしているという、たしかな手応えである。
2、3日前までは草の生えていた畝なので、生きた草の根が出てくる。この根は播種前の整地のときレーキにまつわり邪魔になる。作業効率のことだけを考えれば、草は生やさない方がいい。大きなミミズは散見されるが、ミミズの数は思ったほど多くない。目につきにくい小さなミミズは多いのかもしれないが。
つぎに、三つ鍬で畝をかき回すようにして、肥料を混ぜ込み、土もさらに砕く。最後に、平鍬で溝の土を畝にあげる。
わたしは鍬を使うときは、しばらく作業をすると、できるだけ右左を替えて鍬をもつようにする。そうでないと、片側の腰だけに負担がかかるからである。
播種1週間前にさらに肥料を入れるが、今日の作業はここまで。
4時前、とうとう雨が降り出した。つぎに大根の畝を耕そうと思っていたが、今日の仕事はこれで打ち切ることにする。

雨は畑から広島に移動中が一番激しかった。広島の街中に入ると、西の空が明るくなり、家に着くと、太陽が雲の向こうから射しはじめていた。お湿り程度の雨である。明日からのことを考えると、いいような、悪いような雨であった。
(3月11日掲載)

 
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2002-03-02/03 ☆ シーズン始めは身体が痛む−農耕日誌−

32(土) もう追い出し牛ではいられない

朝は晴れ。昼前から曇りだす。今日のメインは田圃での仕事。
畑に着くと、いつものように、まず畑を一回りして、様子を見る。畑の「植木コーナー」にある梅がやっと咲き始めた。先週末は、蕾がふくらみ始めたところだったから、初開花は週半ばであったと思われる。まわりの梅に比べて、いつも開花が遅い。品種は豊後梅。

薹の立った白菜
白菜と広島菜はいよいよ菜の花が食べごろになる。
先週土曜日にビニール・トンネル内に蒔いた大根はまだ芽を出していない。秋大根であれば、3日ほど、夏から秋にかけての人参ならば1週間すれば発芽を始めるが、やはり低温のせいだろう。この様子だと、発芽までに、大根は10日ほど、人参は2週間はかかるだろう。

畑を見回っているうちに11時近くになる。軽トラックに平鍬、三つ鍬、四つ鍬、スコップ、鎌などを積んで田圃に向かう。(田圃は屋敷/畑から歩いて5分のところにある。軽トラックを使うのは農具の運搬のため。農具が少ないときは一輪車で運ぶ。)2月中は「追い出し牛」でいいが、3月にもなると本気で田圃に出なければならなくなる。田植えは5月末だが、今から準備をしておかないと、間に合わなくなる。
まずやることは、横手(注)を浚うこと。水路は1年使うと幅は狭く、浅くなるので、スコップで両側を掘り下げてから三つ鍬や平鍬でさらう。寒を過ぎれば、草がぼちぼち生え始め、4月にもなると、伸びる。草が深く根を張らないうちに浚っておかないと、根がスコップや鍬の邪魔をする。だから、まず草の少ない3月中に浚っておき、さらに田植え近くになってもう一度浚う。
つぎに、田圃のきわを三つ鍬で掘り起こす。耕耘機にしろ、トラクターにしろ、石垣やコンクリート壁に囲まれている部分だと、きわまでは耕せないからである。

ウワコウ田の横手
右側が一段高い、他家の田圃。向こうから横手を作ってきている。ここまでに、大きな石を二つ右のゲシに入れ戻した。
以上のふたつは、春の耕起以前にやっておく。最後にできれば、畦切り。畦は畦塗り(漏水防止のため、畦に泥を塗りつけること)をすると幅が広くなる。そこで、新たに畦塗りをする前に、前年に塗っただけの土を切り崩しておくのである。畦切りは耕起あとでもできる。

今日は、去年の田植え頃から気になっていた作業をした。苗代を作るとき、トラクターが一段高い隣の、他家の田圃の石垣の一部を壊した。もう3、4回は壊している。石垣のきわを通るとき、少し飛び出た石を引っかけて、引きずり出してしまうのである。耕耘機の力ではありえないことだが、トラクターはやってしまう。今日は、引きずり出された大きな石(なんとか持ち上げることのできる程度の重さ)を二つ石垣に戻し入れ、さらに横手を作ることにした。この部分には横手は必要ない。しかし、横手でも作って、隣の田圃との間に緩衝地帯を作っておかないと、トラクターがまた石垣を壊してしまう。
「追い出し牛」の時期が終わったかと思うと、初っ端から力仕事である。田圃の土は粘っこくて重い。横手を浚うのも力仕事だが、横手を新たに作るとなると、もっと大変である。まず、横手を通す幅にスコップで切れ目を入れる。つぎに、三つ鍬で土を掘りあげる。まず三つ鍬を使うのは、最初から平鍬を使うと、土の抵抗力で平鍬が曲がってしまうことがあるからである。最後に、平鍬で溝を仕上げる。スコップと鍬で数メートルも作業をすると、腕に力が入らなくなり、腰が痛む。一息入れてまた続ける。石をゲシ(田圃の法面)に入れ戻すのも一苦労である。ゲシにスコップやシャベルで穴をあけ、そこに石を押し入れる。中腰での作業なので、なかなか力が入らない。ひとつの石を入れ戻すのに、2、3度は休憩が必要である。
他に、これも田植え時に壊された他家の田圃との境の補修などもやり、疲れて帰宅。

負担のかかりすぎた腰が心配だったので、丹念に整体、というか、正確には、ヨーガ。ヨーガは偏った使い方をした身体を修復してくれる(ような感覚がする)。そして、凝り固まった疲れがほぐれる。疲れすぎると眠れないこともあるが、ヨーガをすると熟睡でき、疲れもとれやすい。だから、農作業のあとはできるだけヨーガをするようにしている。ヨーガのおかげで、今までのところ、なんとか身体が「壊れ」ないでいる、と思っている。

(注)  横手は田圃内部の水路である。田圃が傾斜地にある場合、ウワコウ田(上向田と書くのか。田圃の上半分)の上端に沿って、あるいは、田圃の左右端に沿って作られ、導水路と排水路に使われる。田圃によっては、井手(農業用水路)から直接水が引けないところもある。その場合、水を引ける上の田圃から、横手経由で水を入れる。また、ウワコウ田は概してダブけている[湿田気味である]。上から水がずって来るからである。そこで田圃の上端に沿って横手を設け、上からの水を田圃の外に排出する。稲刈りが近づいて田圃の水を落とすとき、利用する。  (元に戻る)

33(日) ♪あかりをつけましょ、ぼんぼりに

梅
♪おはなをあげましょ、もものはな
畑の「庭木コーナー」に咲き始めた豊後梅。
今日が雛祭り。別名、桃の節句。だから、桃が満開なのか。今日を目処に、「雛祭り」の曲を横笛で吹けるようになろうと練習したが、半音が続くところなどの指遣いが難しく、すんなりとは吹き終えることができない。笛熱はまだまだ続いています。

朝起きると、腕に違和感がある。筋肉痛とまではいかないが、久しぶりの力仕事の余韻が残っている。手に豆もでき、両手の中指、薬指、小指の付け根が硬くなっている。人指し指には豆ができにくい。鍬を握るとき、主に中指、薬指、小指を使うためであろうか。冬の間は柔らかだった手のひらが、ゴツゴツしてくる季節になった。

今日は家族も畑に来る日なので、畑で作業することにする。一日中、晴天。
去年イチゴを作った畝を今年は苗床として使う。今日は、ここにトマト(調理用トマトとミニトマト)、ピーマン(赤と黄色のカラーピーマン)、ブロッコリー、カリフラワー、トレビス(見かけは赤いレタス。苦みがあり、サラダに使う。)を蒔く。午前中に畑を作り、畑を少し乾かしてから、午後、播種。乾かすのは、この時期、晴れていても畑の土は湿っているからである。
苗床は慣行農法で作る。型通り、石灰と化学肥料を撒き、三つ鍬で土と混和する。三つ鍬で混和していると、房のようになったイチゴの根がまるごと出てきた。イチゴは去年の冬に一応除いたが、残っている根もある。一冬ぐらいでは根は腐らない。出てきた根を隣の畝に投げ捨てながら、自然農法について考えた。自然畝を縦横に走る根は、枯れれば土中微生物によって分解され、土の団粒化を進め、肥料にもなる。しかし、根が肥料になるまでは、一シーズンはおろか一年でも短すぎるだろう。だから、自然農法は始めて2、3年しないと作物ができるようにはならないのだろう、と。
種を蒔いたあと、ビニールで覆う。トマトとピーマンはこの時期、播種するのは初めてである。4月始めには蒔いたことがあり、ちゃんと苗もできた。トマトやピーマンは苗を買うが、できれば自分で苗を作りたい。今年は、そのための試験のつもりである。

今日鍬を使ったのは、苗床を作るときだけ。しかし、昨日からの疲労もあり、家に帰ると、腕の付け根が痛んだ。
身体は、こうして少しずつ農耕シーズン用に作りなおされていく。
(3月4日掲載)

 
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2002-02-23/24 ☆ 今年の初種蒔き −農耕日誌−

223(土)

9時過ぎに家を出る。雲の多い晴れ。村に入るともやがかっており、花曇りとでも言いたい様子であったが、季節としてはまだ早い。比較的暖かいので、大気中の水分が霜にならず、浮遊しているためであろう。

実家近くの駐車場に着くと、小さい蕗の薹が目についた。今年は3月も半ばになると村に梅が咲き始めた。今度は蕗である。(今日はデジタルカメラを忘れたので写真を撮れなかった。去年、同じ場所で撮影した蕗の薹をご覧なりたいかたは、ここをクリックしてください。)

ビニール・トンネル被覆の早蒔き大根と人参
今日の主たる作業は、大根と人参の播種。大根と人参は普通3月下旬に蒔く。春の種蒔き開始は、彼岸(3月18日から24日)が目安となる。それまでは温度が低いし、また、大根は小さいときに低温にさらされると薹立が早くなる(いずれにしろ、春大根は大きくなると間もなく薹が立つ)。だから、今日は、種蒔きのあとビニール・トンネルで覆い、保温する。
大根にしろ人参にしろ、去年の9月始めに蒔いたものは3月にもなると薹が立つ。薹が立てば芯がかたくなり食べられなくなる。だから、人参は、残っていれば薹の立つ前に抜き、葉は切り除いて、土中浅いところに囲っておく。(大根は、春大根が太るまでは、年末に漬けた沢庵が利用できる。)しかし、3月下旬に蒔いたものが食べられるようになるのは、5月下旬以降であるから、どうしても端境期ができる。そこで、端境期を少しでも埋めるために、ビニール・トンネルに種蒔きをするのである。
早蒔き大根と人参は、例年は2月中旬の早い時期に行う。去年の記録を見ると2月11日に蒔いたことになっている。普通蒔きより1カ月半早く蒔くことになるが、温度の関係で成長が遅いので、収穫は普通蒔きより1カ月ぐらいしか早くならない。だから、いつもより10日あまりも遅くなった今年は早蒔きはやめようかと思ってもみたが、少しでも早く食べられれば、と蒔いておくことにした。
種は早蒔き用のものを使う。路地専用のに比べると値段が高い。わたしは種は、年に2回通信販売でまとめて買うが、春から初夏にかけての種を注文するのが遅れたので、今日蒔く種は村に行く途中で買い求めた。

大根と人参は自然畝に蒔く
蒔く畝は自然農法畝にした。自然農法畝を今春から大幅に増やす予定なので、適当な慣行農法畝がなくなったからである。自然農法を始めて2年目の畝である。今は4カ月ほど更新が途絶えている「自然農法爾」に3月中には書こうと思っているテーマであるが、自然農法で(おそらくは最初の2、3年は)問題になるのは畑の肥沃度である。畑に地力がない。慣行農法であれば、元肥を投入することで、乏しい地力を補うことができる。しかし、自然農法は原則、不施肥である。自然農法を始めた当初は、その原則を曲げながら、しかし自然農法を大きくはずれないようにしながら、施肥しないと、収穫らしい収穫が得られないこともある。昨秋、大根の一部を自然農法畝に蒔き、肥大を追肥で促したが、小さなものしかできなかった。また、自然農法では成長も遅いようである。そういったことを考えれば、慣行農法で栽培したかったが、自然農法畝にせざるをえなかった。まあ、「自然農法爾」のネタはしっかりと蒔かれたことにはなるが。
ガンギを切るところから草を除く(これからの説明は、『自然農法爾』の「いままでのわざをどう移行させるか」を参照していただければ、分かりやすいと思う)。春浅い時期であり、また、枯れ草が覆っていたこともあって、土はだいぶ湿っていた。午前中に草を除き、午後ガンギ切りや播種を行えば、土の表面が乾いて作業がやりやすかったのだが、そのことに気づいたときには、作業は半分以上終わっていた。
人参は昨秋のシュンギクの播種に準じて行った。
大根はまず慣行農法のやり方で蒔いたが、途中から別の方法を思いついた。慣行農法では、ガンギを切り、ガンギの中央に種を3、4cm間隔で一条に蒔き、覆土する。慣行農法では、耕起のあと整地してから播種作業をするので、土は柔らかく、ガンギを切るのも簡単であるし(ガンギ幅は平鍬の幅になる)、扱いやすい細かい土が溝にあり、ガンギ全体を覆土するのも楽である。しかし、自然農法の場合、ガンギを切るのはさほど困難ではないが、覆土用の土がない。土を工面する方法がないわけではないが、窮屈なやり方である(「いままでのわざをどう移行させるか」参照)。そこで思いついたのが、ガンギ用に草を除いたところを平鍬で軽く削って整地したあとで(あるいは、整地などせずに)、種を蒔くところに、古い鎌などを使って、深さ1cm弱の筋をつける、という方法である。種はその筋に落としていく。蒔いたあとで、筋に沿って土の表面を手で軽く払うようにすると、覆土される。覆土はあまり厳密に考えなくとも、種は土の表面より低いところに落ちているので、土が湿っていれば発芽する。筋に沿ってもみ殻を撒いておけば、申し分ない。

土の表面を削るとミミズの小さいのが出てくる。春に向けてすでに孵化したものであろうか。ミミズが多くなったという印象を抱かせるくらいの数である。

224(日)

先週、先々週と日曜日は雨が降ったので、土日連続して野良に出ることはなかった。今週末は久しぶりに連続「出勤」である。今日は昨日よりも暖かく、さらに春めいた感じがする。
土日のうち一日は家族で畑に来ることを原則にしている。わたしは農作業に忙殺されて収穫する時間がとれないので、家族に1週間分の野菜を収穫してもらうためである。
朝から寒けがする。風邪の引きはじめであろうか。収穫をすませたら早々に帰宅することにして、家族と家を出た。

わたしは、まず畑のあちらこちらに転がっている野菜残さや枯れ枝を燃やすことにした。午前中はそれらを集める作業をして、午後、火をつけた。焚き火となると子どもは大喜びである。火照って顔が真っ赤になりながら、枯れ草を火に投げ入れたり、弱まった火を木切れで引っかき回したり、火がついて煙を出している木切れを松明のように掲げて走ったり、焚き火を存分に楽しむ。遊びながら、火とのつきあい方を覚える。

子どもは幼稚園の年少組(3年保育)のときから、週末になると一緒に畑に来るようになった。その頃は、1年間父子二人の生活をしていたので、土日にはわたしと一緒に畑に来ざるをえなかったのである。子どもは大人のまねをしたがる。わたしが鍬を担いで歩くと、子どもは手鎌を納屋から探してきて、担いでみる。腰に鎌を差していると、古く切れなくなった鎌をズボンに差し込んで歩く。その鎌で木の枝を削る。耕耘機で耕していると、後ろからついてくる。一輪車をなんとかバランスをとりながら押してみる。だから、簡単な仕事を頼むとうれしそうにやる。
隣の畑で仕事をしている従姉が、鎌や手鍬をもって走り回る子どもを見て、危険ではないかとときに心配した。たしかに、ひどい怪我をしないように遠くから注意してやる必要はある。注意してやっていても、危険なことをしていれば、怪我をすることもある。しかし、だからといって、わたしとしては、子どもはいつも安全圏にかくまって育てるべきだとは思わない。むしろ、子どもはときには痛い目をしながら育つべきだと思う。今の子どもは刃物はもたせてもらえないが、わたしが小学生の頃はポケットにナイフを忍ばせて遊んでいた。教師も親もそれをとがめなかった。野山でナイフを使い、むろん、手や足も切った。教育論をぶつつもりもその能力もないが、わたしの思いを言えば、子どもは、そのような直接肌身をさらす経験を通じて、生きる足腰みたいなものを鍛えていく。刃物をもっていれば咎められ、友達と掴み合いの喧嘩を始めればすぐに止めに入られる、といった環境に今の子どもは生きている。肌身をもちながら、肌身で感じることはない。だから、わたしはせめて畑に来たときは、子どもを全身をさらして経験するようにさせたい、と思う。

閑話休題。
つぎに、庭木の枝を間引いた。庭木といっても、庭に生えている木、といった意味であり、実態は鳥が蒔いていった雑木である。むろん苗を買って植えた木もあるが、畑の「庭木コーナー」には雑木もある。おそらく20年は経っているだろう山桜、まだ1.5mくらいでしかない松がある。雑木は邪魔になるだけだと、小さいうちに抜いてしまうのもあるが、今日枝を間引く雑木は、最初は山桜だと間違われたため抜かれるのを免れた。木肌が桜に似ている。しかし、そのうち桜ではないことが分かった。図鑑で調べてみると、ニレ科の樹木(椋、榎?)だと思われる。そうだとすれば、将来大木になる。雑木、しかも大きくなる木は庭木には向かない、と言われたこともあるが、わたしはその木をそのまま置くことにした。邪魔になるようなことになれば、そのときに伐ればいい。木には小さい実がたくさんなる。熟せば食べられるそうであるが、粒が小さい上に高いところになっている。だから、食べるのは小鳥である。まあ、小鳥にしても、いずれ自分たちが食べるために蒔いたのかもしない。

近くの竹藪から従姉が竹を切ってきた。豆のウロ[支柱]を立てるためである。まだ日は十分に高い。しかし、我が家は引き上げることにした。「わしゃ、はあ[もう]帰るでぇ。」従姉に声をかけた。「はあ、帰るん?」「わしゃ、風邪気味なんじゃ。ほいじゃ、さよなら。」
明日から二日続けて、入試関係の業務がある。カンヅメになっての作業なので、風邪をひいていると辛い。今日は早く寝よう。
(2月27日掲載)

 
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