てつがく村コラム


     
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2001-07-24 ☆ 緑化する粘土団子

いま手元に『中国黄土高原−砂漠化する大地と人びと』(東方出版)と題する写真集がある。中国黄土高原の植林に同行した写真家、橋本紘二が黄土高原とそこに生きる人たち、とりわけ農民たちを季節季節に写した写真が収録してある。それらの写真は、「農業が自然を破壊する」という事実をありありと見せてくれる。農薬とか化学肥料とか干拓とか、近代的な自然破壊以前に、人間が生活のために自然状態を攪乱すること自体が、長い年月の間には、自然に癒しがたい傷を与えた例である。黄土高原はかつては緑豊かな高原であった。しかし、そこで文明が栄える一方で、緑は次第に消えていった。そしていま私たちが目にする高原は、沙漠への道を確実に歩んでいる。本によれば、日本の10をこえる団体が中国の緑化に協力しているそうである。

先日、7月18日、私は愛媛大学農学部で開かれた福岡正信氏の講演会に出席した。88歳の氏が公の場で話をするのは、これが最後であろう、と書いたポスターにあおられるように、瀬戸内海をわたり講演会に駆けつけた。15年ほど前、氏の『自然農法 わら一本の革命』(春秋社)を面白く読んでから、機会があれば、一度氏に会ってみたいと思っていたのである、
講演会のタイトルはこうである。

世界を緑の楽園に変える自然農法の父
福岡正信 講演会
このままぼやぼやしていては10年で地球は滅びる
粘土団子で地球は救えるか
5時間以上も続いた講演会の前半は、粘土団子で世界各地を緑化のため廻った経験談であった。スライドを見せながら、氏は、助手の女性とともに、砂漠化した土地をどのように緑化したかを説明した。氏は、講演会の数日前までは、緑化のため中国に行っていた、とのことであった。その折りの、内モンゴルでの活動のスライドも紹介された。
粘土団子とは、もともと、氏が米麦連続直播自然農法を行うために編み出された播種法である。自然農法とは、耕さず、草をとらず、肥料をやらず、作物を育てよう、いや育ってもらうおう、という農法である。種は直播である。しかし、籾をそのまま田圃に蒔いても、鳥やネズミの餌になるだけである。食害を防ぐため、籾を粘土にくるんで団子にし、それを蒔く。
粘土団子にくるむのは、籾でなくともよい。草木の種なら何でも可能である。氏は、はげ山であった自分のみかん山を、種々雑多の草木の種をくるんだ粘土団子をまいて、木々が生い茂り、野生化した野菜が育つ〈楽土〉にしたそうである。
英訳された『わら一本の革命』が国連のしかるべき部署にいた人の目にとまり、自然農法というより、沙漠の緑化のために、粘土団子が利用できる、と判断された。福岡氏は、世界各地に招かれて、粘土団子の経験を基づいた緑化活動を展開することになる。
種々雑多の種、という点が重要である。沙漠を緑化しようとして、植林を行っても、乾燥地帯であるから、樹木はなかなか活着しない。水を呼ばなくては植林は成功しない。氏は、雨は上から降るのではなく、下から降る、と言う。氏の経験的直感によれば、1万ha(一辺10kmの正方形の広さに相当)の緑があれば、雲が出て雨が降るそうである。だから、まず、裸地を緑で覆う必要がある。すなわち、草で一面を覆うのである。草は、深く下ろした根から地中の水分を地表に呼び寄せ、発散する。また、地表を覆い、水分の蒸発を抑える。こうして下から、雨が準備され、降った雨は草によって地表に保持される。環境が整えば、樹木は枯れずに成長する。
粘土団子は、沙漠を緑で覆うのに、じつに効果的である。蒔かれた種は、粘土の〈甲羅〉に守れて、じっと待つ。時いたれば、種はまず地表との接点から少数精鋭の根を地中深く伸ばす。根が水を探り当てた後に、発芽し、地上部が成長する。草を生やすのが、広大な沙漠地帯であることを考えれば、粘土団子は、安上がりなうえに、効果的な方法であるように思える。
草のもつ力は、畑作をやっていると実感する。今は土壌水分だけに話題を限ろう。慣行農法では、畑は野菜の〈単作〉である。野菜以外の植物は排除してしまう。夏のこの時期は、雑草でさえ、日中は、葉を縮めて光と乾燥から身を守っている。草が繁茂していれば、日差しは強くとも、ひんやりとしている。その時期に、畑にひとり立つ野菜の姿は痛ましいほどである。野菜を太らすために草をとる人間の行為は、逆に、野菜を苦しめている。
耕す、肥料をやる、草を取る。慣行農業のやり方は、自然を攪乱し、土壌を痩せさせた上での農法である。福岡正信氏の「自然農法」の方は、攪乱される以前の自然に倣う農法である。粘土団子を利用しての緑化も、彼の「自然農法」の思想から生まれた。粘土団子は、沙漠に自然の原初の力を回復させることを目指す緑化法である。

講演会の後半になると、福岡氏が演壇にどっかりとあぐらを組み、質疑応答に入った。杖をつき、支えられながら歩く氏は、しかし、年を思わせぬくらい精力的に答えた。13時に始まった講演会は、前後の間に20分ほどの休憩を挟み、18時になっても続いていたが、私は広島に帰る船便の関係で、途中で席を立った。冷房のきいた大階段教室では、福岡氏が粘土団子について、自然農法を支える無の思想について、熱っぽく語っていた。昨日は地球の未来に絶望していた、と言いながら、その絶望をこえる方法と思想を語った。教室には、88の翁を中心とするひとつのコスモスがあった。その教室から一歩外に出ると、夏の熱気が体を包み、まとわりついた。教室の外も紛れもなくコスモスである。一方のコスモスから見れば、他方のコスモスはヴァーチャリティであり、こちら側こそがリアリティである。リアリティとヴァーチャリティの関係は、少なくとも私のその時の体験の上では、相対的である。問題は、二つのコスモスをどう按配するか、であろう。もっとも、そんなことを言うと、翁は、無は、むしろ大無は、相対を越えたところにある、と喝破するだろうが。

(7月18日(水)は、研修として松山に行きました。そのため、授業を休講にしてしまい、明日はその補講をすることになっています。だから、この記事は、言ってみれば、研修報告です。授業を潰した罪滅ぼしです。)

 
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2001-07-21 ☆ ビール蘊蓄学入門
2001-07-21 ☆ 渡辺純『ビール大全』文藝春秋

彼と最初に飲んだ酒は何だったろうか。
初めて彼と出会ったのは、およそ15年前のパリだった。友人のスリランカ人が、パリにやって来る日本人を2日ほど泊めてくれないか、と頼んできた。日本語を学んでいたスリランカ人は、私に日本語のメッセージを届けた。「名前は渡辺純です」と記されていた。「純」という名前から、女性を半ば期待していたが、私の前に現れたのは、顔こそ優しかったが、黒いTシャツにジーンズの、きりりとした風貌の日本男児だった。後から、スリランカ人は、わざと日本語で書いた、と打ち明けた。フランス語では、男性か女性かは単語の形からはっきりと分かる。からかうつもりで、日本語にした、といたずらっぽい笑顔で説明した。
薄暗がりの中に沈んでしまった記憶を手繰りよせてみると、私たちは、場末の中国料理店で夕食をした。彼が大学の後輩であること、大学ではロシア文学を専攻したこと、大学卒業後は就職をせず、出版関係のアルバイトをしながら物書きを目指していることなどを知った。当時私は、パリ大学に籍をおいて(日本の大学とは縁が切れていた)、いつ完成するか分からない論文を書き続けていた。論文が挫折すれば、フランスで生きていこうか、と真剣に考えていた。彼の「勇気ある」生活は、その私でさえ、驚いた。無鉄砲だとさえ思った。日本社会に指定席のない二人は、異国のレストランで自分を語り合った。
その時、二人を近づける触媒の働きを果たしたのは、状況から推測するに、おそらくは安ワインだったに違いない。日本であれば、ビールであっても不思議はないが、その時は、まずいフランスビールが向かい合う二人の間にあったとは到底思えない。

彼は1年ほどフランスに住み、私より先に帰国した。帰国した私は、生活していくあてがなく、しばらくは実家でごろごろと暮らしていた。東京の大学に就職してた友人に頼み込んで、その友人の大学でフランス語の非常勤講師をさせてもらうことになった。しかし、それだけでは生活は成り立たない。そのとき、帰国してまた出版関係のアルバイトをしていた彼の口利きで、某出版社にアルバイトとして雇ってもらうことになった。パリでの一宿の「貸し」を百倍にして、いや千倍にも万倍にもして、返してもらう結果になった。
彼の好きな作家は内田百閧セと聞いたのは、帰国して以降のことだと思う。浅学の私は内田百閧ノついては何も知らなかったが、或る雑誌で内田は食べ物にこだわる人間であった、との記事を見てから、内田を好きな彼に食べ物のイメージが重なり合うようになった。実際、彼はそのイメージを具体化してくれるように、食べ物関係の文章を書き始めた。文春文庫の『B級グルメ』シリーズで執筆陣の一人にもなった。
私は東京に行く度に、彼と会い、飲む(当然、同時に、食う)。彼は次第に食べ物や飲み物について「蘊蓄」を傾けるようになった。パンに詳しかった。アルコールについては、ビールに詳しくなった。自家製の美味しいビールを広島に送ってくれたこともある。顧みれば、彼の中で、何かが次第にある方向に向かって発酵・熟成していた。
話変わるが、彼は私のホームページの応援者である。ホームページを立ち上げたものの、記事は少なく、アクセスもほとんどない、という状態であった頃、続けていく気力が萎えかかると、彼から新しい記事についての応援メールが届いた。すると私は息を吹き返し、ホームページは消えずに続いた。その彼のメールが去年の後半から来なくなったのである。心配になり(彼のことが心配なのか、見捨てられた自分のホームページが心配なのか、多分その二つであった)メールを送ったところ、忙しいからホームページの感想は書けない、と返事が来た。

そして、7月の始め、文藝春秋社から書籍小包が届いたのである。もしかしたら、と期待半ばで包みをほどいた。中から出てきた本を見たとき、やったな、と妙にうれしい気持ちになった。その本は

渡辺純『ビール大全』文藝春秋(文春新書)

である。
本をめくりながら、彼との最初の出会いから今日まで ことが次々と思い出された。彼にはもう一つ単著があるが(『日常生活「快適改善」ブック』講談社)、この『ビール大全』がむしろ渡辺純である。少なくとも私の目には、彼の今までは、ここに向けて発酵熟成すべく方向づけられていたのだ。
この本には、酒を愛し、「大衆」酒場に集う人々を愛する男がいる。酒とともに文学を愛する男がいる。風土に根ざしつつ、生活の中で生まれ育まれてきた食文化を愛する男がいる。彼は、15年前と同様、旅をしながら人々と出会い、土地土地の風土を味わって、そして今回は、この本を書いた。そのような、彼の人柄と生き方が、『大全』を、ビールについての博学をただ披瀝する本以上のものにしている。この本には、近代的な工場で作られたビールではなく、土地の空気から何種類もの発酵菌、酢酸菌、乳酸菌を受け入れ、猫や蜘蛛に守られながら、小さな醸造所で醸されたビールの味わいがある。正直なところ、ビールが、ワインを凌ぐほどの深くて豊かな味をもつこと、したがって、その味を表現するためにはワインの表現に勝るとも劣らない語彙を必要とすることを、私は今まで知らなかった。彼は、世界各地のビールの味を、自分の足と舌で確かめ、的確な表現で私に教えてくれる。
美味しいビールのように、この本にも酵母が生きている。生きた酵母は、新しい別のビールをも醸しだすことができる。この本は彼の到達点であるとともに、出発点でもある。本の味わいを深める酵母は、また発酵熟成の時を経て、別の美味しい本をきっと届けてくれる。

昨日、広島市内の本屋を回ると、『ビール大全』が平積みになっていた。大学の生協はどうなのかな。月曜日にでも確かめてみよう。さて、学生の皆さん!(というもの、私のホームページにアクセスするのは、書き込みから判断するに、学生が主体と思われるので。)この夏は、『大全』を繙きながら、ビールへの見識と愛情を深めてみませんか。一気飲みで自己主張をするよりも、ビールについての蘊蓄を語りながら飲む方が、はるかに学生らしい。あのひと(男・女)、単なる飲んべえだったと思っていたけれど、意外に知的でグルメなんだ、と彼女・彼に見直されること必定です。すると、夏の amour が芽生えたりしますよ。読み終えたら、本の感想をBBS「ひろば」に書き込んでください。渡辺純は私のホームページに頻繁にアクセスしているそうですから、著者直々に返事が返ってくるかもしれません。(Junちゃん、お願いしま〜す。)

なお、最後に一言。私は、文藝春秋社や著者からは一銭もいただいていません。(天下の文春が、超マイナーなホームページに宣伝料を出すはずはないですね ^^;; )

 
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2001-07-16 ☆ 頑張ってくれますね、梅雨殿

7月初め、梅雨が開けたような天気図になった時があったが、西日本ではまだ梅雨前線はしぶとく雨を降らせている。梅雨中末期の集中豪雨は恐いが、それさえなければ、梅雨前線にはしっかりと働いてもらった方がありがたい。

遅れがちな農作業も、働き者の梅雨前線のおかげで、助かっている。昨日は、サツマイモの2回目の植えつけとニンジンの種まきをした。サツマイモの苗は、自分で種芋から育てるので、育苗時の温度管理の関係で、どうしても植え付けが遅れる。遅くなっても、7月中旬ごろまでに植えれば、収穫には問題ない。3カ月あれば立派な芋がとれるので、11月初めの初霜を考えれば、植え付けのタイムリミットが7月中旬というわけである。サツマイモは茎を植えるので、発根には水分が必要。そこで、梅雨時に植え付けを済ませる必要がある。それなのに、梅雨が早々と開けてしまえば、苗の活着が困難になる。
ニンジンも発芽には十分な水分が必要である。ニンジンは蒔いた種に厚く覆土すると、発芽しない。好光性の発芽なので、極端に言えば、覆土は必要ない。せめて申し訳程度に、種の上から篩で土をふるいかけ、さらに、種が雨に打たれて流れないよう、また土壌水分が保持されるよう、もみ殻をかけておいてやる。私はその上からさらに寒冷紗をべた掛けする。基本は、土壌水分と日光の確保である。しかし、いくら工夫しても日照り続きであれば、土壌水分が少なく発芽がきわめて悪くなる。そんな時には、朝晩、如露で水をかけてやるが、大変な労力である。ところが、雨続きの頃を見計らって種まきすれば、放っておいても、数日すると発芽する。
ということで、梅雨殿のおかげで、遅れていた農作業もうまくいきそうである。

梅雨は明けないといっても、この時期になると日中はさすがに暑い。昼頃から午後3時くらいまでは農作業を休み昼寝をすることにしているが、それでも、朝早くか夕暮れ時でなければ、高い温度で体から水分がどんどん流れだしてしまう。だから、作業中には随時水分を補給する。でも、何といっても夕食時のビール。よく冷えたビールをこれまたよく冷えたグラスになみなみと注いで一気に飲み干すと、一日の作業の疲れが一気に弾け飛ぶ。これがあるから、日本の夏は楽しい!
そうですね。次のコラムは、ビール をテーマに蘊蓄を傾けましょうか。(我に秘策あり。)

 
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2001-06-23 ☆ 大雨

今日は、雨なので、一日家にいて、骨休みすることにした。予報によれば、雨は夕方になると止む、とあるから、午前中は雨が降るにしても、次第に弱まってくるのだろう、と高を括っていた。
家族は外出してしまい、一人になった。昼食を済ませると、昼寝を始めた。久しぶりに何もせずに過ごせる午後、存分に眠ることにした。2時間位経っただろうか、激しい雨音に目が覚めた。すぐに、今週火曜日の大雨が思い出された。
・・・大雨が降ることは予報で知っていたが、朝、田圃に回る時間がなく、水のあて口を堰いたり、開けたままにしていた。予報通り大雨である。夕方になると弱まりはしたが、心配で、学校からの帰りに田圃に寄った。水嵩が増した井手から田圃に水が勢いよく流れ込み、反対に、ムナクト[田圃からの水の排出路]からは溢れ出ていた。田圃は水浸しである(変な表現かな・・・)。急いで、水が流れ込まないよう、あて口を閉めた。しかし、それまでにどれだけの水が田圃を洪水にしただろう、と思うと、今更あて口を閉めても、という気がしないでもなかった・・・
火曜日のことが思い出されると、目が覚めてしまった。起き上がると、すぐに駐車場に行き、車のエンジンをかけた。田圃に着く1時間後には雨の状態は変わるだろうと思ったが、それでも田圃に向かった。街中は土曜日のショッピング客で渋滞している。雨足は弱まらない。着くと、田圃は火曜日と同じ状態だった。木曜日に豆を蒔いた畝も溝に水が溢れていた。といっても、稲が流れたり、畦が決壊したりしていないのだから、よしとすべきなのだろう。降り続く雨の中で、そう自分に言い聞かせた。

サラリーマン稼業でも、忍受しなければならないことはいくらでもある。しかし、相手は人間である。相手に腹を立てたり、自分のふがいなさに唇をかんだりする。そして、わめいても詮ない、と判断すれば、不承不承、忍受する。ところが、大自然相手では、わめいたところで、たとえば激しい雨の音にたちどころに消されてしまう。人ば天籟と地籟に吸い取られてしまう。農耕とは、この人籟のような営みである。しかし、大自然は、少なくとも日本のような風土では、忍受だけを押しつけるわけではない。恵んでもくれる。湿潤が植物を育み、動物に命を与えてくれる。忍受と享受とは一つの力の二つの受け取り方である。だからこそ、忍受しながらも、わめこうという気もたいして起きないのかもしれない。ところが、私はサラリーマン稼業の方に重心があるので、大自然相手でも、何か理由をつけて、わめきたくなることが多い。そして、顔を曇らせたりする。根っからの農耕人は、しかし、私の気のせいか、そんなときでも思ったより明るい顔をしているように見える。大自然を体得しているからだろうか。
一昨年、哲学の授業のレポートに南島出身の学校教育学部学生、M .t .君が次のように書いていたのを思い出す。(無断引用でごめんなさい。)

考えていく中で私は、おじいさんやおばあさんたち年配の方の中に何か独特のものの考え方があることに気がつきました。それは次のとおりです。「何ごとものんびりかまえて自分のペースでやっていくのが一番いい。急がず、焦らず、てきとうにだ。」てきとうにというと投げやりだとかいう悪い意味にとられるかもしれませんが、この場合そうではなくて、多くなく、少なくもない、ちょうどいいという意味での「適当」です。(…) おじいさん、おばあさんの世代の島の人の多くが農業や漁業をして暮らしていました。さとうきびやじゃがいも、バナナ、などいろいろなものを栽培していました。(…)農業や漁業をするうえで一番こわいのが自然です。土地柄、時期が来ると台風が次々とやってきます。バナナなどは熟れはじめた時期に台風にやられると実が落ちたり、悪いときは木ごと折れたりして駄目になってしまいます。(…)このような環境の中で人々が身につけていったのが、「のんびりとかまえる」という考え方だったのです。自然に逆らわず、自然の為すことには身をまかせるのが一番いいということです。自然のすることだから仕方がないとはじめからかまえていれば、事が起こった時のショックは小さくなります。
[中略部分(…)以外は原文のまま。]
□彼のおじいさんやおばあさんは、根っからの農耕人、漁撈人であろう。そして、たぶん、今の日本のように「近代」化された社会には、本当に少なくなくなった人たちである・・・

(「農想」風のコラムになりました。)

 
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2001-06-18 ☆ 田の草掻き

先週末に田の草取りをしました(直前の記事を参照)。草取りというより、草掻きです。田植えから3週間。イネはしっかりと活着し株数を増やし始めていますが、草の方は、ヒエを例にとると、本葉2、3枚で、根張りも浅い。この程度の草なら、手でとるよりも、道具を使って掻きとった方が手間隙がずっと節約されます。
まず、田を湛水状態にします。すると、土は緩み草が抜けやすくなります。そこを、爪がついた草掻き器で稲の条間の土を掻きます。すると、草は簡単に抜けて水面に浮いてしまいます。私が使う草掻き器は一度に一つの条間しか処理できませんが、爪のついた車輪が二つついたものもあり、それは二つの条間を処理できます。
今時、草掻き器を使うのは、有機栽培をしている人か、私のように薬での除草を失敗した人で、「てつがく村」ではまず目にすることはありません。私はタイムスリップしたような、恥ずかしいような、複雑な気分で作業を始めました。
初めて草掻きをしたのは、父がまだ存命の時でしたから、7、8年は遡るでしょう。その時を含めて、今回で3度目だと記憶しています。最初は父が、道具の使い方を教えてくれました。父は、隣村にある母(私の)の実家の田圃の草取りをしたとき、初めて1条間用の草掻き器を使ったそうです。この村では、なんと効率の悪い道具を使っているのだろう、と始めは思ったそうですが、使ってみると結構使い勝手がいい。2条間用の車輪付きの草掻き器は重いし、力がいる。小回りが利かない。(最近はアルミ製のものもありますが、これは始末に悪い。アルミは軽いが水に沈むからです。)その使いやすさに感心して、その村から草掻き器をもって帰ったそうです。2丁ありますが、うち1丁は爪が一つ欠けているだけで、まだ現役で働けます。

草掻き器

 
2メートル20センチほどの柄の先に(ちなみに、鍬の柄は1メートル35センチのものを使っている)、ドングリの縦断面のような形のものがついています。尖った方が前です。その裏には、鉄製の爪が埋め込んであります。作りから見て、手作りのようです。柄の長さを加減しながら、近くから遠くに向かって、爪のついた部分を前後させながら進めていきます。自分の立っているところの左右、都合4条間を掻いて、前に進み、また同じ動作を繰り返します。
作業している時は、むしろタイムスリップです。だって、機械や薬を使う以前は、長い長い間、祖先たちは田の中を歩き、はい回りながら、田の草取りをやっていたのですから。それに、からだを使っているときは、ほとんど妄想念は浮かんできませんから。浮かぶほど余力はありませんから。(小人閑居して不善をなす、まさに知のあり様を言い当てていますね。)
延べ時間にして7時間程(なれない作業のため効率が悪かったこともあります)かかって、5アールの草掻きを終えました。単純な、でも、私のように軟弱な男には重労働でした。でも、ヒエの中にイネが細々と生えている様を見なくてもすむと思うと一安心です。
 
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