てつがく村の入口 | てつ人の雑記帳


天地人籟

2017-01-10(火)  ☆ 2017-01-10(火) ☆ 手抜きでも、そこそこにできる。
昼前、農協の精米所に行った。去年度産の米から食べてもらっている人に注文を受けたからである。去年の12月に最後の古米(平成27年度産米)を...

昼前、農協の精米所に行った。去年度産の米から食べてもらっている人に注文を受けたからである。

去年の12月に最後の古米(平成27年度産米)を精米したとき、たまたま従姉の畑に来ていた、従姉の知り合いに1斗(約15kg)贈呈した。その人とはとくに面識はなかったが、従姉の知り合いなので、余っていた分を処分する意図でそうした。すでに新米が出回っている時期なので、贈呈するにしても、すでにおいしい新米を食べているのにまずい古米を押しつける、といった形になるかもしれないと懸念し、私は少々気が引けた。ところが、後日、その人から、とても古米とは思えないほどおいしかった、と喜んでもらった。それをきっかけにして、定期的に食べてもらえることになった。

私は1カ月に1度くらいの頻度で、籾で保存している蔵から食べる分だけ出し、農協で籾摺りと精米をする。もし古米がおいしかったとすれば、ひとつの理由は、その都度、籾から精米するからかもしれない。それに対し、市場に出回っている米は玄米(籾摺りした米)で保存しているものを精米している。もう一つの理由は、稲刈り後、稲架に掛けて天日干しするからである。天日干しの米と機械乾燥の米を食べ比べたことがあるが、天日干しの方がおいしい。大雑把な表現だが、旨みがある。私の作った米がおいしいとすれば、理由はその二つしか思い浮かばない。特別な仕方で丹精こめて作っているわけではない。

さて、精米所には先客がいた。近所の人である。その人が「あんた方の米はうまいの。肥料をあんまりやらんけん」と話しかけた。私は怪訝な気がした。「肥料はどうするんない?」とその人。「代掻きの時(元肥)と穂肥をやるが、追肥はせん」と私。近所の人は大抵、元肥(代掻き時)、追肥(田植え後、約1ヶ月)、穂肥(出穂前、約20日)の3回施肥する。「(農協が配布する米の)農事暦に肥料の量が書いちゃるじゃろうが」とその人。「わしゃ、そがいに[そんなに=農事暦で指示してある量ほど]よおけ[たくさん]やらん」と私。「ほうじゃの。それでええ。わしも、そうしょうかの。どうせ、(米は)よおけは要らんのじゃけん。」

「あんた方の米はうまいの」は、つまり、施肥の仕方をきくための枕詞的な導入辞だったというわけである。その人も、私と同様、天日干しし籾保存でやってきた。しかし、米作りは私より手間をかける。その人だけでなく、近所の人は、春の田植え準備が始まるより前に(初冬とか春先とかに)、土作りのため肥料を入れる。これまで私は《通いの一人兼業農家》だったこともあり、ともかく手間はできるだけ省いた米作りをしてきた。農耕一般での私の方針は、手間と金はできるだけかけないで、(収量は)そこそこに作る、である。米作りにおける施肥にしても、元肥と穂肥だけにしている。

昨秋の米の収穫期、我が家の田んぼの周辺では、これまでとは様子が違った。稲架干しをやっていた2軒の田んぼで、コンバイン[刈り取りと脱穀をいちどきにやる機械]を使って収穫がされた。その2軒の主たる働き手は私より10歳余り年長であり、去年は働き手自身や家族の体調不良のため、労力の必要な稲架干しは断念し、コンバインを所有している人に刈り取りを委託したのである。

近所では、米作りの担い手は老齢化するばかり。作業は省力化せざるをえない。おそらく精米所で出会った人(上に言及した2軒の主人のひとり)も省力化を考えて、私に質問したのだろうと思う。境遇に強いられての結果ではあるが、私の稲作りは省力化の見本みたいなものである。手抜き、とも言えなくもない。あのくらい手を抜いてもそこそこにできる、その人はそう思ったのかもしれない。
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