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2001-10-13  不耕起畝

耕起したあと、雨に打たれると畝の土がしまる。まさに、雨降って地固まる、である。宅地とか男女仲の場合、歓迎すべきことだが、畑となると困りものである。だから、中打ち[中耕]をする。中打ちは、三つ鍬で、ガンギの間を掻くように耕す。
父は、中打ちをすると土に空気が入る、と言っていた。なるほど畑の土の表層には隙間が多くなる。しかし「空気が入っ」て、いったいどんな効用があるのだろうか。根で呼吸や光合成はしないから、植物体内に取り込まれるものとしての空気の効用はないはずである。ところで、中打ちをすると水の吸収がよくなる。乾燥地帯での農耕では、乾燥期には畑の表面を耕し、少ない雨を土が吸収しやすくする、という話を本で読んだことがある。表面がかたくなっていると、雨が降っても、水は表面を流れ去るだけである。ところが、表面が耕してあると、雨はスポンジに吸われるように、表層に溜まる。そこから、さらに下の層に水がしみこんでいく。表面を耕す、というのが味噌である。というのも、深く耕すと、深いところに閉じ込められていた水分が蒸発してしまうからである。だから、中打ちは深くしない方がいい。それに、深く鍬を入れると、作物の根を切ってしまうこともある(だから、作物によっては、一定の成長期がすぎたら、中打ちはすべきではない)。空気の効用は、すると、土が水分を吸収しやすくするためであろうか。中打ちすると、畑は雨を受け、また肥料も吸収する。肥料はいまでは化学肥料を使うので、たいていの場合、粉末状か顆粒状である。しかし、一昔前までは下肥を使っていた。だから、中打ちしてあれば、肥料がしみやすくなる。ちなみに、私は、化学肥料で追肥したあと、中打ちをする。すると、肥料が土と混和して、吸収が早くなる。表面に施肥するだけだと、雨が降らないときには、いつまでも化学肥料が溶けずに地表に残ってしまうのである。
中打ちはまた、除草と抑草のためでもある。耕し、根の浮いた草を抜き取る。耕せば、発芽して間もない草は抜かなくとも枯れてしまう。さらに、表面が乾燥して、草が発芽しにくくなる。

さて、自然農法になると、中打ちは必要なくなる。というより、禁じ手である。土は動かせば痩せる、というのが自然農法のセオリーの一つだからである。土中の生態系を乱すな、ということである。それに、草が生え放題の畝は、とても中打ちなどできたものではない。
無肥料だから、中打ちして肥料の吸収を助ける必要はない。土壌水分にしても、不耕起畝は保水性が高い。土の表面には枯れ草が重なっているか、そうでない場合は、表面はかたい。いずれにしても畝は土中水分が逃げにくい構造になっている。しかも、土中は植物の根が腐ったりした結果、有機成分が多いので、そこに水分が蓄えられている。ところが、耕起畝では、耕起した当初は、雨が降れば水分を過剰に吸い取り、なかなか乾かない。反対に、乾燥が続けば、土のなかまで乾いてしまう。土がかたまってしまうと、今度は、排水性がよすぎて、雨を吸収しにくくなる。だからといって、有機質はすくないので、土中に水分を蓄えているわけではない。野菜栽培の手引き書でよく、保水性と排水性のよい土、という表現を見る。堆肥を投入して土づくりをしろ、ということなのだが、堆肥など入れることのない(むしろ、できない)私などには、保水性と排水性は二律背反のように思える。両方をそなえた土は自己矛盾した存在であり、非存在である。しかし、自然農法をやれば、その矛盾が一つに融合し、現実のものとなる。

排水性がいいと、降雨をあまり気にしないで種蒔きができる。耕起畝では、雨が降ると、畝が乾くのをしばらく待たないと種蒔きができない。不耕起畝では、あまり待つ必要がない。私のように二足草鞋の農耕をやっていると、畑のコンディションのせいで、種蒔きの時期を逸してしまうことがよくあるから、不耕起畝の排水性は助かる。
保水性のよさは、排水性とは逆の意味で、種蒔きを助けてくれる。前の記事でシュンギクの播種を例にあげた。シュンギクは8月の終わりから9月の始めにかけて蒔く。霜に弱いので、霜が降り始めるまでに大きくしなければならないからである(ちなみに、村では降霜は11月に入ってからである)。しかし、その時期はまだまだ暑く乾燥している。シュンギクは好光性だから、覆土を厚くするわけにはいかない。その結果、種も乾いた状態になり、なかなか発芽してくれない。ところが、今年は9月9日に種蒔きしたが、発芽が早く、しかも発芽率がよかった。たぶん、かたい表面を砕いて種蒔きをし、そのあとで、鍬の裏で鎮圧してスクモを薄くかぶせたので、表面からの水分蒸発は抑えられる一方で、土中の水分が上がり、発芽が促されたのだろう。

それにしても、始めたばかりの自然畝はかたい。去年の9月、「自然農法」を実践しているという熟年夫婦の畑を訪ねたことがある。「自然農法」と聞いていたが、実際には、不耕起、無除草を取り入れた有機農法、といったものだった。草が生えている畝を想像して行ったのに、ほとんど青い草は見えない。ただ、畝は長年(8年ほど「自然農法」を続けているとのこと)刈り草で覆うようにしてきた、との話であり、表面は枯れた草がマルチのように覆っていた。草は種をつけるまえに刈り取るそうだから、その気の使い方も、草は生やすべし、の自然農法ではない。しかも、無肥料ではなく、鶏糞、油粕、骨粉、草灰を使うそうだから、いわば自然農法風の有機農法、と言うべきだろう。しかし、ここにちょっと指をつっこんでみんさい、と言われて親指を突きたてた畝の柔らかさには驚いた。その畑は以前は田圃であったので、もともと土は比較的細かく柔らかい。それにしても、普通なら、指をズズッーといった感じで差し込めるほどには柔らかくないはずである。柔らかい、といっても、耕起直後のような柔らかさではない。耕起直後は、土はなかまでスポンジ状態の柔らかさである。ところが、熟年夫婦の畑は、柔らかいと言っても抵抗のある柔らかさ、たとえてみれば、つきたての餅の柔らかさであった。その訪問以来、あの柔らかさがいつも頭に残っている。
トウモロコシの根張り
トウモロコシは地表近くの茎からも根を出す。元寄せをするとこの部分が土に隠れてしまう。しかし、写真のトウモロコシは元寄せをしていないので、茎からの根が地上部を支えている様がよくわかる。
ちなみに、私は一カ所に二本立てで栽培する。一本で一つしか収穫できないので、二本立てにすると面積比にして収量が上がる。
それに比べ、始めたばかりの自然畝はかたい。当分、根菜類は無理だろうと思い、いまは葉菜類と果菜類だけを作っている。以前の記事で書いたように、トウモロコシも作った。トウモロコシは、元寄せ[土寄せ]をする。倒伏防止のためである。元寄せしても強い風が吹くと、甲斐なく、傾いたり倒れたりする。根張りが、地上部を支えるには弱いのである。今年は自然畝で3回トウモロコシを作った。自然農法は不耕起が原則だから、倒伏を心配しながらも元寄せは控えた。ところが、不思議なことに、トウモロコシは一度も倒伏しなかった。風が強くて途中から折れてしまったものはあったが、どのトウモロコシも根元はしっかりと立っているのである。
不耕起であれば、強い根が出る。しかも、無肥料であるから、表層に肥料分が偏在しているということもない。根は養分を求めて深く広く根を張る。トウモロコシは地上部が高いから、本来、根も深く張るはずである。ところが、施肥し耕起すると、強く深く根を張らなくとも養分は吸収できる。また、たとえ根張りがよくても、変に柔らかい土だから、たしかな手がかり(根がかり?)にはならない。その結果、いくら元寄せしても、背の高い茎は倒れてしまう、ということになる。根の状態は経験的直観にもとづく推測にすぎないが、自然畝に植えられたトウモロコシはどうも、眠っていた本来の力を目覚めさせるように思える。

根が伸びやすいように耕起してやる。大きくなるように、作物の近くに肥料を施してやる。作る方としては、大きく育てて収穫をあげようと手間をかけるのだが、作物にとってはお節介である。迷惑である。土壌の物理的バランス(排水性、保水性)を乱す。自分の体を支えられない脆弱な体躯をつくり、病気にかかりやすく、虫に抵抗性のない体質を養ってしまう。このようにしてできた作物がはたして人の身をきちんと養ってくれるのだろうか。現代社会における食物「生産」は、それどころか人間自身の作り方も、お節介な手間かけが主流なのだが。

 
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