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魂のリセット 1999-08-17

4歳の息子が時々ありもしない過去のことを話す。「ぼく、ちっちゃい時、キャンプに行ったんだ。そしたら、よる、お化けがでてきたけど、ぼく、こわくなかったんだ。」「お祭りのとき、ヨシくんや、シホや、カナや[いとこたちの名前]みんな集まったとき火葬場にいったら、人が焼けていたんよ。」前の方は、子どもらしい他愛のないお話だが、後の方は、ぞっとしないではない。いずれにせよ、自分の願望とか、身の回りで起こったことを素材に作り上げたお話ではある。キャンプに行きたかったり、盆の墓参りで村の火葬場跡を見かけたりしたことが、直説法の話になったという訳である。

しかし、子どもの「昔の」話を聞く度に、魂がス−と抜け出ていきそうな感覚を覚える。子どもの表情は無邪気なのだが、「ちっちゃい時」と語り出すと、その表情の裏で、前世の記憶を手繰り寄せているのではないか、という〈錯覚〉がする。そして、子どもの物語と共に、自分の魂が子どもの過去生へと連れていかれそうな感覚を覚えるのである。輪廻転生を心底信じているわけではないが、それでも、そんな考えが心の深いところでしっかりと根をはっているようである。

赤子のいわゆる「天使の微笑み」がある。じつは頬の筋肉の痙攣にすぎないそうであるが、生まれ変わったばかりの魂が喜んでいるようにも思える。私にはかわいがっていた猫がいた。フランス留学時代に屋根裏部屋で4年間、一緒に暮らし、帰国後、父母に託した猫である。父母にもかわいがられていたが、9歳の梅雨どき、忽然と姿を消した。それからまもなく母が入院し、半年後、言ってみれば九死に一生を得て退院した。家に戻った母は猫の話になったとき、ふと言った。「フィロ[猫の名前]は、自分を身代りに私を生かしてくれたんじゃね。」こう思うことで、自分の生還と、遺骸も残さずに逝ってしまった猫の死とを併せて納得してみようとしたのかも知れない。それから数年して、息子が生まれた。私はひそかに、あの猫の生まれ変わりではないか、と思った。猫をよく知っている友人も冗談めかして同じことを言った。「天使の微笑み」を見て、魂が喜んでいる、と感じたのは、そのような事情もあった。

さて、輪廻転生を認めるとすると、煩悩にもとづく、いくつかの疑問が生じる。まず、輪廻転生といい、魂の不死といい、いったい誰の魂が生き延びるのだろうか、と。肉体が亡びたあと魂は生き延びる、といっても、西方浄土に生まれ変わる、といっても、生身の人間の論理にしたがうかぎり、主体はこの自分でなければ、意味がない。すると次の疑問が生じる。転生のいかなるときに、幾度も身体を変えてきた自分を確認するのであろうか。確認するときがなければ、主体は自分である、と言っても、また無意味である。輪廻転生とそれからの魂の解脱を説く宗教集団の長であったピュタゴラスは、過去生を記憶していた、と伝えられる。しかし、ふつう我々は、たとえ過去生を経てきたと仮定しても、それを思い出すことはない。記憶の深いところでは覚えているとしても、記憶の通常の機能は生誕以前に遡ることはできない。とすれば、現世において働く記憶の表層部分は、生誕に近い時点でリセットされているのではあるまいか。また、魂が自分を確認するときがあれば、記憶が特定の肉体から解放されているときではあるまいか。

赤子においては、現世の記憶はほとんどなく、過去生の記憶がいまだ露呈したままで働いているかも知れない。赤子が目覚めているときは、生理的欲求を充たすことに全エネルギーが向けられている。しかし、欲求が充足され、眠りに落ちて外からの刺激が遮断されたとき、魂は自分自身にもどり現世と過去生とを行き来しながら回想する。「天使の微笑み」とは魂のそのような回想の徴表である。しかし経験を積み、現世の記憶が沈殿するにしたがって、現世と過去生の記憶の通い道は、ちょうど傷口が癒えるように閉じてしまう。すると、〈私〉は現世の記憶にもとづいて表象されるようになる。

そんな具合いに考えると、冒頭の「ちっちゃい時」のお話は、まだ癒えきらない傷口を擦り抜けて浮かび上がった記憶が、当人もそれと気づかずに、物語の形をとったもののようにも思えるのである。

どうも、梅雨が空けたと思ったら台風や熱帯低気圧の相次ぐ来襲で、それらしい夏空が続かない今夏の奇妙な暑さに浮され、日々想々ならぬ日々妄想が浮かぶようである。

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