サイト内検索
ひろば(BBS)
メール送信
てつがく村の入り口に戻る
            
> 農耕の合間に >
 
 
2005-08-12  自然農法再考

《自然畝では以前からわずかながら肥料を使っていた。しかし、その程度の施肥では作物によってはうまく育たない。私は不施肥という自然農法の原則のひとつを破り、作物と状況に応じて施肥する農法として自然農法を考えることにした。》
−省力的な農法としての自然農法−成果の上がらぬ自然農法−不施肥?−穴施肥

(クリックで画像の拡大)
 トマトは、自然農法で最初から一応の「成功」を収めている作物である。
 このトマトは元肥の他に、追肥を一度施しただけである。茎が細く、実が小さいのは、追肥が足りないせいである。一度しか追肥しなかったのは、ただただ、その時間的余裕がなかったため。こまめに追肥してやれば(ただし肥料のやりすぎはトマトには禁物)立派なトマトができるはずである。(追肥には発酵鶏糞を使っている。発酵鶏糞は即効性だから、追肥にも向いている。)
 なお、トマトは普通トマトを20本、調理用トマト(小ぶりで皮が硬く、甘味が少ない)20本を作っている。手前は普通トマト。

(クリックで画像の拡大)
 ピーマンも比較的「成功」している作物である。元肥と追肥一回でこの姿である。
 なお、トマトもピーマンも種から育苗している。
自然農法を試みはじめて今年で五年目になる。


省力的な農法としての自然農法
自然農法に興味を抱いたのは福岡正信氏の『わら一本の革命』を読んでからであり、また自然農法の実践(むしろ実験)に強く傾いたのは、氏に影響を受けた川口由一氏の講演を聴いてからである。だから、私にとっての自然農法は、両氏が提唱するそれである。

自然農法の基本は、不耕起、不除草、不施肥であり、その思想は、何もしなくても、より正確には、自然を手助けするだけで、作物は育つ、というものである。

自然農法に惹かれたのは、ひとつは、思想上の理由によるが、もうひとつは、自然農法なら手間がいらないだろう、という、時間に余裕のない、通いの兼業農家の期待もあった。作物を作るには、まず畑を全面耕起して、畝立てをする。耕耘する前に、たいていの場合、除草をしなければいけない。作物を植えつけたあとは、除草や追肥の手間がいる。草と作物が共存共栄することはあり得ない。除草しなければ、作物は草に負けてしまう。とくに夏の間は草の勢いは凄まじい。作物は発育不良になったり、ひどい場合は、草のなかで消えてしまう。百姓は草との戦いというのは、比喩ではなく現実そのものなのである。だから、耕起と除草が省ける農法は、私にとって夢の、あるいは魔法の農法であった。


成果の上がらぬ自然農法
自然農法は三年ほどすると軌道に乗る、と聞いていたので、最初の一、二年は作物の出来が悪くても、過渡的な現象と考えていた。耕さなくても、草の根が地中を「耕す」ため、最初は土がしまっている畝も次第に柔らかくなり、さらに、枯れた草などが堆肥化して土が肥えてくる、と、本を読んだり講演を聴いたりして膨らませたイメージが現実化することを期待していた。しかし、土は一向に膨満になる気配はないし、作物は栄養不良で貧相な姿を晒すだけである。

自然農法の「信者」ならば、それまでの化学肥料を使った農法の「毒」が抜けきっていないためであり、自然がその「毒」を消してくれるのを待つべきだ、と言うかもしれないが、私はそれほど気長な人間ではない。「百年河清を待つ」ことはできない。


不施肥?
成果があがらぬ自然農法の四年間で私をとくに縛っていたのは、不施肥という原則であった。「わら一本の革命」とは、田圃でできたものは「わら一本」でも田圃の外に出さない、という思想であり、逆に言えば、田圃の外から肥料などを投入しない、という思想である。このように人為を排しても田圃は自然に肥え、十分な実りをもたらす、というのである。ところで、この思想は、田圃と畑では同じようには実現されないだろう、ということに私は気づいていなかった。水稲栽培では、実際には、水に溶け込んだかたちで養分を外から補給している。稲は、肥料を入れなくても六割ほどの収量はある、と言われているが、それは水稲栽培の、このような事情を言い当てているのだと思われる。それに対して、畑の場合は、外から養分は流れ込まない。その場所で生えた植物などが枯れて落ちて土の上から、また、張った根によって土の中から、次第に畑が肥えていく以外にない。畑では、「わら一本の革命」は実現するとしても、時間がかかるのである。そのことに気づかず、私は施肥をできるだけ控えていた。

すると、多肥を要求する作物は自然農法では収量が上がらない。たとえばナスは施肥を控えた状態ではほとんど実をつけなかった(*)。また、ホウレン草は大きくならず、そのうち葉が縁から黄色くなった。それに対し、トマトとか豆類は施肥を控えてもまずまずの収穫はある。しかし、特定の作物だけしか作れない自然農法では、思想的にも、省力の面からしても、意味がない。
(*)ナスは二年目にわずかな発酵鶏糞を施して全株、自然畝に定植したところ、まともな実はつかず、大失敗を経験した(2003年6月2日の記事参照)。それ以来、ナスは自然畝では栽培していない。
自然農法試行四年目の去年は、自然農法を縮小しようと思いはじめた。そして実際、今春、自然農法を試行している畝の一部を慣行農法による畝に戻した。


穴施肥
ただその畝では有機農法を試みることにした。化学肥料を用いるときは、私は肥料を畝全面に撒布して耕耘していた。しかし、有機農法を試みようとした畝は狭かったので、鍬で耕起し、しかも肥料は効率的な方法で施した。穴施肥である。ナスであれば、縦横30cm、深さ20cmほどの穴を掘り、そこに有機肥料(私は発酵鶏糞を用いている)を入れて土と混和し、残りの土を戻して、苗を定植する。したがって、肥料は苗の下にのみ施されることになる。ナスはこの方法で、今年、期待していた収穫をあげている。

同様な施肥法で、自然畝にもいろいろな苗を定植した。その結果、穴施肥を自然農法で使えることが分かった。ナスは一年目か二年目に自然畝に作って大失敗していらい、慣行農法で作っていたが、今年春からの試行で、ナスさえも自然畝で収穫をあげることができる見通しができた。

私は今では、不耕起、不除草、不施肥をあくまでも自然農法の原則であり、自然農法とは、その原則を具体的な状況に応じて弾力的に運用する農法である、と考えるようになっている。言い換えれば、耕起は、作物の植え付けのために必要な最小限にかぎり、除草(ほとんどの場合は、草刈りであるが)は、作物の生育に応じて行い、施肥は、必要に応じて有機肥料を用いる、有機農法の一種と考えるようになっている。このように考えられた自然農法でも、時間に余裕のない私には、省力という点で魅力的な農法であることにかわりない。



課題はある。穴施肥を使えない作物の施肥はどうするか、ということである。菜っ葉類の栽培は、慣行農法では、肥料を畝全面に撒布して耕起する。しかし、この方法は自然畝では使えない。今のところ見通しはまったく立っていない。
 

その農法を柔軟に考えなおして、継続していこうと思っている。

 
先頭に戻る


てつがく村
depuis le 1er avril 2000