てつがく村の入口 | てつ人の雑記帳
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村便り:2007-02-03(節分の今日は寒い…)
投稿日:2007-02-08(木)

 節分の今日は風が強く寒かった。 昼前に家族で畑に到着。村外れの食堂(昨年夏に開店したところで、瀟洒な建物は村在住の大工さんが建て...

 節分の今日は風が強く寒かった。

 昼前に家族で畑に到着。村外れの食堂(昨年夏に開店したところで、瀟洒な建物は村在住の大工さんが建てたもの)で昼食のあと、いつものごとく、《お父さん》は農作業、《お母さん》は一週間分の野菜の収穫、子どもは野良遊び。

 夕方は5時前に畑を発つ予定なので、作業時間は限られていた。そこで予定した作業は、人参の播種、タマネギの定植、タマネギの二回目の追肥。

人参の播種
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人参の播種。この後、トンネルは裾を密封した。
タマネギ定植
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タマネギの定植。定植密度は、去年11月終わりの時に比べて二倍ほどである。
 例年、二月初旬に人参と大根をビニールトンネルの中に蒔く。露地には三月後半に蒔くので、一月半早い種蒔きである。ビニールトンネルを密封しておくと畝が加温され、冬の終わりのこの時期でも、人間と大根は発芽し生育を始める。トンネル栽培は、春の、野菜の端境期を少しでも縮めようとする工夫である。

 今日は人参だけを蒔いた。大根は一週間後に、例年とは違って、二十日大根を蒔く予定である。二十日大根は、普通大根に比べて、早く収穫できる。その点を考えての、品種変更である。

 タマネギの定植、と言うと、えっ、この時期に?と思われるかもしれない。「村便り」をお読みいただいている方(でも何人読者がいるんでしょうね…)にはご記憶の方がいらっしゃるかもしれないが、昨年十一月末にタマネギを定植したとき、小さすぎる苗は苗床に残しておいた。その苗を掘り起こして、定植したのである。去年の記事につけた写真でも説明したように、この時期に密植して定植すると、六月始めに小玉のタマネギがとれる。シチューなどに使うと便利である。

 最後に、昨年定植したタマネギに二回目の追肥をして中打ち。
村便り:2007-01-29(井手の分担金)
投稿日:2007-02-05(月)

 今日は月曜日だが、1月21日(日)に大学入学センター試験の監督をやったので、代休。大学の法人化前は、土日のセンター試験業務には時間外...

 今日は月曜日だが、1月21日(日)に大学入学センター試験の監督をやったので、代休。大学の法人化前は、土日のセンター試験業務には時間外手当が支払われていた。ところが、法人化後は、経費節減のため(だろう)、時間外手当の支給はなく、その代わり代休をとることになった。今日は授業も会議もないので代休日として選択し、百姓をした。

 農作業はあいかわらずのんびりしたペース。近々、定植予定のタマネギと播種予定のニンジン、さらに3月始め植える予定のエシャロット(*)の畝を作ることにした。タマネギ畝は発酵鶏糞と牡蠣殻石灰、ニンジン畝には発酵鶏糞と牡蠣殻鶏糞に加えて溶リン、エシャロット畝は発酵牛糞と牡蠣殻石灰を施肥して、鍬で掻き混ぜた。
(*)エシャロットとは、日本でふつうこの名前で販売されている若採りラッキョウのことではなく、ヨーロッパで栽培されている、ラッキョウとは別品種のニラ科の植物である。葉っぱの形、鱗茎の形と色はワケギに似ている。
 作業をしていると「おい!」と声を掛ける人がいた。茂みの向こうからだったので誰か確認できず、私は反射的に「おい」と答えた。見えた姿は八十歳近くになる隣の主人(Myさん、としよう)だった。私は作業を中断してその人の方に向かった。

 Myさんは井手[水田灌漑用水路]の分担金を集めに来たのだ。我が家の田んぼは三本の井手と関係しているが、そのうち、関係する家が一番少ない(現在、耕作を続けているのは五軒)井手である。Myさんはその井手頭(**)である。
(**)井手頭は、井手かかりの田んぼの面積が一番多い家が引き受けることになっている。
 村の井手のほとんどは水源が川である。山からの出水を溜める池が水源の井手もある。また、川が水源でも、途中に溜め池をもっている井手もある。Myさんが井手頭の井手(ハランタ井手と呼ぶことにする)は、水源が川で、水路が短いため溜め池はもっていない。しかし川の中流から水を取るので、普通は水量が多い。

 しかし、私が百姓を始める二、三年前だったろうか、大干ばつの年にハランタ井手も水が涸れてしまった。。そこで急遽、掘り抜き井戸を掘った。ところが、全国的に干ばつだったため、井戸の深さと水量に見合った揚水ポンプが近くでは見つからなかった。そこで、一回り大きいポンプを設置した。

 Myさんが集めにきた分担金は、そのポンプを動かすための電気代である。分担金は、現在耕作している家が田んぼの広さに応じて出すことになっている。我が家は大町[おおまち-各家で一番広い田んぼを、そう呼ぶ]の一部が関係しているだけなので、分担金はわずかである。

 私はお金を渡しながら「うちはちょっとしか権利がないのに、ようけ[たくさん]水を取るけんの」と言った。「なぁに、水はなんぼでも取りゃええんよ」と言いながらMyさんはお金を受けとった。我が家の田んぼが主として依存している井手は、田んぼの面積にしては水量が少ない。そこで、夏の水の少ない時期には、ハランタ井手から大町に水を引き、さらに、そこから、下の五枚の田んぼに水を落とす。ハランタ井手のおかげで我が家の田んぼは潤っている、とも言える。そのような違反行為を認めてくれる井手の人たちに感謝している。
村便り:2007-01-28(二回目の白菜漬の準備)
投稿日:2007-01-31(水)

 この冬、二回目の白菜漬の準備。 冬の間、二回白菜を漬けて、一月から沢庵漬が熟成する時期まで、食べる。十二月終わりに漬けた沢庵漬が...

 この冬、二回目の白菜漬の準備。

 冬の間、二回白菜を漬けて、一月から沢庵漬が熟成する時期まで、食べる。十二月終わりに漬けた沢庵漬が熟成するのは、二カ月半あと。つまり白菜漬は三月終わりまでに食べ終える。

寒害を受けた白菜
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 寒害を受けた白菜。
 外葉に守られていても、寒害でふやけて黒くなっている。
白菜を洗う
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白菜をかなだらいで洗う。
 出荷用の広島菜を漬ける風景をテレビで見たことがある。広島菜は、水が入れっぱなしになっている大きな水槽で洗われたあと調製されていた。そのときは、出荷用のものはわざわざ洗うのか、と洗わないで漬ける私流の白菜漬と比較しながら思った。広島菜は白菜とは違い、葉が開いている。その分、ゴミなどが中に入りやすい。そのために洗うのか、と考えたが、白菜漬も出荷用は洗うのだろうか?
白菜を干す
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 洗った白菜は水の切れをよくするために、上下逆さにして干した。木箱の下には外葉を敷き、白菜がもたれかかる側には背もたれとして外葉を置いた。
 二回漬けることを予定して、白菜の品種は早生と晩生を作り、一回目は早生、二回目は晩生という具合に使い分けている。

 畑から収穫してきた白菜を水場で剥がしてみて、内側の、比較的若くて軟らかい葉が寒さにやられているのに気づいた。白菜は年内に頭を縛って、外葉を《防寒服》にして、内側の葉を寒さから防ぐ。今年は暖冬であるが、それでも内側まで寒気が侵入していた。そこで寒さのため枯れたり、腐ったようになっている部分は包丁でそぎおとした。

 二回目の白菜漬の時期を早めれば寒さで傷むことは少ないだろうが(実際、十二月終わりの一回目のときは、内側が寒害をうけた白菜はなかった)、サラリーマン稼業との関係で、どうしても二回目は一月半ば以降になる。来年からは、頭を縛った上に化繊のコモを掛けてやろうかと思う。するとコモが霜を締め出すので、大分寒さが和らぐはずである。

 枯れて汚れた外葉をはずした白菜を二つに割ると、中から蝶類の幼虫が出てくることがある。平年並みの寒さなら、寒を出るまではほとんど見かけないのだが、今年は目立つ。思い切って、白菜を洗うことにした。葉の間に水を通すようにしてざぶざぶと洗うと虫と一緒にゴミも洗い出された。その時ふと、隣のおばあさんが数年前、やはり白菜をしごう[調製]していた私のところに来て昔話をしたのを思い出した。

 「昔は、白菜を亀池[我が家から緩い坂を500メートルほどのぼったところにある水田用の溜め池]で洗うて干した。」おばあさんはそう話して「昔は馬鹿なことをしよった」とつけ足した。おばあさんは歳をとるにつれて次第に自虐的になった。そして自分を含めた昔の人たちのやりかたを「馬鹿」と形容した。私は洗う理由を訊きたかったが、自虐的な言葉を聞いたせいかどうか覚えていないが、訊きかえすことはしなかった。

 亀池の水はとてもきれいとは言えない。それでも今のように水がふんだんに使える時代ではなかったので、亀池まで足を運んだのだろう。それにしても何のために洗ったのだろう?もしかすると今日の私のように虫とかゴミとかを除くために洗ったのだろうか。干すのは、水を切るためもあるのではなかろうか。

 そんな風におばあさんの話を思い出し、自分なりに洗う理由を考えてみた。
村便り:2007-01-20(あんたはカミジョウの子じゃけえ)
投稿日:2007-01-23(火)

 寒のころは緊急にやるべき農作業はないし、また外に出ると寒いので、野良に出る回数や時間が少なくなる。今日はゆっくりとしたリズムでの...

 寒のころは緊急にやるべき農作業はないし、また外に出ると寒いので、野良に出る回数や時間が少なくなる。今日はゆっくりとしたリズムでのんびりと草焼きと畑の耕耘をした。冬の農閑期ならではリズムと気分である。

草木灰 title=
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 焼け残った灰は肥料にするため空いた肥料袋に詰める。
 草焼きをするときは、まず木切れや竹を地面に並べて火をつけ、それらにある程度火が回ってから草を上に載せる。火勢を見ながら少しずつ草を重ねていく。草は湿ったものもあるが、木切れが火の持続的な供給源になり、全体として強い熱が発生しているので、時間をかければ湿った草も燃えてしまう。昼に火をつけても日没時にもまだ煙が上がっている。上から蓋(たとえば、写真左上に見える、底の破れた金盥)をしておくと次の朝には燃え尽きてしまっている(焼け土の場合は次の日でも細々と煙が上がっている)。
耕耘した畑
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 耕耘した畑。
 生い茂っていた草は一応刈り払ったが、きれいに除草したわけではない。だから耕耘した土には草の茎や根が混じっている。土が湿っているせいもあって、溝をあげるとき最初から平鍬を使うと、鍬に草が絡まり土が付着して、うまくいかない。そこでまず三つ鍬で大雑把に土をあげてから平鍬で仕上げる。休耕田を畑にする場合も同様である。
 焼く草は主として先週刈り払った屋敷の草だが、屋敷には何年も放ってある木切れなどが転がっている。そんなものも少しずつ草と一緒に燃やす。燃え尽きたあとの灰は肥料にする。

 (屋敷の)前の畑は去年のシーズンにはニンジンとトマトを作っただけで、あとは草が生えるままにしておいた。草取りをしなかったのは、去年から掛け値なしの《一人農家》になったため、手がなかっただけのことである。また、手間の配分がうまくいかなかったこともある。しかし、今シーズンはできれば畑を有効利用したいので、先週末に草刈りをして、それを燃やしておいた。そして今日は三月からのシーズンを考えて耕耘機で耕耘した。

 夕方、耕耘した畑で作業していたとき、畑の横の道を軽トラックが通り掛かり止まった。「近ごろは見んけえ、どうしたか思よぉったで。」と軽トラックの主が声を掛けてきた。近所のお兄さんであった。「まあ、試験で忙しいかの、とは思うたがの。」それからしばし雑談をした。先週のとんどのことも私は話した、「とんどは、火がついて燃えるまでおったが、餅は焼かずに帰ったしのぉ」。餅を焼けばその人と言葉を交わす機会もあったはずである。とんどが燃え落ちるまで何人かとは話をしたが、集落の世話役をしているその人はそれまではいろいろと指図をしていたので、結局、挨拶もしなかった。とんどは集落の自治組織が主催する。私は街に住んでいるので、その組織には属していない。いわば外来者である。そのことを慮ってか、その人は「遠慮せんでもええで。とんどに来いや。」と言葉を返した。むろん私は遠慮したわけではなく、その夜は都合があっただけのことである。その人は以前にも「あんたはカミジョウ[集落の名前]の子じゃけえ、遠慮なんかいんらんで」とも言ってくれた。

 都市の住民からは農村は閉鎖的だと思われがちである。じっさい外側から見ると、そんな側面はある。しかし、それは内側に裏返してみれば、都市にはしばしば欠けがちな、人々のつながりの深さである。深さは家族的と形容してもいい。ただ、そのつながりに入っていことしなれば、都会的な個人主義を貫いていては、農村で生きて行くことはできない。10年前に《帰農》してから、つくづく実感することである。
村便り:2007-01-14(とんど)
投稿日:2007-01-22(月)

 今夜はとんど。とんどは小正月の行事だから、15日が本来の日にちだが、村では1月半ばの日曜日に行なう。村の二つの地区のうち、山寄りの地...

 今夜はとんど。とんどは小正月の行事だから、15日が本来の日にちだが、村では1月半ばの日曜日に行なう。村の二つの地区のうち、山寄りの地区は、子どもの減少を理由に、6年前にやめたが、平坦部の地区は今でも続けている。私が小学校に上がる前から住み、いまも老母が住んでいる家は山寄りの地区にあるので、以前はその家のすぐ裏の田んぼで行なわれるとんどに参加していた。しかし、いまは旧来の屋敷、畑、田んぼがあるもう一つの地区でのとんどに参加している。

とんど
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皆、竹の先に餅をつけ、とんどを遠巻きにして火勢の弱まるのを待っている。
 我が家は今年は都合で、とんどに火がつけられ、燃え落ちるまでいて、餅は焼かずに帰ることにした。子どももそのことは知ってはいたが、とんどの炎が燃え上がり、それを取り巻く人たちが竹の先に餅をつけて火勢が弱まるのを待っているのを見ているうちに、自分の中にも《炎》が燃え広がってきたのだろう、「餅を焼きたい」とぽつりと言った。子どもは、小学校に上がる前に経験した山寄りの地区でのとんども覚えているようである。その頃からのとんどで、餅も焼かずに帰るのは今回が初めてである。冬の夜の闇を赤く照らすとんどの火で餅を焼くのは、大人でも楽しいものである。ましてや子どもは文字通り心踊るはずである。私は「来年は餅を焼こうや」となだめるしかなかった。

 今年はだから、燃え上がる炎の勢いが、真っ赤に照らされた身体とひとつになる感覚だけを《食べ》て、これからの一年を巡っていくことにしよう。
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