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あんこ 2000-04-29

3月も半ばになると、春の農作業が忙しくなる。冬の間、畝に生えっぱなしになっていた雑草を取り除き、種蒔きの準備をする。

人参を蒔くため、畝をレーキで均していた。隣のおばあさんが通りかかり、「何を蒔くんや」と訊く。「人参を蒔くんよ。」「ほうか。」それから、おばあさんは、抜いて小山にしていた草の方を見ながら、「ありゃぁ、アンコにするんか」と言う。「アンコ?」私は意味が分からず訊き返した。「アンコゆうて、何んや?」おばあさんは説明し始めた。「抜いた草を、人参や牛蒡を植えるところに埋めるんよ。草は腐って肥になる。餅でもあんこを入れたら、うまいじゃろうが。野菜でもおんなじよ。」

抜いた雑草は焼いていた。草も畑のうちだから、何らかの形で畑に返そうと思う。だから、灰にして畑に撒いていた。しかし、乾かしてからでも、根に土は付いているし、草は燃えにくい。おばあさんは続けて、「わしも草は焼くが、なかなかえがいに[いい具合に]焼けんじゃろうが。武一っつぁん[武一は私の祖父]は、何でも田圃にもって行けぇ、肥になるけぇ、と言よりんさったけん、草も田圃にもって行ったりするが、やっぱりめんどくさい。ちょっとでも楽しよう思うけん、あんこにするんよ。」

おばあさんの説明で思い当たることがあった。父は、「牛蒡を植えるときには下に、ゴミなんかを入れる」と言っていた。ゴミとはつまり、草とか野菜くずとかだったのだろう。私は牛蒡を植えるところに草灰は混ぜていた。カリ分は根の生育にいいからである。おばあさんの「あんこ」の説明と父の言葉を重ね合わせてみると、父は、牛蒡を植えるところを深く掘り、そこに「ゴミ」を埋めていたのだろう。「牛蒡を蒔くすぐ下に入れても、ええんや?」私は叉根にならないかと心配で、おばあさんに訊いた。「すぐ腐るけん、しゃぁなあ[世話はない、大丈夫]。」

草を生のまま埋めると、付いている種が心配である。雑草を焼くのは、種を殺すためでもある。父は、「草は焼けんでもええ。煙を通しゃ種は死ぬ。」と言っていた。確かにそうである。草の種は堆肥に混ぜると発酵熱で発芽能力を失うそうである。堆肥はうまく発酵すると60℃くらいの熱は出る。煙を通す、すなわち、炙ると、草はそのくらい熱にさらされることになるから、種は発芽能力を失う。灰にまでしなくとも、半焼けにして、畑に還元すればいいのである。それに、いくら神経質に雑草処理を行っても、草は生える。また、生えてもいいのである。野菜は、小さいとき草に覆われると、生育が遅くなったりする。ある程度、野菜が生育すると、後は雑草と共存共栄でいいのではないか。土を作るのは人間ではなく、植物である。根が耕し、枯れた後は土に有機分を補給する。だから、雑草とは「適当な」つきあい方でいいのではないか。おばあさんの「あんこ」の話は、頭から農耕に入っていた私が知らなかった先人の知恵を教えてくれたのである。

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てつがく村
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