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> 農耕の合間に >
 
虫に食われたフキの葉 2001-06-12

実家の近くに、駐車場として借りている屋敷跡がある。春になり草が伸びはじめたが、なかなか草を刈る時間がとれず、5月の終わりにやっと草刈りをした。車の轍のところは別として、それ以外のところは50cm程の高さに草が伸びていた。屋敷跡の奥には、桜やビックリグミが植わっており、その下にはフキがびっしり生えているところがある。そこまで草を刈り、フキは残しておいた。

数日後、ふとフキに目をやると、葉っぱが虫に食われて、穴だらけになっていた。草を刈る前は、葉はみずみずしく生い茂っていたのである。すると、刈った草の中に生息していて、それまではフキには見向きもしなかった虫が、棲息地と餌場を失い、フキに群がったのだろうか。環境の激変が、フキに災難として降りかかったというわけである。

その光景をきっかけに、いくつかのことが思い出されてきた。去年、休耕田に黒大豆(黒豆)と子芋を植えていた。黒豆のかたわらにはエノコログサが生えていた。その群生の様子が印象的だったので、生えるに任せていた。また、子芋は最後の元寄せが終わると、株の間に草が繁るままにしておいた。

黒豆が花をつけ実を結び始めた頃だったと思う。大柄のエノコログサが煩いほどに繁茂してきたので、それを刈り払ってしまった。ところが、その後しばらくすると、大豆の葉は虫に食われた。それまでは大株の黒豆は葉を青々と繁らせていた。ところが、葉を食われると、草勢が衰え、夏の後半に次第に太っていく実も、太陽に晒されて、充実しきらないものが目立った。黒豆は収穫できるにはできたが、私が作り始めてから5作目にして初めての不作であった。

子芋も夏のさなか、大きくなった株間の草を刈った。畝が乾くかもしれないので畝の半分だけ、と最初は思ったが、刈りだすと草を全部刈り倒してしまった。すると、子芋の葉が虫に食われてしまったのである。ただ、子芋は次の葉を出して勢いは衰えなかったため、収量には影響はなかった。

黒豆にしろ子芋にしろ、去年は、草の刈り払いと虫害とは前後関係の認識くらいしかなかった。しかし、今は、両者の因果関係が見えてくる。

さらに今春のタマネギである。昨秋タマネギを定植したとき、畝に切り藁を撒いた。冬に霜柱が立つのを防ぎ(霜柱が立つと、まだ根張りが十分でないタマネギは、浮いてしまう)、春になると草の生えるのをいくらかは抑えるためである。4月にもなると、タマネギは、玉はまだ小さいものの、葉数を増やし、背丈も高くなる。それとともに切り藁の隙間から芽を出したホトケノザがタマネギに負けじと伸びてくる。とうとうタマネギとホトケノザが競りあうほどになった。これではタマネギが十分に日に当たることができないと思い、ホトケノザをむしることにした。4月の晴れが続いた頃である。むしるときつい緑のにおいがする。少しは残しておかないと虫たちの住処がなくなる、と思いながらも、初めて意識するそのにおいに酔いしれるように、やはり畝の全面をむしりとってしまった。

数日後、雨が降り、また晴れ上がった。すると、それまで勢いのよかったタマネギの葉が、先の方から枯れはじめたのである。病害である。これで二度目になる。最初のときは、たしか長雨が続いた年だったが、私の農園のみならず、近郷いたるところで葉の枯れたタマネギが目立った。ところが、今回は近所にもちらほら見られたが、病害にやられていない圃場も多く、私の農園のみがひどい有り様であった。

タマネギの場合は、最初から草むしりと病害を結びつけて考えた。ホトケノザをむしるとき、大きくなったがまだ若くて柔らかいタマネギの葉を傷つけ、その傷が癒えぬうちに雨が降り、勢いを得た病原菌が傷口から侵入した、というのが私が想像したシナリオである。病原菌はどこにでもいる。病気が発生するか否かは、環境や植物体の状態による。今の場合、草むしりと降雨という環境の激変と植物体の傷とが病気の引き金になった、と思われる。

昨秋、自然農法を試験的に始めてからというもの、草との付き合い方を考えることが多い。草は根で畑を耕し、枯れた後の根は肥料となって土を中から肥やす。また、草の地上部は、積み重なった枯れ草と共に、冬は寒さを和らげ、夏は土を乾燥から守る。刈り倒したり、枯れたりした草は肥料となり、土を上から肥やす。さらに、様々な虫に住処と餌場を提供する。

草の肥料効果については実感していないが、虫が増えたのはたしかである。春の草の中には、てんとう虫などの甲虫類、蜘蛛、蛙などがいる。てんとう虫の幼虫をそれとして見たのは、今春が初めである。よく管理された、すなわち、除草の行き届いた圃場には、てんとう虫の成育場所などない。いわば沙漠である。しかし、今春は畑の中でてんとう虫が産卵孵化した。てんとう虫はアブラムシを食べる、と言われている。ソラマメにはアブラムシがつきやすいが、今まではそのアブラムシをてんとう虫が食べている様子など見たことがなかった。それほど畑の中にはてんとう虫が少なかったのである。ところが、今年はソラマメについたアブラムシをてんとう虫の成虫や幼虫が食べるのが観察された。

てんとう虫はいわゆる「益虫」である。しかし、草の中に生きているのは「益虫」だけではない。「益虫」も「害虫」も共に棲息し、もちつもたれつで生きている。様々な草が生えていれば、畑というミニ生態系でコスモスが形成され、「意見を異にするものの同意」(Philolaos)であるハルモニア[調和]が生じる。そこで「野菜」が生育すれば、それもまた異なるものたちの同意に組み込まれる。自然農法では病害虫が少ない、と言われるが、少ないのは畑がコスモスである限りにおいてである。沙漠のような圃場で野菜が作られれば、やってくる生物は、その特殊な環境に適応するものだけであり、病害虫が発生しやすくなる。また、ハルモニアが崩れるほどに環境が変化すれば、生態系において特定の生物が突出する。そのアンバランスは、人間にとっての「益植物」である野菜の生存に跳ね返る。上に語ったフキ、黒豆、子芋、タマネギが、その例である。

だからこそ、草との付き合い方が大切になる。草の生命を畑で循環させてのみ、虫たちが住みつき、地中の生物が増える。畑がコスモスになる。しかし、畑は、野菜を作るために、言わば自然状態を攪乱して作った環境である。その目的は飽くまでも野菜である。草を繁茂させれば、その中に野菜が埋もれて大きくならない。だからといって、草を生やさなければ、自然農法は成り立たない。しかも、草は「益生物」と共「害生物」をも生存させる。だから、草の茂り具合をうまくコントロールする必要がある。自然農法は、自然放任ではなく、ひとつの「農法」である。自然状態の攪乱の上になりたつ人為である。それが「自然」農法たる所以は、自然の「まねび」として農耕を行うところにある。まねびであるのは、自然はそのままで過不足なくハルモニアである、という思想があるからである。そして、まねびを実現するわざとして、不耕起、不除草、不施肥がある。農法の初心者として言えば、不耕起は徹底できる。しかし、不除草は、慣行農法とのコントラストにおいてのみ意味をもつ表現である。不除草は徹底すれば、農耕にはならなくなる。畑はいずれ、その風土に自然な遷移にゆだねられて、畑としては存在しなくなる。だから、自然農法とは、自然はそのままでコスモスである、という思想のもとに、攪乱の環境に圃場という自然を再生成させるわざの体系である。

矛盾の中にハルモニアを保つそれらのわざの中でも、草との付き合い方は諸刃の刃であることを、虫食いのフキの葉と刃先が枯れたタマネギを見ながら実感したのである。

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