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ひろば(BBS)

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2004年8月6日(金曜日) ☆ 畦に立って

《今日は59年前に広島に原爆が投下された日である。今年は、8時15分を畦で迎えた。》

今日は「原爆の日」。その日あたりだとは意識していたが、今日がその「八月六日」と気づいたのは朝、新聞を見たときである。中國新聞の第一面の大見出しで「原爆の日」の文字が目を引いた。

今朝は田の畦の草刈りをするつもりであった。小さいころから習慣で「原爆の日」には、原爆が投下された八時十五分に黙祷をする。八月六日だとわかったとき、草刈りと黙祷が頭のなかで絡み合い、一昨年だったか、草取りをしていた田圃の中で黙祷をしたのを思い出した。

畦の草刈りは、一カ月に一度の頻度ですると、ちょうどいい。草は伸びすぎると刈るのに難儀する。場合によっては二段刈り(根元から一度に刈るのではなく、まず高いところを刈ってから、二度目に根元から刈る方法)しなければいけないし、そもそも草丈が長いとそれだけ草刈機を動かすのに力がいる。夏は一カ月が、草が短すぎず長すぎずの大きさに成長する期間なのである。しかし、私はなかなか月一度の頻度で草刈をすることができない。いつも畦が草ぼうぼうになってから、追い立てられるように草刈をはじめる。

学校は七月で前学期が試験まで終わり、八月に入ると夏季休暇になる。二足草鞋を履く私は、試験期間が始まり、授業関係の仕事から解放され、多少の時間的・精神的余裕が生まれると、それまで手からあふれていた、田圃や畑の仕事を少しでも片づけるのに、その余裕を振り向ける。「兼業農家」をやっていると、四月から十月までの農耕のシーズンは、いつもアクセル全開で走っているような生活が続く。我が家は自給的農家なので耕作面積は狭いが、農家といっても実質的には「一人農家」。「三ちゃん農業」という言葉があるが、我が家は「父ちゃん一人農業」。だからアクセル全開でも、極小規模農業なのに方々にやり残しの仕事、さらには、結局やらないままにしておく仕事が出てくる。

今年はまだ一度も田の草をとっていない。せめて稗だけは、出穂が始まる盆過ぎまでには退治しようと思っているが、実際には、草取りのために振り分ける気力は今年はあまりありそうもない。年齢のせいなのか、二つの草鞋での仕事の、今年の回り合わせの具合なのか、ともかく気力が湧いてこない。でも、せめて田の周りだけはこぎれいにしておこうと、まずは畦の草刈をすることしたのである。

朝六時前、家族はまだ寝ていた。小学生の子どもに「今日は原爆の日なので、八時十五分には黙祷をしてください」と書き置きをした。今年は原爆投下から五十九年目である。子どもにとっては、自分が生まれる半世紀も前に起きた出来事である。たとえそれがどんなに悲惨であり、また忘れるべきではない事件だとしても、それだけでは、そんな昔の出来事のために、私は子どもに書き置きはしないだろう。私は「理念」のために祈ることはできない。だから、子どもにも「理念」のために行動するよう促すことはできない。しかし、広島への原爆投下は、私にとって、また子どもにとっても、もう生々しくはないにせよ、まだ具体的な事件である。被爆した人たちが身近にいたし、またいる。子どもにとっての祖父母は、ともに被爆している。つまり、「具体的」に祈ってほしい、と思いを書き置きにした。

自宅のある広島から車で五十分、屋敷にある小屋で着替えをして、七時過ぎに田圃に向かった。

八月上旬は、梅雨明けから二週間ほど、ふつうは安定した太平洋高気圧のため、晴れが続く。しかし今年は、先週末から続いてやってきた台風10号と11号のせいで、一週間経った今日も雲の多い空模様。そのため蒸し暑い。また、井手には、この時期にはめずらしく水が豊富に流れている。一時間ほど作業をすると、体中が汗になり、息が上がってしまった。時計を見ると、八時十五分が近かった。

ヒロシマを見る視点はいくつもある。私は一昨年と今年、農作業をしている田圃から、山の向こうにある、見えない広島の方角に、ヒロシマを見ようとしている。今の時期、田圃は稲が出穂近くまで成長している。昭和二十年の八月も、村はやはりそうであったろう。稲の背景に異様な雲が立ちあがる。新型爆弾が投下された・・・親類縁者の安否を気づかって、村から徒歩で広島に行く人がいる。両親が行方不明になった親類の子どもが連れ帰られる。稲の、その年の、その場所での、生育のさなかに、そうした出来事が起きた。私はむろんその出来事は体験していない。しかし、あの当時と同じ区画の田圃に同じように、しかし今年の、稲が生長するとき、その田圃からヒロシマを見ようとすると、からだの中からヒロシマが感じられるような気がする。それは生々しく悲惨な情景を見る感覚ではない。稲続き、水続き、地続きにヒロシマにつながる感覚、二時間前に発ってきた広島とは別でないヒロシマにつながる感覚、と言えようか。

今年は畦に立った。疲れのため畦に坐りたい気もあったが、畦に立ち、広島の方角を向いた。黙祷しているとき、とくに何も考えていたわけではない。一から六十まで数を数えていた。蒸し暑さの中、蝉の声、鳥の声を聞いていた。県道を走る車のエンジン音が耳に入ってきた。

六十を数え終わって目を開けた。すると、下の田圃の稲の緑に、自分の影が落ちていた。その影のまわりで、まだ露が残る稲が輝いた。「人の影」。一瞬その思いがよぎった。しかし、緑におちた影は、黙祷が終わると、動いた。その瞬間、ヒロシマが見えた。
 
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