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> 農耕の合間に >
 
生死 1999-08-03

通勤途中、志和町から八本松町に通ずる広域農道を利用するが、その農道の入り口に大きな寺がある。寺は沿道に3か所立札があり、仏教の標語が貼り付けてある。標語はいつも、達者な筆致で墨跡あざやかにしたためられている。ある日、おやっと思う漢字が一つだけ書かれていた。その漢字には、しょうじ、とふりがなががつけられている。横目にたしかめると、「生」と「死」が上下に配された合成語である。ただ上下に並べられているのではない。「生」の下の横棒と「死」の頭の横棒とが一つとなって、「姜」とかに似た一字になっている。

生と死は背中合わせ、ともとれる。ハイデガー流に、人間存在は本来、死へ先駆ける存在である、と解釈することもできる。ところで、「生」は、地面(土)から草木が生え出てた(Ψ)さまを象ったものである。その地面の下から「死」が「生」を支えている形になっている。浄土系の信仰によれば、我々は無量寿仏、アミダ−バの中に救いとられて生きている。死は浄土への生まれ変わりである。とすれば、あの字の謂わんとするのは、我々の生は、死という姿をまとった無量寿仏にすでに救いとられている、ということか。死にとうない、死にとうない、と恐れ遠ざけている死が厭わしいものであるのは、生きている以上消しがたい煩悩がなせる業である。いかにしても避けがたい死は、じつは南無阿弥陀仏と念ずる衆生は必ず救いとるアミダ−バの無辺の慈悲の仮象である。そういえば、立札の字は、死が生を抱きとるかのように、死の方が大きく、上底の短い台形をしていた。

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