村便り:2008-04-04(金) (満開の桜と慰霊碑)
投稿日:2008-04-07(月)
百姓の予定を急きょ変更して家族で花見をすることにした。桜は今が八分ないし九分咲き。満開と言ってもいい。(クリックで画像の拡大)スナッ...
百姓の予定を急きょ変更して家族で花見をすることにした。桜は今が八分ないし九分咲き。満開と言ってもいい。
とは言っても、やっておきたい仕事があるので午前中に畑まで往復した。温床で育苗中のポットと芋類に水やりをするのと、昨日立てたエンドウのウロ[支柱]に防鳥対策を施すのが、その仕事である。
昼前に自宅に帰ると、むすび弁当をもって、自宅のある高台から花見場所である川の堤防を目指して歩いて下った。平日の昼間なので、サラリーマンの団体が騒いでいない代わりに、小さい子どもを連れた家族で賑わっていた。子どもが小さいころからここにはよく来ている。ビールを飲みながら弁当を食べ、ほろ酔い加減で桜の下に寝そべると、のどかな気分になる。花見客の楽しそうなざわつきと、遊ぶ子どもたちの歓声が耳に入る…
この桜並木は、上流は工兵橋と名付けられる吊り橋から下流はJRの神田川鉄道橋まで、京橋川の、下流に向かって右側の堤防にある。市内の花見名所のひとつではないか、と思う。私たちは神田橋(工兵橋と鉄道橋の間には、上流から、牛田大橋と神田橋がある)から下流に向かったあたりで花見をした。
そのあたりに、「原爆慰霊碑」と刻まれた碑がある。川に寄った片すみにあるその碑は、花見の賑やかさに比べれば、じつにひっそりと立っている。裏書きを読めば、原爆に命を奪われた人たちをこの堤防で火葬にした、との記述がある。その日々から60年あまり経ち、周辺は住宅が建ち、人々は花見を楽しむ。火葬の記憶は、その小さな碑をのぞけば、微塵も残っていない。
奇妙な気分である。過去を思い出さず、あるいは知らずに今を楽しんでいる行楽の人たちに対してどうこう言おうとしているのではない。かつての悲惨な死の現場で今の生がいとなまれる、その連続が奇妙な気分を誘うのである。生のなかに死があるのみならず、死のなかから生がよみがえる、という流れのただなかに自分がある、とも、その気分の根元を表現できるかもしれない。
一気に咲きあがり一気に散り乱れる桜の花の下は、生と死を包み込む勢いの存在を感じさせてくれる場なのかもしれない。
(クリックで画像の拡大) スナップ・エンドウの防鳥対策。 カラスに見立てた黒いビニールを上部にくくりつけ、光を反射するCDを中程の横棒に吊りさげた。CDは画像では分かりづらい。 |
(クリックで画像の拡大) 実エンドウの防鳥対策。 防虫ネットをウロに巻きつけた。こちらは完璧な対策だと思う。 |
昼前に自宅に帰ると、むすび弁当をもって、自宅のある高台から花見場所である川の堤防を目指して歩いて下った。平日の昼間なので、サラリーマンの団体が騒いでいない代わりに、小さい子どもを連れた家族で賑わっていた。子どもが小さいころからここにはよく来ている。ビールを飲みながら弁当を食べ、ほろ酔い加減で桜の下に寝そべると、のどかな気分になる。花見客の楽しそうなざわつきと、遊ぶ子どもたちの歓声が耳に入る…
この桜並木は、上流は工兵橋と名付けられる吊り橋から下流はJRの神田川鉄道橋まで、京橋川の、下流に向かって右側の堤防にある。市内の花見名所のひとつではないか、と思う。私たちは神田橋(工兵橋と鉄道橋の間には、上流から、牛田大橋と神田橋がある)から下流に向かったあたりで花見をした。
(クリックで画像の拡大) 満開の桜 |
奇妙な気分である。過去を思い出さず、あるいは知らずに今を楽しんでいる行楽の人たちに対してどうこう言おうとしているのではない。かつての悲惨な死の現場で今の生がいとなまれる、その連続が奇妙な気分を誘うのである。生のなかに死があるのみならず、死のなかから生がよみがえる、という流れのただなかに自分がある、とも、その気分の根元を表現できるかもしれない。
一気に咲きあがり一気に散り乱れる桜の花の下は、生と死を包み込む勢いの存在を感じさせてくれる場なのかもしれない。