てつがく村コラム

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2002-11-14 ☆ 豆類の播種

11月に入ると今年最後の種蒔きをする。来夏、5月終わりから収穫を始める豆類である。我が家では、空豆とエンドウ(スナックエンドウと実エンドウ)を蒔くことにしている。絹さやエンドウを蒔いたこともある。実がわずかにふくらんだときに、さやごと食べるエンドウである。しかし、採り遅れると、さやがすぐに硬くなるため、また、スナックエンドウと実エンドウに加えて作らなければならないほどには絹さやえんどうを必要としないため、我が家の定番にはならなかった。

空豆
11月4日にまず、空豆を蒔いた。かつて、空豆は完熟したのを保存して、おやつとして煎って食べていた。そうした名残か、父の時代には、おやつ用の粒の小さい空豆も作っていたように記憶する。わたしも最初の1年ほどは作ったが、おやつとして食べるわけでもなく、また、若い豆を茹でて食べるには、いわゆるお多福豆[実が大粒の空豆]の方が適しているので、いまではお多福豆しか作っていない。
種は最初は購入したが、それ以降は自家採取の種を使っている。自家採取するとマメゾウムシの卵が産みつけられた実が少なからず出る。常温で保存しておくと、種蒔きをするまでにマメゾウムシが孵化し、豆に穴を小さな穴をあけてしまう。比較実験をしたことはないが、穴をあけられた種の発芽や発芽後の生育はよくないように感じられる。そこで、昨夏採取した種を試しに冷蔵庫に保存しておいた。おかげで今年は、種蒔き時に穴があいてしまった種はひとつもなかった。気温が上がらぬため卵は孵化しそこなったというわけである。
発芽率を高める工夫
空豆はなかなか発芽しない。皮が硬いからである。初めて種を蒔いたのは、父が入院しているときだった。父の説明した通りに蒔いたがなかなか発芽しない。そこで父に尋ねると、「年内に芽をきりゃ[芽を出せば]、ええ」との答えだった。11月始めに播種するのだから、「年内に芽をきりゃ、ええ」とはずいぶん悠長な話である。そのときは発芽するにはしたが、発芽率はあまりよくなかったように記憶している。芽を出す前に、長くおかれた地中で腐ったのである。「多めに蒔いて、欠けたところに植え替えりゃ、ええ」というのが父の対処法であった。
しかし、どうにかして発芽率を高めたい。購入した種には、処理がしてあり、発芽が早く発芽率も高いものがある。そうでなければ、少々工夫をしなければならない。
或るとき本を調べていると、一昼夜水に浸けると皮がやわらかくなるため、発芽が早まる、と書いてあった。だから、まず播種前に種を浸水することにした。この工夫で、地中で腐ってしまう種を減らすことができる。また、欠株を移植で補う、という方法も根を傷めるのでやりたくない。豆類はまっすぐな根を地中深く伸ばす。だから、移植すると主根を切ってしまう。「切れてもまた根を出すけん、しゃぁなぁ[問題ない−「世話ない」の転訛であろう−]」と父は教えてくれた。たしかに幼苗期は回復力が強いから、「しゃぁなぁ」であろう。しかし、根を切ればそれだけ強くなる性質の作物(キャベツなどはその類である)ならまだしも、そうでなければ、無用のストレスは与えたくない。そこでポット育苗することにしている。
播種期の見きわめ
空豆の播種で問題になるのは、発芽だけではない。播種期をうまく選ぶ必要がある。早く蒔くと冬までに大きく成長してしまう。すると霜にやられて一部、黒く枯死する。消えてしまうことはまずないが、春からの成長に影響が出る。だから、冬を小さな草姿でこえさせるため、早蒔きは避ける。しかし他方、早く蒔いた方が収量があがり、また、春先のアブラムシの襲来をいくぶんかわすことができる。空豆には必ずといっていいほどアブラムシがつく。アブラムシが多いと若い豆の木は成長が止まる。だから、アブラムシの襲来期にはしっかりと成長しているのが望ましい。そのためには、遅蒔きも避けなければいけない。だからわたしは、早蒔きと遅蒔きの境界を11月3日と決めて、その日を目処として蒔くことにしている。
豆の埋め方
最後の注意点。豆は根の出る部分が決まっている。お歯黒のあたりから出るのである。だから、種は、お歯黒が下になるようにポットに埋め、また、豆の上端が土からのぞくようにする。
これほど気を使って蒔いても、空豆は来年の収穫を保証することができない。気を使うぶん好結果になりはするが、発芽率、寒害、アブラムシの虫害に関する問題は完全にはクリアできない。

エンドウ
11月6日7日には、夕方、スナックエンドウと実エンドウの種を蒔く。夏と違い、11月にもなると夕方5時には日が沈み始める。だから、暗がりの中で種蒔きをすることになる。週末をやり繰りしながらの農耕では、季節の歩みに遅れまいとすると、こうした無理な作業もときどきやらざるをえない。
エンドウは種を毎年購入している。いずれも一代交配種ではないので自家採取しても形質は変わらないはずだが、いままで試したことはない。お多福豆の種は高価だが、エンドウはそれほどでもないので、つい買ってしまう。
エンドウのうち、実エンドウは草勢が強く、収量も多い。しかし、スナックエンドウは実エンドウほどの勢いはない。いずれも1カ所に4粒ほど蒔いて、春先に1、2株に間引くが、スナックエンドウの方は冬をこえて生き残る株の数が少ない。株が欠けたり、残ってもひ弱なものしかない、ということもよくある。そして春から一気に伸びる草も実エンドウほどには繁らない。実エンドウの方は、間引かないと枝が混み合ってしまうが、スナックエンドウは1カ所に2株残しても、繁りすぎるということはない。しかし、いずれのエンドウも空豆に比べれば寒さに強いし、また空豆のようにアブラムシにやられるということもない。

忙しさの総量
豆類を蒔けば、畑での作業は11月末のタマネギの定植が残るだけである。9月から10月にかけての畑の農繁期が終われば楽になる、と秋の始まりには思うのだが、人生よくできているものである、農作業が楽になれば、「本業」の方が忙しくなる。忙しくなる、というよりは、農繁期には縮こまっていた「本業」が、農作業がゆうになる[暇になる]とそのぶん幅をきかすようになる。結局、忙しさの総量は変わらないのである。

 
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2002-11-08 ☆ 干し柿

10月20日の昼近く、干し柿にするための柿をもいだ。

柿の木
柿の木
右の大きな木が西条。木の大きさから考えて、私の曾祖父母の時代にはすでに存在していただろう。小屋の前、人(老母である)の左側の細い木は富有。(富有は、これより大きいのが別のところにもある。)さらに左の、やや太い木が品種名不明の渋柿(老母は、昔は赤シゲと呼んでいた、と言う)。この木は20年ほど前か、父が地上1m余りのところで切り倒したものの、そこから枝が出てきて、いまはいつもたくさん実をつける。柿は生命力の強い樹木だと感心する。
柿の食べ方
我が家では柿は、甘柿1種(富有)、2本と渋柿2種(西条、品種名不明)、各々1本、都合4本が畑の隅に植えてある。
甘柿は、渋が抜けてからまだ堅いうちに食べる。10月に入ってから食べごろになる。わたしはまだわずかに渋が残り、噛むと歯茎を削るかと思えるほどに強い歯ごたえのあるのが好きである。その硬質感には、秋の澄んだ冷気が柿に浸透し、果汁を結晶化させたような感覚を覚える。
渋柿は、あわせる(あわせ柿)か干し柿[吊るし柿]にして食べる。「あわせる」とは、村では渋を湯抜きすることを言う。辞典・事典を調べると、「醂[さわ]す」(さわし柿)と言うのが標準的なようである。わたしは干し柿は好きだが、あわせ柿は噛むとグシャッと崩れるような触感がどうも好きになれない。渋柿は熟柿になると渋が抜けるが、ズルッとした感触なので、さらに抵抗感がある。

隔年着果
今年は梅雨明けごろまでは、落果が少なく、豊作かと思われた。柿は隔年着果の性質がある。たしか去年は不作だったから、順番からしても今年は豊作年である。その頃は柿を見上げては、好きな甘柿をたらふく食べ、干し柿もたくさん作れる秋を楽しみにしていた。
ところが梅雨明けから干天が続くと、落果が目立つようになった。畑の作物には水不足の影響がはっきりとあらわれていた。だから落果を干天のせいだと考え、柿の秋には絶望した。
しかし秋になり、色づいた柿が葉っぱの緑から目立つようになると、不作なのは甘柿であり、渋柿のほうは豊作であることが分かってきた。渋柿の落果も少なくはなかったと思う。しかし、甘柿が好きであり、しかも、甘柿は渋柿に比べて実りにくいので、甘柿の落果ばかりに気が向いていたのかもしれない。

サズ
サズ
サズは、竹の先を割り、割れ目を少し開くために細い枝などを挟み込む。写真では、柿の右側で割れ目に刺さり、先が白くのぞいているのが、その枝である。そしてその割れ目に実のなっている枝を挟み込み、サズをひねりながら折りとる。用心しないと、枝がサズから外れ、実が地上に落下して割れてしまう。
サズの語源は分からないが、「差す」から来たのではないかと想像している。なお、抑揚は「ズ」の方を高く発音する(たとえば「山[ヤマ]」と同じである)。
渋柿の豊作に母も気づいて、干し柿にするからもいでくれ、と言ってきた。干し柿はいつも母が作る。そこで母と二人で西条柿をもぐことにした。

サズでもぐ
西条柿の木は直立性であるから、我が家の木のように高くなると、実は手の届くところにはほとんどない。だからサズを使ってもぐ。近くの竹藪から適当な真竹を切ってきて、サズを作った。長さは3mほどである。サズは、竹の先を割り、割れ目を少し開くために細い枝などを挟み込む。そしてその割れ目に実のなっている枝を挟み込み、サズをひねりながら折りとる。
しばらく採ると、サズの届くところにも実がなくなる。それからは木に登るか、脚立を使うかして、柿もぎを続ける。この日は脚立を出してきて、それに跨がった。
用意してきた箱が一杯になったのをきりに、柿もぎを終わりにした。木に登って採れば、採れる実はまだたくさんあったし、吊るし柿はたくさん作りたいと思っていた。しかし、皮を剥く手間とか、午後崩れてくる空模様を考えれば、終わる潮時だった。

もぎ取った実は枝の一部を残しておく。皮を剥いたあと、藁縄にその枝を引っかけて干すためである。なお、皮は乾かして沢庵漬けの材料に使う。柿の皮を加えると甘味が増すからである。

干し柿は彼岸を過ぎてから
隣のおばあさんによると、秋の彼岸を過ぎてでないと干し柿は作ってはいけないそうである。実際、まだ暖かいうちに柿を干すと、表面に青かびが発生する。しかし、彼岸を過ぎてから、というのは、青かび防止のためだけではないように思う。
秋の彼岸が過ぎる9月下旬まで、柿は春、夏を経て約6カ月間かけて成熟する。食用にする果肉は種の、いわば身体である。果肉はその6カ月間、養分を土から吸い上げ、光から浴び取って、成長しつつある種を守るため、そのまわりに蓄える。
ところで、9月中は、果皮は青みが残っており、果肉も十分に充実していない。甘柿の富有は、9月中は渋みがまだ強い。実際、甘柿の中には日照条件によって、甘柿になったり、渋が抜けきらなかったりする、不完全甘柿と称される品種がある。西村早生がその類である。暖かい地方でないと完全甘柿にならないそうである。とすると、甘味は柿の受けた光の精髄であり、完全甘柿では(富有も完全甘柿である)、実の中で光が飽和状態になったとき渋が抜けきる、ということであろう。果肉が光を、種子の身体として必要な期間、必要なだけ浴びたとき、渋が抜け去る、ということであろう。だから、甘柿に残る渋みは、おそらく成熟の、むしろ未熟さの、指標である。

干した柿
蔵の前に干した柿
早生晩生の違いはあるかもしれないが、同じ時期の西条柿も事情は似たようなものであろう。すると、彼岸を過ぎたすぐよりも、10月に入り、果皮が柿色に色づき、しかも果肉がまだしっかりと堅いころが、もぎ時と言える。だから、彼岸を過ぎてから干し柿を作れ、ということは、柿の実が成熟の極に達し、命の種を守る6か月間の営みの蓄積がまだそっくり生きているときが、干し柿作りの時節である、ということであろう。

光と土の精髄
成熟の極を過ぎると、やがて腐熟し熟柿となる。果肉は、身体としての役割を終え、今度は崩れ落ちて、未来の命で充実した種を地上に降ろす。とすれば、干し柿は、腐熟をくい止めて、果肉に蓄えられた土と光の精髄を冬に向けて保存する手段だ、ということになるのかもしれない。
秋から初冬にかけての冷たくて短い光を受けながら、柿はさらに成熟を深める。ゆっくりと無理なく水分が抜けていくと、精髄の精髄だけが硬く黒ずんだ表皮の中に残る。甘味が増す。十分に乾いたあと、箱などに納めておくと、表面に糖分が白く吹き出す。熟成した干し柿は、寒い冬を生きるわたしたちに、強い光の夏の粋を味わわせてくれるのである。

 
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2002-10-17 ☆ バレエ・スタジオ アンダンテ

先週、木曜日の夜、O君から電話があった。「先生、土曜日の夜、お暇ですか?」O君は、かつて、わたしの大学院のゼミの常連であり、現在は札幌にあるH学園大学で専任教員をしている。専門は映画論。日本映画に詳しい。彼が夜の都合を訊いてくるとすれば、目的はひとつ、酒を飲もう、ということである。「うん、暇だけど。」とわたしは答えた。
彼は広島大学の東千田キャンパス(広島市内)で開催されている美学関係の学会に出席するため、広島に来ていた。「じつは、Hさんがいよいよバレエ・スタジオを開くことになったそうなんで、一緒に飲もう、ということにしたんですよ。」「あ、そう?」とそっけない言葉を返しながら、心では彼の勘違いだと思っていた。勘違いにしても、久しぶりに会う彼と酒を飲み交わすのは楽しみである。「じゃ、土曜日の夜は空けとくよ。」そう言って電話を切った。

Hさんもゼミの常連であった。しかも、わたしのゼミの、第1号の受講生である。いまでも彼女がはじめて研究室に入ってきたときのことを覚えている。学期始め、午後1コマ目の時間が始まる前、ポニ−テ−ル(だったと思う。クラシック・バレエをする女性はなぜか長髪が多いと感じるのは、わたしの思い込みにすぎないのでしょうか)の女の子が部屋に入ると、「先生の授業をとりたいですけど」と小さな声で用件を告げた。「えっ、ぼくの授業?専門の授業なら別の時限だよ。」大学院の授業はその学期から担当を始め、しかも、わたしが属する教育科目にはわたしの授業を受けにくるような学生はいなかったので、大学院のことは意識にはなかった。それにその時は、午後2コマ目の一般教養の授業に心は向いていた。「大学院の授業なんです」と彼女は言い加えた。「大学院?」「そうです。この時間にある大学院の授業です。」彼女に教えられてはじめてこの時間帯は大学院の授業をすることになっていたことを思い出した。
彼女は当時、修士論文を準備していて、受講の動機を、メルロ・ポンティの身体論に興味がある、と説明した。(彼女の指導教官が受講するように勧めた、と説明したようにも記憶している。)その学期の受講生は彼女ひとりだったので、彼女の関心に沿って、『知覚の現象学』の一部を読んだ。その学年度末に彼女は「上演芸術としての舞踊についての考察−踊り手と観客の間に成立する身体的つながりを軸に−」と題する修士論文を提出した。むろんその論文にはメルロ・ポンティについての言及もあった。彼女はそれ以降、博士課程に進学し、修士論文のテーマを発展すべく研究を積んだ。
彼女の場合、「舞踏」とはクラシック・バレエである。彼女の研究で独特なのは、彼女自身、6歳の時からクラシック・バレエを習っていて、論文執筆当時から広島市でおそらくは最大であろうバレエ・スタジオで指導者の立場にあった、ということである。すなわち、理論的研究の背後には長くて深い実践経験があった、ということである。だから彼女にとって、理論は実践を意識する場であり、実践は理論の試金石であったのだろう。理論と実践の幸せなバランスが彼女の中では成立していた。
しかし、そのバランスもいつかはどちらかに傾かざるをえない。学生というモラトリアムを過ぎると、人生の進路をいずれかに振らざるをえない。博士課程に、学位論文執筆を試みた半年の休学期間も含めて、5年半在学したのち、彼女は学生時代に1年間ペルミ(ロシア中西部にある都市)に留学してまで研鑽した実践としてのバレエを選択した。そして、バレエの指導者の道を進む決心をしたのである。

土曜日、約束の場所に行くと、O君とHさんに加えて、Gさんもやってきた。Gさんは以前、O君とHさんの所属していた講座の事務室にいた。てきぱきと仕事をこなす利発な(しかも、かわいい)女性である。それがゆえに、講座事務室での仕事は物足りなかったのかもしれない。いまはプログラミング関係の会社で働いている。Hさんとは年齢的に近い(同年齢?)ためもあり仲がいい(とわたしは感じている)。だから、O君が誘ったのかもしれない。
わたしはO君の電話を受けたとき、Hさんの独立は彼の勘違いではないか、と思った。大学院を離れてからHさんは教室を開いていた。彼は広島から遠く離れた札幌に暮らしているので、そのことを独立と思い違ったのではないか、と推測したのである。しかし、Hさんから教室案内のチラシを手渡されたとき、わたしの方が間違っていることが分かった。
O君とGさんは二人で、Hさんの門出を祝って花束を用意してきていた。勘違いと高を括り手ぶらで行ったわたしは、いくぶん居心地が悪かった。

その夜、主役はむろんHさんであった。酒宴が進んだあるとき、O君がわたしに向かって「先生、Hさんは[舞台に立つと]すぐに分かりますよね。他の人と踊りが違う」と確かめるように訊いた。わたしは「うん」と煮え切らない言葉を返した。「やっぱり、他の人とは違うよ」彼はHさんに向かって繰り返した。
煮え切らなかったのは、O君の意見に反対だったからではない。Hさんの所属していたバレエ・スタジオは毎年夏に年一回の発表会をする。その度に彼女からチケットをもらい、いままで6年連続して彼女の踊りを観ている。彼女は、発表会の最後の演目で、いつも主役、ないしは主役に準ずる役を演ずる。彼女のスタイルといったものをたしかに感じていたのだが、O君の問いかけに即座に答えられほどには、そのスタイルを明確に意識していたわけではない。だから煮え切らなかったのである。
いま改めて考えると、彼女のスタイルは一言に言えば、優雅と表現できるだろう。優雅であるのは、彼女の身体の静態的な特徴によるところもあろう。しかしスタイルとは、つまりは所作である。動態的な身体である。だから、優雅は、彼女の場合、所作の柔らかさと緩やかさとに分析することができる(と思っている)。
彼女は普段は真面目で控えめである。細心なほど生真面目で、ときにこちらが苛立つほどに控えめである。その彼女がいったん舞台に立つとまさに豹変する。舞台人の特性なのだろうが、どんな色にも染まる。真面目で控えめな、いわば目だない人柄であるがゆえに、どんな役にでもなりきることができる、ということかもしれない。その役を優雅なスタイルでこなす。わたしはそんなバレリーナとしての彼女のファンである。
わたしにとっていまでも鮮明に記憶にあるのは、(演目名は忘れたが)コケットな役柄を演じたときのことである。コケトリとエレガンスはたぶん相性がいい。そのふたつが彼女の演技においてこの上ない融合を実現したのである。普段の彼女にはまず想像できないペルソナであるがゆえに、いっそう印象的であった。

若い人が、それも親しい、友人のような人が、人生に向かって船出していくのを見るのは、掛け値なしにうれしい。数年前、O君が札幌に旅立ったときもそうであった。そしていまはHさんである。飲みながら話していると、彼女からは強い決意のようなものが感じられる。航路はけっして穏やかではないから、決然とした態度が彼女には必要なのである。
舞台姿の彼女を思うと、指導者としての彼女も彷彿としてくる。舞台は彼女に普段とは違うエネルギーを注ぎ込む。そしていま彼女の立っているのは、建物の中の狭い舞台ではなく、人生という未知の、果てしない可能性にみたされた舞台である。指導者として決意してその舞台に立つ彼女を、実践上のたゆまぬ研鑽と理論上の深い探究とが、人生の、たくましくも優雅な演技者にしてくれる。そうわたしは信じている。

呑兵衛のわたしは、その夜もいつものように、宴がたけなわになるころには、友たちと話すよりは酒と話すことが多くなった。しかし、その夜はいつもと違い、Hさん主宰の「バレエ・スタジオ アンダンテ」のチラシを繰り返し見ていた。

最後に、「バレエ・スタジオ アンダンテ」の宣伝をしておきます。(「バレエ・スタジオ アンダンテ 生徒募集」のチラシから引用。)

バレエ・スタジオ アンダンテ

□□広島市中区上幟町3−23吉岡ビル2F
□□п@082−222−7084
□□講師 播野尚子(はりのなおこ)

生徒募集

バレエ・スタジオ アンダンテでは、只今生徒を募集しております。初めての方はもちろん、お子様から大人の方まで、丁寧にご指導いたします。

なぜ「アンダンテ」か、ですって?彼女の指導方針、とぐらいに答えておきましょう。
なお、男性は募集対象にはしないそうです。男性と女性の踊り方は違うので、技術的に指導は無理だ、ということです。(Hさん、じゃなくて播野さんに教えてもらったところによると、女性でも男性の踊りを指導できる人はいる、とのことです。)

 
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2002-10-04 ☆ 秋吉台

先週末は、農作業をせず、子どもと一緒にキャンプに行った。
小学校は、9月28日(土)が運動会だったので、9月30日(月)は代休となった。そこで、わたしは月曜日に有給休暇をとり、29日と30日に一泊二日のキャンプ旅行に出かけた。今日は、その旅行でのことを二三、綴ってみたい。

キャンプ地は、秋吉台にある秋吉台家族旅行村オートキャンプ場(山口県美祢[ミネ]郡秋芳町)である。秋吉台は、ご存じのように、日本最大のカルスト台地であり、大鍾乳洞「秋芳洞」がある。わたしが最初にここを訪れたのは、小学校の修学旅行でであった。当時は広島から秋吉台に行こうとすれば、バスと汽車を利用して、1泊はしなければならなかった。だから、小学校の修学旅行で立ち寄るには適当な遠さにあった。しかし、いまでは山陽高速道を2時間で駆け抜け(時速80kmで計算)、一般道を30分も走れば着いてしまう。当時のわたしよりも低学年である小学生の子どもを助手席に乗せ、ハンドルを握っていると、月並みながら、やはり隔世の感を抱かざるをえなかった。

秋の色は彼岸花色
高速道を美祢インターチェンジで降りると、農村地帯を走る。乾いて透明な秋の日差しを受けて、燃えるような彼岸花があちこちに目立つ。「てつがく村」に比べると数が多い。村では彼岸花の赤は秋色のアクセントにすぎないが、ここでは熟稲色とともに秋を構成する主要な色となっている。
目に鮮やかな花に促されてであろう、助手席から子どもが「あの花、なんて名前だっけ?」と訊いてきた。「彼岸花。」すると子どもは、「あの花、毒なんよね。」と尋ねるように続けた。わたしはフグの毒と比較しながら、彼岸花の毒性を簡単に説明した。「○○ちゃん[同じクラスの女の子の名前]が言っていたんよ。○○ちゃんって物知りだね。」わたしは5月に畔に一緒に植えた球根が彼岸花だと教えると、子どもは、そうなん、と驚いたような返事をした。○○ちゃんに毒だと教えてもらう以前に自分は、それと識らず、彼岸花に触れていたのだ、といった驚きのようだった。「でも、色はきれいだね。」と子どもは付け加えた。
「てつがく村」でも何度か彼岸花に言及したが、9月になると、田舎に暮らす者にとって彼岸花はいやでも目につく。その赤色を、大人はなまじ知識があるがゆえに、きれいだがどこか毒々しい、と表現したりする。わたしも、5月に「彼岸花」と題したコラム記事を書く前は、彼岸花に対してずっと両義的な感情を抱いていた。その感情に含まれている否定性が審美的意味での肯定性を押さえ、その結果、存在論的な意味を思いつくことができなかった。しかし、子どもは強く自己主張する赤にそのまま反応する。少なくとも、子どもの言葉を聞いた時には、そう感じた。たぶん、わたしとても小さい頃には、毒々しいと思いもせず、赤の鮮やかさに心惹かれていたのだと思う。だからこそ大人は、彼岸花は毒だ、と子どもに対して繰り返し警告するのだろう。
曼珠沙華はなぜに人を惹きつける色の花を咲かせるのか。毒は自らを守るためであり、毒殺した動物を栄養とするためではない。そもそも曼珠沙華の毒には人間を死に至らしめるほどの強さはない。とすれば、彼岸花は生きている人間をそのまま引き寄せようとしている、とも言える。人間と彼岸花の関係は、まず惹きあうことから始まったのではないか。子どもの言葉からそんなことを考えながら車を走らせた。

畑としてのドリーネ
キャンプ場はきれいに整地された山の斜面にあった。場内にはオーナー農園と体験農園があった。体験農園の方は利用されていなかった。しかし、オーナー農園(貸し農園である)の方は作物が植わっていので、利用者がいるようであった。いずれの農園も、不思議なことに窪地にあった。だから、日当たりのいいところはキャンプサイトに整地し、サイトには不適なところを活用するために農園として貸し出しているように見えた。日陰を農園として貸し出すなど、計算高い、しかも人を馬鹿にしたやり方だとさえ思った。
しかし、窪地に降り行き説明板を読むと、なぜそこが畑になるのか分かった。窪地はカルスト地形に特有のドリーネである。石灰岩は雨に浸食されて、窪地を作る。窪地には石灰岩から溶出した栄養分を含んだ土壌が堆積する。すなわち、ドリーネの底は肥沃な土壌であり、それがゆえに、畑として利用されてきた。
日本の土壌は、火山灰から構成されているため、一般に酸性土壌である。しかし、ドリーネ畑は地のままで野菜栽培に適したpHが保たれているということになろう。どんな土壌であれ、苦土石灰などで酸度を矯正し、化学肥料を撒いて富栄養化する近代農業と違い、かつては、本来の土地が畑に適していれば、たとえ日陰であろうと、そこを利用していた、ということなのか。だから畑作の仕方がそのままその土地の風土を反映する。
わたしもドリーネで農耕してみたい、と思いながら、貸し農園を覗いてみた。畑の条件としては独特なので、栽培品目も独特かとわずかに期待したが、1区画が2m×5mの畑は、どれも似通った、しかもありたりの作物が育っていた。少し毛色の変わったものは、ナタマメであろうか。巨大な莢がいくつもぶら下がっていた。文字通り猫の額ほどの区画であり、しかも、いわゆる市民農園であれば、期待するのが無理であろう。それでも、ドリーネ畑は想像力を刺激する。石灰岩の養分を含んだ土壌に育つ野菜の種類や味、それらを食べる人びとの体質と気質等々。違う身体の感覚さえ覚える刺激である。ありきたりのオートキャンプ場の片隅で、久しぶりに旅の異文化体験をあじわった。

暗い時をこえて泳ぐアカモチ
翌日、型通り秋芳洞を訪れた。子どもは鍾乳洞の大きさに終始興奮気味であった。
秋芳洞の入り口は、洞窟を流れ出てくる川が淵を作っている。覗き込むと、わずかに白く濁り青みがかった水の中に何匹も魚が泳いでいた。「あっ!魚がいる!」子どもが叫んだ。「ヤマメかな」と口から出まかせを言いながら、よく見てみると、ハヤであった。
村の小川にもハヤがたくさんいた。村ではアカモチと呼んでいた。アカモチ以外に、ドロッパチと呼ばれる、ぬるぬるした感触の魚と、ボンコチ[ドンコチ]と呼ばれる、ナマズのような魚がいた。ドロッパチは泥色とぬるっとした感触のゆえに嫌われた。ボンコチは数が少なかった。子どもたちは、だから、スマートな体躯のアカモチを狙って、釣り糸を垂らし、網をすくった。しかし、素早い動きのゆえに、網ですくい上げるには、コツが必要であった。なかでも、ベンケイと呼ばれる年老いたハヤは子どもたちの垂涎の的であった。ベンケイは体は大きく、顎はごりごりとした突起があり、赤みがかっている。村の小川はどこにでもある小川であった。どこでも見られたように、魚が泳ぎ、子どもたちが遊んでいた。
しかし、その小川はいまはただの排水路と化している。底と側面の三面をコンクリートで固められ、浅く早い水が流れるだけである。水の生き物たちの住処である、深くよどむ水がない。魚の気配はなく、子どもの姿もない。
「あの魚はハヤじゃ。子どもの頃は、アカモチよおったんじゃけどね[言ってたんだけどね]。」と子どもに説明した。何匹も泳ぐハヤの中には、ベンケイもいた。もしかしたら小学校の修学旅行でこの洞窟を訪れたときも、やはりハヤは泳いでいたかもしれない。わたしたちは「おい、見いや。ベンケイがおるど!」と目を光らせて叫んだかもしれない。それから、ひやっとする冷気と恐いような興奮に身を震わせながら、暗い洞窟の中に入っていた。その同じ洞窟からいまも変わらず流れ出る水の中にハヤが泳ぐ。そして、今度は、ハヤを触ったことのない息子が食い入るように魚を見る。異時間体験、タイムスリップである。

ふたたび曼珠沙華
秋吉台をドライブして帰路につくと、子どもは言葉少なになったかと思うと眠りはじめた。来るときは高速道路を美祢インターチェンジで降りたが、帰りは、美祢よりひとつ広島よりの小郡インターチェンジから高速道に入ることにした。高速道までは、来たとき同様、農村地帯を走る。やはり彼岸花が多い。田圃の畔といわず、川の堤防、人家近くの崖の斜面など日常的な生活圏の所々方々に彼岸花が咲いている。曼珠沙華は救荒植物でもある。畔の飾り程度の曼珠沙華では、はたして救荒に役立つほどの量があるかと疑問に思うが、ここまで多いと、救荒植物であることに納得させられる。
曼珠沙華の花は結実しない。咲けば燃え尽きる。燃え尽きれば、そこから細長い葉っぱが湧き出る。その花と葉のもとには白い鱗茎が埋まっている。それが曼珠沙華の命の種である。だから、曼珠沙華は自分以外の手を借りなければ、移動し広がることはできない。土砂崩れで移動したり、露出した鱗茎が洪水などで遠く流されたりすることもあろうが、ほとんどは人によって移動した。遠い昔を思えば、人は海を渡り、山河を越えて移動するとき、穀物や野菜の種とともに曼珠沙華の鱗茎も携えた。定住してからは、生活圏の範囲内で殖やした。そして、秋が巡り来ると花の赤を楽しんだ。人と曼珠沙華は、光の中では炎の花に結びつき、深い闇の中では、白い鱗茎で命を交換する。だから、やはり、両者は惹かれあったのである。そして、いまでも惹かれあっている・・・
彼岸花の中を走りながら、わたしはずっと曼珠沙華のことを考えた。

 
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2002-09-24 ☆ 初秋、畑の農繁期

農繁期の里程標
8月終わりから10月始めにかけては、畑作の秋の農繁期である。その農繁期の里程標となるような野菜がある。8月25日過ぎに蒔く白菜(育苗)、9月10日の大根、9月21日のタマネギである。
白菜
白菜は9月始めまでに蒔かないと、白菜にならない。結球しないのである。昨年、我が家ではダイコンサルハムシに食害されて育苗に失敗した。そこで9月18日に直播きしたが、ほとんどが結球しなかった。実験したことはないが、おそらく9月の最初一週間が過ぎるころが結球の臨界点であろう。
白菜は育苗する。虫害、とりわけダイコンサルハムシの食害を避けるためである。5mmにみたない黒光りする甲虫は、まるで鋭い嗅覚でももっているかのように、どこからともなくやってきて白菜にとりつく。育苗中にハムシを防ぐためには、農薬かネットを使用する。農薬は育苗床をとりまくように地面に撒く。すると白菜の食害は防げる。ハムシは地表を伝って近づく習性があるからだろう。わたしは農薬の代わりにネットを張って侵入を防ぐ。しかし、ネットと地面の間にわずかの隙間があったり、ネットに小さな穴が開いていたりすると、確実にハムシは侵入する。去年はネットを密閉していなかったために、ハムシの侵入を許してしまったのである。
移植すると強く発根すると言われるキャベツ類とは違い、白菜はむしろ移植を嫌う。だからできれば直播きの方がいいのだが、以上のような事情があるので育苗する。8月終わりに播種すると、9月10日頃には、本葉4枚の、定植すべき大きさになる。定植してからもハムシとの戦いは続く。今度は農薬を使わなければ、手作業である。我が家では、朝晩、白菜にとりついているハムシを取る。放っておけば、せっかく育苗した白菜は穴だらけになる。しかし、虫とて命である。できれば殺したくはない。そこで、取ったハムシを水をいれたバケツに入れ、井手に流す。流れ着いたところで生きろよ、と心で祈る。もっとも、水量が多く激しいときは、生存率もいかほどかと思われるので、心休めにすぎないだろうが。
ハムシは9月下旬になると少なくなる。だから、今年は意図的に白菜の播種期を遅らせ、9月3日蒔きとした。定植したのが9月21日だから、育苗中にしっかりと防除すれば、ハムシの害はほとんどない。ところが、今年はなぜかそのハムシの姿が見えない。普通なら、育苗中にもネットにとまって中をうかがうのだが、今年は見ることがなかった。夏に雨が少なかったせいか、とも考えてみるが、真相は分からない。
大根
普通、8月に照っても、9月になると秋雨前線の影響で雨が降り出す。秋の農繁期は、間歇的に降る秋霖が次第に大気と大地の熱を冷やしていくなかで種を蒔いて行く。8月に乾いていた畑を潤すように9月始めに降る雨を「大根雨」と言う。その雨のあと、9月10日を目安に大根を蒔く。ところが、今年はその「大根雨」がやってこない。しかし、9月に入ると、さすがに朝晩の気温が下がり、早朝、野に出ると、滴るような露が降りている。畑も窪んでいるところでは、表面が湿っている。畝は乾燥しきっているように見えて、鍬で5、6cmも掘ると土は湿っている。そこで9月12日の夕方と9月14日に準備しておいた畝に大根を蒔いた。
大根はこの時期は3日ほどすれば発芽する。9月の気温と土の湿り気が、発芽に最適な状態にあるのだろう。だから、蒔き床に灌水してから蒔くなどという手間は普通かけない。しかしさすがに今年は、幅15cm、長さ120cmほどの蒔き床毎に杓一杯の水をザーッと撒いてから種蒔きを始めた。手間をかける人は、播種後さらに朝晩灌水をするのだが、わたしは放っておいた。それでも3日くらいから発芽が始まった。最初に蒔いた大根がぼつぼつ発芽し始めた9月16日、待望の雨がやってきた。12日と14日とはたった2日の差であるが、発芽開始後と発芽前の雨は2グループの大根の発芽に顕著な差を生じた。最初のグループは発芽を始めた時に雨に叩かれたり、虫にやられたりして、欠株が目立った。二番目のグループは、雨のおかげで斉一に発芽した。わたしは丁寧に種蒔きをする方だと思うが、そして、そのため発芽率も高いと思うが、自分の小さな思慮をこえた自然の動きで、その自分の手が狂わされてしまった。自然相手とは言え、その動きをうまくかわせなかったのは、やはり悔しい。悔しがるようでは、「自然農法爾」の域にはまだまだ遠いのかもしれない。
タマネギ
タマネギは9月21日頃を目安に蒔く。9月20日より前には蒔かない。また、25日までには蒔くようにする。ひとつは春の薹立ち、もうひとつは、定植時の苗の大きさを考えるからである。この頃のF1種は品種改良で薹立ちが少なくなったが、それでも年内に成長しすぎると、薹が立ちやすくなる(薹が立ったタマネギは、芯が固くなり、食用にならない)。早蒔きすると大苗ができてしまう。そこで9月20日より前には蒔かないのである。定植苗は、葉が2枚半、茎の太さが7mm程度のものが理想である。これより小さいと冬の寒さにやられる。そこで、小苗は育苗床に残して2月に定植し、小球を収穫することになる。定植に十分な苗を作るには、だから、薹立ちの臨界日を過ぎるとできるだけ早く蒔く方がいい。秋の種蒔きで1日の差は、冬の成長で1週間の差になるからである。
年により温暖の差があるので、杓子定規にこの播種日を適用できない、というのが冷静な判断であろうが、わたしを含めて周囲の人は、人によって1日ほどの差はあるにして、経験則でしかないタマネギの播種日をかたくなに守っている。そのような態度を非科学的であると言って一蹴してしまうこともできるかもしれない。しかし、農耕をするとき、わたしたちは科学的真理の世界には生きてはいない。季節巡りと共に織られる、様々ないとなみの織物を生きているのである。ひとつの編み目を織り急ぎ、織り遅れれば、織物全体のバランスが崩れてくる。ひとつの編み目はその時節に織られるべきなのである。その結果、その網の目が多少小さくとも、織物全体としては形が整う。そんな編み物を生きているのである。そして、主要な「蒔きサゴ」(播種適期)は、いとなみを織る、いわばチェックポイントの役割を果たしている。少なくともわたしはそのように考えているので、いくつかの「蒔きサゴ」はかたくなに守り、それら里程標の間に色々な野菜を蒔いている。

9月21日は仲秋の名月。その日に合わせて、今年はじめての子芋を掘り上げた。夏の乾燥で葉は成長が止まり、さらには枯れたりしたものもあったが、掘り上げた株は、大株を選んだにしても、予想以上のできだった。吝嗇なわたしにしては太っ腹になり、4株も掘った。1株は従姉に、1株はたまたま広島からやってきた弟に、半株は老母に配り、そして残りの1株半は我が家にもって帰った。途中、暗くなった山道でススキを取った。その夜、残念ながら外は曇っていたが、部屋にススキを飾り、子芋を茹でた。わたしは若い子芋を茹で、醤油を少しつけて食べるのが大好きである。そして、芋類が大好物の子どもはと言えば、仲秋の名月の説明は上の空で聞き、ひたすら子芋を口に運んだ。
23日の秋分の日を過ぎれば、秋の日は釣瓶落としである。相変わらず雨量は少ないが、さいわい気象の変異は呑みこんで、季節はうねり、着実に巡っている。寒くなるにつれ、子芋は甘味を増すであろう。10月に入れば、農繁期に蒔いた野菜が、人参や大根の間引き菜に始まり、夏の端境期を終わらせるだろう。秋から冬にかけての短日と寒さのなかで生育する野菜たちがわたしたちの命を育んでくれる季節はもう間近である。

 
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