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耕耘機と鍬 1999-08-29

3週間前ほどに一度耕した畝や、母が新たに草取りをした畝を、秋に向けて耕耘する。

8月の終わりから9月の終わりにかけて、秋から春先まで食べる野菜の種まきに忙しい。そのため、農繁期に入るまえに、畑の準備をしておかなければならない。今年の夏は、台風や熱帯低気圧のせいで雨が多く、最近の天気図は秋霖を思わせさえする。なかなか耕転する機会がなかったが、2、3日晴れの日が続いたので、この時とばかりに耕転をした。

耕耘機で畑をひっくり返しはじめて「しまった」と思う。我が農園の畑は、耕土が浅く、すぐに赤土層に突き当たる。そのせいで、土は赤土が混じり、扱いにくい。乾くと堅く締まる。ひどいときには鍬がたたず、耕耘機も表面をひっかくだけになる(ここまでひどくなるのは、めったにないが)。反対に、土に湿り気が多いときに耕耘機で耕すと、粘土をねるような状態になり、握りこぶし大の土の塊ができる。こうなると、始末に悪い。湿っているときには、手でほぐそうとしても粘ついてほぐれない。乾いてしまうと、石のようになり、鍬の角で叩き砕いてやらなければ小さくならない。だから、湿り気が多い悪い状態のときに耕すと、あとあとまで尾を引く。「しまった」と思ったのは、耕耘機が土を捏ねだしたからである。農作業に割くことのできる日にちを考えると、このまま耕転しきるしかない。後悔と、しかし作業をやめてしまうわけにはいかないスケジュールとの間で、浮かない気持ちで耕耘機を動かし続けた。

鍬で耕すと比較的うまくゆく。土に差し入れた鍬(四つ鍬か三つ鍬を場合に応じて使い分ける)を引き上げながら土を砕くので、捏ねまわすことはない。土の状態によって鍬の使い方を加減できる。耕耘機と違い、人間の五感と土の肌触りが直結しているからである。たしかに、耕耘機を使うと楽であるし、作業も早い。耕す畝が広い場合、どうしても耕耘機に頼ってしまう。しかし、その代償とて、土の反応を感じとることがむずかしくなる。畑は野菜を栽培する単なる空間ではない。畑が違えばむろんのこと、同じ畑でもあちこちで土の個性が違う。組成や水分や耕土の深さが違う。雑草の種類も違う。そこで、鍬で耕すときには土の状態に応じて鍬使いを加減する。そして、土質に応じて作る野菜を選ぶ。ところが、耕耘機を使うと、畑が単なる空間になる。耕耘機でも耕転の仕方を変えることはできる。しかし、いかんせん機械である。耕耘機自身が土への対応を調整することはできない。しかも、爪の回転速度とか耕耘の深さは機械的にしか加減できない。耕耘機を操るのは、人間であるが、その人間が機械に隔てられてしか土にかかわることができないのであるから、畑が単なる空間のように扱われても不思議はない。トラクターを使えば、人と土の距離はさらに遠ざかる。

農地を耕していると、技術というものの功罪を考えてしまう。技術、とりわけ科学技術の恩恵に浴してのみ現代の生活はあるのだが。

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てつがく村
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