村便り:2011-12-05(月) (脱穀終了)
投稿日:2011-12-19(月)
(クリックで画像の拡大)今年の田植えは、6月4日と6日にした。例年通りである。例年、5月終わりか6月始めの週末に行う。近所では、いつも田植え...
(クリックで画像の拡大) 今年の田植えは、6月4日と6日にした。例年通りである。例年、5月終わりか6月始めの週末に行う。近所では、いつも田植えのしんがり。 |
(クリックで画像の拡大) 11月4日。今年最後の稲刈りは、耕作放棄田に囲まれたダブ[湿田]。毎年、この順序になる。ここはウワコウダ[傾斜地の田んぼの、上の部分]の水はけが悪いので、バインダーが泥に埋まってしまう。だから、鎌で手刈りしなければならず、ついつい後回しになる。 |
(クリックで画像の拡大) 11月14日。稲刈りの画像と同じ田んぼ。稲架三つのうち、両端の二つは11月4日の稲刈り当日に稲架掛けした。真ん中のひとつは、この日、稲刈りして掛けた。稲は稲架に沿って並べてある。日没後に稲架掛けをした。 |
昔は(機械植え以前の時代は)10月半ばから稲刈りをしていたらしい。従姉の昔話では、10月半ばに秋祭りがあり、それから稲刈りが始まった。昔は子どもも働き手だったので、稲の収穫作業を手伝わされた。だから、祭りがくるのが嫌でたまらなかった、と昔を語った。
いまは刈り取りと結束を機械(バインダー)がやってくれが、昔は鎌で刈取り、稲束をわら紐でくくった。労力と時間はバインダーよりもはるかにかかる。作付け面積にもよるが、家族総出の作業でも、稲刈りと平行しておこなう稲架掛けが終わるのは、10月の終わりだったろうか。すると、稲の乾燥は、かわきにくい11月にまで及ぶことになる。
昔は、稲束をかわききるまで稲架に下げてはおかなかったそうである。ある程度までかわくと、順次、家にもって帰り、縁側に積み、脱穀した。(脱穀が終わるまで、縁側の稲束に光を遮られて、家のなかは暗かったそうである。)そのあとで、もういちど籾をむしろに広げて乾燥をしあげた。そのやり方の訳を聞いたわけではないので、推測だが、かわきにくいその時期の天候にもよるのではなかろうか。田んぼにかわき切るまで干しておくよりは、むしろでもう一度かわかした方が、手間はかかるにしても、農耕暦の円滑な進行のためにはよかったのかもしれない。昔の農耕暦では、ついで、麦の播種がある。麦は稲の裏作なので、稲を刈り終わった田んぼを鋤で起こしから、麦播きをした。稲架がたっていたのでは、作付け作業ができない。麦播き作業は11月に入るとじきに始めたそうである。
いつまでも片づかない収穫作業の合間に、昔のことを考えてみたりした。
(クリックで画像の拡大) 11月27日。脱穀機には藁切り機がつけてある。普通は、脱穀した藁を切って排出する。藁が必要なときは、藁切り機を止める。 |
強風に後押しされて、やっと脱穀が終わった、というわけである。
今年は「村便り」は書かなかった。3月半ばから夏野菜(トマト、ナス、ピーマンなど)の温床育苗を始めたが、イノシシに温床を二度襲われて、夏野菜は主力の栽培ができなかった。それ以外のこともあり、気力が落ち込んだまま、回復しなかった。とはいっても、稲は田植えをやれば、最後まで面倒をみなければならない。だから、今年は、農耕の縦糸こそはなんとか通したが、畑作の横糸はまばら、「村便り」は休載、という結果になった。これからは? 半農半サラの二足の草鞋は、来年3月で丸17年になる。そして残りは3年。有終の美とはいかないにせよ、精一杯やりたい。ウェブ・サイト「てつがく村」は来年3月で丸12年になる。最後まで続けようか… マンネリ化してはきたが。
投稿日:2011-12-19(月)