てつがく村コラム


     
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2001-12-26 ☆ 「てつがく村」−ゆく年2001

今年も残りわずかになり、「てつがく村」の1年を簡単に振り返ってみようと思います。

最大の天変地異は3月24日の芸予地震。村は概して地盤が堅いようで、大きな被害はなかった。村の二地区うち灰ヶ峰の北斜面の地区では墓石が倒れる被害があったそうであるが、それ以外は瓦屋根が崩れた家がちらほらといった状態だった。記録によれば、50年に一度くらいの周期で安芸地方に大きな地震が起きており、しかも、大地震が1年ほどの間隔をおいて2回繰り返している例もあるから、来年も要注意かもしれない。
米作は、例年通りの収穫で特記するほどのことはない。畑作は、自然農法をはじめたのが新しい出来事。自然農法1年目とあって、収量は落ちた。それでも、慣行農法も並行的に行っているため、自給体制には影響は出ていない。当初は、自然農法畝を少しずつ増やしていくつもりであったが、やっていくうちに、自然畝と慣行農法畝が混在している状態では、虫害など双方にとって悪影響があるのが分かってきたので、来春作からは畑の大部分を自然畝に移行するつもりである。野菜の自給体制が崩れないかとの心配はある。「自然農法爾」に実践ノートを掲載中。

「てつがく村」のメインコーナー「日々想々」は、思いのほどの数の記事は書けなかった。秋の始め、或るきっかけがあり、「日々想々」に一段と力を入れようと決心したものの、本務をおろそかにするわけにはゆかず、結局、授業に追われているうちに年末となった。「コラム」を開設したおかげで、「日々想々」の空白をわずかでも埋めることはできたが。
「てつがく村」を開村して1年半あまり、日々「農&想」を耕す暮らしが、現在のところ、思想的には、哲学原理主義、唯農論、生命一元論といった言葉で示される方向に進みつつある、という気持ちがある。自然農法畝とともに、ささやかながらも着実な、しかしあくまでも自分自身に忠実な、歩みと実りを実現したい、と念じている。

BBSでは、みふしよくんと某ヨット部13生さんの二人の書き手が登場して、私の記事だけでは展開できない方向に話を広げることができた。みふしよくんとは、イキ(息/生)ること、米国中枢テロについて、某ヨット部13生さんとは男と女について、考えを交換した。BBSでの話題や書き込み形態を限定するつもりはないが、彼らとの対話は想耕する私の楽しみであった。みふしよくんと某ヨット部13生さん、来年もお願いします。そして、他の書き込み手が登場することを期待しています。

コラムに書いたが、横笛(篠笛)に凝っている。いま二本の笛をもっている。いずれも従姉からもらったもの。なかなかいい音がでないし、笛によって音色、音の出方、調律が違っている。笛ごとに竹の素質が違うし、笛の作り方も標準的なものはないようである。だから、吹きながら、笛になじみ笛を作っていくようなところがある。生き物とつきあうようなおもしろさである。
ところで、笛は酒を飲ませてやると音がよくなるということを知っていますか。笛のためにいいことか悪いことかは知りませんが、祭りではよくやっていることだそうです。だから、私は笛に酒をときどき飲ませてやっています。むろん、私の飲んだ残りですが。

お酒の話がでたところで、今年のコラムは書きおさめにします。

では、皆さん、よいお年を。
 
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2001-12-23 ☆ 冬至の柚子

昨日、12月22日は冬至だった。
今年始めには、二十四節気にちなんだ記事を1年間書き、てつがく村の歳時記(「農耕の時節」)を作ろうと計画していた。しかし、夏至までに5節気についての記事を書いただけで、頓挫。それ以降は、農耕の時節など気にかけずに過ごしてきた。ところが、一昨日、研究室が隣同士の同僚と二人で飲みに出かけて、 翌日が冬至だと気づいた。入った店は街中のビルにあるが、内装は昔の民家風。週替わりで季節の膳を出すのが、その店の売り。膳が出されると、店の主人が、客の前で、料理についてしばし講釈を垂れる。客は10分程度、料理に手をつけずに拝聴させられる。その日の膳は、冬至にちなんだ膳だった。柚子湯の話も出た。
柚子湯という言葉で、4年前の12月下旬、高知県の馬路村に行ったことを思い出した。馬路村は林業の村であり、温泉がある。杉の木を贅沢に使った宿で一泊した翌朝、家族三人で狭い谷間を巡るミニ電車に乗った。当時3歳であった子どもを喜ばせるためである。乗客は私たちだけだった。電車は途中駅で止まると、運転手のおじさんが近くの柚子の木から、柚子をいくつももいできた。柚子は馬路村の特産品である。電車が終着点でもある出発点に戻ると、下車する私たちにその柚子を渡してくれた。枝ごと折ったのもあった。柚子湯にでもつかりなさいや、とおじさんは言った。そのときも、冬至という意識は、おじさんの言葉を聞くまではなかった。その日か次の日かが冬至であった、と思う。しかし、私たちは室戸岬を巡ったりしながらもう2泊する予定だったので、柚子湯には家に帰って、だから冬至を過ぎてから、入った。
飲み屋で柚子湯の話を聞いて、明日は柚子湯に入ろうと、思い立った。実家の隣家に柚子の木があり、今年は実がたくさんなっている。隣家は70の半ばを過ぎたおじさんの独り暮らし。その人が柚子を料理に使うことはまずない。そこで、柚子を自由にとらせてもらうことにしている。飲んだ翌日の午後、頭が多少痛んだが、飲酒運転にはなるまい、と村へと車を走らせた。
柚子の木は家の北側で、日当たりの悪いところに立っている。おじさんのお母さんが生きていたころ、私が小学生のころには、柚子の木が生えているあたりは自家菜園として利用されていた。しかし、お母さんが死んでからは耕作されなくなり、今は夏に茗荷が生い茂るだけ。ほかには、おじさんが山や竹藪から見つけてきた木が植えてある。そこで、冬の柚子以外に、夏には茗荷をいただくことにしている。
おじさんの話では、その柚子の木は60年前に植えたものだそうである。「ありゃ、わしが植えたんよ。昔ゃ、こっちがわにあったんじゃが、通り道のへりじゃけん、大けぇなったら邪魔になる思ぉて、植え替えたんじゃ。台所の水が木に流れるようにしちゃるけん、大けぇなっちょるじゃろうが。」柚子は、[実が]なるのを教えてやらなければ実をつけない、と言われるほど、なかなか実をつけない。実生から育てると、実がなるまでに20年必要だそうである。木自体なかなか大きくならない。60年というその木は、根元の直径が15cmほどだろうか。しかも、おじさんの説によれば、剪定などすると枯れてしまう。じつに難しい果樹である。
村は二つの地区に分かれており、実家のある地区は灰ヶ峰の北斜面にある。だから概して日当たりが悪い。しかし、不思議なことに、この地区には柚子の木が多いの対し、もう一方の平坦部の地区には少ない。柑橘類は日当たりのいい暖かいところが適地だと漠然と信じているが、どうも柚子は反対のようである。馬路村も山間部の日当たりの悪いところである。そこの特産が柚子であれば、柚子は日陰で比較的寒い場所を好むのであろう。そういえば、隣のおじさんが育てているまだ小さい柚子の木は、竹藪から見つけてきたものだそうである。
子どものころ、柚子の皮を食べて腹の足しにしていた。中は酸っぱくて食べられたものではないが、皮は厚く、甘くはないにしても香りがいい。柚子はたくさん使うものではないので、冬には木に実がたくさんなったままになっている。子どもたちは遊びがてらその実を竹などでたたき落とし、皮を食べた。柿であれば、鳥がやってきて食べる。しかし、柚子はつつかない。だから、今のように子どもにも見向きされくなると、柚子の実は木になったまま冬の間に朽ちてしまう。柚子は柑橘類のうちの偏屈者である。
隣のおじさんは、あがいなもん[柚子湯]、一回入ったゆうて何もなりゃぁせん、と吐き捨てるように言う。ほいじゃが、おじさん、気分の問題よの、においがええし、入りゃ気持ちがええような気がするでぇ、と私は数個もぎとった。柚子は表面を何カ所か削って香りを強め、風呂に入れた。
大粒の種を酸っぱい果肉で守った柚子が厳しくなる寒さのなか陰地に実る。果皮の薄黄色は精一杯吸い取った乏しい日照を思わせる。湯につかると、強い芳香がたつ。冬を耐えながら再生を準備する命の精髄のようでもある。冬至の柚子は、ひととせの実りのひとときの安堵のなかで遠く春へと向かう決意である。

柚子
隣家の柚子。時刻は朝11時頃。午後は日陰になる。左に見えるトタン屋根は納屋。その手前が旧自家菜園。隣家は2mほど地上げしたところに立っているので、畑は日当たりが悪い。その片隅に柚子が植わっている。一番下の実でも、地上から3mはあろう。
 
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2001-11-26 ☆ 美土里町 神楽門前湯治村

10月から後期が始まり、余裕のない毎日を過ごしています。「日々想々」や「自然農法爾」に書きたいテーマはあるのですが、なかなか書く時間がありません。貧乏暇なしの言葉通り、忙しく動いたところで、何一つ身につくわけではありません。おかげで、スマートな体型は維持できていますが。
前回、コラムを書いたときは、仕事の合間を縫って忙しい息抜きをやったときの見聞をテーマにしましたが、今回も久々の息抜きがテーマになります。

昨日、日曜日に、広島県高田郡美土里町にある「神楽門前湯治村」に遊びに行きました。「村」といっても、村おこしを目的に山の上にわざわざ作った昔風の町並みです。短い路地の両側に土産物屋、食べ物屋、湯治宿などが並び、路地の両端には温泉と神楽ドームがあります。インターネットで美土里町のホームページを調べてみると、美土里町には古くからの神楽団がいくつかあるようです。(パンフレットには、「美土里十三神楽団」と書いてあります。)その神楽団が交代で4月から11月まで日曜日ごとに公演を行い、また、土曜日の夜には練習を公開しています。今回初めて「神楽門前湯治村」に行きましたが、その日はたまたま今年最後の定期公演の日でした。
たまたま、と書いたように、神楽を観ようといった計画を立ててから「村」に行ったわけではありません。昨日の、もうひとつ前の日曜日は、講座の職員旅行でした。参加しようと思っていたのですが、腰を痛めて(イワユル、ヒトツノぎっくり腰です)当日になって参加を断念しました。そのため幹事から、使わなかった入浴券をいただいたのです。ぎっくり腰はすぐになおり(そんなに簡単になおるのは、ぎっくり腰ではない、という声が聞こえてきそうですが)、1週間後に「療養」のため、温泉に入りに行った、という訳です。

昼食後、温泉にながながと浸かったあと、午後2時30分からの公演を観ました。3000人収容という触れ込みの「神楽ドーム」は、巨大なテントというべきか、最近流行りのドーム球場に比べれば、ちっちゃくてかわいいドームというべきか、それでも、前から三分の二ほどまでは地べたに畳が敷かれた升席があり、愛媛県内子町の内子座とか香川県の金比羅座(?)には及ばないまでも、それなりの風情は感じられました。
出し物は「戻り橋」。簡単に言えば、鬼の出る橋があり、そこで鬼を2人の武士が退治する、というお話です。武士の一人は、坂田金時でしたが、もうひとりは忘れました(というより名前が聞き取れませんでした)。歌舞の最高潮は、太鼓と笛と小打鉦が鳴り響くなか、鬼2匹と2人の武士の乱舞。華やかな衣装、鬼の大きな面、鬼と武士が交差しながら舞う姿は、思わず、日本一!と声をかけたいくらいでした。無知まるだしで言うのですが、踊りのクライマックスには、どんな踊りでも、踊り手は自分を軸にくるくると回るのですね。どんな踊りでも、と言いましたが、じつは、今回の神楽以外ではクラシック・バレーしか思い描いていないのです。バレリーナがくるくると回るとき、劇場全体は最高潮に達し、観客席からは拍手がわき起こります。(TAKOさん、もしホームページを見ることがあったら、来年もバレーの券をください。見てないかな、見てないだろうな・・・)

神楽・戻り橋
 
私の興味はむろん歌舞にもありましたが、笛の音にも聞きほれていました。笛にマイクを使うのは邪道だとは思いますが、まあ、あのくらい大きな会場では仕方ないでしょうね。じつはこのごろ横笛(篠笛)にはまっていまして、下手な音を出しては近所に迷惑をかけているのです。ピイーヒョロヒョロロなんて澄んだ音が響くと、うらやましい、私もあんなふうに笛を吹いてみたい、と思う〈笛吹童子〉です。
今年度最後の公演とあって、歌舞が終わった後は、十三神楽団の団長が勢ぞろい。合わせて500人あまりの団員がいるそうです(メモをとっていないので間違っているかもしれません)。本当に最後を締めくくって餅まきがあり、歳を忘れて紅白餅めがけて突進しました。ちゃんと戦果はありましたよ。

神楽を観てほかにも思うことがあるのですが、今日はこのくらいにしておきます。できたら近いうちに「戻り橋」の一場面の写真を付け加えます。約束はできませんが。
長文駄文、失礼いたしました。



広島県美土里町公式ペ−ジ
http://www.town.midori.hiroshima.jp/
 
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2001-09-03 ☆ 蕎麦蒔きトンボ

9月に入った。新学期が始まるのは1カ月先であるが、9月に入ると、会議など、教育・研究以外の仕事が多くなる。8月中はそのような仕事はほとんどなかったが、その代わり、前期の成績を出す作業が8月24日まで続いた。成績を提出してやっと一息ついたかと思うと、仕事はもう新学期である。

先週末、1泊2日で広島県東北部の帝釈峡に遊びに行った。遊びとは、子どもにせがまれてのキャンプである。キャンプ場は標高500mくらいのところにある。ちょうど1カ月前にもキャンプに行った。その時は標高1000mのキャンプ場だったが、その標高でも、暑さを逃れることはできなかった。ところが、二十四節気の「処暑」をすぎ「白露」に近くなると、標高500mは、さすがに朝晩肌寒い。
キャンプ場近くで、きつい斜面の畑にソバが生えているのが目に入った。道幅の狭いところだったが、車を止めて、ソバ畑をしばらく観察した。ソバの草丈は15cmくらい。畑にはまだ草が芽を出していないところをみると、蒔いたのは盆がすぎてからと思われる。畑は畝立てはされていない。斜面のため排水のことは考える必要はないからだろう。ソバは1条蒔きにしてあり、幾筋ものソバが斜面を駆けのぼるように立っていた。条間は60cmである。少し広いような気もするが、ソバがもう少し大きくなったとき、十分に元寄せをするためかもしれない。
去年はソバを蒔いたが、今年は蒔かなかった。わずかでも蒔きたかったが、ぐずぐずしているうちに播種期がすぎてしまった。ソバを蒔くこと、それは他の野菜を蒔くのと同じように、生活に季節のリズムを刻むことであり、また、栽培技術を忘れないためでもある。私はソバ栽培は去年が初めだったので、キャンプ場近くのソバを見ながら、とりわけ播種技術といったものに注意が向いたのである。

去年、従姉にソバを蒔いたことを話すと、彼女が「蕎麦蒔きトンボ」という言葉を使った。お祖母さんは、赤トンボが飛んでくる時期になると、「蕎麦蒔きトンボ」がやってきたからソバを蒔こう、と言っていた、と彼女は思い出話をしてくれたのである。彼女のお祖母さんは私の祖母でもある。
「てつがく村」で赤トンボが目立ち始めるのは、8月も後半になってからである。小学生のころは、穂を出した稲の上を、赤トンボが群れをなして飛び出すと、無性に悲しくなっていた。激しかった太陽の日差しが衰え始め夕暮れが早まるのを感じてか、あるいは、宿題が全部終わっていないのに、学校にまた行かなければならない日が近づいてきたためか、悲しさの理由は今でもはっきりしない。話を元に戻すと、「蕎麦蒔きトンボ」の時期からすれば、「村」では8月後半になってソバを蒔いていたということになる。
ところで、去年、隣のおばあさんが、この辺のソバの蒔きサゴ[播種適期]は8月23日じゃ、と教えてくれた。私は信州大ソバを蒔くつもりであった。ところが、信州大ソバに関して集めた知識からすれば、播種は8月始め、となっていた。おばあさんの話に疑念をもちつつ、私は8月初めに蒔いた。しかし、後から仕入れた知識によれば、信州大ソバは晩生である。しかし、昔、「村」で栽培していたと思われるような品種は、信州大ソバよりも登熟までの期間が短くて済む中生である。ソバは霜に弱いので、初霜までには収穫しなければならない。したがって、大ソバは中生品種より播種期を早めなくてはいけない。だから、品種を考えれば、隣のおばあさんが教えてくれた蒔きサゴに間違いはなかったのである。

キャンプ場近くの畑のソバの品種は分からない。でも、標高(「てつがく村」よりも200mほど高い)と推定した播種期からすると、中生品種かもしれない。ソバ畑の栽培技術に注意を向けながら、今書いた「蕎麦蒔きトンボ」が思い出されてきた。キャンプ場でも、群れなすほど多くはなかったが、赤トンボを見た。
勢いよく伸び始めたソバを見、「蕎麦蒔きトンボ」の話を思い出して、私は心のなかでソバの種を一粒一粒蒔き始めた。1条蒔き。しかし、私は目にしたソバ畑のようには、縦に長く蒔かない。畝立てをし、畝の方向に直交する方向で蒔いた。縦ガンギ[畝の方向に直交する形で作った蒔き床]は我が家の流儀だから。むろん、「蕎麦蒔きトンボ」にときどき目をやりながら。
頑なようだが、言い伝えられた時期に、また、し来たってきた流儀で、農耕作業をする。いのちの基本は、そんな生き方にあるような気がする。心の畑にソバを蒔きながら、来年はなんとかしてまた大地にソバの種をおろそう、と思った。

ここまで書いてきたとき、研究室の電話が鳴った。「教務係の○□です。3時から△×委員会があります。」時計を見ると、すでに15時をすぎていた。私は△×委員なのである。二足草鞋の片方の草鞋を心のなかで脱ぐと、会議室に急いだ。

 
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01-08-16 ☆ 残暑お見舞い

残暑お見舞い申し上げます。

立秋を過ぎると、朝晩はさすがに涼しくなります。私の住処のあるところは、広島市の中心街からわずかに外れた標高80mほどの高台です。梅雨があけてからというもの、夜は一晩中汗だくで寝ていましたが、最近は、明け方になると、タオルケット一枚くらいは掛けたくもなります。また、朝早く畑に行くと、暑気なかに含まれはじめた冷気や、草や野菜におりたしっとりとした露に、秋の近づく気配を感じとることができるようになりました。
それでも、日中はまだじりじりと暑い。今年のように雨が少ない夏は、昼間の暑さは余計に身を灼くような気がします。

今日は今夏、3度目の池の水抜き。これまでの2回は、田にまずまず水があったので、我が農園の田圃は水を引きませんでした。2回とも週日の水抜きだったので、わざわざ年休をとってまで、田圃に出かける気はしなかったのです。今回も木曜日。水は十分とは言えませんが、3度連続でパスするつもりでした。でも、今回は母が、出てみる、と言うので、暑いさなか、老いた身にはきついだろうとは思いましたが、母に任せて、水を引いてもらうことにしました。
畑も乾きっぱなし。何本かのホースで、水の必要な作物に朝晩、灌水します。それは母の役割。ナスやキュウリは水がないと成りが悪くなります。キュウリははやくあがってしまいます[あがる=木が老化して実がならなくなる]。播種や定植をした畝にも、こまめに水をやる必要があります。
昨秋から試験的に始めた「自然農法」の畝は、土が見事に固まってしまいました。夏の乾燥期が始まるまでは、草や藁に薄く被われた畝土は、指で表面を押すと指が沈むくらい、軟らかったのですが、いまは乗って踏んでもびくともしません。運動場に負けぬ固さです。不耕起、不除草で2年3年経つとほんとうに土が肥えて軟らかくなるのだろうか、と不安になるくらいですが、「自然農法」は続けます。そして、自然農法ライブを、秋ごろ新しいコーナーを開設して、お送りするつもりです。写真の入った実践ノート、といったコーナーを予定しています。

「てつがく村」はじつに閑散としています。学期中のにぎわいはどこへやら、現在は、村を訪れるものはつゆもなし、といった状況です。いや正確に言えば、訪れるものは検索エンジンのロボットばかりなり、といった状況です。村の世話人は、と言えば、必死にレポートの山を崩しています。8月24日の成績提出締め切りに間に合うでしょうか・・・

8月に入っても「てつがく村」にアクセスして下さるインターネットの旅人の、数少ない皆さん、村は夏枯れ状態なのに、ほんとうにありがとうございます。ナスやキュウリの1本でも土産にお渡ししたいのですが、virtual village on the Web なれば叶わぬのぞみ、せめて残暑お見舞いを申しあげようと、一文をしたためた次第です。

では、皆さん、元気に夏を乗り切ってください!

 
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2001-08-07 ☆ 真夏の変化

夏の風物詩のひとつにお化けがある。お化けは人気のない暗い場所に現われることに相場が決まっているが、私の見たお化けは真昼の畑に現われた。

唐辛子は毎年作っている。週末農耕を始めた当初、隣のおばさん(「おばさん」といっても、現在は80歳をこえている)から種をもらった。多分「鷹の爪」と言われる品種である。以来、その唐辛子を植え続けている。
今年は、育苗したなかから12本を定植した。一昨日、その唐辛子を見ると、実を2つほど付けている株があった。鷹の爪は、下から順に白い小さな花が咲き、結実する。小さな実は上に向いてなる。ところが、まだ青い実は、鷹の爪にしては大きく、しかも下に向いてなっている。むしろシシトウといった格好である。はて、と見直しても、やはり「シシトウ」である。ひとつもぎ取り、かじってみた。辛い。辛いといっても、鷹の爪ほどの辛さではない。言ってみれば、辛いシシトウと鷹の爪を足して二で割ったような辛さである。
なぜ、こういうことになったかのだろうか。最初にもらった種がシシトウ的な形質をもっていたとは思えない。去年の作付図を思い出して、はたと思い当たった。鷹の爪の近くで、小型のパプリカを作ったのである。そのパプリカ(トマト型のピーマンと思っていただいて結構である)と鷹の爪が交雑して、辛い「シシトウ」ができ上がったのである。自家採種する野菜は、交雑しないように注意して作付けするが、パプリカと鷹の爪は迂闊にも隣り合った畝で栽培してしまった。

シシトウは本来辛みのない品種である。しかし先祖返りのせいか、時々辛いのが混じっている。辛いのを嫌がる人もいるが、私は辛い方が好きである。育種や採種の知識も技術もない私ではあるが、ふと思った。この「鷹の爪が化けたシシトウ」を栽培し続けて品種固定すれば、自分好みのシシトウが出来るもしれない、と。一昨年、生食用唐辛子(一代交配種)を作った。しかし、その唐辛子は、生食用にしては辛すぎる上に、皮が固かった。結局、一度作っただけでやめた。ところが、今回、迂闊から、求めていた唐辛子が出てきたのである。そのうち「こんちゃん農園育成・激辛シシトウ」が種苗店に並ぶかもしれません(!?)。

(暑いですね。まるで地球温暖化の未来の予告編を生きているみたいです。この記事を書き始めたのは、1週間余り前です。すぐに中断、そして、再び手をつけたときには、書き始めたときの勢いはなくなりましたが、夏だるみした「てつがく村」に少しでも活を入れるために、なんとか格好をつけたつもりです。でも、やはりギ−ボードは夏ばてしていました・・・それでも、付き合って読んでくださった方、ありがとうございました。)

 
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「てつがく村」−ゆく年2001
 
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