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ひろば(BBS)

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2005-07-16 ☆ 田の草取り

《除草剤は田植え後十日ほどして一回撒く。除草剤のなかった昔は、一夏に三回田圃を這ったそうだが、除草剤の普及した現在では、除草作業は省力化され拾い草程度で済む。ところが、わが家の田圃では、年来の雑草管理の悪さがたたって、除草剤撒布にもかかわらず、雑草が多い。》

今日、やっと田圃の草取りを終えた。

除草剤は田植え後十日ほどして粒剤を撒布する。代掻き後に一度、液剤を流し込んだうえに、田植え後の粒剤を撒く人も少なくないが、農薬使用に抵抗感のある私は草の多い田圃にもかかわらず、一回にとどめている。

(クリックで画像の拡大)
7月10日、雨の中を草取りしたときに撮ったもの。  プラスチック製の籠は、ベルトで腰の背に固定して、抜いたヒエを入れる。籠の向こうは、三畝弱の田圃。写真では、田の境界が分かりにくいかもしれないが、田圃は細長く、右に湾曲している。
一回でも、その後発生してきた草を丁寧に除くようにしてきた管理のいい田圃であれば、草に悩まされることはない。しかし私の場合、草が生えても放置しているので、種が多量に落ちてしまい、次の年、除草剤撒布にもかかわらず、草(我が家の田圃の場合はヒエである)がたくさん生えてくるところが出てしまう。放置している、といっても、意図的にそうしているのではなく、通いの一人兼業農家の悲しさで、ヒエがたくさん立ってくるのを見ながらも除草の時間が作れず、放置せざるを得ないのである。
ヒエがたくさん生える状況はこんなものである。普通、稲の丈がまだ小さいとき(たとえば写真の稲)、条間(稲は条状に植えられるが、その条間は通常30cmである)は空いていて、田の土とか水とかが見える。ところが、ヒエが密生すると、空いた空間がなくなり、遠目には、稲がよく育ち株が広がっているように見える。そのヒエが全部抜き取られると、その前を記憶している眼には、いやに風通しのいい田圃になったように見える、と言えば、さらに密生の具合がよく分かってもらえるだろうか。

毎年、六月後半になってヒエが目立ち始めると、今年こそはヒエを残らず退治するぞ、と意気込む。しかし、たいていの年は、ヒエ退治に取りかかるのが、前期の授業が終わり試験期間に入る七月下旬から八月上旬にかけてになる。七月の下旬になると、稲の丈は伸びて、草取りのために腰をかがめると、葉の尖った先が顔をちくちくと刺すようになる。またヒエの方も成長して、根が張ってきて抜けにくくなる。梅雨明けの炎天下でヒエ退治をするのはまさに難行苦行なのである。それゆえ、六月の意気込みもむなしく、ヒエ退治は中途で挫折し、あとは稲よりも高く伸びたヒエが実をつけ、稲刈り頃には熟した実をすっかり落として丸坊主になるのを手をこまねいて見ているだけである。こうして次年度のヒエの繁茂が保証されることになる。
しかし今年は、草取りを七月の上旬に始めた。第一回目は三畝弱(300u弱、約90坪)の田圃を、雨の中、4時間半をかけて、「這っ」た。(田の草取りをするのを、「田を這う」と言う。腰をかがめて草を抜く姿が、まるで這っているように見えるからである。)第二回目は、梅雨明け直後の昨日と今日、それぞれ午前中に、草の多い残り田を除草した。
拾い草程度の草であれば(草が少ないので、田を歩きながらぽつりぽつりと草を抜くのを「拾い草」と言う)、片手で取った草を握りながら田の中を歩くだけでいいが、我が家の田圃で草の多い場所の場合、そんな楽はさせてもらえない。プラスチック製の籠(写真参照)を腰に負い、取った草をそれに入れながら、這い進む。籠が満杯になると、一度、畦に草を下ろしに行ってから、また作業を再開する。

田を這いながら、除草剤のなかった昔のことを想像していた。昔は一夏に田を三度這ったという。除草剤を撒布しなければ、三度も這わなければいけないほど草が繁茂したのだろうか。当時の経験のない私は想像するしかないのであるが、どうも実感が伴わない。ただ今は九十歳を過ぎたおばあさんが、よく「ヒエは千倍になる」と言っていたのを思い出す。その言葉の謂わんとすることは、一本のヒエを放置しておけば、来年は千本のヒエが生えてくる、ということである。今どきの百姓は一本二本のヒエにはびくともしない。次の年、除草剤を施用すれば、千本二千本のヒエなどはたちどころに消えてしまう(ただし、2.5葉の大きさまでだが)からである。また、おばあさんは、一本のヒエでも丁寧に抜き取って焼き払っていた。おばあさんの言葉や行動からすれば、たぶん昔の草の生え方は、今しか知らぬ百姓の経験を超えているように思える。
すると、昔は田の草取りは文字通り難行苦行であったろう。それに、人が這い進みながら草を草取りをするのだから(人力で動かす簡単な除草器はあったが)、草を取れる面積は限られる。勢い、耕作面積も限られてくる。ある本で、近代化以前の日本における稲作には、中農標準化傾向があった、と読んだことがある(玉真之助『日本小農論の系譜』農文協、1995年)。中農とは二町耕作農家(専業)のことである。この傾向は、家族総出で稲作をするとして、農業機械も農薬もない時代では、二町(2ヘクタール、2万u)の耕作が限界であることを示している。
私は、その十分の一の、二反(2千u)の耕作で四苦八苦している。私には、農業機械と農薬という「力強い味方」がついているにもかかわらずである。しかも、下手な農家ゆえに、「力強い味方」にもかかわらず、田を這っている。でも這いながら思った。もしかしたら、人と牛馬の力と、それら力のわずかな延長である器械を使って農業をするという水準ぐらいが、ちょうどいいのではないだろうか。すなわち、人間のむさぼりが程よく抑えられる水準なのではないだろうか、と。それを超えると、人はむさぼりはじめる。最初のうち、自分以外のものをむさぼっている、とまだ思えるうちは幸せである。しかし、むさぼりは、少なくともエネルギーの閉鎖系のなかでは、必然的に「自分自身のむさぼり」にまで転がり落ちてしまう…
まあ、こんな推論は、「ほうとくない」(下手な、を意味する方言)百姓の負け惜しみかもしれないが。
 
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