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☆ 2017-03-28(火) ☆ 拳が咲き、春が駆け上る。
朝起きると、石油ストーブの火がついたままになっていた。灯油はあまり入っていなかったが、最小の火力にしていたので、一晩燃え続いたのだ...

朝起きると、石油ストーブの火がついたままになっていた。灯油はあまり入っていなかったが、最小の火力にしていたので、一晩燃え続いたのだろう。メーターは燃料切れ近いことを示している。灯油は、買い置きの18リットル缶は空っぽ。もう一つのストーブに少し残っているだけである。「暑さ寒さも彼岸まで」の彼岸もすぎ、4月も目前なので、今冬の暖房はこれで終わりにしよう。

朝食が終わり、洗濯物を干しに二階の物干し台に出ると、向いの山に拳の花が咲いていた。見えるのはまだ2本だけ。ここより100メートル近く標高の高い村ではまだ拳は咲いていない。しかしすぐに村から見える灰ヶ峰の北斜面を拳は咲きのぼる。その速さは私にとって、春の速歩を具現する。花の上昇とともに野良仕事もどんどん忙しくなる。

今日これから野良仕事。
☆ 2017-01-10(火) ☆ 手抜きでも、そこそこにできる。
昼前、農協の精米所に行った。去年度産の米から食べてもらっている人に注文を受けたからである。去年の12月に最後の古米(平成27年度産米)を...

昼前、農協の精米所に行った。去年度産の米から食べてもらっている人に注文を受けたからである。

去年の12月に最後の古米(平成27年度産米)を精米したとき、たまたま従姉の畑に来ていた、従姉の知り合いに1斗(約15kg)贈呈した。その人とはとくに面識はなかったが、従姉の知り合いなので、余っていた分を処分する意図でそうした。すでに新米が出回っている時期なので、贈呈するにしても、すでにおいしい新米を食べているのにまずい古米を押しつける、といった形になるかもしれないと懸念し、私は少々気が引けた。ところが、後日、その人から、とても古米とは思えないほどおいしかった、と喜んでもらった。それをきっかけにして、定期的に食べてもらえることになった。

私は1カ月に1度くらいの頻度で、籾で保存している蔵から食べる分だけ出し、農協で籾摺りと精米をする。もし古米がおいしかったとすれば、ひとつの理由は、その都度、籾から精米するからかもしれない。それに対し、市場に出回っている米は玄米(籾摺りした米)で保存しているものを精米している。もう一つの理由は、稲刈り後、稲架に掛けて天日干しするからである。天日干しの米と機械乾燥の米を食べ比べたことがあるが、天日干しの方がおいしい。大雑把な表現だが、旨みがある。私の作った米がおいしいとすれば、理由はその二つしか思い浮かばない。特別な仕方で丹精こめて作っているわけではない。

さて、精米所には先客がいた。近所の人である。その人が「あんた方の米はうまいの。肥料をあんまりやらんけん」と話しかけた。私は怪訝な気がした。「肥料はどうするんない?」とその人。「代掻きの時(元肥)と穂肥をやるが、追肥はせん」と私。近所の人は大抵、元肥(代掻き時)、追肥(田植え後、約1ヶ月)、穂肥(出穂前、約20日)の3回施肥する。「(農協が配布する米の)農事暦に肥料の量が書いちゃるじゃろうが」とその人。「わしゃ、そがいに[そんなに=農事暦で指示してある量ほど]よおけ[たくさん]やらん」と私。「ほうじゃの。それでええ。わしも、そうしょうかの。どうせ、(米は)よおけは要らんのじゃけん。」

「あんた方の米はうまいの」は、つまり、施肥の仕方をきくための枕詞的な導入辞だったというわけである。その人も、私と同様、天日干しし籾保存でやってきた。しかし、米作りは私より手間をかける。その人だけでなく、近所の人は、春の田植え準備が始まるより前に(初冬とか春先とかに)、土作りのため肥料を入れる。これまで私は《通いの一人兼業農家》だったこともあり、ともかく手間はできるだけ省いた米作りをしてきた。農耕一般での私の方針は、手間と金はできるだけかけないで、(収量は)そこそこに作る、である。米作りにおける施肥にしても、元肥と穂肥だけにしている。

昨秋の米の収穫期、我が家の田んぼの周辺では、これまでとは様子が違った。稲架干しをやっていた2軒の田んぼで、コンバイン[刈り取りと脱穀をいちどきにやる機械]を使って収穫がされた。その2軒の主たる働き手は私より10歳余り年長であり、去年は働き手自身や家族の体調不良のため、労力の必要な稲架干しは断念し、コンバインを所有している人に刈り取りを委託したのである。

近所では、米作りの担い手は老齢化するばかり。作業は省力化せざるをえない。おそらく精米所で出会った人(上に言及した2軒の主人のひとり)も省力化を考えて、私に質問したのだろうと思う。境遇に強いられての結果ではあるが、私の稲作りは省力化の見本みたいなものである。手抜き、とも言えなくもない。あのくらい手を抜いてもそこそこにできる、その人はそう思ったのかもしれない。
☆ 2017-01-02(月) ☆ 明けましておめでとうございます。





☆ 2016-12-28(水) ☆ どちらがうまい? 新米? 古米?
新米は12月2日に初めて精米した。しかし、まだ古米(2015年・平成27年度産)が残っているので、私はそれを食べ続けている。(クリックで画像の拡...

新米は12月2日に初めて精米した。しかし、まだ古米(2015年・平成27年度産)が残っているので、私はそれを食べ続けている。


(クリックで画像の拡大)
どちらが新米、古米でしょう?
(答は、本文末尾。)
古米から新米に切り替わる時は、おいしい米が食べられる! という期待感がふくらむ。そして、炊きあがった米の、湯気から立ち上る雑味のない香りをかぎ、粒の充実したまるみ、白く輝く艶に瞠りながら、「おいしい新米」という観念にみたされて、味わう。

新米はまだ二回しか食べていないが、しかし、味わい始めるといつも期待が裏切られる。一回目は、本当に新米の方が古米よりおいしいのだろうか、という疑念が頭をもたげた。二回目は、古米の方がおいしい、とたしかに感じた。

その理由は、簡単に言えば、古米の方が あ じ があるからである。それに対し、新米は味が淡白である。よく言えば、みずみずしい。

古米は、水加減を調整しても、新米と同じようにはふっくらと炊きあがらない。(少なくとも私の炊き方ではそうである。)それに、わずかに黄味がかっている。臭う気もしないでもない。人間でも、若い顔は色白でふっくらとしているが、歳をとると色がくすみ、しわくちゃになりしぼんでしまうのに、似ているかもしれない。そして古米は、歳をとった分、旨みが凝縮しているような食感がある。

百姓を始めてまだ間もないころ、或る古老が、新千本はいまからおいしゅうなるんじゃ、と言ったことがある。(当時、新千本という品種がよく栽培されていた。)正確な季節は覚えていないが、春だったように思う。そのとき私は怪訝な気持ちで聞いていた。ところが、いまの私は、新米は、収穫直後よりは年が明け冬が終わるころからおいしくなる、と感じている。(私は、以前は新千本を作っていたが、いまはヒノヒカリを作っている。)

ジャガイモでも掘りたてよりは、数カ月保存してからが旨み(甘味)がある。サツマイモだって掘りたてはそんなに甘くない。野菜ではないが、ワインは新酒は、口のなかで《暴れる》。数年寝かせないとまろやかな味わいが出てこない。日本酒でも、おいしい古酒がある。そうしたことに似た現象が米にもあるのかもしれない。

(ちなみに、我が家の米-品種はヒノヒカリ-は、稲架干し[天日干し]して籾のまま蔵で保存している。そして、一カ月に一度くらいの頻度で、籾摺り・精米をして食用にする。)


答:
左が古米、右が新米。色で判別。
★ 2016-09-20(火) ★ 母の死
八月後半、まだ盛夏の暑さが続いていた或る日、夜半に喉の渇きで目が覚めた。渇きをいやすため、階下に下り、冷蔵庫から牛乳を取り出してガ...

八月後半、まだ盛夏の暑さが続いていた或る日、夜半に喉の渇きで目が覚めた。渇きをいやすため、階下に下り、冷蔵庫から牛乳を取り出してガラスのコップに注いだ。コップから冷たい牛乳を口に含んだ時、ふと幼いころの出来事が蘇った。記憶には深く刻まれているが、長いあいだ思い出すことのなかった出来事である。

私は五歳、やはり八月のことだった。ベンチで目覚めたばかりの私は喉の渇きを覚えた。その私を見て、母は近くの売店から牛乳を買ってきてくれた。ガラス壜入りの牛乳は、氷で冷やされた水に浸けられていた。私は壜を口に近づけた。母は寝ぼけ眼の私を支えるように抱き、壜に手を添えていたかもしれない。冷たくておいしい牛乳だった。

母と私は二人で上野駅にいた。東北のX市に向かうために汽車を待っていた。二人は、一年ほど住んだ父の実家を出て、東京まで長旅をしてきた。広島から東京までどのくらい時間がかかったか分からない。東京に着くまでに汽車の中で眠ったことを覚えているから、夜行列車も利用したのだろうか。汽車のなかで目覚めて私は「夜の間、汽車も寝たん?」と母に尋ねると「そう。車庫に入って寝たんよ。」と私の幼い質問に合わせるように答えた。

旅に出る前、もう父の実家には戻らない、と教えられた。東北旅行から帰ると、別の新しい家で暮らすことになる、ということだった。新居には、旅の前に、父に連れられて行ったことがある。「この家に住むことになる」と家を示された後、向いの隣家で、よろしくお願いします、と挨拶をさせられた。親子だけで暮らすことは、幼い私にとって喜びであった。父の実家に住んでいたあいだずっと、それを望んでいたからであり、その願望を言動で表してもいたからである。

母と私は、X市に嫁いでいた母の妹の家に逗留した。父はあとから私たちに合流した。父は私たちがいなくなってから一人で新居への引越し作業をしたそうである。父の実家に同居していた他の家族たちは、私たちが出発した当初は、母がほぼろをふって(*)妹の家に逃げだした、と認識していたようである。だから、引越し始まると、残る家族と、出る父と間に混乱があったようである。母と私は、その混乱を避けるためにも、N市に送り出されたのだと思う。
ほぼろをふる:夫婦関係を解消して、出て行くこと。「ほぼろをうる」とも言うらしい。

なぜ上野駅で飲んだ冷たい牛乳のことを思い出したのだろうか。暑い夏に目覚めて喉の渇きを覚え、冷たい牛乳を飲む、という状況が一致していたからだろうか。たしかにそれも一因ではあろう。

母は、あの記憶の思いがけない喚起の三週間前に、この世を去っていた。母は最晩年、高齢者向けの施設に入っていたが、事情があり、私は一度も会いには行かなかった。母の臨終にも立ち会わなかった。早朝にかかってきた電話で、その朝、母が死んだことを知った。ごく限られた親族のみで、その日に通夜を、翌日、葬儀をおこない、荼毘に付した。そうした一連の儀式は、私の気持ちのうえでは淡々と進んだ。葬儀の時に、私は母の、しかしもう亡骸となった母の、顔を、最後に見た。その際も、私の心は、全体としては、動かされることはなかった。

しかし、やはり心はどこかで動かされていたのかもしれない。それが下地となって、夜半の牛乳が幼いころの記憶を呼び起こしたのだろう。そしてしかも、私はその出来事をただ思い出しただけではなく、遠い昔、母と私の間に、長い間忘れてしまってはいたが、親密な関係があったことに注意が向いたのである。私の家族の歴史の、出発点とも言える事件のなかに、その関係があったことに。

私は、母と自分の関係が周りの状況に触発されて少しずつ変化して行ったことを軸に、家族の歴史を思い起こした。その終端が母の葬儀であり、その発端の一エピソードが冷たい牛乳である。過ぎ去った経過の事実を変えることはできないが、その意味を考え直すことはできる。それは、自分の生きてきたことの意味を考えことにもつながる。

昨日、四十九日の法要を寺で行った。父が抜け、母が抜けた家族で。家族と言ったが、解体してしまった家族であろう。父母を中心とする家族は母の死によって最終的に解きほどかれたのだから。

近々、納骨をおこなう。
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