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ジンクスの雨2001-08-17

昨夕、帰宅途中、志和インターから高速道に入る少し前から雲行きが怪しくなった。高速道に入ると、ときおり雷鳴がとどろき、かき曇った空に稲妻が幾筋か走った。高速道を走るのは15分程度である。広島インター手前のトンネルを抜けると、今度ははげしい雨が降り始めた。
昨日、我が農園の関係する井手では、池の水を抜いた。今夏、3度目である。この井手では、池の水を抜くと雨が降る、というジンクスがある。1度目(8月3日)のときには、ジンクスは現実にならなかった。ところが、2度目(8月9日)は、水を抜いた次の日の明け方、梅雨明け以来はじめてのまとまった雨が降り、一度はあがったものの、日中はまた雨となった。そして、今回の夕立である。旱天を恨みながら池の水を抜くと、人間の浅知恵と忍耐のなさをあざ笑うように、雨が降る。

地球温暖化という言葉をあっちこっちで聞いたり見たりしていると、暑いとついついすぐに、温暖化のせいではないか、と思ってしまう。また、雨が降らない日が続くと取り越し苦労の思いにとらわれて、温暖化が現実となる時代には、まともに稲作ができるのだろうか、と考えたりする。しかし、5年ほど前の旱魃に比べれば、今年ははるかにしのぎやすい。その年には、我が農園の田圃はなんとか収穫できたが、周囲には、半分程の稲が枯れてしまった田もいくつかあった。が、私が知っている旱魃はその程度までである。

梅雨が明けてから、休耕田の草刈りをしていた。そこはひどい湿田で、機械はおろか、牛も使えない。人間が、泥に埋まりながら田にするしかない。そのため、もう大分以前から耕作していない。長年草しか生えていないのに、田圃に入ると、足が沈み、水が浸み出てくる。どんなに照っても、乾くことはない田である。
草刈りが一段落して、上の田圃の所有者と雑談を始めた。一帯の田圃は大なり小なり湿田である。上の田圃もかなり深い[固い地盤になかなか届かない]ところがあるそうである。扱いにくい湿田の話したあとで、その所有者は昭和10年代の大旱魃の思い出を語り始めた。
「その年ゃ、梅雨からずっと雨が降らんでの。田植えをしても水がなぁもんじゃけん、稲が大けぇならん。とうとう夏になって、栃原のもんは灰が峰[標高737m]に登り、苗代のもんは、掃部城[かもんじょう 標高422m]に登って、雨ごいをしょぉゆうことんなった。みんな薪を担いで山に登り、灰が峰と掃部城で同時に火をつけた。苗代栃原だけじゃなぁ。黒瀬の方でも同じ日に山に登り、時間を決めていっせいに火をつけた。ほいじゃが、雨ゃ、降りゃせんわいの。ばっかなことよのぉ。火を燃やしても雲ひとつ出ゃせんかった。そがぁな年でも、県道からこっち側のダブ[湿田]は米が取れたんでがんすで。」(当時、「てつがく村」−苗代と栃原−は安芸郡に属していた。黒瀬は別の郡、賀茂郡の村である。)
業な[苦難をもたらす]ダブでもええことがある、とその人は結んだ。

暑い日が続き、雨が降らなければ人は騒ぐ。知恵を巡らし、山頂で火を焚いたり、池の水を抜いたり、さらに、科学的な知恵で原因を分析して、CO2の排出量を抑えようと国際的な議論を展開する。その一方で、自然は私たちの思いを裏切って、それ自身でバランスを取りなおす。
言葉の勢いで、「人間の浅知恵と忍耐のなさをあざ笑う」と書いてしまったが、自然はじつはあざ笑ってはいない。自然の働きは擬人的な表現をこえている。私にはそう思える。むろん、自然は人間を超絶した或る絶対的な力だ、と謂いたいわけではない。自然は人間を内包し、人間は自然を内側から構成する。しかし、内包されつつ構成する人間は、よく謂われるように、「自然を破壊する」ことはできない。できることがあるとすれば、せいぜい、〈人間的〉環境の破壊である。自然は、私たちが忖度するよりはるかに柔軟で強靭な存在である。自然の働きは、たとえてみれば、建造物のためにまず地盤を堅固にうち固める人の働きの足元ふかくで、地殻全体のエネルギ−の偏りを修正しようと激動し、人の働きを無にしながらも地表の混乱を支えて静止する大地の働きである。自然破壊とは、自然をあまりに見くびった表現である。
浅知恵であろうと忍耐がなかろうと、しかし、それが人間に可能な知恵であり、忍耐である。人知によるはからいを否定しさり、忍耐を捨て去ったとき、残るのは野蛮につきすすむ自己破壊である。他方、知恵の浅さと忍耐の不足とを自覚しないとき、生じるのは傲慢につきすすむ、やはり自己破壊である。浅知恵といらだつ忍耐こそが、しかも己を自覚したそれらこそが、人間に許された生存の手段だからである。

業なダブをつくる。「業」とはいまの私にはいかんともしがたい「宿命」であり、また、いまの私を生かしてくれる「恵み」でもある。はからいを超えながらも、はからいを活かしてくれることもある自然。旱天を一気に曇らせ、雷と共に雨を降らす夕立雲を見て、ふとそんな思いが頭をよぎった。

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